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(佐久市跡部の踊り念仏)
佐久市跡部の踊り
念仏
トピック(テーマ) 佐久市跡部の踊り
念仏
ねらい 佐久市跡部,の踊り
念仏
は、平成12年(2000)に「国重要無形文化財」に 指定されている。,2 書名 著者名 発行者 出版年 国重要無形民族文化財 跡部の踊り
念仏
(改訂版) 跡部踊り
念仏
保存会,するとともに、跡部の踊り
念仏
の由来、実施方 法などを述べている。,の画像」において、『一遍聖絵』における踊り
念仏
が検討され、踊り
念仏
がどのように踊られたか述べられている / 佐久市跡部の踊り
念仏
パスファインダー
(佐久市跡部の踊り念仏2)
佐久市跡部の踊り
念仏
2 トピック(テーマ) ねらい キーワード 概要を知るた めの,書名 著者名 出版社 出版年 内容紹介 4 書名 著者名 出版社 出版年 佐久市跡部の踊り
念仏
,2 一遍上人が始めたとされる「踊り
念仏
」が行われていて、今もその古い 姿を伝えている。,佐久市の「跡部の踊り
念仏
」 や下伊那郡阿南町の「和合の
念仏
踊り」を含む23都府県の37件で構成 されている,国重要無形民俗文化財 跡部の踊り
念仏
跡部踊り
念仏
保存会/編 跡部踊り
念仏
保存会 2014.7 佐久市志 / 佐久市跡部の踊り
念仏
2
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(三才村)
将軍塚/福地蔵/内宮/西河原/青木/荒田/古屋敷/柳原/大塚/南田子/北田子/大久保/両堰/袖上野/
念仏
塚,松代道 社: 三才神社/諏訪社 寺: 浄専寺 学校: 三才学校 古跡・名勝: 白鳥山
念仏
寺廃寺
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(日下野村)
現在(令和2年):長野市(ながのし) 明治初期:日下野村(くさがのむら) 幕末から明治初期:
念仏
寺村,掲載 該当ページを見る キーワード 字地: 三日野/中内/梅野城/茂田井/若神子/城/青木平/
念仏
寺
善光寺道名所図会
(目録)
時丸の塚 如来堂 三門 二王門 御供所 年神宮 毘沙門堂 四宜楼 寛慶寺 定
念仏
パスファインダー
(川上村原おかたぶち(オカタブチ))
内容紹介 長野県の祭礼行事歳時記 浅科村の鳥追い 坂部冬祭り 新野雪祭 り かなんばれ 跡部の踊り
念仏
,雨宮の御神事 黒田人形 駒ケ岳 神社太々神楽 大鹿歌舞伎 島立の裸祭り 岳の幟 柱松柴灯神事 和合の
念仏
踊
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(森村)
/菅公社/弁財天社/八幡宮社/乳神社/皇大神宮社 寺: 興正寺/禅透院(ぜんとういん)/観龍寺/
念仏
寺
信州善光寺御堂額之写
([翻刻])
だんじきにてつや心願いたし、七日まんする あかつきに御とうみやう見へけれハ、いよ/\有 かたく
念仏
申居,
念仏
申うちに、 御僧さまハ見へすなりたまふ。,さんけいし、下向のみち木その山中ニて、女房 病わづらひ、山中ゆへ水さへなく、なんきとはうニ くれ、
念仏
申,もうもくになり、善光寺へ三十三度 参さんけいしてみちけるゆゑ、こんどハ御 つやいたし、ゆる/\
念仏
申
白雄自筆 安永五年如月七日 草稿
([逸題歌仙])
琵琶を甥の君 雄ひたと貝ふく牛を制する 五老ぬればとにもかくにも寝ぐるしき 丘長き夜すがら唱ふ
念仏
松代まちあるきマップ
(20平林山本誓寺)
ほんせいじ) 宗派 真宗大谷派 本尊 瀬踏阿弥陀如来 建保元年年(一二一四)、専修
念仏
停止
信州善光寺御堂額之写
([現代訳])
えるようになればと思い、7日間断食をして夜通し祈願して、7日の満願の明け方に御灯明が見えたので、いよいよありがたく
念仏
,わたしが
念仏
を唱えているうちに、お坊様の姿は見えなくなりました。,山の中で水さえなく、困って途方に暮れ、
念仏
を唱えて介抱しているうちに、お侍が来かかり善光寺さまの御影を,さぎやまむら)の貞善は、盲目になり、善光寺に33度参詣して満願になったので、今度は参籠して、穏やかに
念仏
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(入山村)
下犬飼/中犬飼/笹ノ尾/栃久保/北荻久保/南荻久保/上ノ平/五郎岩/沢尻/桜畑/曲リ戸/岩戸/清水/
念仏
寺
パスファインダー
(佐久市湯原神社式三番)
内容紹介 長野県の祭礼行事歳時記 浅科村の鳥追い 坂部冬祭り 新野雪祭 り かなんばれ 跡部の踊り
念仏
,雨宮の御神事 黒田人形 駒ケ岳 神社太々神楽 大鹿歌舞伎 島立の裸祭り 岳の幟 柱松柴灯神事 和合の
念仏
踊
パスファインダー
(佐久市浅科上原の鳥追い祭り)
内容紹介 長野県の祭礼行事歳時記 浅科村の鳥追い 坂部冬祭り 新野雪祭 り かなんばれ 跡部の踊り
念仏
,雨宮の御神事 黒田人形 駒ケ岳 神社太々神楽 大鹿歌舞伎 島立の裸祭り 岳の幟 柱松柴灯神事 和合の
念仏
踊
パスファインダー
(佐久市望月春日本郷地区道祖神祭り)
内容紹介 長野県の祭礼行事歳時記 浅科村の鳥追い 坂部冬祭り 新野雪祭 り かなんばれ 跡部の踊り
念仏
,雨宮の御神事 黒田人形 駒ケ岳 神社太々神楽 大鹿歌舞伎 島立の裸祭り 岳の幟 柱松柴灯神事 和合の
念仏
踊
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(発地村)
長日向/馬越/新道/馬渡/揚口/上郷/東山/銀杏木/常光寺/尾高根/五反田/三畝歩/高町/中井/久保田/
念仏
橋
はなの
(冬部)
もあり ハセ兄次改 古慊 かれ野 松風のつよきゆくへを枯野かな キジマ 左淵 かれ野ゆく老が
念仏
,かん声のしばらく滝にうつりけり アハサ 可孝 寒声にすごき雨夜は晴にけり ウチ川 苣生 寒
念仏
,いく夜さの哀になれてかんねぶつ 上 綾臥 (改頁) 深切をてらす月夜や寒
念仏
中ジマ 仙露,月ハゆミにかへる頃也かんねぶつ さなくとも更行門を寒
念仏
臘八 臘八(ろうはち)やあかるくなれば
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部
([翻刻])
是よりして西念日夜高 祖聖人に常随し、称名
念仏
怠る事なかりしが、後に武州 足立郡野田といへる所,即ち此所に草庵を結 び剃髪し、法名を行西と号し、静寂として
念仏
して居たりける。,爰に了西といへる
念仏
者あり。,了西は閉目して
念仏
の声いよ/\ 高く、更に太刀ハ立ざりけり。,了西歓喜の涙にむせひつゝ、当寺内に草庵を結び、帰命寺と号し
念仏
三昧に 入て大往生を遂られき。
地震後世俗語之種
(絵の解説)
1-40の上段を見るとこの行列は「常
念仏
」のちょうちんの下をくぐっています。,この右奥の現在の城山小学校の位置には常
念仏
堂がありました。,この御開帳は常
念仏
堂で6万5千日間
念仏
を唱えた記念に行われたので、大勧進の行列はまず常
念仏
堂に参拝し、,大勧進のお練りの行列が下をくぐり抜けていた「常
念仏
」のちょうちんが正面にあります。
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部
([現代訳])
当寺はその後、真宗の
念仏
の道場として続いていたが、天正年間に織田信長公が石山本願寺を攻めて合戦になり、,そこでここに草庵を結び、出家して法名を行西と号し、静かに
念仏
を唱えていた。,庵の内部をうかがい見ると、行西は一人で尊く
念仏
を唱えていて、壁に掛けた名号からその光が輝いていた。,了西が目を閉じていっそう大声で
念仏
を唱える中、いっこうに太刀は切れなかった。,早く一念発起の信心によって、称名
念仏
の正業に努めよ」と、まことに丁寧にご教化された。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(岡本村)
神明宮社/稲荷社/蟻ノ宮 寺: 玄向寺 古跡・名勝: 国司塚/(廃寺址)大願字寺・慶弘寺・神宮寺・
念仏
寺
明治2年 組合取極書
([現代訳])
特別に立ち会わないこと 一 他所親類の者がきても菩提寺へ同道しないこと 一 婦女子講中で悔みにきて
念仏
豆から日記
([解題])
さくら
念仏
文化八年刊 黄表紙半紙本 さくら
念仏
は葛三の生地松代の人吉田李井の追善集で一子阿喜良の
パスファインダー
(南・北佐久の文学)
「五無斎保科百助全集」・「木曽の民謡」 信濃 第3次第16巻第5号 特集 佐久と「一遍上人の踊り
念仏
パスファインダー
(善光寺の御開帳・出開帳)
1970年 1/2 善光寺の御開帳・出開帳 雑誌 インターネット情報 新聞 常
念仏
回向
戸隠善光寺往来
([現代訳])
前夜宿泊した参詣者が堂内に充満して、潮の湧くように
念仏
を唱え、どんな無知下劣な人でも感涙を催さない者はないだろうと
パスファインダー
(善光寺の物語・紀行文・文学)
それは、高野山と肩を並べる
念仏
信仰の一大拠点となるまで力をつ 内容紹介 けてきた善光寺聖が
地震後世俗語之種
([現代訳])
この時初めて看病もし、野辺送りも務めましたので、自ら
念仏
を唱え考えたことは、心は出家し墨染めの衣を着て,親の教えも馬の耳に
念仏
、悔やんでも取り返しのつかない無知無学で、述べる考えはまったくの俗物のたわごとで,常
念仏
の時の鐘が早くも亥の刻(午後10時)を告げるので、居合わせた者たちに店を閉めさせ、私は一人で参詣,皆ただ茫然として心を痛め、肝を冷やして神号を唱え、
念仏
を唱えて苦しみから逃れようとしました。,そもそも、荒波を越えて一心に
念仏
を唱えて舟で渡るこの犀川のことは、遠国でも知らない人はありません。
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
、故同 八月復奉還、 聖徳太子為欽明・用明二帝及守屋之徒菩提、於清 凉殿七昼夜令行
念仏
三味,○駒返り橋 ○寛慶寺[山門の東に有、] この寺は慈覚大師の建立にて浄土宗也、 時の鐘あり、○定
念仏
堂,として村邑動揺す、其後源空上人此国に赴き、此池頭に臨み、師 弟の別を嘆じ、恩謝の為弥陀経を誦し、称名
念仏
,といふ事あり、曰 東 光明遍照門 定額山 善光寺 南 十方世界門 南命山無量寿寺 西
念仏
衆生門
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
私たちも同じ浄土にお導きください」と、
念仏
の声とともに次々に海に飛び込んだのは、もっともなことではあったが,聖徳太子は、欽明・用明両天皇と守屋一派の菩提を弔うため、清涼殿で七昼夜にわたって
念仏
を唱えさせた。,七日間も休まずに
念仏
を唱えたご利益はたいへんなものだ。 ,○定
念仏
堂(じょうねんぶつどう)(宝林院にある。轡堂(くつわどう)という。,その後、法然上人はこの国にやって来て、池のほとりに立って師との別れを嘆き、謝恩のために阿弥陀経を読み、
念仏
むしくら日記
(3巻 利)
幾度か先にお届け申し上げましたが、城下から北西の方向に6、7里ほど隔たった山中水内郡伊折村・梅木村・
念仏
寺村,そのうちでも伊折村・和佐尾村・梅木村・地京原村・
念仏
寺村の5か村は右山麓の近くで、
念仏
寺村の平沢組・臥雲組
浅間焼覚帳
([翻刻])
ト相成ル、六日より八日迄三日之間、天地江 ひゝきわたり、天も落、地も崩カト人心 恐怖シ、只々
念仏
浅間焼覚帳
([現代訳])
人々は(無事を祈って)
念仏
を唱えるのみだった。湯の平の方まで石が降った。
むしくら日記
(3巻 利)
之次第追々先御届申上候処、城下より戊(ママ)亥之方ニ 当、六七里程隔候山中水内郡伊折村・梅木村・
念仏
寺村,出来見分為仕候処、右九ヶ村之儀ハ 別而大災ニ御坐候処、其内ニも伊折村・和佐尾村・ 梅木村・地京原村・
念仏
寺村五,ヶ村者右山麓 間近ニ付、
念仏
寺村之内平沢組・臥雲組、梅木 (改頁) 28
地震後世俗語之種
([翻刻])
るものなく、小松原・岡田の山にそ 逃のひける折しも、鳴動止まされハ、地にひれ 臥して天を拝し、一心不乱に
念仏
唱,; ある朋友の集りて後殺風景の噺に、善光寺は 三国伝来の尊像、人崇めて仏都といふか中にも、 常
念仏
,斯水災の大難を受け、家・蔵満面の水に漂ひ、 水屑に沈み、耕地を押流し山抜崩れて土中に 埋み、譬は
念仏
寺村臥雲院
地震後世俗語之種
([翻刻])
中にも当処はいふも 更なり、東南西北の駅路近辺まても利潤格外に して、参詣群集なるハ一山の中に常
念仏
堂, (改頁) 36 (改頁) (改頁) 37
念仏
,常
念仏
の時の 鐘、はやくも亥の刻を告るにそ、ありあふものに店 をしまはせ、我れら壱人参詣に出行けるに,火かゝり、共に死せ んといふを、われは迚も遁れがたし、共に命を失ひ、 誰ありてか香花を手向一遍の
念仏
回向,然れともかゝる災害を身に受ていまた 風雨を凌くへき小屋さへあらされハ、おのれか 心に唱ふる
念仏
たに
信州浅間焼之事
([現代訳])
一度星が逢う夜であるが、思いがけず恐ろしいことになり、手を額にあてて、神仏たすけたまえと、経を読み、
念仏
むしくら日記
(2巻 亨)
2巻 亨 むしくらにつき 亨 ◯鈴木藤太の話 手代鈴木藤太は
念仏
寺村臥雲寺に泊まり、庫裡,ここから
念仏
寺の者たちを帰し、新しいわらじを求めてしっかり履き、身繕いをして出発しました。,またその小屋では百万遍
念仏
をはじめ、夜更けまで鉦を打ち叩くので、うるさくて眠れなかったと語りました。
地震後世俗語之種
([現代訳])
その間も鳴動が止まないので、大地にひれ伏して天を拝み、一心不乱に
念仏
を唱えて空が明けていくのを待ちましたが,「善光寺は三国伝来の尊像を祀り、人は敬ってここを仏都と呼びますが、中でも常
念仏
を唱えて回す数珠が巡って,たとえば
念仏
寺村臥雲院(長野市中条日下野)などは、土砂崩れによって寺が地中に埋まったまま火事に遭い、何日
善光寺独案内
([現代訳])
常
念仏
苅萱石堂の石碑、九重の宝塔がある。 布引坂 石堂町西光寺の前の坂をいう。,入り口の石段の前に
念仏
柱がある。回す輪が付いている。
烈女百人一首
([翻刻])
東大寺の門ぜんに捨おきしを、奥正坊といふ僧、拾ひてそだて成人して学にたけ縁覚と名のり都にのぼり嵯峨の大
念仏
,にしのぎしが、爰にてふしぎにも廿七年別ゐし母にあひけり、是神仏の御めぐみ也と親子共信心怠らず、さがのゝ大
念仏
,の尼にわびければ、祇王も妓女も涙にむせび、是も宿世の縁にして、思へば出離の善智識と互に喜び悦んで称名
念仏
,えしがば、かるもかなしみにたへず身をあがなひ苦界を遁れ西郷なるかすかな所に尼となりて男の菩提をとひ、一生
念仏
,理右衛門つねに仏性を帰依して三十歳の比より日々にあみだ経を読誦(どくじゆ)して怠らず、つねに砂をもつて
念仏
善光寺独案内
([翻刻])
常
念仏
苅萱石堂の石牌、 九重の宝塔あり。,入口石階の前に
念仏
柱あり。車付なり。 鐘楼堂 夲堂の東の方にあり。
寺子屋師匠の日記
(寺子屋師匠の日記「年内諸事控日記 小沢和徳(注1) 慶応四戊辰年正月吉日」)
夕方雨夜少雪 (○中略) (改頁) 18 昨十九日夜中辻地蔵尊床バ側
念仏
供養塔十王堂傍塔不残
むしくら日記
(2巻 亨)
1 (改頁) 2 ○鈴木藤太か噺 手代鈴木藤太ハ
念仏
寺村臥雲院,め備し残り也、用て 気力を増給へねと懇に申て止ざれば、其志を歓ひ 受、少し用て気を得たり、爰より
念仏
寺
豆から日記
([翻刻])
ざくら 上毛 壺半 (改頁) 32 翌といふ雨を含むやおそざくら 三千国 ひとむれハ
念仏
義烈百人一首
([翻刻])
なくなくぞゆく 斯て大内義隆をはじめ一族みな討死せしと聞、力なくさらば世に在ても詮なしと出家して正任法師と号し
念仏
三昧,となりなん、爰を落のびて我後世を弔ひ給はれとあれば、泣く泣く別れて良等の助により京に上り西山に庵を結て
念仏
三昧,おくれ行も 道は迷はじ かねてより ちぎる心の はなのうてなに 其後、最期のかくごして西川の岸に至り
念仏
,おくれ行も 道は迷はじ かねてより ちぎる心の はなのうてなに 其後、最期のかくごして西川の岸に至り
念仏
おらが春
([翻刻])
連にはくれて 一人通ると壁に書く秋の暮 ゝ 七月七日墓詣 一
念仏
申,しかる時ハ、 あなかち作り声して
念仏
申ニ不及、ねか はすとも仏は守り給ふへし。
おらが春
([現代訳])
そうした時は、無理に声に出して
念仏
を唱える必要はありません。願わずとも仏はお守りくださるでしょう。
むしくら日記
(4巻 貞)
片端計ハみへ、 抜下沢辺之処ニ居家多崩レ有之候、此所迄抜落なから 屋根之上へ登り居候女共、夜明迄
念仏
申居,人数七百人余 潰百五軒、半潰三十軒、死失五人、抜所も多く有之候得共、 大抜の場ハ無御坐候、
念仏
寺村
天明三年浅間騒動記
([翻刻])
諸寺諸山ニ而護摩を 修し、色々の祈念・祈祷昼夜丹誠をぬきんて 行ふ、在家ニ而も家々に打寄香を焼、
念仏
/ 2ページ