• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • キーワード一覧

NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 22件
辞書ファセット
/ 1ページ
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (里山辺村)

里山辺村 地域 中信 市町村名 現在(令和2年):松本市(まつもとし) 明治初期:里山辺村(,ゆのはらしらいとのゆ)/藤井湯(ふじいのゆ)/苧桶湯 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 里山辺村 / 里山辺村
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (入山辺村)

入山辺村 地域 中信 市町村名 現在(令和2年):松本市(まつもとし) 明治初期:入山辺村(,に鬻ぐ 民業女: 農/蚕/(農間)自用機織繍縫 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 入山辺村地誌全図 / 入山辺村
安曇・筑摩両郡旧俗伝 ([現代訳])

がいっぱいだった時には、山から山へ船で往来したため、山家組(やまべぐみ、松本藩筑摩郡)に船付(松本市入山辺,もここからはじまった、深瀬(ふかせ)というの、その湖の中にある川筋の深い瀬のある所とか、また、山家(やまべ、山辺,、松本市入山辺、里山辺)の名は、皆が山の上に住んでいるからついた名である、ここに船を寄せたので今に船着
善光寺道名所図会 (○筑摩 会田)

永正8年(1511)に、山辺の広沢寺四世の中興開山。
来目路の橋 ([解説])

辿ったコースを7月1日から道中の印象深い土地の話を順に辿ると、先ず薄大明神に詣でようと山辺の湯に宿る。
浅間山噴火の被害記 ([翻刻])

二抱程の 大石降り、家を潰し候故、人家を捨、思い/\遠所江迯ケ候、   一同七日昼七ツ時、吾妻山辺
浅間山噴火の被害記 ([現代訳])

一、七月七日午後四時ごろ、吾妻山辺りから蛇が出たという。利根川の上流は二時間ほど水がなかった。
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

また天文2年(1533)に、小笠原大膳大夫長時が林城(里山辺)からここに移りました。,(注)広沢寺は、松本市里山辺の林地区の奥にある小笠原氏の菩提寺で、もと臨済宗、のち曹洞宗になりました。,白糸の湯、山辺の湯などと紹介され、多くの人に親しまれています。  
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([解説])

(西条山)川中シマ百姓水災ヲ恐レ、サイジヨウ山辺ニ多ク仮ヤヲナス。  
地震後世俗語之種 (絵の解説)

57 「犀川之湛水一時ニ押破リ、土砂・磐石・樹木民家ト共ニ押出シ、水煙リノ有様、川中嶋・小松原・岡田山辺
寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)

我等幼年之節折々御申聞有之候 一芝産様御壮年之砌尺八を御好み被成甲州乙黒明暗  寺より本則を請松本山辺江中町治兵衛,而追々全快ニ相成候へ共両親共痔之病ニ而父上ニ者常ニ  御顔之色も青く兎角御弱ク被成御座候故毎年下諏訪或ハ山辺浅間, 候処追々御蔭ニ少々ツヽ宜相成候五廻り程過候而立木様江  伺候処入湯も是からハ宜からんと仰ニ付松本山辺江母,而首尾克御帰家被成候 最初往掛ケ之節ハ御足曲り不申  駕籠之外江足ヲ出シ帯ニ而足ヲ駕籠之棒江釣り結び大  事ニ山辺,而大ニ相応いたし此度帰り  ニ者幸神馬ニ而御帰り父上ハ勿論一同悦申候 又来年土用  湯ニ三廻り程山辺江御出被成其翌年
むしくら日記 (1巻 元)

三人とも痩たる如くみへたりし、[南甚書留あり、末にしるす、]     (改頁)   ○善光寺飯山辺,役所へ出候旨   此方ニ而申候へハ、殿町之辺之由、尤止宿賄被下候由、万端   丁寧ニ取扱候旨、立山辺天津川之入山抜有之様子之由,止宿仕候而、   当所温泉地震已来例より多く湧出候由、此辺格段   之潰家等ハ相みへ不申候、四日出立山辺村
むしくら日記 (3巻 利)

し上げた私の領分信濃国高井郡で、先月24日夜大地震がございましたが、その節近領の更級郡山平林村の岩倉山辺
むしくら日記 (1巻 元)

◯善光寺飯山辺りの地震の様子を聞いたところ、揺れも感じないうちに一時にドンと雷鳴のような音とともに家が,4日に発って山辺村に行き尋ねたところ、温泉はいつもより量が減ったとのことでした。
むしくら日記 (3巻 利)

      20     郡之内、去月廿四日夜大地震御座候処、其節   近領更級郡山平林村之内岩倉山辺山抜
上田の早苗 ([翻刻])

    (改頁)    来リシナルヘシ、其証ハ今当郷ト境ヲ接スル室賀ノ山辺
贈答百人一首 ([本文、奥付])

、老臣小山田左衛門がすゝめによりて鶴郡岩殿へ落給ひしが、小山田心変りせしかば、鶴瀬より道をかへ田野の山辺,京都鵙屋(もずや)といふへ嫁しけるが、程もなく夫に別れ、いまだ三十才程也、ある春、仕女二、三人召連東山辺
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

その時代の皇居は、大和国山辺郡磯皈島(しきしま)の金刺(かなさし)の宮と申し上げた。
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([現代訳])

より罷り出るように申し参ったので、先日罷り出たところ、御塚の石垣が御出来になったので、山部(やまべ、山辺,七月二十日 郡所より、折井伴右衛門・金井源左衛門・藤井佐左衛門、 七月二十四日 御道見分、御塚前の道より山辺御殿
御城下古法并市場古法書抜書集 ([翻刻])

、然所近来駄卸商問屋躰之取斗諸事手広ニ仕、     (改頁)      72    下条・遠山辺
御城下古法并市場古法書抜書集 ([現代訳])

ところが近年駄卸商問屋風の取り扱いを手広にし、下条・遠山辺より城下町へ出す品々を買い留め、駄卸は勿論のこと
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([翻刻])

金井源左衛門         藤井佐左衛門     七月廿四日    御道見分 御塚前之道より 山辺御殿迄
/ 1ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました