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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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パスファインダー (善光寺本堂の建築)

善光寺本堂の建築 トピック(テーマ) ねらい 善光寺本堂の建築 宝永4年(1707),に造られた善光寺の本堂は、撞木造りと呼ばれる独 特の縦長な建築で、江戸中期を代表する仏教建築として国宝,キーワード 善光寺 本堂 金堂 修理 国宝 如来堂 檜皮葺 桧皮葺 撞木造り 外陣 中陣 内陣 ,修理工事の報告だけでなく、本堂にか かわる史料も充実している。,の建築様式の変遷 小林計一郎/著 長野 1990.1 第194号 善光寺本堂昭和大修理完成記念号 善光寺本堂 / 善光寺本堂の建築
松代まちあるきマップ (10象山恵明寺)

文政八年(一八二五)、本堂から出火。のち再建したが、今度は不二庵から出火。,山門を残し、本堂・霊屋・庫裡・鐘楼が焼失。仏像・仏画・什物も灰燼に帰した。,天保(てんぽう)四年(一八三三)、八代幸貫が本堂・御霊屋・鐘楼・庫裏など諸堂を再建。堂内には釈迦三尊、,本堂に松代七福神巡りの「布袋像」を安置。 国登録有形文化財
信州善光寺御堂額之写 ([解説])

江戸時代の善光寺は、本堂に絵馬を奉納する習慣がありました。,「御堂額」とは、善光寺の本堂に奉納された絵馬のことです。,善光寺本堂は明治41年(1908)に特別保護建造物に指定されたため、堂内に絵馬を掲げることができなくなりました,その絵馬は「幽霊の絵馬」として本堂内でも有名なものでした。
松代まちあるきマップ (47真光(信広)山 林正寺)

昭和二十七年(一九五二)、長国寺から松代藩真田家二代藩主真田信政の御霊屋を移し、本堂とした。,御霊屋(本堂)は万治三年(一六六〇)の建立で、入母屋作り桟瓦葺き、内部は桃山様式の豪華な極彩色で、三十六歌仙,本堂および表門は県宝。真光寺夜泣き石「岩船地蔵」は、子供の夜泣き止めに効用があるとして信仰された。
松代まちあるきマップ (33尼巌山浄福寺)

本堂は安政年間(一八五四~一八六〇)に再建、その後焼失したが、明治期に入り本堂と庫裡を、大正十五年(一九二六,本堂前には神聖な白皮松が生い立つ。藩御用商人・豪商八田家の墓地がある。
善光寺独案内 (『善光寺独案内』に収録された伝説)

弁慶ねじり柱  善光寺本堂の東向拝(ごはい)の柱で、一般には「地震柱」と呼ばれています。,亡者塚  善光寺本堂前の護法石(山王塚と諸神塚)は、本堂を建立した際に使用した大工道具を埋めて、本堂
地震後世俗語之種 (著者)

という土産物の出店を出し、出入りの大工に店を任せていましたが、夕食後に家族そろって出店に出かけ、一人で本堂,に参拝して本堂を出たところで大地震に遭いました。
地震後世俗語之種 (著者)

という土産物の出店を出し、出入りの大工に店を任せていましたが、夕食後に家族そろって出店に出かけ、一人で本堂,に参拝して本堂を出たところで大地震に遭いました。
パスファインダー (善光寺の火災と復興)

「現本堂は、元禄5年(1692)に計画され、途中で火災があったりして手間 取った末、宝永4年(1707,その前期は、善光寺 が独自で本堂造営を企てた時期、後期は、幕府が善光寺のみでは本堂 造営はおぼつかないと,(第二章本堂の造営より) 2 書名 著者名 出版社 出版年 内容紹介 3 書名 著者名 出版社,出版年 善光寺の匠と技:絵で見る善光寺本堂の造営 相原文哉/著 銀河書房 1987年 善光寺本堂,論題名 著者名 雑誌名 巻号頁数 文永五年善光寺炎上をめぐって 片山正行 須高 25号 善光寺本堂
松代まちあるきマップ (40無漏山実相院)

本堂には二代藩主信政、三代藩主幸道、幸道の母の位牌を祀る。,昭和二十六年に焼失した本堂は、同四十八年に再建され、現在に至っている。
松代まちあるきマップ (21晧月山大英寺)

旧本堂は、五間四方入母屋造り。大蓮院(小松姫)の霊屋(県宝)で真田家最大最古のもの。,境内入口の信徒会館(現本堂)には、六文銭の鎧、葵の紋の陣羽織姿の勇ましい小松姫を描く掛け軸。
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 (著者、絵師等)

当時は本堂内で夜間の参籠(お籠り・お通夜)が行われていて、本堂内で夜を明かした人々は引き続いてお朝事に
松代まちあるきマップ (22寒松山 大林寺)

その後、槍術場の建物を、長国寺と分け、本堂兼庫裡としたが、明治二十四年の大火で再び焼失。,現本堂は四十五年建立。本尊釈迦牟尼如来は、左手に蓮の蕾を持つ拈華微笑坐像(ねんげみしょうざぞう)。
松代まちあるきマップ (32芳谷山 梅翁院)

現本堂は、文久元年(一八六一)に再建された。天蓋は、真田家御霊屋から移したもの。,本堂の右手に魚濫観音祈願殿。右京が篤く信仰した魚濫(藍)観世音菩薩(江戸中期の作)を祀る。
小諸洪水流失改帳 ([翻刻])

改頁)      20   實大寺 一 眠蔵  庫裏       表門    釣鐘   本堂残, 不残押流 尊立寺 一 本堂 眠蔵 庫裏  番神堂 釣鐘  寺中不残押流 宅應寺 一 本堂, 眠堂 庫裏     (改頁)    御長屋不残押流 成就寺 一 本堂
地震後世俗語之種 (絵の解説)

1-36  御開帳中の善光寺本堂前に建つ回向柱です。,善光寺の本堂前と思われます。,1-70  本堂から避難する善光寺本尊の御輿です。,1-71  本堂の東側、城山方面から見た善光寺です。,江戸時代には本堂の柱や壁に沢山の落書きがありました。
善光寺道名所図会 (○筑摩 郷原)

本堂本尊は大日如来、観音堂の正観音は、聖徳太子の作といい、信州百番のうち28番の札所です。,本堂南側に、高さ63センチメートルの自然石に刻んだ芭蕉の句碑があります。
『長野史料』索引 ([翻刻])

      16       善光寺別当伝     御造営入料帳       元禄ヨリ宝永ニ亘ル本堂建築費用,御本堂古事控       仏四     御本堂屋根葺替入料帳   仏四     山門経蔵屋根見積帳,    仏四     寛文元禄宝永本堂設計ノ異同 仏五     十夜仏由来        人三
松代まちあるきマップ (36杵渕山福徳寺)

一説には安置した夜、護摩堂から本堂まで火炎が激しく立ち上り、村人たちが恐がって取り外したという。
松代まちあるきマップ (26高安山龍泉寺)

なお、かつて龍泉寺にあった大きな閻魔像は、現在、善光寺本堂に祀られている。
松代まちあるきマップ (41龍潭山明徳寺)

本堂裏に蛙合戦で有名な庭池があり、初夏、産卵期を迎えたひきがえるが群集する。
善光寺独案内 ([現代訳])

女は本堂に入って、牛の行方や、布を取り返すことを如来に祈り通夜した。,定額山善光寺  二天前より正面に見える本堂まで4丁。,納骨堂  本堂の北西にある。人はこのお堂に歯骨を納める。  ,本堂が落成して冬になると、阿闍梨ヶ池の上に蝶が2羽舞っていた。,善光寺本堂より南へ30丁にある。  
松代まちあるきマップ (38真田林大鋒寺)

文政七年(一八二四)に本堂と墓地を大改修。藩は寺領百石を寄進、金井山と金井池は放生山・放生池として、周辺一帯
松代まちあるきマップ (44関谷山西楽寺)

#160; 44   関谷山西楽寺 西楽寺 西楽寺本堂
松代まちあるきマップ (48松操山典廏寺)

本堂内に鶴巣寺本尊といわれる薬師如来像。
善光寺道名所図会 (○筑摩 郷原)

居見へて、稲荷の祠あり、郷原の産上神とす、 ○郷福寺[桔梗山白馬院と号す、真言宗京知恩院に属す、] 本堂本尊
善光寺独案内 ([翻刻])

経蔵 夲堂前、西の方にあり。高サ      四丈三尺。六間三尺四方なり。  ,鐘楼堂 夲堂の東の方にあり。   ,納骨堂 夲堂の乾の方にあり。     人此堂に歯骨を納。  ,夲堂成就して冬になり、阿  闍梨ケ池の上に蝶の二羽舞  あり。,如来夲堂より南三十丁ニあり。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (徳間村)

腰牧/柳田/土井下/寺下/三反田/石原田/野ハタレ/塚田/三丁町/大下/未ノ割/東原/白水沢/宮東/本堂原
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([解説])

善光寺は本堂・山門・仁王門(いずれも文字はない)が一列に並んでいますが、町と接した仁王門のみが赤く塗られていて,十月十八日、本堂入仏。  善光寺地震が起きた3月24日、善光寺は御開帳の最中でした。,5月16日からは大勧進万善堂に安置し、10月18日にようやく本堂に戻りました。  ,吉田(長野市吉田)の天周院(天正院は誤り)では、授戒会(じかいえ)が行われている時に地震が起こり、本堂
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (安茂里村)

/東小屋/弥勒寺御陣山/番場大戸張/中組/当組/遠藤塚/大文坂/里島/朝日官林/城戸/観音前/差出/本堂
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

三井寺持なり、  其後真言宗と成て高野山に属し、また寛永年中東叡山  に属して再び天台宗に帰す、 本堂南向,松を入る、是を親鸞聖人御手生の松といふなり、[毎月朔日に挿代ゆるなり、] 本尊閻浮檀金阿弥陀如来は本堂西屁,の如し、俗間に相  伝ふ、放辟邪侈なる人は此所にて犬と為り、又怪異ありといふ、未詳、 ○御年宮[本堂,の東に有、] ○毘沙門堂[本堂より東二丁に  あり、別当所の別業爰に有、] ○納骨堂[本堂の乾にあり,、]此辺本堂の裏通りにて、諸家の石碑  多し、○経蔵[本堂の西ニ有、]高サ四丈六寸二分、横六間三尺二分四方
洒落見絵図 ([解題])

寺の和尚が地蔵菩薩本堂建立の寄付を使い込むので、石の地蔵尊自らが寄付に出歩く。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (長野町)

墓/圧死人之墓/死事者之墓/本城墟/大峯城墟/真慶寺廃址/十二院廃寺跡/宝林院廃址/宝勝院廃址/如来本堂跡
善光寺道名所図会 (○小県郡上田)

現在の国分寺は、寺跡の北方400メートルの地にあり、本堂は薬師堂または八日堂と呼ばれています。
善光寺道名所図会 (○筑摩 会田)

山門は、天明3年(1783)、本堂は、享和3年(1803)の再建です。
パスファインダー (善光寺四十九霊地)

5 書名 国宝善光寺本堂保存修理工事報告書 著者名 文化財建造物保存技術協会/編 出版社
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

       (略)          30   ○大宝山正行寺[東派松本御坊と称す、本堂十二間四面,禅宗済家京都妙心寺にぞくす、]信濃百番の内四番の札所なり、   本尊千手観音[聖徳太子御作] 秋葉社[本堂,の後に在、] 楼門[本堂の前にあり、]   稲荷社[客殿後の山手に在、] 鎮守権現[十八丁奥の山上にあり,○若沢寺[上波田村水沢のあり、真言宗京都智積院に属す、]寺領十石、境内囲三里半程、末寺四ヶ寺   本堂本尊不動明王立像
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

○鐘楼(本堂の東にある) ○毘沙門堂(本堂から東へ2丁の所にある。,大勧進の別荘がここにある) ○納骨堂(本堂の北西にある)この辺りは本堂の裏通りで、諸家の石碑がたくさんある,○経蔵(本堂の西にある)高さ4丈6寸2分、横6間3尺2分四方である。,今は親鸞松と言い伝えている(本堂正面の太鼓壇にある。毎月1日に差し替えている)。,本堂からこの礎石まで、長さ4丁、幅3間余の敷石が、碁盤の目のように敷き詰められている。
地震後世俗語之種 (絵の解説)

2-67  大勧進万善堂の仮堂に一旦安置されていた本尊は、10月18日の昼前、7か月ぶりに本堂に帰りました,2-71  ご本尊を大勧進から本堂にお移しする行列です。,本堂の屋根に横線が見えますが、これは現在のように檜皮葺(ひわだぶき)ではなくて、栩葺(とちぶき)(板葺
寛保二年八月上畑村水災救恤願 ([解説])

また本堂には、表に「流死万霊等」と記され、裏に二〇〇人余りの名前が記された位牌が安置されている。
寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願 ([解説])

また本堂には、表に「流死万霊等」と記され、裏に二〇〇人余りの名前が記された位牌が安置されている。
寛保二年十月上畑村総百姓往還道・屋敷移転取極証文 ([解説])

また本堂には、表に「流死万霊等」と記され、裏に二〇〇人余りの名前が記された位牌が安置されている。
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

本堂は12間四方、太子堂・経堂・佐々木堂・鐘楼があり、末寺は、妙勝寺・玄正寺・芳仙寺・浄信寺の4か寺です,明治19年(1886)2月8日の松本の北深志町の大火で、本堂・庫裡・廻廊・観音堂などを焼失。,本尊千手観音(聖徳太子作)、秋葉社(本堂のうしろ)、楼門(本堂の前)、稲荷社(客殿うしろの山手)、鎮守権現,楼門(山門)は享保期に、また「本堂」(観音堂)は宝暦11年(1761)の建立です。,本堂本尊は不動明王立像(弘法大師作)、観音堂本尊(行基作)。  
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 ([翻刻])

本尊阿弥陀如来 御長ヶ二尺八寸 本堂九間四面〇此寺往昔三州賀茂  源信和尚御作也。  ,夲堂建立ハ人皇三十  六代皇極天皇の勅願也。開基ハ本多善光朝臣也。    ,親鸞松 本堂右の間、内陣本堂前惣戸帳の前、結界の内に大机あり。,本堂十二間四面、経堂一区、坊舎三坊。本尊阿弥陀  如来[開基西念坊百歳にして作]。,本堂九間。
善光寺道名所図会 (○筑摩 麻績)

本堂は天保年間(1830~1844)の再建で、本尊は阿弥陀如来坐像です。  
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 ([現代訳])

本堂9間四方。  ,本堂の建立は、人皇36代皇極天皇の勅願である。開基は本多善光朝臣である。      ,親鸞松  本堂右の間、内陣の本堂前の総戸帳の前の結界の内に、大机があり、その上の大きな花瓶に松を一本立,本堂12間四方、経堂一棟、坊舎3坊。本尊阿弥陀如来(開基西念坊の百歳での作)。  ,本堂9間。蓮師堂には蓮如上人御自画の真像を安置している。
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2) ([翻刻])

怪我無之、田畑ハ移(夥)敷押流申候、  同日同刻ニ本町東沢川・中沢川同事(時)ニ水出、本町・六供・成就寺本堂,而町御同心町家数十二軒、下御目付家壱軒、都合十三流、六供・田町ニ而  宅応寺一宇も不残流、尊立寺一宇も不残、実大寺本堂計残, 御請不被成候、吉田様ニ者祇園之流残之寝殿にて御弁当被成、大沢式部様・佐藤善太夫様ニ者実大寺流残之本堂之内
松本繁昌記 上・下 (2人の編輯人)

関口友愛は、年嘉永5年(1852)に、松本藩士関口友忠の長男として松本堂町に生まれました。
パスファインダー (善光寺史の研究)

雑誌名 長野 巻号頁数 第29号 2 論題名 江戸時代の善光寺の行事・・・安永五年「本堂日用行事控
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2) ([現代訳])

同日同刻に本町を挟むように流れる東沢川(松井川)と中沢川で同時に泥流が発生し、本町・六供(ろっく)・成就寺本堂,六供・田町においては、宅応寺・尊立寺は一宇も残さず流され、実大寺は本堂だけが残りました。,大沢式部様・佐藤善太夫様は、実大寺の流れ残りの本堂で弁当を食べられました。
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