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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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秀吉と真田 (真田・小笠原・木曽、家康の与力に)

真田・小笠原・木曽、家康の与力に 「秀吉と真田」の目次はこちら  天正十四年(一五八六)十月、家康,こうして家康との和議が完全になった中で秀吉は、真田昌幸・小笠原貞慶・木曽義昌という信濃の三将を家康の配下 / 真田・小笠原・木曽、家康の与力に
秀吉と真田 (家康重臣石川数正の秀吉への寝返り)

しかも、このとき数正は、松本城主小笠原貞慶の嫡男で人質として岡崎城に差し出されていた秀政を伴ってもいた,この件を北条氏直に報じた家康書状には「信州小笠原人質召連れ候」とある。,この事実と先の小笠原の、やはり家康から秀吉への寝返り、それと前後しての真田の上杉従属、秀吉への接近という,前にみたように秀吉は、この事件以前に昌幸に対し、小笠原とより一層相談してことにあたるように指示している,真田と小笠原、そして小笠原と石川が連携していたことは間違いないだろうし、その背後には秀吉の影が見えるようにも
善光寺道名所図会 (○筑摩 青柳)

なり、始は信濃衆一味なりしかとも、伊勢守代に甲州の武田家に属し、 五十騎の軍役たり、甲州没落、小笠原貞慶帰城,の後もなほ小県 郡の真田等と一味して、越後の景勝へ志を通るにや、小笠原家ヘ一応 の届もなく無礼の様子,なり、殊に怨敵たりし憤りあれバ、取合始り ける、麻績・会田等一味なれバ、輙く亡しがたきに依て、小笠原方
善光寺道名所図会 (○筑摩 青柳)

甲州が没落し、小笠原貞慶(さだよし)が帰城の後もなお小県(ちいさがた)郡の真田氏等に味方して、越後の上杉景勝,に志を通じて、小笠原家ヘ一応の届もなく無礼であり、ことに怨敵の憤りがあれば、取り合いがはじまる、麻績・,会田等一味なので、たやすく滅ぼしにくいので、小笠原方から和談の話があって、のちに松本へ招きました。,天文22年(1553)に武田と上杉が、天正11~2年(1583、84)に小笠原と上杉が攻防戦をした城で,、青柳氏は、天正15年に松本城へ呼ばれ小笠原貞慶に殺され、青柳城も落城しました。  
秀吉と真田 (昌幸の秀吉への接近)

それにしても、この書状によると秀吉は、松本城主小笠原貞慶と「いよいよ申し談じ、越(落)度なき様に」と指示,これにより、小笠原貞慶は昌幸と同時か、それより早く、家康方から秀吉方へ寝返っていることは明らかである。,その中で秀吉への従属を図ったのだろうが、ついてはそれまで徳川方であった松本の小笠原を引き込んだものと思,いよいよ相談するようにとある小笠原右近大夫とは松本城主小笠原貞慶。,小笠原右近大夫と弥(いよいよ)申し談じ、越度(おちど)無き様に其の覚悟尤もに候。
善光寺道名所図会 (○筑摩 会田)

北東に虚空蔵山見ゆる、則会田小次郎広政の古城地なり、 広政は海野幸継の二男にて、始は当国衆一味たり、小笠原,の 籏下なりしが、武田家の鋒先強勢なるに依て、甲州へ降て十 騎の軍役たり、小笠原帰国の後、会田・青柳
善光寺道名所図会 (○筑摩 会田)

小笠原の籏下でしたが、武田家の鋒先が強勢だったので、甲州へくだって10騎の軍役になりました。,小笠原氏が帰国のあとは、会田・青柳・麻績3家とも滅ぼされました。  ,天文22年(1553)に武田氏に、天正11年(1582)に小笠原氏に攻略されました。,天正11年(1583)に小笠原氏に攻められて会田氏が滅びたときに兵火にあっています。
善光寺道名所図会 (○筑摩 苅屋原)

り、太田道灌の一族なり、[弟共三男ともいふ、] 文明十八年鎌倉にて道灌討死 の砌、当国に落来り、小笠原,に属し、大永三年癸未より当城主 たり、七百貫文を領し、小笠原家にて一の大身なり、此辺十六ヶ 村を領
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (大倉村)

/醤油 民業男: 農業/商業 民業女: 農桑/養蚕/農間紡績/機織 その他特記ワード: 小笠原長清,/小笠原長隆/芋川刑部 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 大倉村(図) 史料ID:15-
秀吉と真田 (家康の関東移封と真田昌幸・信幸)

これに対し、天正十四年に秀吉の命で小笠原・木曽とともに家康に返されたはずの真田昌幸だけは、そのまま上田,家康の配下として信濃から関東へ移された領主は、小諸の依田(芦田・松平)氏は上野藤岡(群馬県)へ、松本の小笠原氏,諏訪氏は武蔵奈良梨(埼玉県)へ、というように在地性を奪われて遠隔の地へ移っただけでなく、依田が三万石、小笠原
善光寺道名所図会 (○筑摩 苅屋原)

文明18年(1486)に鎌倉で道灌が討死のときに、信濃国に落ちて来て、小笠原に属し、大永3年癸未(1523,700貫文を領し、小笠原家では一番大きいです。このあたりの16か村を領していて、武功の人物です。
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

天正10壬午年(1582)になって、ふたたび小笠原右近大夫貞慶(さだよし、小笠原長時の子)が入城して、,天正年間(天正10年、1582)、小笠原侯(小笠原貞慶)がふたたび深志へ入部して、城普請のときに、宮村,小笠原家が松本に在城の頃からの代々の仁祠(じんし、寺院)です。,室町時代に林城主で信濃守護であった小笠原政康の開基です。,裏山に大坂の陣で戦死した小笠原秀政・忠脩父子の墓があります。
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

永正の元、島立右近太夫貞永といふ人、井川の城を移して是を築、  そのゝち大永三年、水上宗浮といふ人[小笠原家,の一族なり、]同国仁科より此城に移る、また  天文二年、小笠原大膳大夫長時林の城より爰に移り給ふ、同二十二年,より甲州  武田家の持城と成て、三十年の間城代にて在番持なり、天正十壬午年、再び  小笠原右近大夫貞慶入城,領  主より制札を出し給ふ、井戸の制札は稀なりといふ、此辺往古ハ庄内  宮村といへり、天正年間、小笠原侯再,の草創にて、小笠原  家松本在城の頃、累世の仁祠なり、浪華戦場に於て、秀政父子討死の  刻、従士の
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (飯田町)

桶 民業男: 商 民業女: 縫紡/養蚕 その他特記ワード: 坂西氏/毛利秀頼/京極高知/小笠原秀政
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (倉井村)

/漁猟/馬丁/工/鍛冶/紺屋 民業女: 農業/機織/繍縫(しゅうほう) その他特記ワード: 小笠原与一
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (里山辺村)

/千鹿頭(ちかとう)社/八阪神社/若宮太神/太子堂 寺: 廣澤(こうたく)寺 古跡・名勝: 小笠原秀政
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (入山辺村)

/大和合(おおわごう)社/白山社/白山社 寺: 旧海岸寺/旧徳運寺 古跡・名勝: 桐原古牧/小笠原清宗城址
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (塩尻村)

/姥神社/山神社/豊作社/塩崎社 寺: 西福寺/永福寺/常光寺/慈光院 古跡・名勝: 塚田/小笠原閑斎
善光寺道名所図会 (○筑摩 郷原)

(注)郷原宿は、慶長19年(1614)に松本城主小笠原秀政が、中山道洗馬宿と北国街道を結ぶために、北国脇往還
善光寺道名所図会 (○筑摩 麻績)

麻績氏は天文22年(1553)に武田氏に攻められて上杉氏」へ逃げ、のちにふたたび麻績へ入りましたが、小笠原氏
パスファインダー (『曽我物語』『大塔物語』と善光寺)

巻き狩り 遊女手越 虎御前 比丘尼教団 巫女(ごぜ)虎御前 塚 虎塚 曽我塚 雨乞い 虎化粧の井戸 小笠原長秀
秀吉と真田 (北条氏討伐へ)

自然其の面(おもて)人数入り候はば、小笠原・河中島へも申し遣はし候。
信州飯田町家控 ([翻刻])

    (改頁)      6    町割ニ准して竪横ニ小路を割、慶長元年伊賀良  松尾の城主小笠原掃部太夫信嶺公関東江御所,改頁)      9    峠より団ノ平八郎宗忠森勝蔵長一晴苗寺口より  打破て押入島田松尾之小笠原掃部太夫信嶺公,改頁)    御普請有、御家中も所々ニ相建、然る処慶長五  年丹後へ御国替也 一慶長六丑年より小笠原兵部大輔源秀政公,下伊那郡五万石を御知行被成、当御代江戸御  城之御天守御普請ニ付而信州之諸大名へ材木  御用被仰付、小笠原兵部太夫様石川玄蕃様,一統奉願上候也     (改頁)   一右之通京極様御代迄桧狩人足差出候処、則慶長六丑  年御所替ニて小笠原兵部大輔様御越
信州飯田町家控 ([現代訳])

京都の町割をまねして竪横に小路を割り、慶長元(1596)年松尾の城主小笠原掃部太夫信嶺公が、関東へ所替,松尾の小笠原掃部太夫信嶺公は、これを聞いて力を落し、信忠公へ使者を立て降参しました。,一慶長6(1601)年小笠原兵部大輔源秀政公が、下総(千葉県)古河より知行高50000石で移ってきました,小笠原兵部太夫様・石川玄蕃様・保科弾正忠様・真田伊豆守様は、下伊那郡遠山より長さ17間(30m)余の良木,一右の通り京極様の代迄榑狩人足を差し出していましたが、慶長6(1601)年所替えで小笠原兵部大輔様が来
諸国道中商人鑑 (4 小田井から本山まで)

松本城主小笠原秀政が慶長19年(1614)本山宿の問屋役を命じた文書が残されている。
信州浅間焼之事 ([現代訳])

ちょうどこの時、小笠原相模守が国元へ帰るため、碓氷峠の麓の松井田宿に宿泊していた。
善光寺独案内 ([翻刻])

仝大門町四丁目   永寿屋 北沢夲店 ―――   長野市大門町一丁目 (商標)製茶問屋   喜多乃園 小笠原平作,長野市大門町一丁目 (商標)髪附油《ロウ》燭種水油荒物類  砂糖紙類筆墨硯其他品々  喜多屋号 小笠原音吉
長野県師範学校生徒修学旅行概況 (長野県師範学校生徒修学旅行概況[全文])

(改頁)      10   当寺は畳秀山開善寺と号し、小笠原貞宗の創建にして、開山は福州連江人清拙正澄,金屏風二隻○墨画三幅対(牧渓画)○紺地金泥大般 若経○二十八祖画像     (改頁)   境内小笠原貞宗
寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)

訳文筌諦 唐詩選 絶句解明 七才子集  桜陰腐談 伊呂波韻 節用集大本二冊 小本節用用文章一冊  小笠原流諸礼大本伝書
『説諭要略』巻一 ([ルビ・注記])

伊豆木村(注5)ノ小笠原等是ナリ。各土地奉還(ほうかん)シテ。帰農  ニナリタリ。
義烈百人一首 ([翻刻])

にせんとす、此屋敷になほ有たきよし再三断けれども聞入ず、たゞちに軍兵五、六百人屋敷を取巻しかば家人河北石見、小笠原正斎等
宿継要書留 ([翻刻])

 又ハ御家中等極り候而御通有  候哉御尋ニ御座候   此儀堀大和守様・座光寺喜兵衛様・   小笠原兵庫様
宿継要書留 ([現代訳])

このことは、堀大和守様・座光寺喜兵衛様・小笠原兵庫様・近藤権太郎様年々御通行され、そのほか御朱印御証文御用
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