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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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松代まちあるきマップ (19白鳥山證蓮寺)

;白鳥山證蓮寺 證蓮寺 證蓮寺 写真をクリックすると、フルサイズの画像が表示されます。, 證蓮寺は、親鸞聖人の高弟・西仏坊覚明の子、康楽寺二世の法眼淨賀を開基とし、東条村に建立され、慶長年間,西仏坊覚明は、篠ノ井塩崎の康楽寺を開山。,その子・證蓮寺開基の法眼淨賀は、東本願寺蔵「聖人御絵伝」の原絵師。,寺内には、六代幸弘直筆の「親鸞聖人御影」や「聖徳太子像(上越市浄興寺像と姉妹仏)」がある。 / 19白鳥山證蓮寺
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 (伝説の宝庫)

伝説の宝庫 『二十四輩順拝図会』のおもしろさは、単なる寺の由来の説明にとどまらず、宝物にまつわる伝説,瀬踏の阿弥陀如来(本誓寺)、落涙の太子(本誓寺)、柴阿弥陀堂の由来、身代名号(康楽寺)などは、それぞれが
善光寺独案内 ([翻刻])

善光寺独案内 / 前一歩 清浄地      (改頁)      3   皆徃安 楽国 歳在丁酉 春二月上浣,太皷      三個及諸音楽の器、皆  此処に供す。,祭神 大己貴命 延喜式神社帳ニ曰  美和神社      (改頁)   白鳥山康楽寺  ,安楽山往生寺 山の苅萱といふ。  本尊 無量寿仏  苅萱親子地蔵尊あり。  ,後 松平遠江守に奉仕し、中古善光寺に居 定め、朴菴と号し仁術を施し、夙に風流 専ら茶事を楽ミとす
善光寺独案内 ([現代訳])

善光寺独案内 / 、頼朝公は寺を建て、寺号を奉った。,太鼓3個および諸音楽の楽器、皆ここに供えてある。,「本多善佐は信濃守となり、勅命により寺を建立した。すなわち父の名によって、善光寺という寺号を賜った。,祭神 大己貴命  延喜式神名帳によると 「美和神社」     白鳥山康楽寺  東町にある。,安楽山往生寺  山の苅萱という。本尊 無量寿仏 苅萱親子地蔵尊がある。
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

善光寺道名所図会 / それから血脈(けちみゃく、師から弟子に法灯がうけつがれていくこと)相承して他力易往(いおう、極楽浄土にたやすく,文録元(1592)年に松本の六九に移り、松本藩主石川康長の菩提所となりました。,この寺は宝徳年間(1449~1452)に小笠原信濃守(しなののかみ)従三位中将源政康の草創です。,室町時代に林城主で信濃守護であった小笠原政康の開基です。,その後、徳川家康が幕府を開くと、これはあの兎のお蔭であると、正月には諸侯に兎のお吸い物を振る舞うこと幕府
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 (著者、絵師等)

著者、絵師等 『二十四輩順拝図会』の著者了貞は、河内の国専教寺(大阪府守口市)の僧でした。,信濃の部  越後から信濃に入り、戸隠山、明専寺、平出の藤兵衛宅、善光寺、堂照坊、西厳寺、長命寺、芝阿弥陀堂,、本誓寺、康楽寺、正行寺、長称寺、宮川神社を、絵を交えて紹介しています。,善光寺では、「善光寺朝参りの図」が貴重です。お朝事に集まった人々が描かれています。,これは『信州善光寺御堂額之写』にも取り上げられた有名な絵馬で、「幽霊の絵馬」として現在は善光寺史料館に
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (長野町)

/西町/長門町/東町/伊勢町/元善町/栄町/立町/桜枝町/下西之門町/上西之門町/横沢町/狐池/西方寺裏,/下長野/御殿/来間池/上長野/村前/八幡裏/獅々沢/堂西/一本松/南往生寺平/北往生寺平/高岡/湯福,/湯福神社/伊勢社/八幡社/弥栄神社/天神社/稲荷社/諏訪社/山神社/御嶽社/大神宮社/西宮大神 寺:,林昌院/西方寺/随勝院/康楽寺/法蓮寺/聞光寺/竜樹院 学校: 長野師範学校/長野学校 古跡・名勝,: 兄弟の墓/圧死人之墓/死事者之墓/本城墟/大峯城墟/真慶寺廃址/十二院廃寺跡/宝林院廃址/宝勝院廃址
信濃名勝詞林 (碓氷紀行)

馬車を乘替急かせて午後五時五十分過る頃小縣郡本海野驛に着ぬ頓て(やがて)よしの屋何かし方へやとる矢嶋行康とふらひ,音すなり白雪の 殘れるうへにさえ渡りつ〻 十九日天氣よし北向堂の別當寺なる常樂寺(じょうらくじ)に,として世に三樂寺と唱へし三大寺ありけるに今は安樂常樂の二寺のみにて長樂寺は亡ひたり殘の二寺も數(数)度,のいくさに屢(しばしば)燒失して什物(じゅうもつ)等おほかたなくなりしよしなるをたた安樂寺の境內にある,あり字月夜平といふ里俗親王塚ともいふこは滋野宮の御陵(ごりょう)也遙拜(ようはい)して過く程なく矢島行康か
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (筑摩村)

ねんらいじ)橋/大昌寺(だいしょうじ)橋 道路: 北国西往還/武石(たけし)街道/飛騨街道 社:,極楽寺 古跡・名勝: 戸田丹波守康長墓/松平丹波守光年墓/松平光領墓/松平光領室光子墓/松平丹波守光行墓,/旧生安寺址/旧瑞松寺址/旧長松院址/旧宝泉院址/旧常福寺址/旧長善寺址/旧広福寺址/旧本立寺址/旧大昌寺址,/旧念来寺址/旧全昌寺址/旧前山寺址/旧清宝院址/旧正福寺址/旧本秀院址/旧明覚院址/旧往生院址/清水里,/桜井清水/埋橋(うずはし)の調布/丹波塚の桜/権現の池/念来寺の時鐘/念来寺の大杉 物産1: 稲
パスファインダー (松井須磨子)

牡丹刷毛(ぼたんばけ) 前澤誠助 女優 坪内逍遥 文芸協会 島村 抱月 芸術座 須磨子芸術倶楽部,2 書名 著者名 出版社 出版年 女優の愛と死 戸板康二/著 河出書房新社 1963年 内容紹介,出版年 須磨子への旅:前澤誠助との出会いと別れ 島村抱月の愛と苦悶 宮下明彦 上田図書館倶楽部,市誌研究ながの  出版年 2017.3 巻号頁数 第24号 2 論題名 かるかや山西光寺の,サーチ URL http://iss.ndl.go.jp/ 1 記事 松井須磨子芸術倶楽部
寺子屋入門記録「壱番入門記録」 ([翻刻・注記])

寺子屋入門記録「壱番入門記録」 / 当福屋才八殿娘 一 当戌拾一歳 前沢おみき  爪印   同断 同断 叶屋忠兵衛殿娘 一 当戌拾一歳 寺尾,      17 同断 本町一丁目近江屋安兵衛殿息子 一 当亥拾歳 伊原善太郎  爪印   同断 来迎寺,  爪印   同十一日 町内真砂屋康吉殿息子 一 当子七歳 福沢松太郎  爪印   (改頁)      ,小池豊次郎  爪印   (改頁)      33 丑正月二十三日 知久町二丁目伊賀や孫子 一 当丑拾一歳 寺沢,町内加兵衛殿息子 一 当丑七歳 森下平二郎  爪印   (改頁)      34 35 二月 町内永楽屋庄兵衛殿孫
絵本東名物鹿子 二 ([翻刻])

徳川家康の家臣。永禄6年(1563)三河(愛知県)の一向一揆の戦いで負傷し、歩行が不自由となる。,家康に命じられ、奉行として江戸小石川上水(のちの神田上水)を完成させ主水(もんと)の名をあたえられた。,       露沾 (注)「上野桜」 上野が花見の名所になったのは、徳川家の菩提寺である寛永寺の境内,「太神楽」 獅子を舞わせて悪魔払い、火伏せなどを祈祷する神楽の一種。「大神楽」「代神楽」とも書く。,伊勢と尾張には神楽組があり、初春になると諸国に巡回に出た。
パスファインダー (長野市篠ノ井地区)

キーワード 塩崎 共和 川柳 東福寺 西寺尾 信里 布施高田 布施五明 瀬原 田 御幣川 会 横田,長谷寺 康楽寺 どんど焼き 茶臼山 恐竜公園 川柳将軍塚古 墳 石川条里 川中島合戦 南長野運動公園 ,「篠ノ井」「塩崎」「共和」「川柳」「東福寺」「西 寺尾」「信里」が篠ノ井地区である。,なお「西寺尾」は松代町西寺尾 も含んでいる。,西寺尾、信里の7地区に分けて、史 跡・文化財を説明し、それぞれ地図を添えている。
パスファインダー (信濃の高僧)

普化宗の 祖という心地覚心、南禅寺を開いた無関普門、妙心寺を開いた関山慧 玄など、信濃出身の臨済宗の高僧, 天台宗 真言宗 浄土宗 浄土真宗 真宗 臨済宗 曹洞宗 普 化宗 虚無僧 無関普門 大明国師 南禅寺 ,五山 心地覚心 無本覚 心 法燈円明国師 規庵祖円 南院国師 関山慧玄 無相大師 妙心寺 此山妙在 性海霊見, 西仏坊 康楽寺 浄賀 等順 道鏡慧端 正受庵 半田孝淳 天台座主 井上氏 保科氏 海野氏 善光寺,2 書名 著者名 出版社 出版年 信州の仏教寺院 第3巻 禅宗 郷土出版社編集部/編 郷土出版社
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 ([現代訳])

親鸞聖人は九字の名号を3幅お書きになり、1幅はこの明専寺に与え、1幅は現地の五郎大夫に下さり、1幅は播州魚橋安楽寺,未詳)     白鳥山康楽寺(西派、院家)  柴村より2里半、塩崎(長野市篠ノ井塩崎)にある。,一寺を建立し、これを康楽寺と称した。,〇御伝絵四巻(御伝は覚如上人の御筆、絵は康楽寺2代目浄賀法眼筆。),西仏は康楽寺の開基で、海野小太郎幸親の息子、進士蔵人通広、後に大夫坊覚明と言った人である。
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 ([翻刻])

は播州  魚橋安楽寺に授け給ふとかや。,未詳] 白鳥山康楽寺[西派、院家] 柴村より二里半、塩崎に有。    報恩院と号す。,始め海野庄白鳥に一宇を開き、  壮んに真宗を弘め、後又塩崎に一寺を建立し、是を康楽  寺と称す。,〇御伝絵四巻[御伝ハ覚如上人の御筆、絵ハ康楽寺二代目浄賀法眼筆。],西仏ハ康楽寺の開基、海野小太郎幸親の息、進士  蔵人通広、後大夫坊覚明といふ是也。
小諸繁昌記 ([解説])

しばらくして、『下高井繁昌記』(同三十六年)、『長野繁昌記 一名善光寺案内』(同三十七年)などが続き、,第三章 小諸名士伝 第一節の「小諸名士列伝」では旧藩主であった牧野康哉から石塚重平まで、九人を挙げている,第四章 霊場案内記  「浅間山真楽寺」「菱野薬師」「浅間登山」「布引山」が載っています。,布引山については特に詳しく、白い筋が入る布引岩、「牛にひかれて善光寺参り」の仏話発祥地であること、釈尊寺,三軒の商家)「純水館」の三製糸場   第六章 小諸の雪月花と雑報  大久保のつり橋、懐古園、光岳寺、
義烈百人一首 ([翻刻])

48_浜豊後守康慶(はまぶんごのかみやすよし) かへりこん 君が為とや 古郷の 花も八重たつ 錦,なるらむ 【頭注】 浜豊後守康慶は下総国小金の城主なり、弟民部大輔春利に城を守らせて身は京都にありけるが,かヽる世をしも 見ざりけん 人のむかしの なほもこひしき 此哥を弟春利の方よりしたヽめ送りければ、康慶是,をあはれみ斉藤妙椿に此物語をせしかば、妙椿感じて早速城をかへす、是浜康慶が心のたのもしきがゆゑなり、常縁浜,が方へ消息のうちの哥の中に 霧こめし 秋の月こそ よそならめ かざしに匂へ する里のはな 康慶此返
贈答百人一首 ([本文、奥付])

のこゝろを 色にのみ そみし心の くやしきに むなしくしげる のりのうれしさ (改頁) 09_康頼妻,08_平判官康頼 08_平判官康頼(へいはんくわんやすより) 終(つゐ)にかく そむき果たる ,世の中の とく捨ざりし 事ぞくやしき 09_康頼妻(やすよりのつま) たのめおく 人だにそむく 世,の中を あはれ捨ても おしからぬ身ぞ 【頭注】 康頼は大納言成親等と一味の由聞えて六波羅より召捕(,となり、西山に庵室をしつらひ塵の世をいとひ、後また近江の国志賀の辺(ほとり)にうつりて住しとかや、 康頼
小倉百しほ染 (小倉百しほ染 乾[本文])

「下馬」は、貴人の前や社寺などで、敬意を表すために馬を下りること。,(改頁) 大江千里 文屋康秀 文屋康秀(ふんやのやすひで) 葺からに 貝から屋ねも 汐干哉,(改頁) 文屋朝康 源養父 源養父(みなもとのふかやぶ) かけ踊り また酔なから 玉手箱 【,「里神楽」は、宮中の御神楽(みかぐら) に対し、各地の神社や民間で行われる神楽。,季語は「神楽」で冬。
地震後世俗語之種 ([現代訳])

自らが招いた禍いは逃れがたく、健康を損ね、恥を忍んで再び故郷に帰り、養母が立腹されるのをたしなめて許しを,慕って訪れ、緑を添える呉竹や常盤の松の枝にさえずり、毛氈ならぬ真菰(まこも)の莚(むしろ)を携えて田楽に,そのむべの山(吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ 文屋康秀)ではないけれど、仮寝が岡,のどかな春から「いざ行かむ雪見に転ぶ所まで」(芭蕉)の冬まで、四季折々の風流を楽しみ、御開帳の真っ最中,夕べには花の林に遊ぶかのように歓楽をほしいままにし、数万の灯火が昼を欺き群衆は所狭しと町中に溢れ、毒竜
信濃奇談 (信濃奇談 下)

後に一寺を建立す。今の鴛鴦山東光寺是なりといふ。,ある時西岸寺といふ古刹の前に二人して桜を詠め、哥よみて楽み居けるに、七久保村にもさん女とて是も同しく歌読,東奥紀行に越後津川玉泉寺淳海上人尸も百余年腐敗せすと見ゆ。,建福寺に僧文覚か穿てる池とてあり。新著聞集に、蓮華寺に文覚の墓ありと見ゆ。[今はなし。],ならんと先覚ハいひしか、私に考るに、山室邨遠照寺に持伝へる古証文に、康歴二年六月小松四郎源盛義と見へたり
龍駕の跡 (龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))

は一斉に楽を奏す。,楽器の音が高らかに響きわたる)楽を奏す。,           林 敷右衛門             東    町 陸軍少輔           康  ,樂  寺             元善町仁王門前 内務書記官          兄  部  坊,生吉[七十歳]は稍(やや)健康を失ひたるも尚生存す。
『説諭要略』巻一 ([ルビ・注記])

今伯楽(はくらく)(注12)ノ一顧ヲ得テ。  ,人々健康ヲ保チ。且智達ヲ求メントナレハ。  速ニ截髪(さいはつ)(注15)シテ。,仮リニ村寺ニ設ケタリ。此寺ヲ安楽寺ト云。最  大ノ梵宇(ぼんう)(注2)ニテ。イト壮観ヲ極メタリ。,注 (1)現駒ヶ根市 (2)寺。寺院。 (3)目的のために利用する便宜的な手立て。,勉強スル者又楽ミモ  ナクテハナラス。其訳ニテ。学校盛ノ村々ハ。
長野県師範学校生徒修学旅行概況 (長野県師範学校生徒修学旅行概況[全文])

(えい)、讃岐守原家村建武の功に依て之 を領し、子孫九代之を襲ひ、天文の始め、木曽の木曽左京大夫義康の,又同氏の周旋にて、如来寺 伊那の善光寺の什宝なる臼を見る。 ,(改頁)      10   当寺は畳秀山開善寺と号し、小笠原貞宗の創建にして、開山は福州連江人清拙正澄,寺後の丘腹に又大なる墓 穴あり。寺の西に琴原の古墳あり。,川の西岸は神原村を以て、三河国北設 樂郡冨山村に接し、其東岸は平岡村を以て、遠江国周智郡奥山村に接す
烈女百人一首 ([翻刻])

にしみてうき世のさまを観じつゝ我ゆゑにこそ人々に歎きをかけ、今は発心したりと聞ば、わが身の栄ようも又いつまでが楽まん,ゆやも車を同じくしてかしこにいたり、糸竹の調なゝめにして頗(すこぶる)興をそへたり、然れども、ゆや心楽まずして,まひびめしづか) 見るたびに いとゞ涙の ます鏡 恋しき人の 影をとめねば 【頭注】 静が鶴が岡八幡にて法楽の,) 黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思ひにきゆる 露の玉の緒 【頭注】 武田勝頼の室は北条氏康の,おどろきしことあり、夫大雅三味線をひきうたへば、玉瀾つくし琴を合せて古びたる唄をうたひて夫婦とも生涯風雅に楽しみし
旧上田藩学制沿革取調書 全 ([翻刻])

二人口三人口五人口之差 等あり]を給与せり、 平民之子弟教育方法 藩立学校へ入るを許さす、故ニ各随意ニ家塾或ハ寺,ニ藩之教育方法なく、又 検束を受けす、 但、平民と雖医業之者ハ、志願ニより入学を許せり、 家塾寺小屋設置之制度,帰郷して 世子忠済之侍講と為り、兼て藩士を教授せり、嘗て直言 に坐して侍講を停められし、是時白河楽翁公幕政,、假知郡事、参決其事、衆咸称平、 安永庚子以疾乞老、十月廿七日卒于家、年八十有三、葬 于城北大輪寺、,喜多島□雲 寿徳派 山田兵右衛門 日置流 尾崎紹弓 同 山本宇太夫 大和流 石川康民
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 ([ルビ・注記])

聞けば母堂(ぼどう)が十三歳で君を産んだとのことである が、家康も母が十五歳の時の子である、誰かが母,夕刻石堂の某寺についた。,当時の代表的な寺子屋師匠。,翌八日に善光寺大勧進に着蓮された。,清華家の徳大寺家から西園     寺家の養子となる。徳大寺実則は兄。     
違作書留帳 ([現代訳])

塩尻市)の親方を潰したことを、十月十五日に御役所へ届けた、 洗馬宿(せばじゅく、中山道の宿場、善光寺道,の見かえし(布)を切ってくれた、     (改頁)   十一月六日 先年、石川玄蕃頭様(石川康長,  ここに少し甲州紙があるで書き置く、 一休和尚のうたに、世の中は、貧しい、徳がある、苦しい、楽しいと,治るというのはこくだ、この七苦を、丹田(たんでん、下腹部の臍の下にあたるところ、ここに力を入れると健康と,落とさないという道理のように、私ごときは、百あれば五十くらいの身上に見せかけ、借用しないようにし、安楽に
北向山霊験記 戸隠山鬼女紅葉退治之伝 全 ([翻刻])

1 北向山霊現(ママ)記 戸隠山鬼女紅葉退治之伝 齋藤一柏 関依川 著 実ハ北向山別当常楽寺住職,天延四 年ノ事ナリ 平繁茂 出羽國秋田城之介、天台宗ヲ信ス、天台大師所説ノ三大部書ヲ讀ム 平康家,泰時 時氏 經時 時賴 時宗 貞時 高時 北條氏九代ニテ盡ル 附録 泰時ノ法名常楽寺殿,ト號ス 經時ノ法名安楽寺殿ト號ス 平政子 北條朝房 朝時 女子 重時 長時 義宗 久時,ニ棄テラル、年二十 天德元年四月經若丸ヲ産ス 紅葉年二十一 天德二年經基公逝去 紅葉年二十二 康保四年秋十月相馬将門
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