機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
キーワード一覧
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 20件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 1ページ
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(里山辺村)
里
山辺
村 地域 中信 市町村名 現在(令和2年):松本市(まつもとし) 明治初期:里
山辺
村(,ゆのはらしらいとのゆ)/藤井湯(ふじいのゆ)/苧桶湯 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 里
山辺
村 / 里
山辺
村
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(入山辺村)
入
山辺
村 地域 中信 市町村名 現在(令和2年):松本市(まつもとし) 明治初期:入
山辺
村(,に鬻ぐ 民業女: 農/蚕/(農間)自用機織繍縫 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 入
山辺
村地誌全図 / 入
山辺
村
安曇・筑摩両郡旧俗伝
([現代訳])
がいっぱいだった時には、山から山へ船で往来したため、山家組(やまべぐみ、松本藩筑摩郡)に船付(松本市入
山辺
,もここからはじまった、深瀬(ふかせ)というの、その湖の中にある川筋の深い瀬のある所とか、また、山家(やまべ、
山辺
,、松本市入
山辺
、里
山辺
)の名は、皆が山の上に住んでいるからついた名である、ここに船を寄せたので今に船着
善光寺道名所図会
(○筑摩 会田)
永正8年(1511)に、
山辺
の広沢寺四世の中興開山。
浅間山噴火の被害記
([翻刻])
二抱程の 大石降り、家を潰し候故、人家を捨、思い/\遠所江迯ケ候、 一同七日昼七ツ時、吾妻
山辺
浅間山噴火の被害記
([現代訳])
一、七月七日午後四時ごろ、吾妻
山辺
りから蛇が出たという。利根川の上流は二時間ほど水がなかった。
善光寺道名所図会
(○筑摩 松本)
また天文2年(1533)に、小笠原大膳大夫長時が林城(里
山辺
)からここに移りました。,(注)広沢寺は、松本市里
山辺
の林地区の奥にある小笠原氏の菩提寺で、もと臨済宗、のち曹洞宗になりました。,白糸の湯、
山辺
の湯などと紹介され、多くの人に親しまれています。
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図
([解説])
(西条山)川中シマ百姓水災ヲ恐レ、サイジヨウ
山辺
ニ多ク仮ヤヲナス。
地震後世俗語之種
(絵の解説)
57 「犀川之湛水一時ニ押破リ、土砂・磐石・樹木民家ト共ニ押出シ、水煙リノ有様、川中嶋・小松原・岡田
山辺
寺子屋師匠の日記
(寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)
我等幼年之節折々御申聞有之候 一芝産様御壮年之砌尺八を御好み被成甲州乙黒明暗 寺より本則を請松本
山辺
江中町治兵衛,而追々全快ニ相成候へ共両親共痔之病ニ而父上ニ者常ニ 御顔之色も青く兎角御弱ク被成御座候故毎年下諏訪或ハ
山辺
浅間, 候処追々御蔭ニ少々ツヽ宜相成候五廻り程過候而立木様江 伺候処入湯も是からハ宜からんと仰ニ付松本
山辺
江母,而首尾克御帰家被成候 最初往掛ケ之節ハ御足曲り不申 駕籠之外江足ヲ出シ帯ニ而足ヲ駕籠之棒江釣り結び大 事ニ
山辺
,而大ニ相応いたし此度帰り ニ者幸神馬ニ而御帰り父上ハ勿論一同悦申候 又来年土用 湯ニ三廻り程
山辺
江御出被成其翌年
むしくら日記
(1巻 元)
三人とも痩たる如くみへたりし、[南甚書留あり、末にしるす、] (改頁) ○善光寺飯
山辺
,役所へ出候旨 此方ニ而申候へハ、殿町之辺之由、尤止宿賄被下候由、万端 丁寧ニ取扱候旨、立
山辺
天津川之入山抜有之様子之由,止宿仕候而、 当所温泉地震已来例より多く湧出候由、此辺格段 之潰家等ハ相みへ不申候、四日出立
山辺
村
むしくら日記
(3巻 利)
し上げた私の領分信濃国高井郡で、先月24日夜大地震がございましたが、その節近領の更級郡山平林村の岩倉
山辺
むしくら日記
(1巻 元)
◯善光寺飯
山辺
りの地震の様子を聞いたところ、揺れも感じないうちに一時にドンと雷鳴のような音とともに家が,4日に発って
山辺
村に行き尋ねたところ、温泉はいつもより量が減ったとのことでした。
むしくら日記
(3巻 利)
20 郡之内、去月廿四日夜大地震御座候処、其節 近領更級郡山平林村之内岩倉
山辺
山抜
上田の早苗
([翻刻])
(改頁) 来リシナルヘシ、其証ハ今当郷ト境ヲ接スル室賀ノ
山辺
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
その時代の皇居は、大和国
山辺
郡磯皈島(しきしま)の金刺(かなさし)の宮と申し上げた。
松本藩庄内組大庄屋御用留
([現代訳])
より罷り出るように申し参ったので、先日罷り出たところ、御塚の石垣が御出来になったので、山部(やまべ、
山辺
,七月二十日 郡所より、折井伴右衛門・金井源左衛門・藤井佐左衛門、 七月二十四日 御道見分、御塚前の道より
山辺
御殿
御城下古法并市場古法書抜書集
([翻刻])
、然所近来駄卸商問屋躰之取斗諸事手広ニ仕、 (改頁) 72 下条・遠
山辺
御城下古法并市場古法書抜書集
([現代訳])
ところが近年駄卸商問屋風の取り扱いを手広にし、下条・遠
山辺
より城下町へ出す品々を買い留め、駄卸は勿論のこと
松本藩庄内組大庄屋御用留
([翻刻])
金井源左衛門 藤井佐左衛門 七月廿四日 御道見分 御塚前之道より
山辺
御殿迄
/ 1ページ