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秀吉と真田
(昌幸の秀吉への接近)
昌幸
の秀吉への接近 「秀吉と真田」の目次はこちら 従来は、真田
昌幸
が豊臣秀吉へ接近しようとしたのは,しかし、
昌幸
は実際には上杉氏に従属する以前から、秀吉への接近を図っていたのだった。,以前はこれで初めて
昌幸
が秀吉と接触できたとされていた。,真田
昌幸
宛羽柴秀吉書状 <史料解説> 「真田
昌幸
宛羽柴秀吉書状」 真田氏歴史館蔵 ,「安房守」は
昌幸
。 /
昌幸
の秀吉への接近
秀吉と真田
(昌幸最晩年の書状 幸村筆)
昌幸
最晩年の書状 幸村筆 「秀吉と真田」の目次はこちら 真田信之宛同
昌幸
書状 <史料解説> 「,真田信之宛同
昌幸
書状」 真田宝物館蔵 年次不詳 三月二十五日 関ヶ原合戦後、真田
昌幸
・,年は
昌幸
の死んだ慶長十六年(一六一一)か、その前年とみられる。,三月二十五日 安房
昌幸
(花押) 豆州参 真田信之宛同
昌幸
書状,<史料解説> 「真田信之宛同
昌幸
書状」 真田宝物館蔵 年次不詳 四月二十七日
昌幸
最晩年 /
昌幸
最晩年の書状 幸村筆
秀吉と真田
(昌幸死去の悔み状)
昌幸
死去の悔み状 「秀吉と真田」の目次はこちら 真田信之宛本多正信書状 <史料解説> 「真田信之宛本多正信書状,」 真田宝物館蔵 慶長十六年(一六一一)六月十三日 真田
昌幸
は慶長十六年六月四日、配所高野山麓九度山,智勇兼ね備えた名将であり、真田の名を上げた
昌幸
であったが、その晩年はわびしいものであった。,正信は
昌幸
の死を悼むとともに、お弔いを、とは尢ものことではあるが、「公儀御憚りの仁」でもあり、「御諚」,城(じょう)昌茂は
昌幸
と同じく武田の旧臣で武田氏滅亡後は家康に仕えていた。 /
昌幸
死去の悔み状
秀吉と真田
(武田氏・織田氏の滅亡と真田昌幸)
さらに
昌幸
は武田氏末期の天正八年(一五八〇)には上州沼田城を攻略する。,このとき
昌幸
は滝川の前橋城に出仕し、次男信繁(幸村)を人質に出してもいた。,
昌幸
は早速、依田信蕃を助けて、佐久の北条方に攻撃をしかけている。 ,真田
昌幸
所用具足 <史料解説> 「真田
昌幸
所用具足」 (啄木(たくぼく)糸威(おどし)伊予札(ざね,)胴具足) 柘植弌郎氏蔵 上田市立博物館保管
昌幸
の家臣であった河野清右衛門が戦功により
昌幸
から / 武田氏・織田氏の滅亡と真田
昌幸
秀吉と真田
(家康の関東移封と真田昌幸・信幸)
家康の関東移封と真田
昌幸
・信幸 「秀吉と真田」の目次はこちら 天正十八年(一五九〇)七月の小田原,これに対し、天正十四年に秀吉の命で小笠原・木曽とともに家康に返されたはずの真田
昌幸
だけは、そのまま上田,これ以前から秀吉は
昌幸
を実質的には直臣扱いしていたのだが、沼田・名胡桃の件から北条氏討伐に至ったという,経過もあり、
昌幸
の身柄を名実ともに自分の直臣とするとともに、いったん北条領とした沼田も真田に返すことを,もっとも上州沼田領は
昌幸
の長男信幸が、父の上田領(小県郡)とは独立した形で支配を展開することになる。 / 家康の関東移封と真田
昌幸
・信幸
秀吉と真田
(真田昌幸、徳川と断交へ)
真田
昌幸
、徳川と断交へ 「秀吉と真田」の目次はこちら 家康は、真田の要請に応じた形で佐久小県の残徒討伐,を名目に出陣し、最低限の構にせよ上田城も造ってやり、恩を売った形の天正十一年の五月の時点で、真田
昌幸
に,また、やはり同年には
昌幸
は、同じ小県郡室賀の領主室賀正武を謀殺している。 / 真田
昌幸
、徳川と断交へ
パスファインダー
(真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村))
真田三代~幸隆・
昌幸
・信之(信幸)・信繁(幸村) トピック(テーマ) ねらい キーワード,概要を知るための ツール 真田三代~幸隆・
昌幸
・信之(信幸)・信繁(幸村) 歴史上の人物で,真田信繁(幸村) 真田幸隆 真田
昌幸
真田信之(信幸)上田合戦 関ケ原の戦い 真田十勇士 犬伏の陣 上田,上中下3巻から成るが、特に上巻には、武田晴信宛行状・武田勝頼条 内容紹介 目・真田
昌幸
宛行状,特に、関ケ原合戦直前の慶長5年7月末から8月10日 までに、西軍に属した緒将より真田
昌幸
に宛てられた / 真田三代~幸隆・
昌幸
・信之(信幸)・信繁(幸村)
秀吉と真田
(真田・小笠原・木曽、家康の与力に)
これで
昌幸
らは秀吉の政権下で、家康の指揮下に属ずる大名となった。いわば与力大名の形である。 ,翌天正十五年三月に
昌幸
と貞慶は、秀吉の下へ出仕したあと、駿府の家康の下へ挨拶に出向いている。,この後も家康を全く介することなく、直接
昌幸
に指示を発しているのである。,秀吉から
昌幸
に宛てた書状は数多く今に伝わっている。,それに対し、これ以後の家康あるいは徳川方から
昌幸
宛ての書状類は全く見られないのである。
パスファインダー
(真田氏関係の城址、寺社、文化遺産)
金箔瓦 菊花文軒丸瓦 長篠古戦場 丸子城跡 御北之 塚 開善寺 願行寺 高野山蓮華定院 真田庵・真田
昌幸
墓,、真田昌 幸安堵状、真田
昌幸
宛北条氏邦書状、織田信長禁制、矢沢綱頼宛北条 氏直宛行状、依田記、宮下善七郎宛真田
昌幸
感状,、飯島市之丞宛真田
昌幸
感状、宮下太兵衛宛真田
昌幸
安堵状、信綱寺真田
昌幸
宛行状、元 和年間上田城図、柳沢与兵衛宛宮下藤衛門判物,、真田
昌幸
・信之・幸村宛豊臣氏 普請奉行連書状、真田
昌幸
宛長束正家等連署状、真田親子犬伏密談 図、真田信幸宛徳川家康書状,、真田信幸宛徳川家康安堵状、真田
昌幸
宛石田三成書状、真田父子上田篭城図、高野山蓮華上院、真田
昌幸
書
秀吉と真田
(神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き)
神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き 「秀吉と真田」の目次はこちら 上田城に拠(よ)った真田
昌幸
,その後の対陣中に真田
昌幸
は上杉氏を通じて秀吉と接触し、全面的に支援する旨を伝えられている。,真田
昌幸
画像 <史料解説> 「真田
昌幸
画像」 柘植弌郎氏蔵 上田市立博物館保管 上田や松代,などで
昌幸
肖像として、いくつか知られている同様の画像の一つ。,ただし、これは
昌幸
ではなくその子信之(信幸)像とされている。
秀吉と真田
(徳川方への攻勢)
徳川方への攻勢 「秀吉と真田」の目次はこちら 真田
昌幸
は、上杉景勝そして秀吉との提携もなり、徳川軍,さらに前項で見たように
昌幸
は、秀吉より天正十三年(一五八五)十一月十九日付け書状で家康を武力討伐する方針,これをうけて
昌幸
は、十二月から翌年三月にかけて盛んに敵地についての宛行(あてがい)状を発給している。,神尾淡路守宛真田
昌幸
宛行状 <史料解説> 「神尾淡路守宛真田
昌幸
宛行状」 上田市立博物館蔵,天正拾四丙戌 二月十六日
昌幸
(朱印) 神尾淡路守殿
秀吉と真田
(家康の命令による上田築城の開始)
そのため閏一月に
昌幸
はこれらと戦闘を交えている(4)。,これについて従来は「真田
昌幸
が築城」と当然のように言われてきた。,宮下善七郎宛真田
昌幸
感状 <史料解説> 「宮下善七郎宛真田
昌幸
感状」 関口清造氏蔵 上田市立博物館保管,
昌幸
は翌閏正月、これらを攻め丸子で合戦が行われた。,また、このおり
昌幸
は家康に救援を要請している。
秀吉と真田
(東西に分かれた真田父子)
そのため、
昌幸
とその長男信幸、次男信繁(幸村)の父子三人による協議がなされた。,真田
昌幸
宛長束正家等連署状 <史料解説> 「真田
昌幸
宛長束正家等連署状」 真田宝物館蔵 ,このように真田
昌幸
は、その娘を介して石田三成と近い姻戚関係にあった。,
昌幸
は沼田領問題をめぐっては家康と干戈を交えてさえいる。,一方、秀吉は結果的にせよ、徳川軍に攻められた
昌幸
の窮地を救ってくれ、その後も
昌幸
を厚遇してくれた。
秀吉と真田
(上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸))
一五八五)になり、家康からの再度の沼田引渡し命令を拒絶し、いよいよ徳川軍の攻撃を受けそうになってから、真田
昌幸
,
昌幸
の出した誓詞に応えてであろう、景勝が
昌幸
に誓詞を与えたのは、最終的に
昌幸
の上杉氏への従属が確定した,それに先立って真田方からは、
昌幸
の次男弁丸(信繁、幸村)が証人(人質)として越後へ送られた。,上杉景勝は、右の誓詞で
昌幸
に、沼田・吾妻・小県等のほか、「屋代一跡」も給付するとしている。,この合戦の前後に信繁の母(
昌幸
の妻)が海津城にいたことも知られる。
秀吉と真田
(真田氏の動静)
これに続いては慶長五年三月の信幸宛て
昌幸
書状がある(写真)。,これでは
昌幸
は帰国中に煩っていた模様であった信幸の病状を問うとともに、伏見の様子を知らせている。,真田信幸宛同
昌幸
書状 <史料解説> 真田信幸宛同
昌幸
書状 真田宝物館蔵 慶長五年(一六〇〇,)三月十三日 伏見城下に詰めていた
昌幸
より、帰国中の信幸に宛てた書状。,三月十三日
昌幸
(花押) 伊豆守殿参 安房守
秀吉と真田
(真田幸村と大坂の役)
真田幸村と大坂の役 「秀吉と真田」の目次はこちら 慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦後、
昌幸
・信繁,
昌幸
は慶長十六年、この九度山において六十五歳で病没するが、信繁は十四年間をここで過ごした。 ,真田幸村画像 <史料解説> 「真田幸村画像」 柘植弌郎氏蔵 上田市立博物館保管 真田
昌幸
,信綱は幸村の父
昌幸
の兄で、長篠の戦いで討死にしている。,唐冠形(とうかんなり)兜 <史料解説> 「唐冠形(とうかんなり)兜」 真田宝物館蔵 真田
昌幸
秀吉と真田
(家康の真田再征進発と秀吉による懐柔)
家康が秀吉の下へ出仕した後、秀吉が、
昌幸
の身分の扱いに付いて、上杉景勝へ断りをすませてから、
昌幸
に上洛,真田
昌幸
宛羽柴秀吉書状 <史料解説> 「真田
昌幸
宛羽柴秀吉書状」 真田宝物館蔵 天正十四年,(一五八六)十一月二十一日 前年以来、秀吉は家康懐柔策の材料の一つとしても、家康と敵対する
昌幸
を使,そこで、今後のその処置について申し渡すべく、
昌幸
に秀吉の下に出向くよう命じたもの。
秀吉と真田
(徳川秀忠軍の上田攻め)
なお、上田城という城名は真田
昌幸
の命名であり、まだ認知度が低かったためだろう、この後も上田を攻めるとは,九月二日に小諸城に入った秀忠は、まず
昌幸
に降伏を促したが、それを受け入れる態度を示した
昌幸
にはぐらかされている,しかし、結果として西軍は敗れ、
昌幸
も上田城を明け渡さざるを得なくなる。,籠城中の八月五日付けで
昌幸
自身が家臣に出した手紙が残っている。,
昌幸
・信繁の戦いは、まさに孤城に拠っての戦いであった。
秀吉と真田
(家康重臣石川数正の秀吉への寝返り)
これについて
昌幸
は、上杉景勝の重臣直江兼続に宛てた十一月十七日付けの書状で、「甲州・佐久郡・諏訪郡主に,これについて
昌幸
は、ほかでもない秀吉自身の十一月十九日付け書状で、事情を直接知らされることになる(8),これによると秀吉は
昌幸
に、石川数正の一件で家康に表裏のある(表面と本心が違う)ことが明らかになった、よって,前にみたように秀吉は、この事件以前に
昌幸
に対し、小笠原とより一層相談してことにあたるように指示している,いずれにしても、真田
昌幸
にとっては、ありがたい事態ではあった。
秀吉と真田
(小田原出陣)
この役にあたって、真田
昌幸
は前田利家が指揮する「北国囗」の一員を命ぜられた。,その軍勢は、真田
昌幸
三千人、上杉景勝一万人、前田利家一万人で、計二万三千人というものであった。,上杉勢と木曽を経て進軍してきた前田勢と合流すべく、
昌幸
が上田から進発したのは三月上旬であった。,真田
昌幸
は次いで、城主が逃亡した上野の箕輪城を受取った旨を、秀吉に報じている。,大崎・葛西一揆と呼ばれる反乱事件であるが、この鎮圧に真田
昌幸
も出動を命ぜられている。
秀吉と真田
(三成ほか西軍諸将よりの書状)
この書状で三成は、挙兵の計画を事前に
昌幸
に打ち明けなかったことを弁明するとともに、
昌幸
らの妻は(信繁の,真田
昌幸
宛長束正家等連署状 <史料解説> 「真田
昌幸
宛長束正家等連署状」 真田宝物館蔵 ,本文冒頭の「大坂御留守」とは
昌幸
の大坂屋敷に残っていた家臣。,この後、彼ら宛てに上田から
昌幸
が出した書状もある。,七月三十日 白以(黒印) 真田
昌幸
宛毛利輝元書状 <史料解説> 「真田
昌幸
宛毛利輝元書状
秀吉と真田
(伏見城普請)
このときの秀吉の奉行や普請奉行からの幾つかの通達の内の一通、文禄三年正月十八日付け書状(写真)の宛名には
昌幸
,また、後の
昌幸
書状(写真)の内容より見て、伏見城下には真田氏の屋敷があったことは確かだが、それも
昌幸
・,・信幸・幸村宛佐久間甚四郎等連署状 <史料解説> 真田
昌幸
・信幸・幸村宛佐久間甚四郎等連署状 ,<史料解説> 「真田
昌幸
宛豊臣秀吉書状」 真田宝物館蔵 文禄三年(一五九四)六月一日, 秀吉が
昌幸
に、伏見築城の用材として、柾板を木曽より近江朝妻まで運搬するよう命じたもの。
松代まちあるきマップ
(25旧前島家住宅)
慶長五年(一六〇〇)、真田
昌幸
・幸村(信繁)父子が九度山蟄居の際、家臣十六名が
昌幸
に従って高野山に随行,作左衛門は、
昌幸
が没した慶長十六年に、真田信之のもとに帰藩、その子孫が前島の家を継いだ。
パスファインダー
(真田一族と家臣団)
キーワード 概要を知るための ツール 資料リスト 雑誌 表裏比興の雄真田
昌幸
日本一の兵真田幸村,中興の祖真田弾正忠幸隆、長篠の役で討死した真田源太左 衛門信綱、遂に戦国大名となった真田安房守
昌幸
,のすべて 小林 計一郎/編 KADOKAWA 2015年 目次の不撓不屈の真田一族、表裏比興の雄真田
昌幸
,KADOKAWA 出版年 2016年 内容紹介 武田信玄の懐刀・幸綱、徳川軍を2度破った
昌幸
松代まちあるきマップ
(16矢澤家表門)
矢澤家は真田家重代の筆頭家老を務めてきた家で、初代矢沢綱頼は
昌幸
の叔父。,沼田城を落とすなど
昌幸
の戦いを支えた、戦国真田家の重鎮。
松代まちあるきマップ
(22寒松山 大林寺)
だいりんじ) 宗派/曹洞宗、本尊/釈迦牟尼如来 天正年間(一五七三~一五九一)、真田
昌幸
,寒松院の墓のほか、信之・幸村(信繁)の父
昌幸
、母寒松院、信之、信政などの位牌、藩家老の矢澤、鎌原家、大石蔵之助
パスファインダー
(真田三代の妻妾・子女)
出版年 田中誠三郎/著 信濃路 1979年 内容紹介 真田弾正忠幸隆の妻妾・子女、真田
昌幸
,出版社 KADOKAWA 出版年 1905年7月 内容紹介 真田一族人物事典の章に真田
昌幸
,内訳は、「先公御事蹟稿1巻につづいて、一徳斉殿幸隆関係上中下3 巻、信綱寺殿信綱のものが1巻、長国寺殿
昌幸
関係,が全14巻、寒松院 殿
昌幸
夫人の部が1巻、大鋒院殿信之関係が全て25巻、信之夫人関係 が上下2巻、大光院左衛門佐信繁
秀吉と真田
(沼田領の分割裁定)
信幸は
昌幸
の長男であるが、
昌幸
にではなく信幸に、これを命じたのは、既に真田領のうち上州分については信幸,史料解説> 「真田信幸宛豊臣秀吉朱印状」 真田宝物館蔵 天正十七年(一五八九)七月十日
昌幸
秀吉と真田
(北条氏討伐へ)
昌幸
宛て十一月二十一日付け書状で、北条の態度には大変問題があったが不問に付し、使者を派遣して要求どおり,しないことには、許すことはできない、とするとともに、北条が裁定違犯をしたからには、「本知」つまり元々の領地沼田は
昌幸
,真田
昌幸
宛豊臣秀吉書状 <史料解説> 「真田
昌幸
宛豊臣秀吉書状」 真田宝物館蔵 天正十七年,(一五八九)十一月二十一日 名胡桃事件の報告を受けた秀吉が、まず被害者でもある真田
昌幸
に出した書状,氏直に通告したのと同文のものを
昌幸
にも送ってよこしたわけである。
パスファインダー
(真田氏研究の基本史料・古記録)
1 書名 著者名 出版社 出版年 真田幸貫 河原綱紀 一徳斉殿幸隆 信綱寺殿信綱 長国寺殿
昌幸
,「先公御事蹟稿1巻につづいて、一徳斉殿幸隆関係上中下3 巻、信綱寺殿信綱のものが1巻、長国寺殿
昌幸
関係,が全14巻、寒松院殿
昌幸
夫人の部が1巻、大鋒院殿信之関係が全て25巻、信之夫人関係が 上下,その書類 等は廃藩後公開されたが、果たして関ケ原の役のとき石田三成や五奉 行から
昌幸
に送られた書状等が,この諸文書によって
昌幸
の行動や石田方の計画した陣容等が明らかと なり、日本史上稀有の貴重文書となった。
秀吉と真田
(真田氏上田領・沼田領の石高)
・沼田領の石高 「秀吉と真田」の目次はこちら 関ケ原合戦のあった慶長五年(一六〇〇)までの真田
昌幸
,真田領それも特に
昌幸
領は、豊臣氏よりの言わば拝領高がかなり低い数字になっていた。
上田の早苗
([翻刻])
[芦田本依田ナリ]信蕃ハ早ク徳川家ノ御味方ニ参上ス、然ルニ旧友 タルニ依 リ此信蕃ヲ以テ神君厚ク
昌幸
,ノ軍功ナリ、時ニ
昌幸
徳川家へ申上ケルハ猶此上ニモ忠節ヲ尽ス ヘキモ、国ノ片端ニ在リテ働自由ナラス、,ノ通リ諸家ヨリ人 夫ヲ出シ助成申ヘシトナリ、因之天正十二年甲申信州小県郡常田台ト云所ニ
昌幸
自,ヲ北条家ヘ可被渡趣ヲ真田ニ 被命、右替地ハ信州ニ於テ下サルヘク旨也、此時
昌幸
申ケルハ麾下ニ属シ候儀,ニ対シ 申ケルハ沼田領ノ儀ハ旧主武田家ヨリモ賜ハラス又徳川家ヨリモ給ハラス全ク
昌幸
カ鎗先ヲ以
秀吉と真田
(上杉方による上田城増築普請)
昌幸
の長男信幸は沼田方面の家臣に出した書状で、その戦果を簡潔に知らせている(6)。,「恩田等宛真田信幸書状」 長野市真田宝物館蔵 天正十三年(一五八五)閏八月十三日 真田
昌幸
松代まちあるきマップ
(48松操山典廏寺)
典廏信繁を尊敬する真田
昌幸
は、次男の名を信繁と命名。真田幸村がその人である。
松代まちあるきマップ
(14真田宝物館)
「青江の大太刀」、家康から拝領の名工粟田口吉光作の短刀、永楽焼十一代目保全の茶碗などお茶道具の逸品、
昌幸
所用
秀吉と真田
(上田城の大改修)
そのため真田
昌幸
もこれにならって、上田城の大改修に乗り出したと考えられる。
松代まちあるきマップ
(30真田山長国寺)
墓所には真田家歴代の墓碑、真田幸村・大助親子の供養塔、戦国真田三代(幸隆、
昌幸
、信綱)の供養塔などが並
秀吉と真田
(「真田」の錦絵)
真田氏は信繁(幸村)の父
昌幸
が自ら築いた上田城に拠って、二度にわたり徳川の大軍を破っている。,幸隆は
昌幸
の父で、信幸・幸村兄弟の祖父にあたる。芳虎は幕末から明治初期に活躍した。
秀吉と真田
(豊臣氏関係遺品)
原合戦と近世の国制』二〇〇〇年 小林計一郎編『真田幸村のすべて』 一九八九年 柴辻俊六『真田
昌幸
パスファインダー
(真田信繁(幸村)と大坂の役)
) 著者名 清水昇/著 出版社 河出書房新社 出版年 2015年 知将であった父・
昌幸
上田案内
([解説])
〇仏寺 真田
昌幸
が本海野から移した寺など真田氏との結びつきを示す寺がいくつかある。,徳川勢を二度にわたり苦しめた真田
昌幸
、信繁(幸村)親子の活躍は、江戸期の読み物からはじまり、近現代の小説
小県郡民謡集
(成人謡)
[常田(ときだ)獅子(じし)の謠、天正十一年眞田
昌幸
上田築城の際、常田村片岡助兵衛、祇園祭禮(ぎおんさいれい
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