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松代まちあるきマップ
(48松操山典廏寺)
松操山典廏寺(しょうそうざん てんきゅうじ) 宗派 曹洞宗 本尊 釈迦牟尼仏
川中島
合戦,
川中島
合戦三〇〇年の万延元年(一八六〇)、真田幸貫の発願で閻魔堂を建立。,明治三十九年(一九〇六)、
川中島
合戦三五〇年祭で、甲越弔魂の「懐古の碑」を建立。,
川中島
合戦記念館(昭和四十一年建立)もある。
弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図
([解説])
上段の文章によれば、
川中島
平(善光寺平)への出口に当たる真神山のふもとの小市(長野市安茂里)では、水かさが,西条山(妻女山)から見ていた原昌言によれば、洪水は3流となって
川中島
平に広がりました。,
川中島
平での洪水の範囲は、西(図の上部)は川が境になっています。
松代まちあるきマップ
(36杵渕山福徳寺)
上杉・武田相争う
川中島
合戦の戦火に焼かれ東寺尾山根に、さらに永禄二年(一五五九)現在の地に移った。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(小森村)
篠野井道 社: 伊勢社/諏訪社 寺: 龍登山真月寺 古跡・名勝: 経塚古城跡横田河原古戦場
川中島
古戦場福王寺跡
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(今井村)
八幡社/諏訪社/稲荷社 寺: 切勝寺(さいしょうじ) 学校: 小学保祐学校 古跡・名勝:
川中島
古戦場
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(上氷鉋村)
腰牧沖 渡・堰: 下堰/鯨堰 橋: 二枚橋 道路: 北国街道/須坂道/新町道 社:
川中島
斗売神社
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記
([翻刻])
一
川中島
、稲荷山、塩崎亡所同前、岡田砂入其外壱万石之内無難。
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図
([解説])
観光案内図として この図に描かれた北信濃は、江戸時代から、善光寺・戸隠・姨捨・
川中島
古戦場などの名所,
川中島
古戦場は、旅人に案内図が販売されていました。この図もそれを参照しているようです。,「
川中島
古戦場」として知られているのは「八幡原」ですが、その周辺には、「典厩寺」に「武田信繁ハカ」があります,千曲川の「猫ガ瀬」「十二ガセ」「犬ガセ」「ヒロセノワタリ」「古ノ馬場ノ瀬」といった地名も、
川中島
古戦場,
川中島
の百姓たちは、上流でせき止められた犀川が決壊して大洪水になることを恐れて、妻女山(長野市松代町)
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部
(著者、絵師等)
その間には、野尻湖、
川中島
、姨捨山、浅間山、諏訪湖といった、一般的な名所の紹介もしています。
弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図
([現代訳])
これより前に命令が出て、
川中島
の穀物を千曲川以東に移し、老人と子どもを東側の山に仮住まいさせました],水勢は速く、一つは南に向かって、小市(長野市安茂里)・小松原(長野市篠ノ井)を飲み込み、今里(長野市
川中島
,)・今井(長野市
川中島
)を経て御幣川(長野市篠ノ井)に至り[用水の上堰沿いで、行程は3里(12キロメートル,また一つは四ツ屋(長野市
川中島
町)・中島(四ツ屋村内)を壊滅させ、南北原村(長野市
川中島
町今井・原)[,日が西山に沈むと、もう一つが北川原・梅沢・鍛冶・上氷鉋(長野市
川中島
町)に流れ込み、丹波島の南に回り、
松代まちあるきマップ
(31送経山西念寺)
吉成は、北国街道の改修、伝馬宿の設置をはじめ、裾花川の瀬直し、
川中島
平に犀川から用水路を引くなど水田の
戸隠善光寺往来
(口絵)
口絵 冒頭に見開きで、「信州
川中島
舟渡之図」があります。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(氷鉋村)
明桂寺/池翁寺/境福寺 学校: 小学作新学校/小学氷鉋学校 古跡・名勝: 虎御前塚/浄真寺跡/
川中島
古戦場
パスファインダー
(『曽我物語』『大塔物語』と善光寺)
新曽我兄弟物語 浜田進/著 新人物往来社 1992 曽我物語総索引 大野普/編 至文堂 1979.9
川中島
合戦,父が子に語る信濃の歴史 笹本正治/著 信濃毎日新聞社 1998.1 内容紹介 大塔物語と
川中島
合戦
地震後世俗語之種
(絵の解説)
2-27 松代藩が
川中島
古戦場の八幡原で炊き出しをしているところです。,今爰に図を出す所は、是則
川中島
古戦塲に名だゝる八幡ヶ原の社地なり。十分の一を顕す。,八幡原の周囲には
川中島
合戦の首塚が描かれています。,2-57 「犀川之湛水一時ニ押破リ、土砂・磐石・樹木民家ト共ニ押出シ、水煙リノ有様、
川中嶋
・小松原・,ニ見ル」 岩倉山(虚空蔵山)の崩落が犀川を堰き止めてできた天然ダムは、4月13日の午後に決壊し、
川中島
平
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記
([現代訳])
一
川中島
、稲荷山、塩崎が流失、岡田には土砂が流入しましたがそのほかの一万石の領地は無事でした。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(正和村)
古跡・名勝: 原大隅守墓原大隅守城址/横田砦跡/大塔古城址/十王堂廃跡/釈迦堂跡/横田河原古戦場/
川中島
古戦場
パスファインダー
(長野県の動脈 篠ノ井線)
6 書名 .
川中島
バス80年史:善光寺平を駆けぬけて 著者名 出版社
川中島
バス株式会社
松代まちあるきマップ
(1松代城)
山城が平城に変わる時代を先駆けた名城で、
川中島
の合戦時、武田信玄が
善光寺道名所図会
(『善光寺道名所図会』の構成)
ついで善光寺を発して丹波島宿から
川中島
に出て、松代城下の寺社を訪ねて屋代宿に進み、この宿の山王社の祭事
むしくら日記
(2巻 亨)
へぬ、御用ニハたゝすとも、彼山平林の 堰留場所一見し、また小市の御普請所をも見侍り、 或は乗廻し
川中島
,へ押出し、忽左右之土 堤押切或乗越、防方も届兼候旨川方役人共より追々 致注進候処、間も無之、
川中嶋
数十,、右為防、此度 水内郡小市村渡船場下続左右之土堤へ、石俵 を以俄ニ急難除為築置申候、然処右は
川中嶋
,より善光寺、夫より南へ当り山中与唱候 一郷辺重モ之地震与相見、
川中嶋
辺は民家一村 不残又ハ過半,として五日のうち (改頁) 45 焚出し仰付られぬ、場所は
川中嶋
ハ小松原
むしくら日記
(2巻 亨)
川中島
、川北、川東で夥しい数の家が流されました。お届けをご覧下さい。 ,これは
川中島
その他流域の御料私領の村々のためということで、領内の人夫はもちろん、近領の水害を受けそうな,殊に
川中島
の村々で犀川から引いていた用水堰3筋、ほかに水門1か所も跡形もなく土砂に埋もれてしまったため,(略) ◯24日から
川中島
、川北、川東では救援として5日間炊き出しを仰せ付けられました。,場所は、
川中島
は小松原と八幡原、川北は北高田と下高田、川東は東川田村です。
善光寺案内
([解説])
著者の村松今朝太郎(清陰)は、現在の長野市
川中島
町今井北原に生まれ、上田中学校教諭を務めたあと、東京に
パスファインダー
(村上義清と村上氏)
村上信貞の越後出兵、大塔合戦、永 享の乱後の更埴地方、村上・屋代両氏の幕府への勤仕、村上・武田の 攻防、
川中島
合戦等村上氏
パスファインダー
(赤羽王郎)
川中島
・中津小学校、諏訪郡玉川小学校、埴科郡戸倉小 学校などと歴任して、武者小路実篤らと関係を深め、展覧会
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記
([解説])
・
川中島
、稲荷山、塩崎地域は上田藩松平氏の近親者が納めている領地ですから情報が入り『問屋日記』に記されているのです
秀吉と真田
(武田氏・織田氏の滅亡と真田昌幸)
北信濃四郡は、戦国期には「
川中島
」とも「奥郡」とも総称され、武田信玄・上杉謙信が争奪戦をくり返したことで
パスファインダー
(長野市篠ノ井地区)
木曽義仲 大塔合戦 円 福寺 長谷寺 康楽寺 どんど焼き 茶臼山 恐竜公園 川柳将軍塚古 墳 石川条里
川中島
合戦
パスファインダー
(長野市長沼地区)
長沼太郎 島津氏
川中島
の戦 長沼城 武田信玄 長沼藩 佐久間勝 之 佐久間勝友 佐久間勝豊 佐久間勝茲
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図
([翻刻])
いはゆる
川中嶋
四郡ハ、はじな、さらしな、 みぬち、たかゐなり。
むしくら日記
(1巻 元)
間を留 たるなれは、いかに水湛たりとも抜出る事ハあるまし、高き 滝をなして漸々にハ落入とも、当今
川中嶌
,○廿七日、貫実子有司等を率ひて犀口御普請に出張せ らる、こハ山平林の堰留一時に押破り出たらハ、
川中嶋
,も更ニ用す、一時に崩立ける也と云、 (改頁) 14 ○同し夜戌過る比、
川中嶋
所々,かゝる処へ城番小頭 伊木億右衛門と我妻倉田熊作・駒村彦三下の水の手の方 より来り、只今犀川の水押出し
川中嶋
, は御座候得共、先格別之儀者無御坐候、然処前申上候犀川 上手、数十日之湛水一時ニ押出候節ハ、
川中島
平
地震後世俗語之種
([現代訳])
大河は言うまでもなく、裾花川も加えて、いずれ劣らぬ荒波の流れに囲まれた里々を更級郡と言いますが、世間で
川中島
,さて
川中島
の話を聞きますと、そこはいずれも田舎の村々なので、町家とは違い、ほとんどの家では五ツ時(午後,昨日今日と日は過ぎても、昼夜の別なく今にも洪水が押し寄せるかと恐れるので、
川中島
の村々は言うまでもなく,ここから、北は小市村・久保寺村・善光寺を見通し、南は小松原村・岡田村からさらに広くを見通し、東の
川中島
,○前にも書いたように、
川中島
をはじめ川沿いに連なる村々は多数ありますが、今にも洪水が押し寄せてきそうだと
パスファインダー
(善光寺地震)
越中富山藩領に及び、岩倉山崩壊と共に堰き止め られた犀川が19日後の翌月11日(5月24日)に決壊し
川中島
地震後世俗語之種
([翻刻])
の大河ハいふもさらなり、裾花川の 流れいつれ劣らぬ荒浪に取囲みたる中の 里々を更級郡といひ、世に
川中島
,爰にまた
川中嶋
の噺を聞に、何れも田舎の 村々なれハ、町家と違ひ、凡の家には五ッ時を過 にし頃は打臥,りて北は小市村・久保寺 村・善光寺に見通し、南ハ小松原村・岡田村より 次第/\に広く見通し、東は
川中嶋
,○前にも記せし如く
川中嶋
をはしめ川辺に連な る村々其数多しといへとも、今にも水の押来り なん事を恐,○爰にまた
川中嶋
をはしめとし、川辺に連なる所 の民百姓は最寄の山々に小屋かけて仮居し、今 にや水の
むしくら日記
(4巻 貞)
より押出口水内郡小市村之上字真神山抜崩、 川式九分通押埋候付、其儘差置候而ハ聊之水ニ而も
川中嶋
,にて数日水中へ入しよりこと赤豆と、道橋奉行 助高野車之助持参せしか、よりこも赤豆も用ニ立といふ、
川中嶋
,抔にも作りて殊の外流行したりとそ、 公義より厳度御停止ありて、読売も錦画も後にハ止 たりしと云、
川中嶋
,) (改頁) 39 九分通押埋候付、其儘差置候而は聊之水 ニ而茂
川中嶋
江切込, 井筋茂悉皆損所有之候上、洪水ニ而犀川 懸用水揚口惣而致滅却、田水は勿論 呑水ニ茂差支候付、
川中嶋
用水揚口
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図
([現代訳])
いわゆる
川中島
4郡とは、埴科郡・更級郡・水内郡・高井郡のことです。
むしくら日記
(1巻 元)
これは、山平林のせき止め箇所が一度に決壊したら
川中島
はもちろん、お城も危ないだろうとの話し合いの結果、,◯同じ夜の戌の刻(午後8時)を過ぎる頃、
川中島
の所々で早鐘が聞こえ、とりわけ西寺尾村の早鐘が手に取るように,その上また、
川中島
平の者はこのせき止められた水がどちらに一時に決壊するか予想もつかないことに恐れて山手,それは立が鼻がせき止められたら、これもまた山中と同様
川中島
一帯が湖になってしまうだろう、急いで調べて来,しかし前に申し上げました犀川上流は、数10日たまった水が一時に溢れ出したときは、
川中島
平はもちろん、下
秀吉と真田
(三成ほか西軍諸将よりの書状)
まず、上杉景勝への飛脚の世話を依頼するとともに小室(小諸)・ふかせ(深志、松本)・
川中島
・諏訪の仕置は,一先書にも申され候如く、貴殿事早々小室・ふかせ・
川中島
・すわの儀、貴殿へ仰せ付けられ候間、急度(きっと
むしくら日記
(3巻 利)
◯
川中島
の内で、屋敷の西の方に木を多く植え込んでいた家では、この木に流された家や大木・材木・がれきなどが,◯
川中島
のどのあたりか、15、6歳くらいの女の子が、3つばかりの子を背負って、水が来たと聞いて必死で高,思われましたが、去る13日夕方、思いもかけず一気に決壊して、岩石とともに数十丈の水が押し出し、下流の
川中島
一帯
むしくら日記
(3巻 利)
にて有し、元より師を求めて習覚しにもなく、 自得したる事なりとそ、 (改頁) ○
川中嶋
,、上 氷鉋辺なるか、家族を木のうらにくゝり付置けるに、 木根よりたをれ、忽押流しけるとそ、 ○
川中嶋
何,水勢ニも難押切様子ニ相聞候処、 去十三日夕存外一時ニ押破、巌石一同数十丈之 水押出、流末
川中島
一円
善光寺道名所図会
(○別所温泉)
依田城にいた義仲は、白鳥川原に出馬、東信濃や西上州の武士を集めて陣を張り、(「白鳥川原の勢揃い」)
川中島
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部
([翻刻])
此犀川を渡り、千隈川の間を
川中嶋
とよべり。其西を丹波嶋といふ。,○
川中嶋
ハ永録年中、甲斐の武田入道信玄越後の入道謙信と対戦し、双方智 (改頁)
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部
([現代訳])
この犀川を渡り、千曲川との間を、
川中島
と呼んでいる。その西を丹波島という。,
川中島
は永禄年間、甲斐の武田入道信玄と越後の入道謙信が対戦し、双方の智勇の武将たちが討ち死にした大合戦
善光寺独案内
([現代訳])
川中島
合戦の時、ここに直江山城守がしばらく陣を置いた。『甲越信戦録』を見よ。
善光寺独案内
([翻刻])
川中嶋
合戦の時、此所に直 江山城守芝趾の陣を取り たり。
信州飯田町家控
([翻刻])
此故伝馬町迄御曲輪惣御堀の内也、其後京極様 後家来光増右衛門と申人飯田町割を被仰付、此人元来
川中島
浪人
上田の早苗
([翻刻])
一元和八年十二月、仙石兵部少輔忠政小諸城ヨリ上田城ニ転ス、小県郡村数八十五ケ村 高五万石、更級郡
川中島
信州飯田町家控
([現代訳])
この人は
川中島
浪人で上方へ出て、京極家へ召し抱えられた人です。
地震後世俗語之種
([翻刻])
113 崩れて、犀川におし埋み、かゝる大河を止る事 [犀川筋又山中方
川中島
川北東水災等
地震後世俗語之種
([現代訳])
ともいう大山が左右に抜け崩れて犀川を押し埋め、このような大河の流れを堰き止めたとのこと〈犀川流域や山中、
川中島
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