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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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秀吉と真田 (真田幸村と大坂の役)

この冬の陣では大きな戦闘はなく、目立ったのは幸村の真田丸での奮戦ぐらいであった。  ,  真田幸村画像 <史料解説> 「真田幸村画像」   柘植弌郎氏蔵 上田市立博物館保管, 真田昌幸・幸村の高野山配流に随行した家臣河野清右衛門の家に伝わったもの。,信綱は幸村の父昌幸の兄で、長篠の戦いで討死にしている。,[目録]    真田幸村佩刀 <史料解説> 「真田幸村佩刀」   真田宝物館蔵 / 真田幸村と大坂の役
パスファインダー (真田信繁(幸村)と大坂の役)

真田信繁(幸村)と大坂の役 トピック(テーマ) ねらい キーワード 概要を知るための ツール,資料リスト 真田信繁(幸村)と大坂の役 慶長19年11月15日に冬の陣、慶長20年4月,最新の研究成果が盛り込まれ、真田信繁(幸村)と大坂の役に関 しても詳述されている。,苦心の闘将真田幸村の生涯を描く。,2015.7 内容紹介 伝説の武将・真田幸村(信繁)の生きざまを描く。 / 真田信繁(幸村)と大坂の役
秀吉と真田 (昌幸最晩年の書状 幸村筆)

昌幸最晩年の書状 幸村筆 「秀吉と真田」の目次はこちら 真田信之宛同昌幸書状 <史料解説> 「,昌幸から信之(信幸)宛てだが、筆跡・内容から幸村(信繁)の代筆とみてよいもの。,追って書き(追伸)のなかで「次に左衛門佐(さえもんのすけ)(幸村)慮外ながら御言伝(ことづて)申し入れ,昌幸最後の書状になるが、これも筆跡は明らかに幸村のものである。,病臥中の昌幸の意を汲んで幸村が書いたのだろうが、やはり他の幸村書状と似通った表現が多い。 / 昌幸最晩年の書状 幸村筆
パスファインダー (真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村))

真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村) トピック(テーマ) ねらい キーワード,概要を知るための ツール 真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村) 歴史上の人物で,真田信繁(幸村) 真田幸隆 真田昌幸 真田信之(信幸)上田合戦 関ケ原の戦い 真田十勇士 犬伏の陣 上田,一門の中に は、真田正昌輝系、真田信尹系、真田信繁(幸村)の事蹟等がある。,柴辻俊六/著 吉川弘文館 1996年 1/3 真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村 / 真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村)
秀吉と真田 (「真田」の錦絵)

[目録]   大坂篭城真田幸村勇戦之図 <史料解説> 「大坂篭城真田幸村勇戦之図,中央馬上が幸村。その右にやはり馬上の長男大助。,やはり大坂の陣における幸村らの活躍ぶりを描いたもの。,[目録]     幸村、巡見中の家康を追い詰める <史料解説> 「幸村,[目録]     幸村芦叢へ忍ぶ図 <史料解説> 「幸村芦叢へ忍ぶ図
パスファインダー (立川文庫、真田十勇士)

 猿飛佐助 根津甚八 三好為三入道 三好清海入道 望月 六郎 由利鎌之助 1 書名 真田幸村,決定版 著者名 出版社 出版年 小林 計一郎/編 KADOKAWA 2015 真田幸村,が初めて『立川文庫』に登場するのは、「智将真田幸村」にお いてであり、以後、「真田諸国漫遊記」「猿飛佐助,」「霧隠才蔵」「三好清 海入道」「由利鎌之助」と続き、「真田幸村漫遊記」は特に好評で、続々 と漫遊記シリーズ,この漫遊記の下敷きにされたのが『西 内容紹介 遊記』で、幸村は三蔵法師の類型として描かれ、猿飛佐助が孫悟空役
川柳真田三代記 ([書誌・解題])

(上田城を過ぎ、真田昌幸・幸村二将を懐かしむ)」からなる。,附詞書」「真田幸村画像」「真田幸村筆蹟」「『張抜筒真田入城』演劇錦絵。,真田一徳斉幸隆、其子安房守昌幸、昌幸の子左衛門佐幸村の三将、いずれも智勇兼備を以て聞ゆ。,昌幸、幸村及幸村の子大助信昌の三代を称すと。    ,これによって、真田三代とは、真田幸隆、安房守昌幸、左衛門佐幸村(信繁)、または昌幸、幸村、大助(信昌)
パスファインダー (真田一族と家臣団)

キーワード 概要を知るための ツール 資料リスト 雑誌 表裏比興の雄真田昌幸 日本一の兵真田幸村,一門の中に は、真田正昌輝系、真田信尹系、真田信繁(幸村)の事蹟等がある。,2 書名 著者名 出版社 出版年 真田幸村と真田一族のすべて 小林 計一郎/編 KADOKAWA,2015年 目次の不撓不屈の真田一族、表裏比興の雄真田昌幸、日本一の兵真 内容紹介 田幸村,内容紹介 武田信玄の懐刀・幸綱、徳川軍を2度破った昌幸、大坂夏の陣で徳川家 康を追い詰めた信繁(幸村
パスファインダー (真田氏関係の城址、寺社、文化遺産)

画像・木像 大蓮院画像 元和年間上田城図 神川合戦図 真田父子上 田篭城図 大坂冬之陣・夏之陣図 真田幸村勇戦之図,ことに、幸隆-昌幸からはじまって、信綱・昌輝・信之・幸村(信繁)に至る 三代の経歴と活躍については、万般,矢沢頼幸宛須田満親書状、神川合戦図、矢沢綱頼宛上 杉景勝書状、真田昌幸宛豊臣秀吉書状、真田昌幸・信之・幸村宛豊臣氏,真田昌幸 宛石田三成書状、真田父子上田篭城図、高野山蓮華上院、真田昌幸書 状、真田信幸宛本多正信書状、真田幸村画像,、真田信幸宛昌幸書状、 真田幸村書状、大坂冬之陣・夏之陣図、真田幸村勇戦之図、真田信之 木造、大蓮院画像
秀吉と真田 (上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸))

それに先立って真田方からは、昌幸の次男弁丸(信繁、幸村)が証人(人質)として越後へ送られた。,「弁丸」とは信繁(幸村)の幼名、「被官」とは家臣のことである。,『藩翰譜』等の記すところと、この文書の内容とは合致することからみても、この「弁」とは真田弁丸(信繁・幸村,昌幸の重臣矢沢頼幸に出した書状にある「今度御証人として御幼若の方越し御申し、痛み入り存じ候」が信繁(幸村,しかし、ここでみたように、これは真田弁丸(信繁、幸村)安堵状とみて間違いない。
松代まちあるきマップ (15小山田家住宅)

幸村の姉、村松殿は、上田藩真田信之の家臣・小山田茂誠に嫁いでいる。,小山田家には、夏の陣を前に幸村が村松殿宛てに送った書状(「さだめなき浮世にて候へば…我々事などは浮世にあるものとは
松代まちあるきマップ (48松操山典廏寺)

真田幸村がその人である。,真田家の武家寺であり、典厩信繁の墓の横の小さな墓は、同じ名の幸村(信繁)を秘かに弔ったとする小説もある
秀吉と真田 (伏見城普請)

文禄三年正月十八日付け書状(写真)の宛名には昌幸・信幸と並んで「左衛門様」つまり左衛門佐(さえもんのすけ)信繁(幸村,徳善(前田徳善院) 玄以(花押)      真田伊豆守殿 御宿所     真田昌幸・信幸・幸村宛佐久間甚四郎等連署状,<史料解説> 真田昌幸・信幸・幸村宛佐久間甚四郎等連署状   真田宝物館蔵   文禄三年(一五九四,宛名に幸村(「左衛門様」)が見え注目される。,幸村(信繁)も信幸と同じく、やはり秀吉の命で、文禄二年九月には既に従五位下左衛門佐に叙任されていたものとみられる
松代まちあるきマップ (30真田山長国寺)

#160;  真田山長国寺 長国寺 長国寺 長国寺真田家墓所 長国寺幸村大助供養塔,墓所には真田家歴代の墓碑、真田幸村・大助親子の供養塔、戦国真田三代(幸隆、昌幸、信綱)の供養塔などが並
秀吉と真田 (真田氏の動静)

ことごとく伏見の衆大坂へ」転居しようとしており、自分も近く移るべく用意をしている、支給された屋敷は信幸と幸村,移転しようとしていた様子など、関ケ原合戦につながる上杉氏征討の軍が起こされる直前の、真田昌幸・信幸・幸村,左衛門佐(幸村)屋敷、其の方並びにて候。二間(軒)の内一間地形低く候て手間入り申し候。
パスファインダー (真田三代の妻妾・子女)

内容紹介 真田弾正忠幸隆の妻妾・子女、真田昌幸の妻妾・子女、真田信之の妻 妾・子女、真田信繁(幸村,2 書名 真田幸村と真田一族のすべて:決定版 著者名 小林 計一郎/編 出版社 KADOKAWA,殿昌幸夫人の部が1巻、大鋒院殿信之関係が全て25巻、信之夫人関係 が上下2巻、大光院左衛門佐信繁(幸村
秀吉と真田 (三成ほか西軍諸将よりの書状)

 幸村の妻の父、越前敦賀城主大谷吉継よりの書状。,石田ほかよりのものとほぼ同内容だが、昌幸・幸村に近い縁者として二人の妻は自分が預っていることを確認させ,伊豆殿(信幸)女中改め候間、去年くだり候時、左衛門佐(幸村)方へくやみ候様子までを証跡に申し別儀無く候,天下泰平此の上無く候へ共、御両所(昌幸・幸村)の御事、心がかり是非に及ばず候。以上。   ,「房州」は安房守昌幸、「豆州」は伊豆守信幸、「左衛門介」は幸村(信繁)。
秀吉と真田 (豊臣氏関係遺品)

 松下 愛 松田孝弘 宮沢常男 横関昌子 吉田里美     主な参考文献  大阪城天守閣『真田幸村,の歴史 上田城』二〇〇三年  笠谷和彦『関ヶ原合戦と近世の国制』二〇〇〇年  小林計一郎編『真田幸村
松代まちあるきマップ (22寒松山 大林寺)

寒松院の墓のほか、信之・幸村(信繁)の父昌幸、母寒松院、信之、信政などの位牌、藩家老の矢澤、鎌原家、大石蔵之助
松代まちあるきマップ (33尼巌山浄福寺)

幸村(信繁)が上杉の人質として赴いたとされる海津城は、満親が城代をつとめていた。
松代まちあるきマップ (38真田林大鋒寺)

宗派/曹洞宗、本尊/釈迦牟尼如来 万治元年(一六五八)、初代藩主真田信之(さなだのぶゆき=真田幸村
松代まちあるきマップ (25旧前島家住宅)

慶長五年(一六〇〇)、真田昌幸・幸村(信繁)父子が九度山蟄居の際、家臣十六名が昌幸に従って高野山に随行
秀吉と真田 (東西に分かれた真田父子)

そのため、昌幸とその長男信幸、次男信繁(幸村)の父子三人による協議がなされた。,これを受けて、真田氏は昌幸・幸村は西軍に付くべく上田城へ引き返し、信幸はとどまって東軍に味方することになった,それをじっと聞いている幸村。 [目録]    信幸は天正十七年に家康の下に出仕していた。,「真田信幸宛徳川家康書状」   真田宝物館蔵   慶長五年(一六〇〇)七月二十四日  父昌幸・弟幸村
秀吉と真田 (武田氏・織田氏の滅亡と真田昌幸)

このとき昌幸は滝川の前橋城に出仕し、次男信繁(幸村)を人質に出してもいた。,このおり徳川方は、滝川一益の人質に出されていた信繁(幸村)の身柄を確保しており、昌幸を鞍替えさせる工作
パスファインダー (真田氏研究の基本史料・古記録)

昌幸夫人の部が1巻、大鋒院殿信之関係が全て25巻、信之夫人関係が 上下2巻、大光院左衛門佐信繁(幸村
秀吉と真田 (徳川秀忠軍の上田攻め)

真田父子上田籠城図 <史料解説> 真田父子上田籠城図   上田市立博物館蔵  中央に真田昌幸、左に幸村
上田案内 ([解説])

徳川勢を二度にわたり苦しめた真田昌幸、信繁(幸村)親子の活躍は、江戸期の読み物からはじまり、近現代の小説
諸国道中商人鑑 (4 小田井から本山まで)

本陣をつとめた石合家には真田信繁(幸村)が同家に嫁いだ娘への書状が残されている。
上田の早苗 ([翻刻])

鍛冶町へ再建セリ、月窓寺ト号、其  後慶長七年樹昌和尚寺ヲ焼テ退去セリト云、 一里伝ニ云フ、真田幸村高野山,へ蟄居シテ伝心月叟ト号シ、其後大坂戦  死後家臣ノモノ幸村ノ馬具ヲ持来リ、鷹匠町ノ小庵へ納メ菩提ヲ弔,ハ青柳清庵林庄右衛門ト云フモノニ命シテ、形見  ノ品々ヲ月窓寺ニ送リ納メシタリト云フ、月窓寺ノ号ハ幸村
信濃名勝詞林 (陸路廼記)

子の幸村と共に。徳川氏を扼(とゝ)めたるところなり。思ふに秀忠。此道を過(すき)られぬとも。
(株)第十九銀行と諏訪製糸業 ([ルビ・注記])

真田幸村の古城趾を存す。    長野市は 善光寺の大伽籃を有し、且長野県廰の所在地たり。    
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