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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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秀吉と真田 (昌幸最晩年の書状 幸村筆)

昌幸最晩年の書状 幸村筆 「秀吉と真田」の目次はこちら 真田信之宛同昌幸書状 <史料解説> 「,これはその配流先高野山麓九度山よりの書状。,書状の験(しるし)までに候。次に左衛門佐慮外ながら御言伝申し入れ候。,の慶長十六年(一六一一)のものとみてよい九度山よりの書状。,昌幸最後の書状になるが、これも筆跡は明らかに幸村のものである。 / 昌幸最晩年の書状 幸村筆
秀吉と真田 (三成ほか西軍諸将よりの書状)

下へは西軍の主要武将よりの書状が続々と届けられた。,このおりの三成からの最初の書状は七月晦日付のものだった(写真)。,その書状が二十七日に佐和山に到着し、それに対する返事がこれである。, 幸村の妻の父、越前敦賀城主大谷吉継よりの書状。,七月三十日     白以(黒印) 真田昌幸宛毛利輝元書状 <史料解説> 「真田昌幸宛毛利輝元書状 / 三成ほか西軍諸将よりの書状
パスファインダー (真田氏関係の城址、寺社、文化遺産)

、寺社、文化遺産 実戦の城としての上田城はじめ城址について、関が原合戦前夜の緊迫 した様子を伝える書状等,、神川合戦図、矢沢綱頼宛上 杉景勝書状、真田昌幸宛豊臣秀吉書状、真田昌幸・信之・幸村宛豊臣氏 普請奉行連書状,、真田昌幸宛長束正家等連署状、真田親子犬伏密談 図、真田信幸宛徳川家康書状、真田信幸宛徳川家康安堵状、,真田昌幸 宛石田三成書状、真田父子上田篭城図、高野山蓮華上院、真田昌幸書 状、真田信幸宛本多正信書状、,真田幸村画像、真田信幸宛昌幸書状、 真田幸村書状、大坂冬之陣・夏之陣図、真田幸村勇戦之図、真田信之 木造
秀吉と真田 (真田氏の動静)

そして、何よりもこれで注目されることは、この書状が真田氏宛での秀忠書状としては初めてのものであり、徳川氏,よりの書状としても、天正十八年の名胡桃城事件の際の家康返書以来のものということだろう。,これに続いては慶長五年三月の信幸宛て昌幸書状がある(写真)。,真田信幸宛同昌幸書状 <史料解説> 真田信幸宛同昌幸書状   真田宝物館蔵   慶長五年(一六〇〇,)三月十三日  伏見城下に詰めていた昌幸より、帰国中の信幸に宛てた書状。
秀吉と真田 (昌幸の秀吉への接近)

また、近年まで見落とされていた矢沢頼綱宛石田三成書状によれば、真田・徳川が対陣していた最中の九月二日かその,少し前に、上杉氏の使者により、昌幸の書状が秀吉方へ伝えられ、また、昌幸の件について、つまりは家康と争っている,真田昌幸宛羽柴秀吉書状   <史料解説> 「真田昌幸宛羽柴秀吉書状」   真田氏歴史館蔵   ,天正十三年(一五八五)十月十七日  秀吉から昌幸宛の最初の書状。,昌幸は第一次上田合戦の対陣中に秀吉に書状を送り、その庇護を求めた。それに対する返事である。
秀吉と真田 (小田原出陣)

四月十一日の書状(写真)では、小田原城は二重三重に取り囲み、鳥の通いもできないほどで、篭城の者共も正体,また、同月十四日の書状(写真)では、小田原攻めの軍勢は充分なので(小田原へと急ぐ必要はない)心静かに松井田城攻,真田信幸宛豊臣秀次書状 <史料解説> 「真田信幸宛豊臣秀次書状」   真田宝物館蔵   天正十八年,三月八日 秀次(花押)      真田源三郎殿   真田昌幸宛豊臣秀吉書状 <史料解説>, 四月十日の「真田昌幸宛豊臣秀吉書状」の翌日付け書状であり、「先書」で言った通りだが、と断って同様
秀吉と真田 (家康の真田再征進発と秀吉による懐柔)

八月七日付け上杉景勝宛ての秀吉の臣増田長盛・石田三成書状では、真田は「表裏比興者」なので成敗することにした,しかし、右の書状と同じ八月七日には、「上よりのあつかい」つまり、秀吉の斡旋で家康は真田攻めを中止している,の身分の扱いに付いて、上杉景勝へ断りをすませてから、昌幸に上洛するよう促したのは十一月二十一日付けの書状,真田昌幸宛羽柴秀吉書状 <史料解説> 「真田昌幸宛羽柴秀吉書状」   真田宝物館蔵   天正十四年
秀吉と真田 (北条の兵、名胡桃城を奪取)

これについて真田信幸より報告を受けた家康は、十一月十日付け書状で、先の沼田城明渡しの両上使(津田・富田,真田信幸宛徳川家康書状 <史料解説> 「真田信幸宛徳川家康書状」   真田宝物館蔵   天正十七年
パスファインダー (真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村))

成るが、特に上巻には、武田晴信宛行状・武田勝頼条 内容紹介 目・真田昌幸宛行状・羽柴秀吉書状,・豊臣秀吉書状・豊臣氏奉行連書 状・長束正家等連書状・徳川家康書状・徳川家康安堵状・石田三成書,状・本多正信書状・真田信之書状等、歴史的に極めて貴重な文書が数 多く残されている。,関ケ原合戦直前の慶長5年7月末から8月10日 までに、西軍に属した緒将より真田昌幸に宛てられた書状
秀吉と真田 (上杉方による上田城増築普請)

昌幸の長男信幸は沼田方面の家臣に出した書状で、その戦果を簡潔に知らせている(6)。,北信濃の武将島津忠直等より景勝の重臣直江兼続に宛てた書状には「伊勢崎御普請、寸隙も油断を存ぜず、これを,恩田等宛真田信幸書状 <史料解説> 「恩田等宛真田信幸書状」   長野市真田宝物館蔵   天正十三年,(一五八五)閏八月十三日  真田昌幸の長男源三郎信幸が沼田周辺の家臣宛てに出した書状。
秀吉と真田 (昌幸死去の悔み状)

昌幸死去の悔み状 「秀吉と真田」の目次はこちら 真田信之宛本多正信書状 <史料解説> 「真田信之宛本多正信書状,六月十三日     正信(花押)     真田信之宛城昌茂書状 <史料解説,> 「真田信之宛城昌茂書状」   真田宝物館蔵   慶長十六年(一六一一)六月十六日  これも昌幸逝去
秀吉と真田 (徳川秀忠軍の上田攻め)

真田信幸宛徳川家康書状 <史料解説> 「真田信幸宛徳川家康書状」   真田宝物館蔵   慶長五年,八月二十一日 家康(花押)      真田伊豆守殿   真田信幸宛徳川秀忠書状 <史料解説,八月二十三日 秀忠(花押)      真田伊豆守殿   宇喜多秀家等宛上杉景勝書状 <史料解説,」上杉景勝から宇喜多秀家・毛利輝元・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家という西軍中枢に宛てた書状。,(下略)   真田信幸宛徳川家康書状 <史料解説> 真田信幸宛徳川家康書状   真田宝物館蔵
秀吉と真田 (豊臣氏関係遺品)

豊臣氏関係遺品 「秀吉と真田」の目次はこちら 豊臣秀次書状 <史料解説> 「豊臣秀次書状」    ,[目録]   豊臣秀頼書状 <史料解説> 「豊臣秀頼書状」   真田宝物館  
秀吉と真田 (真田・小笠原・木曽、家康の与力に)

秀吉から昌幸に宛てた書状は数多く今に伝わっている。,それに対し、これ以後の家康あるいは徳川方から昌幸宛ての書状類は全く見られないのである。
秀吉と真田 (家康重臣石川数正の秀吉への寝返り)

これについて昌幸は、上杉景勝の重臣直江兼続に宛てた十一月十七日付けの書状で、「甲州・佐久郡・諏訪郡主に,これについて昌幸は、ほかでもない秀吉自身の十一月十九日付け書状で、事情を直接知らされることになる(8),この件を北条氏直に報じた家康書状には「信州小笠原人質召連れ候」とある。
秀吉と真田 (伏見城普請)

このときの秀吉の奉行や普請奉行からの幾つかの通達の内の一通、文禄三年正月十八日付け書状(写真)の宛名には,また、後の昌幸書状(写真)の内容より見て、伏見城下には真田氏の屋敷があったことは確かだが、それも昌幸・,真田宝物館蔵   文禄三年(一五九四)一月十八日  これも伏見城普請についての指令だが、普請奉行四名からの書状,真房州様      真伊豆様      同左衛門様 人々御中     真田昌幸宛豊臣秀吉書状,<史料解説> 「真田昌幸宛豊臣秀吉書状」   真田宝物館蔵   文禄三年(一五九四)六月一日
秀吉と真田 (北条氏討伐へ)

昌幸宛て十一月二十一日付け書状で、北条の態度には大変問題があったが不問に付し、使者を派遣して要求どおり,真田昌幸宛豊臣秀吉書状 <史料解説> 「真田昌幸宛豊臣秀吉書状」   真田宝物館蔵   天正十七年,(一五八九)十一月二十一日  名胡桃事件の報告を受けた秀吉が、まず被害者でもある真田昌幸に出した書状,北条氏直宛豊臣秀吉条目」   真田宝物館蔵   天正十七年(一五八九)十一月二十四日  右の昌幸宛書状
秀吉と真田 (東西に分かれた真田父子)

栃木県佐野市)に陣を取っていた真田昌幸に、石田三成方の豊臣家奉行長束(なつか)正家等より七月十七日付けの書状,天正十三年の上田合戦の時はもちろんだが、秀吉書状によれば、翌十四年の時点でも沼田領の真田持ち分の城の二,真田信幸宛徳川家康書状 <史料解説> 「真田信幸宛徳川家康書状」   真田宝物館蔵   慶長五年,真田信幸宛徳川家康安堵状」   真田宝物館蔵   慶長五年(一六〇〇)七月二十七日  二十四日の右の書状
赤松小三郎書簡 実母宛 (父兄との書簡、佐久間象山との交流)

特に、江戸遊学中父勘兵衛から与えられた書状は、親が他郷にある子に対する好個の教訓で、慈父の情が溢れている
パスファインダー (真田氏研究の基本史料・古記録)

その書類 等は廃藩後公開されたが、果たして関ケ原の役のとき石田三成や五奉 行から昌幸に送られた書状等が,iss.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/ 信之書状,2016.10.27 真田特集 信濃毎日新聞社(データベース) 2016.7.9~9.24 本多正信書状
松代まちあるきマップ (15小山田家住宅)

小山田家には、夏の陣を前に幸村が村松殿宛てに送った書状(「さだめなき浮世にて候へば…我々事などは浮世にあるものとは
松代まちあるきマップ (14真田宝物館)

などお茶道具の逸品、昌幸所用の「昇り梯子の甲冑」や刀剣類、豊臣秀吉・石田三成・徳川家康・武田信玄らの書状
秀吉と真田 (上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸))

従来『信濃史料』等では上杉方の海津城将須田満親が、八月末に昌幸の重臣矢沢頼幸に出した書状にある「今度御証人,しかしこの「御幼若の方」とは、書状の内容を素直に読めば、宛名の矢沢の子か弟であったとみられる。
秀吉と真田 (徳川方への攻勢)

さらに前項で見たように昌幸は、秀吉より天正十三年(一五八五)十一月十九日付け書状で家康を武力討伐する方針
秀吉と真田 (沼田領の分割裁定)

  天正十七年(一五八九)七月十日  昌幸にではなく信幸(源三郎)に宛てたものとしては、初の秀吉書状
パスファインダー (二度老中を務めた松平忠固)

吉田松陰が桂小五郎に宛てた「桂小五郎に 内容紹介 與ふる書」の中に上田侯(松平忠固)に期待している旨の書状
秀吉と真田 (家康の関東移封と真田昌幸・信幸)

秀吉の意向を伝えられた家康が、天正十八年七月二十九日に出した書状の一節に「真田の儀、重ねて成瀬伊賀守を
秀吉と真田 (家康の命令による上田築城の開始)

出陣を命じたとみてよい下伊那の下条氏に対して城普請の苦労をねぎらうとともに、早期の完成を督励する家康の書状
信濃名勝詞林 (信濃下向日記)

伝へきく薬はまねと白雲の たなひく上にわれは来にけり 十五日(七月)雨 右膳方より七月六日の書状到来弥八月上旬参
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([翻刻])

申遣候、     (改頁)      28   一妙福寺他出願御聞届、東へ宮淵役人  呼出書状入遣,侯様、精々被仰出侯、以上、               上条   廿六日  右御祈祷并始侯様、書状神主,九月十日 曇 一御奉行方川筋御見分相済、  押野村早朝御出立ニ六九廻り  御帰り、池田同役より通達書状,    十月廿一日 大雨終日 一筑摩村与頭紋右衛門参り申聞候者、  昨日江戸表庄二郎方より書状参,り、  別紙之通り申越候書状ニ有之 一金右衛門悴音十義、当四月助十  ・徳十頼ニ而、御上屋敷御出入髪結
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([現代訳])

し遣す、     (改頁)   一、妙福寺等からの出願を御聞き届け、東へ宮淵役人を呼び出して書状入遣,、一刻もはやく始められるように仰せ出だされた、上条より 二十六日 右のように御祈祷を始めるように書状,旨を申し出たと御達した、 一、庄内村へ尾州領の者が参り、煩っていて村送りするように御沙汰したが、、書状,(おしのむら、安曇野市明科)を早朝に御出立、六九(ろっく、松本城下)を廻り御帰り、池田、同役より通達書状,十月二十一日 大雨、終日 一、筑摩村の組頭紋右衛門が参り申し聞したことは、昨日江戸表の庄二郎方より書状
諸国道中商人鑑 (4 小田井から本山まで)

本陣をつとめた石合家には真田信繁(幸村)が同家に嫁いだ娘への書状が残されている。
木曾山林学校 ([注記])

書状などの末尾に書く言葉。
善光寺道名所図会 (○別所温泉)

  じ、寺々の返答承らん、手塚書簡認められよとて、        (略)     右の書状持参
違作書留帳 ([翻刻])

此間両三日大暑而巳、 其外隠曇、江戸より 五日出候状ハ麦作等 宜由申参り候へ共、 又此節六月ニ至り 書状之内,  神林町 国之助   神戸村 又 蔵 是ハ尾州様御通行 ニ付、木曽役人江戸ニ罷 在候処へ書状,うし主 かり主三人の災なん おそろしかりし事也 同月廿二日 安志家中 将監公より藤三郎へ書状,かけにも有、 けしからぬ、かまがたち、 たかりかれる、籾取方 ふろくあり 八月廿三日 安志へ書状
違作書留帳 ([現代訳])

が名主役を仰せ付けられた、     (改頁)   十二月二十四日 私に御差し紙(出頭を命じた書状,そのほかは隠曇、江戸から五日に出された書付では、麦作などはよいと申してきたが、またこの時期六月になっての書状,飛脚二人は、神林町の国之助と神戸村の又蔵、これは尾州様の御通行につき、木曽の役人が江戸に罷り在る所に書状,持ち主、牛を借りた人、三人の災であり、おそろしいことだ、 五月二十二日 安志家中将監公より藤三郎へ書状,があり、日陰にもなってけしからん、かまがたち、たかり枯れる、籾取方のふろくあり、 八月二十三日 安志へ書状
宿継要書留 ([翻刻])

 丑   十二月二日    宿々              問屋    大原伊右衛門様  此書状四日,               問屋       飯田桜町         御問屋中様  此書状同月四日着,御座候、恐惶謹言   二月四日        大原伊右衛門        倉科七郎左衛門様   右書状市田町,                恐惶謹言    ウシ十二月四日     大原伊右衛門        四ケ宿江御衆中  此書状市田町
宿継要書留 ([現代訳])

 12月2日              宿々問屋              大原伊右衛門様  此書状,                       四ケ所  問屋       飯田桜町  御問屋中様  此書状同月,                 大原伊右衛門             倉品七郎左衛門様   右書状市田町,                大原伊右衛門              4か宿の御衆中へ  この書状
むしくら日記 (1巻 元)

三月晦日夕八時過松代出立、同夜牟礼泊[六リ半、]四月朔日   能生泊、四月二日三日市泊、四月三日夕八時比富山着、書状,信州越後路共仮小屋住居、越中は   常之住居ニ罷在候旨、富山問屋江着、同道ニ而鹿毛   富記宅江罷出、書状差出
むしくら日記 (1巻 元)

(六里半)4月1日は能生、4月2日は三日市に泊り、4月3日夕方八ツ時(午後2時)ころ富山に着き、書状を,富山宿の問屋場に着き、問屋役とともに鹿毛富記宅に参上いたし、書状を差し出しました。
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

如来に添えて送られる書状には、次のように書いてあった。  
寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)

之事故御退屈之砌御一人ニ而御上り被成候様ニ御申候へ共  御悦決而人ニハ出シ不申候迚被仰候がいつか木下へ書状
御城下古法并市場古法書抜書集 ([現代訳])

紙問屋・青物問屋についての困難を調べ書を差し出したとおり、ふたつの書状により、御役所へ御訴訟を申し上げた
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