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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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秀吉と真田 (上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸))

上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸) 「秀吉と真田」の目次はこちら  天正十三年(一五八五)になり、,の沼田引渡し命令を拒絶し、いよいよ徳川軍の攻撃を受けそうになってから、真田昌幸は援軍を得るために上杉景勝,昌幸の出した誓詞に応えてであろう、景勝が昌幸に誓詞を与えたのは、最終的に昌幸の上杉氏への従属が確定した,上杉景勝は、右の誓詞で昌幸に、沼田・吾妻・小県等のほか、「屋代一跡」も給付するとしている。,七月に出された景勝の起請文よりは前の文書である。 / 上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸)
秀吉と真田 (秀吉の死と家康の上杉征伐)

これについで家康がねらったのが上杉景勝であった。,景勝は慶長四年九月に帰国していたが、会津百二十万石へは前年に越後から移されたばかりであり、新領国の経営,景勝は領内の諸城郭を修理し、兵糧・武器を貯えるなど軍備を強化したという。  ,これを陰謀ありとして、慶長五年一月以降、家康は景勝に上洛を促した。しかし、景勝はこれに応じなかった。,いきなり討伐の軍勢を出すとは言いがかりには違いなかったが、景勝はこれに乗ってしまったのである。
秀吉と真田 (家康の真田再征進発と秀吉による懐柔)

今度は秀吉も家康の真田討伐を承認し、さらには上杉景勝に真田支援の禁止を命じてまでいる。,八月七日付け上杉景勝宛ての秀吉の臣増田長盛・石田三成書状では、真田は「表裏比興者」なので成敗することにした,、家康が人数を出すだろうが、そちら(景勝)から真田を支援してはならないとの仰せだとしている。,これは真田を上杉景勝が庇護しており、景勝から秀吉への働きかけが強かったことによるとみられる。  ,家康が秀吉の下へ出仕した後、秀吉が、昌幸の身分の扱いに付いて、上杉景勝へ断りをすませてから、昌幸に上洛
秀吉と真田 (上杉方による上田城増築普請)

なお、上田(神川)合戦の際の上杉勢の具体的な動きについては、景勝自身の出馬は長沼(長野市)までであり、,北信濃の武将島津忠直等より景勝の重臣直江兼続に宛てた書状には「伊勢崎御普請、寸隙も油断を存ぜず、これを,なお、これに見える信幸の花押は上杉景勝初期の花押に大変よく似ている。,この戦い直前に従属した景勝のそれにならったものだろう。
秀吉と真田 (東西に分かれた真田父子)

家康(内府)が会津の上杉景勝征討の軍を起こしたのは誓詞や太閤の置目(遺言)に背くものであり、相談して「,今度景勝発向の儀、内府公上巻の誓紙并びに大閤様御置目に背かれ、秀頼様見捨てられ出馬候間、各(おのおの),景勝は徳川軍の上田城攻めのとき後詰をしてくれただけではない。,結局この真田再征は秀吉の意向により中止となっているのだが、これは上杉景勝が真田を庇護しており、景勝から,その恩をうけた景勝を征伐しようとする軍に、家康の命で加わっていた昌幸であった。
秀吉と真田 (家康重臣石川数正の秀吉への寝返り)

これについて昌幸は、上杉景勝の重臣直江兼続に宛てた十一月十七日付けの書状で、「甲州・佐久郡・諏訪郡主に,候由、如何様の相談致し候哉、存ぜられず」、目付けを遣わして様子が分かったら報告申し上げる、この趣を(景勝
秀吉と真田 (徳川秀忠軍の上田攻め)

一六〇〇)八月二十一日  真田信幸(伊豆守)の沼田領は、徳川に敵対した父昌幸の信州上田領および上杉景勝,> 「真田信幸宛徳川秀忠書状」   真田宝物館蔵   慶長五年(一六〇〇)八月二十三日  上杉景勝討伐,八月二十三日 秀忠(花押)      真田伊豆守殿   宇喜多秀家等宛上杉景勝書状 <史料解説,> 宇喜多秀家等宛上杉景勝書状   真田宝物館蔵   慶長五年(一六〇〇)八月二十五日  「会津中納言,」上杉景勝から宇喜多秀家・毛利輝元・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家という西軍中枢に宛てた書状。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (倉科村)

農間伐薪/炭焼 民業女: 養蚕/生糸/機織 その他特記ワード: 和名抄に倉科郷/村上氏/上杉景勝
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (森村)

物産2: 酒 民業男: 農間伐薪 民業女: 養蚕/縫織 その他特記ワード: 村上氏/上杉景勝
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (東寺尾村)

民業女: 養蚕/織縫 その他特記ワード: 寺尾氏/村上義清/寺尾伝左衛門/山崎の戦い/上杉景勝
善光寺道名所図会 (○筑摩 青柳)

に属し、 五十騎の軍役たり、甲州没落、小笠原貞慶帰城の後もなほ小県 郡の真田等と一味して、越後の景勝
秀吉と真田 (真田・小笠原・木曽、家康の与力に)

しかし、秀吉は特に昌幸については、上杉景勝の与力扱いから外しただけで、実質的には直臣化したといってよい
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (西船山村)

真田織 民業男: 農間伐薪 民業女: 養蚕/縫織 その他特記ワード: 村上氏/村上義清/上杉景勝
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (豊栄村)

その他特記ワード: 関屋村/牧内村/桑根井村/平林村/村上氏/真田一徳斎幸隆/小山田昌辰/上杉景勝
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (東船山村)

) 民業男: 農間伐薪 民業女: 養蚕/縫織 その他特記ワード: 村上氏/村上義清/上杉景勝
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (東条村)

その他特記ワード: 東条村/田中村/加賀井村/東条遠江守/村上氏/真田一徳斎幸隆/小山田昌辰/上杉景勝
秀吉と真田 (真田昌幸、徳川と断交へ)

で沼田城代であった矢沢頼綱らが、北条方からの使者を成敗、つまり斬殺するという事件も起こしており、上杉景勝
秀吉と真田 (小田原出陣)

その軍勢は、真田昌幸三千人、上杉景勝一万人、前田利家一万人で、計二万三千人というものであった。,者共を干し殺し(飢死させる)にし、出羽・奥州・日の本の果てまで仕置きを堅く申し付けるつもりだ、そちらは景勝,中ん就く其の面の事、景勝(上杉)・利家(前田)相談せしめ、由断無く相動(はたら)くべき事肝用に候。,景勝・利家相談せしめ、弥(いよいよ)由断有るべからざる義肝要に候。
秀吉と真田 (三成ほか西軍諸将よりの書状)

先に出した家康弾劾状が着いたかを聞き、家康の上杉景勝征討のための出陣を非難するとともに、大坂城西の丸にいた,殊更今度景勝(上杉)相果たさるべき儀、謂(いわ)れざる旨様々理(ことわ)り申し候へ共、同心無く下向候。,其の上景勝申し談じ候はば、関東即時に破滅たるべく候。,景勝申し談ずる上は関東の儀平均に属すべき事、案の内に候。,景勝申し談ずる上は関東の儀平均に属すべき事、案の内に候。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (松代町)

清野伊勢守/東条左衛門/西条治部/村上義清/甲陽軍艦/真田一徳斎/高坂弾正忠昌宣/山本道鬼斎晴行/上杉景勝
秀吉と真田 (徳川方への攻勢)

徳川方への攻勢 「秀吉と真田」の目次はこちら  真田昌幸は、上杉景勝そして秀吉との提携もなり、徳川軍
善光寺道名所図会 (○筑摩 青柳)

が没落し、小笠原貞慶(さだよし)が帰城の後もなお小県(ちいさがた)郡の真田氏等に味方して、越後の上杉景勝
秀吉と真田 (家康の関東移封と真田昌幸・信幸)

そのため、上杉景勝領となっていた北信濃四郡を除く、家康配下の信濃の諸領主は根こそぎ関東へ移されることになる
秀吉と真田 (豊臣氏関係遺品)

信幸は北国囗部隊の一員として、前田利家・上杉景勝らと上州碓氷郡松井田城を攻撃中であった。
パスファインダー (村上義清と村上氏)

につ いて知る基本書 信濃村上一族:村上源吾国清 志村平治/著 歴研 2011.4 上杉謙信・景勝
秀吉と真田 (武田氏・織田氏の滅亡と真田昌幸)

武田信玄・上杉謙信が争奪戦をくり返したことで有名な地であるが、ここは信長横死直後の六月中に謙信の後継者上杉景勝
秀吉と真田 (昌幸の秀吉への接近)

上杉景勝が真田昌幸に宛てた誓詞の中に「春松太夫」という名が見えるのだが、これは上方から信濃へも訪れていたむ
秀吉と真田 (家康の命令による上田築城の開始)

また、その築城開始の報に接した上杉景勝は早速それに対する妨害を北信濃の配下の将士に命じている。
パスファインダー (真田氏関係の城址、寺社、文化遺産)

柳沢与兵衛宛宮下藤衛門判物、諏訪久三宛真田弁丸 (幸村)安堵状、矢沢頼幸宛須田満親書状、神川合戦図、矢沢綱頼宛上 杉景勝書状
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 ([翻刻])

     なる不二の高根を遥に望み、湖水の順道三里とはいへども、乱山重畳の内      に有て風色景勝又筆
龍駕の跡 (龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))

之を愛したりしを以て初めは之を加賀松と称びしなりとか伝ふ]道より少しく右に入り、千曲浅間を眺め得べき景勝
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