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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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木曾山林学校 (10.教職員に関する事項)

10.教職員に関する事項 29 本校教職員数並に学歴を掲ぐれば    東京農科大学林学科卒業、林学士,         1  名    盛岡高等農林学校卒業         1  名    其他普通学科担任教師,         3  名    事務員                2  名    本校卒業林業助手,にして左に各職員担任学科並に職務を掲記すれば     (改頁)      ,担任学科         職名        氏名 林学通論、森林経理      校長兼教諭      / 10.教職員に関する事項
木曾山林学校 (◎職員任命)

◎職員任命 27           校長兼教諭 松田力熊 島根県技師兼同県林業巡回教師たりし林学士松田力熊氏,教諭 手塚長十 西筑摩郡林業巡回教師たりし同氏は、明治34年4月1日長野県木曾山林学校助教諭兼西筑摩郡林業巡回教師,雇(注46)教員兼舎監心得(こころえ:注47) 青沼正人     (改頁)      28,  青沼正人氏は、明治34年6月20日木曾山林学校雇教員兼舎監心得を命ぜられし所、家事都合,雇教員兼舎監心得 中野有作 中野有作氏は、治34年10月15日木曾山林学校雇教員兼舎監心得に命ぜられしも / ◎職員任命
「長野県下ノ小学教員二告ル文」 ([解説])

「長野県下ノ小学教員二告ル文」 / 教職専門と唱歌・体操に重きを置いていることがうかがえる。  ,この時期、能勢は県下の教育・教員養成に関し積極的に発言している。,しかし、欧米の最新の教育理論と開発主義の教授方法は、師範生徒や小学生徒の教育を担当している教員の心を次第,教育理論・教授方法は民権派教員の大きな弱点であったことから、急速にその影響力は減退していった。,すでに民権派教員は力を失い、師範学校の改革が進捗し、開発主義教育の浸透が図られていた。
パスファインダー (長野県の大正期自由教育)

内容紹介 部附属中学校職員に語った自分の歩みをまとめたものである。,信州白 樺派教員を代表する一人である王郎の自伝から、白樺派教員の子ども や教育にたいする考え方・,、白樺派教員の教え子、研究者などが寄稿している。,出版年 1号(1919.9.15)  復刻版 1984.5.1  内容紹介 戸倉事件で懲戒免職となった,白樺派教員の主張などを読み取ることができる。 / 長野県の大正期自由教育
パスファインダー (中信地方の教育者たち)

教育史から教育者が網羅されている。,3 書名 井口喜源治と研成義塾 著者名 出版社 出版年 南安曇教育会井口喜源治研究委員会,上原三川(良三郎)は長野県師範学校(松本本校)卒業後、穂高学校等 の訓導となっ たが絶えず病気による休職や,退職を繰り返し、療養のた 内容紹介 め北里伝染病研究所に入院。,井口喜源治 川井清一郎の紹介 2 サイト名 URL 概要 3 サイト名 URL 概要 松本市教育委員会 / 中信地方の教育者たち
長野県師範学校生徒修学旅行概況 (3.本書に登場する草創期の信州教育を担った教師たち)

3.本書に登場する草創期の信州教育を担った教師たち この旅行記の興味深いのは、各地で学校長・教師や地元有志,飯田学校には同校職員及び近隣諸校の校長訓導諸氏相集りて、歓迎せられ席既に定まり、氷及び茶菓の饗応あり。,郡衙員地方有志の諸氏も亦之に加はりたりとか。」と述べています。  ,本書に登場する教師たちは次の通りです。,たち、並びに修学旅行に参加し明治20年代後半に卒業した彼らこそ、草創期の信州教育を担った教育者で、『教育功労者列伝 / 3.本書に登場する草創期の信州教育を担った教師たち
木曾山林学校 (4.中等程度の林業教育の現状)

多くの場合に於て其後に瞠若(どうじゃく:あきれて見つめる)たるの状態は、職を森林教育に採るものゝ常に痛苦,試に43年12月末現在、各種程度の学校卒業人員を見るに林学士230余名、高等専門程度の卒業生約500名,教員及生徒  更に林学科担任教員数は20校を通じて40有余名、1校平均2名強なり。,各学校入学志願者の数が如何なる状情にあるやを窺知(きち:うかがい知る)し得べく、即ち志願者が募集の定員に,満たざるもの多く、教職者の奔労察するに余りあり。 / 4.中等程度の林業教育の現状
木曾山林学校 (5.中等程度森林教育の方針)

)の職業を付与する為めの準備教育をなす場合にして、卒業後其地方の林業に従事するか、或は官公吏員となると,換言すれば業を卒(お)へたる者は何れの地方に去りて如何なる職務に従事するも措(お)いて問はず、唯卒業生,当該官庁の技術者主として之が教養の任に当り、卒業後は一般森林官庁に就職し供給過多なる時は民間林業技術者,練習をなし後、試験によりて小林区署補助吏となるべき資格を得、此後5年間在職の後再び任  ,に関する高説を摘録(てきろく:要点をぬき書きすること)して、職を同ふする者の指針に供せん。 / 5.中等程度森林教育の方針
パスファインダー (ケリー旋風)

2 書名 著者名 出版社 出版年 長野県教組三十年史 長野県教職員組合 労働旬報社 1984.3,昭和23年度末の人事異動で、教員組合運動で活 発に活動してきた校長・教頭などが退職・降格などを迫られた,昭和25年1月、県教育委員会は21人の教師に対し、 「不適格」として退職勧告が出された。,」 著者の市川慶蔵は、更級郡更府小学校 長・更級郡教員組合執行委員長で、組合活動に取り組んでいたが退職,勧告により、退職に追い込まれた。
パスファインダー (長坂利郎)

、火事を出すな」は長坂利郎が説いた三 訓で、長い間長野県の教員に受け継がれてきた。,猛省を促す」を『長野新聞』へ投稿し、校長の辞職勧告の企て に加わった。,信毎書籍 1970.10 師範学校長辞職勧告事件で1ヵ年の休職処分後、教職に復帰した長坂,信州人物誌 田島 清他/著 信州人物誌刊行会 1971.4 教育界にも戦時色が強まり、教員も戦闘帽,URL 概要 3 サイト名 URL 概要 1 発行機関 年月日 1930 年代 「長野県教員赤化事件
松本繁昌記 上・下 (2人の編輯人)

12年には教師をしながら北深志町町会議員や南深志町・北深志町連合の町会議員をつとめ、長野県教育会議の議員,や東筑摩教育会の議員となりました。  ,集会条例などが制定化され教員の政治運動が困難になったこともあって、浅井は教育に専念するようになります。,洌は、師範学校を大正7年3月に70歳で退職、さらに嘱託として15年6月まで40年間にわたって師範教育につくしました,明治38年、塩尻の吉江銀行の支配人となって在職10年、大正3年に職を辞しました。  
パスファインダー (佐藤寅太郎)

・信濃教育会長・衆議院議員。,小諸小学校長時代は、浅間山全校登山を 内容紹介 行い、職員による浅間山研究を行った。,小諸小学校長時代は、職員による浅間山研究を行った。,びの旧弊を打破し、北佐久教育会の会長に 選出され、県下に先駆けて教員自らの手による教育会を作り上げた。,国書刊行会) 1910.9 (復刻版1981) 内容紹介 佐藤寅太郎が会長を務め、小諸小学校職員
木曾山林学校 ([解説])

この中で初代校長松田力熊は6項目の教育方針を示し、日本で初めて実業学校で森林・林業教育を開始した。,また校長を会長とした校友会が組織され、生徒・職員のみならず林業界や地元関係者も会員となり、さらに卒業生,が出ると彼らも会員となった。,この会の『会報』は会員相互の親睦を深めることはもちろん、教科書すら満足に揃わなかった時代、教科書や副教材,後、この校友会と『会報』は同校教育推進の大きな原動力の一つとなっていった。
パスファインダー (二・四事件)

評論社 1975.8 「教員組合、教育労働、新興教育、新興教育研究所創立宣言、新興教 内容紹介,附録には「秘 思想事件教員名簿 長野 県臨時県会議事日誌」などが収録されている。,農民運動・青年運動と深い関 わりを持ちながら、新教・教労運動に参加していった岩田は、免職後『村 の経済六十年史,4 書名 著者名 出版社 出版年 新興教育 別巻 新興教育復刻版刊行委員会 白石書店 1975.12,教職に復職するこ となく、牧師として活動した。
木曾山林学校 (24.木曾山林学校々友会々則)

め特に功労ありしものを推挙して名誉会員とす 第5条 本校現職員及び旧職員並に本校卒業生を以て特別会員,第11条 会長は本校々長を推戴(すいたい:長としてあおぐこと)し、副会長は本校教頭を推薦するものとす,第12条 顧問は各部に之を置き、会長より本校職員中につき委嘱するものとす 第14条 委員は各部共必要,を代理す     6、委員は其部属部長の指揮のもとに其職務を全うする事 第16条 役員の任期は次の,但し顧問は会長の意見により変更する事あるべし      第六章  会計 第17条 通常会員及び本校在職中
パスファインダー (小諸小学校浅間山研究会)

トピック(テーマ) 小諸小学校浅間山研究会 ねらい 明治40年代に小諸尋常高等小学校の職員,山誌編纂部 概要を知るた めのツール 1 書名 著者名 出版社 出版年 明治大正小諸教育五十年史,林勇/編 小諸教育五十年史刊行会 1958.8 第五章「佐藤校長と浅間山」のなかで浅間山研究会,著者名 出版社 出版年 浅間山と千曲川と小諸 林勇/著 竹沢書店 1968 小諸小学校全校職員,月18日全職員による浅間山研究会を組織したこと、明治43年 内容紹介 に小諸小学校編『浅間山』が刊行されたことなどを
木曾山林学校 (八戸林学士森林行政論)

の者は論説の外に在て到底之を欧州先進国の大学又は高等教育を受けたる管理員と比較すべきにあらず。,北海道炭鉱鉄道会社の如き、小樽木材株式会社の如き、三井・藤田の如き、其他2、3の場所に於て、大学或は高等の専門教育,を受け管理員たるの資格を備へたる職員を任用するものありと雖(いえども)、此等の多くは造林或は伐木等に限,第3節 林務監査員 林務監査員の職務権限は前節に述べたる管理員の編成異なるに随ひ自(おのずか)ら等差,職員亦(また)大に不足にして未(いま)だ容易に監督の目的を達すべくもあらず。
木曾山林学校 (学校要覧)

新たに新築校舎に接続の土地畑山林原野6筆合計4反3畝5歩を借地す ○同年5月10日校長江畑猷之允転職す,改頁)   1ケ月金1円20銭を1円50銭に改む ○同年4月10日西筑摩郡主催小学校准教員養成所,職員室   1   事務室    1   応接室   1   図書室    1   宿直室   1,原本ビューワ34コマ参照)     (改頁)      35   (6)職員名簿,(注 これについては旧職員一覧、現職員一覧ともに、個人情報保護のため掲載を控えた)  
パスファインダー (浅岡一)

尋常師範学校 人格教育 鍛錬主義 信濃教育会 杉浦重剛 戊辰戦争 二本松藩 師範学校令 全寮制度 教育功労者列伝,信州教育に多大な影響を及ぼした教育者の 人物像を理解するうえで欠かすことの出来ない書である。,尋常師範学校長在職7年間に、教育尊重、人格重視、 信念をもって教育に当たる教育者精神を長野県教育界に植,信教印刷 1981.3 尋常師範学校の職員・生徒、学科課程、学校諸規則と訓育など、浅岡一 が校長,として教員養成に取り組んだ概要について、理解を深めることが できる。
パスファインダー (赤羽王郎)

ねらい キーワード 概要を知る ためのツール 資料リスト 赤羽王郎 長野県下の小学校教員,学校図書の売却問題、村民との対立 に端を発して大正7年から8年にかけて起こった戸倉学校事件で赤羽は 退職に,1988.3.10 内容紹介 第5節 教員と教育会 4項 新しい教師論の出現と教育活動 白樺派,教員と戸倉・倭事件 東西南北会から教員左翼運動と二・四事件まで、明治40年代から昭和8 年頃にかけての,著者名 出版社 出版年 信州白樺 NO.68 終刊号 特集 赤羽王郎 『信州白樺』終刊号刊行委員会
木曾山林学校 ([本文])

 (1)沿革  (2)学則大要  (3)設備.    1、用地    2、建物    3、教授用備品,   7、在学生一人当経費調    8、在校生出身地調    9、卒業生出身地調  (6)職員名簿,   1、旧職員一覧    2、表現職員一覧  (7)卒業生名簿  (8)在学生氏名 校友会
パスファインダー (川井訓導事件)

が、県に任命された視学委員樋口長市と県学務当局に よって計画的に引き起こされたことが指摘されている。,、松本女子師範学校付属小学 校主席訓導伝田精爾の報告・引責退職、川井清一郎の事件経過報告と 感想など,この間に県当局は気分教育批判、東西南北会派排除の教員人事な ど起こり、雑誌上で、信州教育の進むべき方向,反響 伝田主席訓導の辞職ほか 松本女子師範学校付属小学校の主席訓導だった伝田精爾の事件後の 経歴などにもふれている,大正14年の特集号で当時一流の評論家・学者を動員できたのは、岩波 茂雄・島木赤彦の骨折りであったことが
木曾山林学校 (◎林業の方面より観察したる森林教育)

文部省の方針も此所にあるので高等農林学校の設置、実業教育国庫補助法或(あるい)は実業教員養成所等を設け,勿論(もちろん)現今夫(そ)れぞれ官員はあるのであるけれ共、現に農商務省に於ては林業貸費生を設け、或は,卒業生は進んで     (改頁)      5   地方森林業に従事すべき職責,吾人(ごじん)は森林を造成するの天職を有すると共に、他方に於ては之れが利用を講ぜねばならぬ。,若(も)し之れが適当なる施設の方法に就ては深く研究を要することであるけれども、聊(いささ)か会員諸君の / ◎林業の方面より観察したる森林教育
長野師範学校は初めて学年・学期を定め、開業式・卒業式を挙行 ([解説])

教職専門と唱歌・体操に重きを置いていることがうかがえる。  ,この時期、能勢は県下の教育・教員養成に関し積極的に発言している。,しかし、欧米の最新の教育理論と開発主義の教授方法は、師範生徒や小学生徒の教育を担当している教員の心を次第,教育理論・教授方法は民権派教員の大きな弱点であったことから、急速にその影響力は減退していった。,すでに民権派教員は力を失い、師範学校の改革が進捗し、開発主義教育の浸透が図られていた。
木曾山林学校 ([解説])

[解説] [目録] 木曽山林資料館 山口登  『木曾山林学校要覧』は、当時の学校教育を窺い知る貴重,目下日本では林業技術者が必要であることを踏まえ、その教育方針と方法を示した。,予定されている、校舎の新築移転や寄宿舎完備などを伝え、林学科のみの学校は全国に当校しかなく授業・実習の教育体制,が整っており、教職員がそれに意欲的に取り組んでいること、また青年期の生徒たちの人格形成にも十分配慮している
長野師範学校は初めて学年・学期を定め、開業式・卒業式を挙行 (長野師範学校卒業証書授与式)

因(より)て思ふ、此盛事は我県下に於て是迄 なき事なれば、教育に従事せらるゝ人々は 固(も)とより,明治十六年二月十五日長野県師範学校  第壱学年前期卒業証書授与式手続 第一 午前九時職員教員生徒参観人一同,第八 卒業生田村豊穂、脩身ヲ教授ス。 第九 卒業生青柳由平、読方ヲ教授ス。,第十一 卒業生永井総吉、唱歌ヲ教授ス。 第十二 卒業生山本繁治、小林辰之助、体操ヲ教授ス。,第十五 教諭塩谷吟策演述 第十六 卒業生総代小野彪治郎(ひょうじろう)答辞ヲ朗    読ス。
パスファインダー (保科百助)

先駆者、地域産業教育の推進者、信濃図 書館の創設者、保科塾を創設した育英教育者、信濃公論の発刊者など,1 書名 著者名 出版社 出版年 内容紹介 2 書名 五無斎 保科百助評伝 佐久教育界保科五無斎研究委員会,長野師範学校卒業後学校に勤務するが途中退職 内容紹介 し鉱石標本作りを始めるが生計は立たず,保科百助 4 書名 長野市誌 第五巻 歴史編 近代一 著者名 長野市誌編さん委員会,立科町誌 歴史編(下) 著者名 立科町誌編纂委員会 出版社 立科町誌刊行会 出版年
木曾山林学校 (20.在学生状況一般)

、単に高等小学校を終了し直に入学せる者、或は実業に従事せし者、他の種の学校より転ぜし者、又官公署に奉職せし,相半するの状態にして、従ひて生徒の学力の相違甚しく教授上不便を感ずる事少なからざるも、寧(むし)ろ後者,1 生徒出身地及員数  在学生徒出身地、本県人と他府県人との比較を掲ぐれば、 (注 「生徒出身地及員数,」の表は原本ビューワ49コマを参照) 2 父兄の職業  父兄職業中勿論(もちろん)農業大多数を占め、,官公吏亦比較的多きが如し (注 「父兄の職業」の表は原本ビューワ49コマを参照)) 3 戸主及長男
木曾山林学校 (◎長野県西筑摩郡立甲種木曾山林学校学則)

分ちて本科、予科とす 第 3 条  修業年限は本科3ヶ年、予科1ヶ年とす 第 4 条  生徒の定員は,第4章 入学及退学 第 10 条  生徒入学の期は学年の始めとし募集人員及必要の事項は其都度公示す,規程は郡長之を定む 第 36 条  寄宿舎に関する細則は学校長別に之を定む        第9章 職員職務,第 37 条  学校長は校務を掌理し所属職員を統督す 第 38 条  教諭及助教諭は生徒の教育を,寄宿舎に関する事を掌る 第 40 条  書記は学校長の指揮を承け庶務会計に従事す 第 41 条  職員
長野師範学校は初めて学年・学期を定め、開業式・卒業式を挙行 (長野師範学校開業式)

本県師範学校にては 一昨十二日開業の盛典を挙行せられ、大野 県令(注1)にも臨式にて祝辞を述べられ、教員生,明治十六年一月十二日師範学校開業式  手続 第一 午前十時職員教員一同校(ママ)堂ニ入リ    ,以時膺(あたる)(注6)教員首位摂主。 以祝。之(これ)曰(いわく)。欲興至治文明之化。,矣夫(それ)本校者管下教育。之 所由(しょゆう) (注13)而生。各校教師。之所由而出。,也苟(いやしくも)教育 不得其法。則徳化何由而与(ママ)。教師不得其良。 則教育何由而行。
木曾山林学校 (◎小川木山祭を視(み)る)

吾等木曾山林学校職員及生徒一同は修学旅行を兼ねて木山祭(注24)を見んと午前5時校庭へ集まつて出発しました,此日に吾等と同行せられたのは職員では林学士松田校長、手塚教諭、宮田教授、今井校医の4名、生徒は77名で
旧上田藩学制沿革取調書 全 ([翻刻])

未造営に及はすして文化 九年ニ致仕せり、七代忠学伊賀守襲封し、其志を継述 し、翌九年ニ落成し、諸職員,31 己を得さる之事故ニあらされは文武両道を兼脩せしむ、然共、 一科を専修せんと願ふ者ハ、掛り職員評議之上,] 鐘美館幼生寮 舎長[席格学監ニ准す、俸給定なし] 世話役[平士以下徒士迄、俸給定なし] 職員概数,なし 教授手伝四五人定員なし 武学校 惣司一人 頭取二人 目付三四人 定員なし 師範 定員,釈菜之儀を 行ふ、其儀大概朱熹滄洲学舎釈菜之儀を斟酌せしもの なり、惣司をして代祭せしむ、祭事畢りて職員及生徒
パスファインダー (江戸時代信州飯田町の火災)

内容紹介 6 書名 著者名 出版社 出版年 内容紹介 1 論題名 著者名 雑誌名 下伊那教育会,出火の場合の対応につ いて 飯田・上飯田の歴史 上  (第7章第5節) 飯田市歴史研究所/編 飯田市教育委員会,消防体制の整備など 飯田町役用古記録 (飯田・下伊那史料叢書 近世史料編1) 飯田市歴史研究所/編 飯田市教育委員会,出来 事のまとめ 勤向書上帳 (飯田・下伊那史料叢書 近世史料編2) 飯田市歴史研究所/編 飯田市教育委員会,2015.3 飯田藩の各役職から、それぞれの仕事内容を書き出してもらいまとめた もの 飯田町小史
パスファインダー (信州中馬と伊那街道)

伊那街道 ねらい 江戸時代の村々の余剰作物販売のための運送から始まった中馬稼ぎ は、次第に専門職として,研究」 古島敏雄/著 東京大学出版会 1974 1と同じ 中馬制の記録(長野県民俗調査報告) 長野県教育委員会,/編 長野県教育委員会 1959 中馬の成立、はたらきおよび宿場の様子などを、民俗学等の分野から 明,繁栄について、いろいろな史料から紹介している 伊那街道(三州街道)「歴史の道調査報告書Ⅵ~Ⅹ」 長野県教育委員会,/編 長野県文化財保護協会 1982 内容紹介 長野県教育委員会が街道の環境と保存状況・遺跡等
木曾山林学校 (8.長野県立甲種木曾山林学校学則)

ニ関スル学理・実習ヲ授クルヲ以テ目的トス 第 2 条 修業年限ハ3ヶ年トス 第 3 条 生徒ノ定員ハ,若シ入学志願者募集人員ニ超過スルトキハ、応募者全体ニ就キテ学力ノ試験検定ヲ行フモノトス      但,ム     (改頁)      26          第 11 章  職 ,員 職 務 第 44 条 学校長ハ校務ヲ掌理シ所属職員ヲ統督ス 第 45 条 教諭及ビ助教諭ハ生徒,条 書記ハ学校長ノ指揮ヲ受ケ庶務会計ニ従事ス 第 48 条 職員ハ学校長ヲ除クノ外宿直ヲナスべシ
『小諸義塾と木村熊二先生』 ([解説])

小諸市古文書調査室 斎藤洋一  本書は、昭和2(1927)年に82歳で死去した木村熊二の小諸義塾時代の教え,を行うことが認可され、この年4月には木村の招きで島崎藤村が英語・国語の教師として赴任している。,周辺町村から学習意欲にあふれた青年たちが多数入塾して活況を呈したが、財政難その他の事情から、藤村が辞職して,その後キリスト教信者となり、牧師の試験に合格して、明治15(1882)年に帰国した。  ,その次に島崎藤村、沖野岩三郎、木村毅らによる木村に関する「寄稿」、義塾の歴史や規則・考課簿・職員名簿・
木曾山林学校 ([注記])

(注12)通常会員:校友会では全在学生徒を「通常会員」として組織した。,灰沢御料地で「晴本日御杣山木本祭執行」とあり、神宮造営材のご神木を伐採し搬出が行われ、「木曾山林学校の職員,(注27)林業巡回教師:西筑摩郡で最初の林業巡回教師として赴任したのが手塚長十である。,  (注46)雇(やとい):官庁などで、本官または本職の事務をたすけるために雇われる職員。,(注47)心得(こころえ):下級のものが仮に上級のものの職務をつかさどる時の名称。
木曾山林学校 ([総合解説])

木曽山林高等学校となったが、少子化にともなう生徒減少のため、平成21年(2009)3月その歴史の幕を閉じ、その教育,108年に及ぶ同校の教育活動は、文字通り我が国の中等教育としての森林・林業教育をリードする歴史そのものであった,しかし、同校では旧職員・同窓生らが中心となって奔走し、同校に残された林業および、その教育関係資料(標本類,以来、青峰高校生のための教材として活用されるだけでなく、限定的ではあるが広く一般にも公開している。,このようにこれらは教育および歴史資料として、今もその重要性が全国的に再認識されている。    
パスファインダー (生島足島神社)

めのツール 1 書名 塩田平とその周辺 著者名 出版社 出版年 塩田地区学校職員会,2 書名 上田の文化財(増補) 著者名 上田市教育委員会 出版社 出版年 上田市教育委員会
パスファインダー (江戸時代の飯田藩と飯田町)

飯田・上飯田の歴史 上  (第3章~第4章) 飯田市歴史研究所/編 飯田市教育委員会 2012.9 飯田町,下伊那史 第8巻  下伊那教育会/編 下伊那誌編纂会 2006.3 飯田町発展の状況や町のしくみや暮らしについて,飯田町役用古記録 (飯田・下伊那史料叢書 近世史料編1) 飯田市歴史研究所/編 飯田市教育委員会 2009.3,飯田町の出来 勤向書上帳 (飯田・下伊那史料叢書 近世史料編2) 飯田市歴史研究所/編 飯田市教育委員会,2015.3 飯田藩の各役職から、それぞれの仕事内容を書き出してもらいまとめた 長野県史 近世史料編
木曾山林学校 ([注記])

2年1ヶ月在職した後、長野県庁林務課に転勤、大正3年(1914)10月再度同校へ転勤してきた。,植物・動物・英語などを担当し、教頭も務めた。明治41年11月に病気のため退職。,(注8)宮川丑作:元教諭兼舎監。 (注9)安井正夫:木曾山林の元書記(事務職員)。,郡会で山林学校設立の議論が出た頃、安井は郡の若手幹部の一員として静岡まで本多静六の講演を聞きに行き、感銘,卒業後は高知窪川郡小林区署へ就職した。 (注44)カイゼル・イルヘル?
木曾山林学校 ([本文])

4 3.木曽ト産業…………………………………………………………………… 8 4.中等程度ノ森林教育,ノ現状……………………………………………… 12 5.中等程度森林教育ノ方針………………………………,……… 29 8.学   則………………………………………………………………… 31 9.各学科教授綱目,…………………………………………………………… 49 10.教 職 員 ……………………………………,………………91 21.卒業生一般…………………………………………………………………95 22.職員移動並
木曾山林学校 (25.在学生父兄に望む)

当校在学期間の生徒の年齢より見る時は、身体及精神の発達上最も重要なると同時に又最も危険なる時期にして、教育上最,3、生徒の監督に関しては寄宿舎に3名の舎監あり、各級に学級主任あり、更に担任教師あり。,冀(こいねがわ)くは父兄諸氏、学校は職場と同じく1日の猶予逡巡(しゅんじゅん:ためらうこと)を許さゞることを,若し振替手続に依る能はざるものは、為替を以て学校長宛或は各担任教師宛送金するも可なり。,元来生徒が金銭を所持するの弊は輙(ちょう:たやすく)もすれば浪費となり、従て当然納付すべき金員の延滞を
パスファインダー (信州の道・街道(東北信地域))

北国街道 善光寺道 佐久甲州街道 谷街 道 大笹街道 定本信州の街道 「定本・信州の街道」編集委員会,長野県建設技術センター 1993.3 内容紹介 著者は平成元年4月から3年間、長野県土木部長の職にあり,、「職業柄、 各地への行き来の際には主要な道路の変遷と建設の経過を調べて歩い た。,歴史の道調査報告書[全48巻] 長野県教育委員会/編 長野県教育委員会 1979年-1996年 北国街道宿駅
「内藤家十五世紀」(十一)(藩校進徳館設置のこと) ([解説])

[解説] [目録] 伊那市教育委員会 大澤佳寿子  『内藤家十五世紀』は、元禄4年(1691)から,わずか11年余りの開校期間でしたが、進徳館で学んだ多くの藩士が近代教育の草創期に、長野県内各地で教壇に,万延元年閏3月28日、家老職以下、家臣を率いて学問所の開場式に臨んだ藩主・頼直は訓示で、「儒学の本意を,開校以来、進徳館に通学した生徒の累計は約500名、寄宿生徒は約40名といわれており、職員は文武総裁を筆頭,)の初代校長を務めたほか、教科書の編さんに意欲的に取り組むなど、新たな世の中に必要な教育の仕組みを整えました
パスファインダー (信州の道・街道(中南信地域))

大平街道 1 書名 著者名 出版社 出版年 定本信州の街道 「定本・信州の街道」編集委員会,長野県建設技術センター 1993.3 内容紹介 著者は平成元年4月から3年間、長野県土木部長の職にあり,、「職業柄、 各地への行き来の際には主要な道路の変遷と建設の経過を調べて歩い た。,南信州街道研究会/編 長野県下伊那地方事務所 2008.3 歴史の道調査報告書[全48巻] 長野県教育委員会,/編 長野県教育委員会 1979-1996 三州街道に沿ふ吉野朝遺蹟と信三勢和の聯繋(1)(2)(3
パスファインダー (菅江真澄と『伊那のなかみち』)

内容紹介 4 書名 著者名 出版社 出版年 現代口語訳 信濃の古典を読み物叢書 第6巻 信州大学教育学部附属長野中学校創立記念事業編集委員会,/編集 信濃教育会出版部 1990.6 委寧能中路.わがこころ.すわの海.来目路濃橋の口語訳版 菅江真澄,iss.ndl.go.jp/ 「菅江真澄」に関連する図書、記事論文などを探すことができる 菅江真澄の資料館、秋田に 長興寺住職が
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 ([ルビ・注記])

生徒にも、時々東京の大風呂敷(おおぶろしき)を ひろげて話しては、喜はせたり、若い男教員が女教員を,涼しくなって、教授法の演習があった、其(そ)のとき若い女 教員が、教壇に立って、何か一語言ったかと思,ふと、男教   (改頁)   員の一人が、何をしたか忘れたが何かした女教員は、赤面 して下を,明治十年松平学校雇教員を最初に上田街学校等四十     二年間教員として活躍。,辻次官の辞職は、教育界に大なる衝動を与へた、次官と して六人の大臣に、仕へたことほとさように、斯界(
パスファインダー (中野騒動2)

2 書名 著者名 中野市誌 歴史編(前編) 中野市誌編纂委員会 出版社 出版年 第一法規出版,1 書名 信濃における世直し一揆の研究 著者名 出版社 横地穣治 キリスト教印刷,www.okadanouen.com/takaino/nakanosoudou.html 大正2年(1913年)に長野県上高井郡教育会,小布施の住職つづった日記 子孫が出版 信濃毎日新聞 朝刊10ページ 2015.10.27 2
長野県師範学校生徒修学旅行概況 (長野県師範学校生徒修学旅行概況[全文])

うき雲は跡なく晴れて旅衣      みしかき袖に余る嬉しさ 校長(注3)始め職員等、皆来り送らる。,既にして辞し去る、是より先き飯田学校職員部奈格一式範治 の二君、座光寺学校に来り迎ふ。,飯田学校其他諸校の職員諸君、当地まて見送られたるも多けれと、此に 略す。,折居松若君、中学校職員総代と して、出迎に来らる。,(注1)修学旅行参加者数  明治23年に行われた「第4次修学旅行概況」には、参加者は教職員が教頭松井元次郎
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