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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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秀吉と真田 (徳川方への攻勢)

徳川方への攻勢 「秀吉と真田」の目次はこちら  真田昌幸は、上杉景勝そして秀吉との提携もなり、徳川軍,佐久は徳川方の依田(芦田・松平)氏領であったが、「佐久郡本意に至っては」と断っているものもあるように、 / 徳川方への攻勢
秀吉と真田 (昌幸の秀吉への接近)

この理由については、徳川方の史書類によると次のようであった。,秀吉の真田救援の意向を、真田・上杉方は敵徳川方へも宣伝し、その効果もあって徳川方は兵を引いたと考えられるのである,その中で秀吉への従属を図ったのだろうが、ついてはそれまで徳川方であった松本の小笠原を引き込んだものと思
秀吉と真田 (武田氏・織田氏の滅亡と真田昌幸)

このおり徳川方は、滝川一益の人質に出されていた信繁(幸村)の身柄を確保しており、昌幸を鞍替えさせる工作,だがこれも、「手柄次第」つまり、その実現は腕次第というものであり、佐久においても徳川方に頑強に抵抗する,しかし、昌幸は、家康への不信感を抱きつつも、引き続き徳川方として動いていた。  
秀吉と真田 (真田・小笠原・木曽、家康の与力に)

それに対し、これ以後の家康あるいは徳川方から昌幸宛ての書状類は全く見られないのである。
秀吉と真田 (上杉方による上田城増築普請)

の目次はこちら  天正十三年(一五八五)閏八月、上田城は遠江(静岡県)からの徳川本隊と甲斐・信濃の徳川方,つまり、上田城は、単なる真田氏の居城としてではなく、当初は徳川方の対上杉の最前線の城郭として、真田が上杉方
秀吉と真田 (家康の命令による上田築城の開始)

その中で昌幸の進言により、上杉勢力に対する徳川方の最前線の重用拠点としての上田築城に取りかかったのだった,徳川方の重要拠点、それも上杉勢力圏の北信濃に対峙する最前線の重要基地となるはずの城普請として始められたのであった
秀吉と真田 (東西に分かれた真田父子)

その結果は周知のように、昌幸と信繁は石田方・西軍に加担し、信幸は徳川方・東軍に加わり、父子兄弟が東西に,父昌幸・弟信繁と袂を分かち、徳川方にとどまった信幸は父弟の離反を家康に報告した。
秀吉と真田 (「真田」の錦絵)

徳川方の陣地に仕掛けたという「地雷火」による戦果を遠望している。
秀吉と真田 (徳川秀忠軍の上田攻め)

本来なら死罪を免れないところ、徳川方に付いた信幸の助命嘆願により昌幸は信繁とともに高野山へ流罪の身となる
秀吉と真田 (三成ほか西軍諸将よりの書状)

末尾の条項より、昌幸は信幸が徳川方に付いたことは伝えていなかったことが分かる。
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