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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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秀吉と真田 (昌幸最晩年の書状 幸村筆)

昌幸最晩年の書状 幸村筆 「秀吉と真田」の目次はこちら 真田信之宛同昌幸書状 <史料解説> 「,真田信之宛同昌幸書状」    真田宝物館蔵   年次不詳 三月二十五日  関ヶ原合戦後、真田昌幸・,三月二十五日 安房 昌幸(花押)      豆州参     真田信之宛同昌幸書状,<史料解説> 「真田信之宛同昌幸書状」   真田宝物館蔵   年次不詳 四月二十七日  昌幸最晩年,昌幸最後の書状になるが、これも筆跡は明らかに幸村のものである。 / 昌幸最晩年の書状 幸村筆
秀吉と真田 (昌幸の秀吉への接近)

少し前に、上杉氏の使者により、昌幸の書状が秀吉方へ伝えられ、また、昌幸の件について、つまりは家康と争っている,豊臣秀吉が初めて真田昌幸宛てに出した天正十三年十月十七日付けの書状は、秀吉が委細承知した、いずれにしても,真田昌幸宛羽柴秀吉書状   <史料解説> 「真田昌幸宛羽柴秀吉書状」   真田氏歴史館蔵   ,天正十三年(一五八五)十月十七日  秀吉から昌幸宛の最初の書状。,昌幸は第一次上田合戦の対陣中に秀吉に書状を送り、その庇護を求めた。それに対する返事である。 / 昌幸の秀吉への接近
秀吉と真田 (昌幸死去の悔み状)

昌幸死去の悔み状 「秀吉と真田」の目次はこちら 真田信之宛本多正信書状 <史料解説> 「真田信之宛本多正信書状,智勇兼ね備えた名将であり、真田の名を上げた昌幸であったが、その晩年はわびしいものであった。,六月十三日     正信(花押)     真田信之宛城昌茂書状 <史料解説,> 「真田信之宛城昌茂書状」   真田宝物館蔵   慶長十六年(一六一一)六月十六日  これも昌幸逝去,城(じょう)昌茂は昌幸と同じく武田の旧臣で武田氏滅亡後は家康に仕えていた。 / 昌幸死去の悔み状
秀吉と真田 (三成ほか西軍諸将よりの書状)

この書状で三成は、挙兵の計画を事前に昌幸に打ち明けなかったことを弁明するとともに、昌幸らの妻は(信繁の,昌幸が大坂方(西軍)に応じる旨を申し送った書状に対する返書である。,この後、彼ら宛てに上田から昌幸が出した書状もある。,七月三十日     白以(黒印) 真田昌幸宛毛利輝元書状 <史料解説> 「真田昌幸宛毛利輝元書状,・信幸・幸村宛石田三成書状 <史料解説> 真田昌幸・信幸・幸村宛石田三成書状   真田宝物館蔵 / 三成ほか西軍諸将よりの書状
パスファインダー (真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村))

真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村) トピック(テーマ) ねらい キーワード,概要を知るための ツール 真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村) 歴史上の人物で,・羽柴秀吉書状・豊臣秀吉書状・豊臣氏奉行連書 状・長束正家等連書状・徳川家康書状・徳川家康安堵状・石田三成書,状・本多正信書状・真田信之書状等、歴史的に極めて貴重な文書が数 多く残されている。,書状や条目が10 通含まれている。 / 真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村)
秀吉と真田 (家康の関東移封と真田昌幸・信幸)

家康の関東移封と真田昌幸・信幸 「秀吉と真田」の目次はこちら  天正十八年(一五九〇)七月の小田原,これに対し、天正十四年に秀吉の命で小笠原・木曽とともに家康に返されたはずの真田昌幸だけは、そのまま上田,秀吉の意向を伝えられた家康が、天正十八年七月二十九日に出した書状の一節に「真田の儀、重ねて成瀬伊賀守を,これ以前から秀吉は昌幸を実質的には直臣扱いしていたのだが、沼田・名胡桃の件から北条氏討伐に至ったという,もっとも上州沼田領は昌幸の長男信幸が、父の上田領(小県郡)とは独立した形で支配を展開することになる。 / 家康の関東移封と真田昌幸・信幸
パスファインダー (真田氏関係の城址、寺社、文化遺産)

、真田昌幸画像、真田昌 幸安堵状、真田昌幸宛北条氏邦書状、織田信長禁制、矢沢綱頼宛北条 氏直宛行状、依田記,、神川合戦図、矢沢綱頼宛上 杉景勝書状、真田昌幸宛豊臣秀吉書状、真田昌幸・信之・幸村宛豊臣氏 普請奉行連書状,、真田昌幸宛長束正家等連署状、真田親子犬伏密談 図、真田信幸宛徳川家康書状、真田信幸宛徳川家康安堵状、,真田昌幸 宛石田三成書状、真田父子上田篭城図、高野山蓮華上院、真田昌幸書 状、真田信幸宛本多正信書状、,真田幸村画像、真田信幸宛昌幸書状、 真田幸村書状、大坂冬之陣・夏之陣図、真田幸村勇戦之図、真田信之 木造
秀吉と真田 (真田・小笠原・木曽、家康の与力に)

これで昌幸らは秀吉の政権下で、家康の指揮下に属ずる大名となった。いわば与力大名の形である。  ,翌天正十五年三月に昌幸と貞慶は、秀吉の下へ出仕したあと、駿府の家康の下へ挨拶に出向いている。,この後も家康を全く介することなく、直接昌幸に指示を発しているのである。,秀吉から昌幸に宛てた書状は数多く今に伝わっている。,それに対し、これ以後の家康あるいは徳川方から昌幸宛ての書状類は全く見られないのである。
秀吉と真田 (真田氏の動静)

そして、何よりもこれで注目されることは、この書状が真田氏宛での秀忠書状としては初めてのものであり、徳川氏,これに続いては慶長五年三月の信幸宛て昌幸書状がある(写真)。,真田信幸宛同昌幸書状 <史料解説> 真田信幸宛同昌幸書状   真田宝物館蔵   慶長五年(一六〇〇,)三月十三日  伏見城下に詰めていた昌幸より、帰国中の信幸に宛てた書状。,三月十三日  昌幸(花押)      伊豆守殿参 安房守
秀吉と真田 (家康の真田再征進発と秀吉による懐柔)

八月七日付け上杉景勝宛ての秀吉の臣増田長盛・石田三成書状では、真田は「表裏比興者」なので成敗することにした,しかし、右の書状と同じ八月七日には、「上よりのあつかい」つまり、秀吉の斡旋で家康は真田攻めを中止している,家康が秀吉の下へ出仕した後、秀吉が、昌幸の身分の扱いに付いて、上杉景勝へ断りをすませてから、昌幸に上洛,するよう促したのは十一月二十一日付けの書状であった(写真)。,真田昌幸宛羽柴秀吉書状 <史料解説> 「真田昌幸宛羽柴秀吉書状」   真田宝物館蔵   天正十四年
秀吉と真田 (小田原出陣)

三月八日 秀次(花押)      真田源三郎殿   真田昌幸宛豊臣秀吉書状 <史料解説>,「真田昌幸宛豊臣秀吉書状」   真田宝物館蔵   天正十八年(一五九〇)四月十日  秀吉は伊豆箱根下,卯月十日(朱印)(豊臣秀吉)      真田安房守とのへ   真田昌幸・信幸宛豊臣秀吉書状, 四月十日の「真田昌幸宛豊臣秀吉書状」の翌日付け書状であり、「先書」で言った通りだが、と断って同様,・信幸宛豊臣秀吉書状 <史料解説> 「真田昌幸・信幸宛豊臣秀吉書状」   真田宝物館蔵   天正十八年
秀吉と真田 (徳川秀忠軍の上田攻め)

九月二日に小諸城に入った秀忠は、まず昌幸に降伏を促したが、それを受け入れる態度を示した昌幸にはぐらかされている,真田信幸宛徳川家康書状 <史料解説> 「真田信幸宛徳川家康書状」   真田宝物館蔵   慶長五年,八月二十一日 家康(花押)      真田伊豆守殿   真田信幸宛徳川秀忠書状 <史料解説,」上杉景勝から宇喜多秀家・毛利輝元・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家という西軍中枢に宛てた書状。,(下略)   真田信幸宛徳川家康書状 <史料解説> 真田信幸宛徳川家康書状   真田宝物館蔵
秀吉と真田 (家康重臣石川数正の秀吉への寝返り)

これについて昌幸は、上杉景勝の重臣直江兼続に宛てた十一月十七日付けの書状で、「甲州・佐久郡・諏訪郡主に,これについて昌幸は、ほかでもない秀吉自身の十一月十九日付け書状で、事情を直接知らされることになる(8),この件を北条氏直に報じた家康書状には「信州小笠原人質召連れ候」とある。,前にみたように秀吉は、この事件以前に昌幸に対し、小笠原とより一層相談してことにあたるように指示している,いずれにしても、真田昌幸にとっては、ありがたい事態ではあった。
秀吉と真田 (東西に分かれた真田父子)

に、石田三成方の豊臣家奉行長束(なつか)正家等より七月十七日付けの書状が届けられた(写真)。,真田昌幸宛長束正家等連署状 <史料解説> 「真田昌幸宛長束正家等連署状」   真田宝物館蔵   ,天正十三年の上田合戦の時はもちろんだが、秀吉書状によれば、翌十四年の時点でも沼田領の真田持ち分の城の二,真田信幸宛徳川家康書状 <史料解説> 「真田信幸宛徳川家康書状」   真田宝物館蔵   慶長五年,真田信幸宛徳川家康安堵状」   真田宝物館蔵   慶長五年(一六〇〇)七月二十七日  二十四日の右の書状
秀吉と真田 (伏見城普請)

このときの秀吉の奉行や普請奉行からの幾つかの通達の内の一通、文禄三年正月十八日付け書状(写真)の宛名には,また、後の昌幸書状(写真)の内容より見て、伏見城下には真田氏の屋敷があったことは確かだが、それも昌幸・,真田宝物館蔵   文禄三年(一五九四)一月十八日  これも伏見城普請についての指令だが、普請奉行四名からの書状,     真房州様      真伊豆様      同左衛門様 人々御中     真田昌幸宛豊臣秀吉書状,<史料解説> 「真田昌幸宛豊臣秀吉書状」   真田宝物館蔵   文禄三年(一五九四)六月一日
秀吉と真田 (徳川方への攻勢)

徳川方への攻勢 「秀吉と真田」の目次はこちら  真田昌幸は、上杉景勝そして秀吉との提携もなり、徳川軍,さらに前項で見たように昌幸は、秀吉より天正十三年(一五八五)十一月十九日付け書状で家康を武力討伐する方針,これをうけて昌幸は、十二月から翌年三月にかけて盛んに敵地についての宛行(あてがい)状を発給している。,神尾淡路守宛真田昌幸宛行状 <史料解説> 「神尾淡路守宛真田昌幸宛行状」   上田市立博物館蔵,天正拾四丙戌 二月十六日 昌幸(朱印)      神尾淡路守殿
秀吉と真田 (上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸))

昌幸の出した誓詞に応えてであろう、景勝が昌幸に誓詞を与えたのは、最終的に昌幸の上杉氏への従属が確定した,それに先立って真田方からは、昌幸の次男弁丸(信繁、幸村)が証人(人質)として越後へ送られた。,従来『信濃史料』等では上杉方の海津城将須田満親が、八月末に昌幸の重臣矢沢頼幸に出した書状にある「今度御証人,しかしこの「御幼若の方」とは、書状の内容を素直に読めば、宛名の矢沢の子か弟であったとみられる。,この合戦の前後に信繁の母(昌幸の妻)が海津城にいたことも知られる。
秀吉と真田 (北条氏討伐へ)

昌幸宛て十一月二十一日付け書状で、北条の態度には大変問題があったが不問に付し、使者を派遣して要求どおり,真田昌幸宛豊臣秀吉書状 <史料解説> 「真田昌幸宛豊臣秀吉書状」   真田宝物館蔵   天正十七年,(一五八九)十一月二十一日  名胡桃事件の報告を受けた秀吉が、まず被害者でもある真田昌幸に出した書状,「北条氏直宛豊臣秀吉条目」   真田宝物館蔵   天正十七年(一五八九)十一月二十四日  右の昌幸宛書状,氏直に通告したのと同文のものを昌幸にも送ってよこしたわけである。
秀吉と真田 (家康の命令による上田築城の開始)

そのため閏一月に昌幸はこれらと戦闘を交えている(4)。,出陣を命じたとみてよい下伊那の下条氏に対して城普請の苦労をねぎらうとともに、早期の完成を督励する家康の書状,宮下善七郎宛真田昌幸感状 <史料解説> 「宮下善七郎宛真田昌幸感状」   関口清造氏蔵 上田市立博物館保管,昌幸は翌閏正月、これらを攻め丸子で合戦が行われた。,また、このおり昌幸は家康に救援を要請している。
パスファインダー (真田氏研究の基本史料・古記録)

1 書名 著者名 出版社 出版年 真田幸貫 河原綱紀 一徳斉殿幸隆 信綱寺殿信綱 長国寺殿昌幸,が全14巻、寒松院殿 昌幸夫人の部が1巻、大鋒院殿信之関係が全て25巻、信之夫人関係が 上下,その書類 等は廃藩後公開されたが、果たして関ケ原の役のとき石田三成や五奉 行から昌幸に送られた書状等が,iss.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/ 信之書状,2016.10.27 真田特集 信濃毎日新聞社(データベース) 2016.7.9~9.24 本多正信書状
秀吉と真田 (上杉方による上田城増築普請)

昌幸の長男信幸は沼田方面の家臣に出した書状で、その戦果を簡潔に知らせている(6)。,北信濃の武将島津忠直等より景勝の重臣直江兼続に宛てた書状には「伊勢崎御普請、寸隙も油断を存ぜず、これを,恩田等宛真田信幸書状 <史料解説> 「恩田等宛真田信幸書状」   長野市真田宝物館蔵   天正十三年,(一五八五)閏八月十三日  真田昌幸の長男源三郎信幸が沼田周辺の家臣宛てに出した書状。
秀吉と真田 (沼田領の分割裁定)

信幸は昌幸の長男であるが、昌幸にではなく信幸に、これを命じたのは、既に真田領のうち上州分については信幸,史料解説> 「真田信幸宛豊臣秀吉朱印状」   真田宝物館蔵   天正十七年(一五八九)七月十日  昌幸,にではなく信幸(源三郎)に宛てたものとしては、初の秀吉書状。
松代まちあるきマップ (14真田宝物館)

「青江の大太刀」、家康から拝領の名工粟田口吉光作の短刀、永楽焼十一代目保全の茶碗などお茶道具の逸品、昌幸所用,の「昇り梯子の甲冑」や刀剣類、豊臣秀吉・石田三成・徳川家康・武田信玄らの書状、県宝真田家文書や絵図、八代藩主幸貫
秀吉と真田 (豊臣氏関係遺品)

豊臣氏関係遺品 「秀吉と真田」の目次はこちら 豊臣秀次書状 <史料解説> 「豊臣秀次書状」    ,[目録]   豊臣秀頼書状 <史料解説> 「豊臣秀頼書状」   真田宝物館  ,原合戦と近世の国制』二〇〇〇年  小林計一郎編『真田幸村のすべて』 一九八九年  柴辻俊六『真田昌幸
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