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「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(小諸町)
小諸町
地域 東信 市町村名 現在(令和2年):小諸市(こもろし) 明治初期:
小諸町
(こもろまち,民業女: 農桑/(農間)座繰・製糸・縫織 その他特記ワード: 流死塚/無縁塚/明治9年合併して
小諸町
/
小諸町
小諸大変書
([解説])
一地域単位で「戌の満水」による最も大きな被害を受けたのは、小諸藩の城下町であり、北国街道の宿場でもあった
小諸町
,
小諸町
は、中山道追分宿(現軽井沢町)から分かれた北国街道最初の宿場で小諸宿とも呼ばれるが、三つないし四,
小諸町
は浅間山の南西側の山麓に位置した城下町で、山麓を下りきったところを千曲川が東南から北西方向へ流れている,これによって
小諸町
のどこが被害にあったかくわしく知ることができる。,これは、
小諸町
を流れ下った土石流が千曲川へ流れ込んだ様子を描いた絵図で、これによって対岸の「かざはや」
寛保二年小諸大洪水変地絵図(1)
([解説])
一地域単位で「戌の満水」による最も大きな被害を受けたのは、小諸藩の城下町であり、北国街道の宿場でもあった
小諸町
,
小諸町
は、中山道追分宿(現軽井沢町)から分かれた北国街道最初の宿場で小諸宿とも呼ばれるが、三つないし四,
小諸町
は浅間山の南西側の山麓に位置した城下町で、山麓を下りきったところを千曲川が東南から北西方向へ流れている,これによって
小諸町
のどこが被害にあったかくわしく知ることができる。,これは、
小諸町
を流れ下った土石流が千曲川へ流れ込んだ様子を描いた絵図で、これによって対岸の「かざはや」
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([解説])
一地域単位で「戌の満水」による最も大きな被害を受けたのは、小諸藩の城下町であり、北国街道の宿場でもあった
小諸町
,
小諸町
は、中山道追分宿(現軽井沢町)から分かれた北国街道最初の宿場で小諸宿とも呼ばれるが、三つないし四,
小諸町
は浅間山の南西側の山麓に位置した城下町で、山麓を下りきったところを千曲川が東南から北西方向へ流れている,これによって
小諸町
のどこが被害にあったかくわしく知ることができる。,これは、
小諸町
を流れ下った土石流が千曲川へ流れ込んだ様子を描いた絵図で、これによって対岸の「かざはや」
小諸洪水流失改帳
([解説])
一地域単位で「戌の満水」による最も大きな被害を受けたのは、小諸藩の城下町であり、北国街道の宿場でもあった
小諸町
,
小諸町
は、中山道追分宿(現軽井沢町)から分かれた北国街道最初の宿場で小諸宿とも呼ばれるが、三つないし四,
小諸町
は浅間山の南西側の山麓に位置した城下町で、山麓を下りきったところを千曲川が東南から北西方向へ流れている,これによって
小諸町
のどこが被害にあったかくわしく知ることができる。,これは、
小諸町
を流れ下った土石流が千曲川へ流れ込んだ様子を描いた絵図で、これによって対岸の「かざはや」
寛保二年大洪水余禄
([解説])
一地域単位で「戌の満水」による最も大きな被害を受けたのは、小諸藩の城下町であり、北国街道の宿場でもあった
小諸町
,
小諸町
は、中山道追分宿(現軽井沢町)から分かれた北国街道最初の宿場で小諸宿とも呼ばれるが、三つないし四,
小諸町
は浅間山の南西側の山麓に位置した城下町で、山麓を下りきったところを千曲川が東南から北西方向へ流れている,これによって
小諸町
のどこが被害にあったかくわしく知ることができる。,これは、
小諸町
を流れ下った土石流が千曲川へ流れ込んだ様子を描いた絵図で、これによって対岸の「かざはや」
小諸繁昌記
([解説])
第一章
小諸町
沿革誌 第一節 緒言 浅間山と千曲川、この「秀美高潔の江山」に囲まれた地が信州小諸市街地,第四節
小諸町
の写真・絵図 まず、商店の広告が九ページ載っています。,第二節 町治沿革 明治元年から明治二十三年(1890)の町村制実施までの地方制度の変遷による
小諸町
,第三節
小諸町
治班・諸統計表 明治四十一年十月十日発行の「長野県北佐久郡
小諸町
是 全」をもとにして,明治以降の
小諸町
の沿革を記しています。
浅間山
(第十一編 拾遺雑編)
第二 黒酒の垂糟
小諸町
の山田辨道が著した『浅間神社考』の補遺です。
パスファインダー
(純水館)
小諸町
の写真・絵図の項では「純水館第一工場」「第二工場」「小 山久左衛門」など純水館関連の写真6枚が載,現小諸市)に開設した1 00釜の器械製糸工場」「1917(大正6)年に神奈川県茅ケ崎に進出す るなど、
小諸町
浅間山
(第四編 浅間神社考)
小諸町
の山田辨道が明治三年に記した「大浅間神社大意書」と「大浅間神社の遺跡を捜索る議」を示しています。
浅間山
(第八編 浅間登山)
浅間山登山会の項には
小諸町
有力者のもの、小諸尋常高等小学校職員児童一同の大登山会などがあるとし、その活動
パスファインダー
(高橋くら子)
くら子 ねらい 高橋くら子(本名くらの)は、町立小諸実科高等女学校在学中の1924 年、
小諸町
,キーワード 長野県水平社、水平社、婦人水平社、被差別部落、部落差別、
小諸町
、 朝倉重吉、高砂座、
パスファインダー
(小諸義塾の設立とその後)
木村熊二、島崎藤村、丸山晩霞、小山太郎、
小諸町
、井出静、鮫島晋、 私立学校 1 書名 小諸市誌,小諸義塾沿革誌刊行会 1966.8 小諸義塾創立の発端から終末までの沿革に加え、教育の内容及び当 時の
小諸町
『小諸義塾と木村熊二先生』
([解説])
小諸義塾は、
小諸町
(現小諸市)の青年たちの要請を受け、木村熊二が中心となって明治26(1893)年に設立,こうしたことから
小諸町
をはじめ周辺町村から学習意欲にあふれた青年たちが多数入塾して活況を呈したが、財政難
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(山浦村)
赤石/丸山/雁又/中田/白山/白山前/切堤脇 川: 千曲川 橋: 新橋/戻リ橋 道路:
小諸町
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(市田村)
溜池用水/立久保用水/常木用水/濁堰用水/池上ノ池 橋: 立久保橋 道路: 岩村田町に起こり
小諸町
浅間焼覚帳
([現代訳])
騒動勢は柏木村から下ってきて、一〇月四日に与良口から
小諸町
へ入った。,しかし、騒動勢は
小諸町
では何もせず
小諸町
を通り抜けた。,
小諸町
の西側の小諸藩領の菱野村・布下村へ行き、二、三軒打ちつぶした。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(御代田村)
除沢池/七口池/一ノ沢上池/一ノ沢下池 橋: 大久保橋/下ノ駅の橋/唄坂橋 道路: 中山道/
小諸町
パスファインダー
(北国街道小諸宿)
トピック(テーマ) 北国街道小諸宿 ねらい 城下町でもあり宿場町でもあった
小諸町
浅間焼覚帳
([解説])
また、『与良区誌』(一九六九年)によれば、著者と同姓同名の与良与兵衛という人が明治二四年に
小諸町
の町会議員
浅間山
(第三編 浅間山変異記)
十二月七日の噴火は上田での地震からはじまったとあり、上州吾妻郡大笹・草津・佐久郡小沼村・岩村田町・
小諸町
上田の早苗
([翻刻])
一本海野村宿中床上三尺余泥入、溺死十一人 八月二日三日四日とも焚出し、四百余人之食事を出、
小諸町
之水害
龍駕の跡
(龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))
より少しく右に入り、千曲浅間を眺め得べき景勝の地を選びて御野立(のだて 天皇の野外の休息所)場を立つ、
小諸町
,11
小諸町
にても道を清め盛砂(もりずな 儀式や貴人を出迎えるとき,車寄せの左右に高く盛った, 円 唐松御野立所唐松御野立所 御 手 当 拾 円
小諸町
行在所
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