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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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パスファインダー (北国街道小諸宿)

) 信州歴史の道研究会/解説 信濃毎日新聞社 1981.4 内容紹介 北国街道の紹介で、小諸城三,雑誌 1 論題名 歴史的町並み保存の今(第4回)小諸宿 市町・本町および小諸城周辺 インターネット
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([現代訳])

なお、小諸城下や旅人の被害はわかりません。本陣・問屋・庄屋でも流死者がでました。
秀吉と真田 (上田城の大改修)

また、小諸城にも天守台の高い石垣が残り、かつては三層の天守があったと伝えられている。  
小諸洪水流失改帳 ([解説])

町が小諸城より高い位置にあり、城から急坂や断崖を下ると、そこが千曲川になる。,させ、二つの川が一つの川のようになって、六供・田町・本町・荒町や一部の武家屋敷・寺社を襲い、さらには小諸城
寛保二年大洪水余禄 ([解説])

町が小諸城より高い位置にあり、城から急坂や断崖を下ると、そこが千曲川になる。,させ、二つの川が一つの川のようになって、六供・田町・本町・荒町や一部の武家屋敷・寺社を襲い、さらには小諸城
小諸大変書 ([解説])

町が小諸城より高い位置にあり、城から急坂や断崖を下ると、そこが千曲川になる。,させ、二つの川が一つの川のようになって、六供・田町・本町・荒町や一部の武家屋敷・寺社を襲い、さらには小諸城
寛保二年小諸大洪水変地絵図(1) ([解説])

町が小諸城より高い位置にあり、城から急坂や断崖を下ると、そこが千曲川になる。,させ、二つの川が一つの川のようになって、六供・田町・本町・荒町や一部の武家屋敷・寺社を襲い、さらには小諸城
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2) ([解説])

町が小諸城より高い位置にあり、城から急坂や断崖を下ると、そこが千曲川になる。,させ、二つの川が一つの川のようになって、六供・田町・本町・荒町や一部の武家屋敷・寺社を襲い、さらには小諸城
信濃地名考 ([解説])

上巻には高遠城と飯山城、中巻には飯田城や松本城、海津城など、下巻には長沼城や上田城、小諸城などの図が挟
信濃国浅間嶽之記 天明騒動記 (天明騒動記)

内山、平賀、中込(下中込)、野沢、三塚、桜井、下県、八幡、原新田(五郎兵衛新田)、御馬寄、柏木を経て、小諸城中
天明三年浅間騒動記 ([解説])

佐久の各地を回った騒動勢は、小諸城下を目指した。
パスファインダー (御代田町塩野のカラマツ人工林)

名君小諸城主牧野康哉公[ちから新聞第二百一号付録] 星野喆之助/編 ちから新聞社 1935.10.25
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([解説])

なお、小諸城下を通りかかった旅人の数は知れず、その消息もわかりません。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (小諸町)

寺/養蓮寺/託応寺 学校: 明倫学校/修業学校/流形学校/仰思学校/化成学校 古跡・名勝: 小諸城墟
秀吉と真田 (伏見城普請)

なお、上田の隣の小諸城主仙石秀久は元からの秀吉家臣でもあり、もちろん伏見に屋敷を構えていた。
小諸繁昌記 ([解説])

二、「神社・仏閣」の6「懐古園神社」は小諸城主牧野氏と旧城の鎮守である天神と火魂の二神を祀ってあると述
秀吉と真田 (徳川秀忠軍の上田攻め)

九月二日に小諸城に入った秀忠は、まず昌幸に降伏を促したが、それを受け入れる態度を示した昌幸にはぐらかされている
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2) ([現代訳])

[現代訳] 小諸大変次第書 小諸城主が牧野内膳正様の時代のことです。,早速出かけて見ると、もはや橋が押し流され、小諸城下町への入り口の門内まで泥流が入り込んでいました。
善光寺道名所図会 (○佐久郡小諸)

小諸城下から布引観音(注2)まで1里あまりです。
浅間焼覚帳 ([現代訳])

本庄宿に泊まり、安中宿に逗留し、ようやく七月一六日の夜一〇時過ぎに小諸城へたどり着いた。  
秀吉と真田 (小田原出陣)

なお、松井田城攻撃には小諸城主依田(芦田・松平)康国も加わった。
浅間山 (第三編 浅間山変異記)

十月二日碓氷峠を越え軽井沢宿へ乱入・・・岩村田へ打ち入り・・・野澤に乱入、隅屋甚五右衛門を散々に潰し・・・小諸城下
上田の早苗 ([翻刻])

都合十三万石ノ領主トナレリ、[処替ハ必竟城郭修覆ノ罪ナリシト聞エタリ、] 一元和八年十二月、仙石兵部少輔忠政小諸城,ハ慶  長五年九月七日ナリ、或ハ秀忠公七月二十四日江戸城ヲ進発シ、八月三日小山ノ陣  ヲ立、五日小諸城,へ入ルトモ書リ、尚可尋、  小諸城花見櫓ノ前ニ秀忠腰掛石手植ノ柳アリ、 一真田村ト原村ノ往来ニいつとう
天明三年浅間騒動記 ([翻刻])

御座候と言葉を尽し 諫けれとも、遠江守殿御聞入無之故、無拠御前ヲ 下ル、実もゆか敷勇士なり、弥々一揆小諸城下,23 儀なりとて米麦等直段引下ケ売買可致由 書付を出ス、其上見送り之為とて人数百人 被差添無難ニ小諸城下
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