機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
キーワード一覧
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 68件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 2ページ
パスファインダー
(善光寺本堂の建築)
善光寺
本堂
の建築 トピック(テーマ) ねらい 善光寺
本堂
の建築 宝永4年(1707),に造られた善光寺の
本堂
は、撞木造りと呼ばれる独 特の縦長な建築で、江戸中期を代表する仏教建築として国宝,キーワード 善光寺
本堂
金堂 修理 国宝 如来堂 檜皮葺 桧皮葺 撞木造り 外陣 中陣 内陣 ,修理工事の報告だけでなく、
本堂
にか かわる史料も充実している。,の建築様式の変遷 小林計一郎/著 長野 1990.1 第194号 善光寺
本堂
昭和大修理完成記念号 善光寺
本堂
/ 善光寺
本堂
の建築
松代まちあるきマップ
(10象山恵明寺)
文政八年(一八二五)、
本堂
から出火。のち再建したが、今度は不二庵から出火。,山門を残し、
本堂
・霊屋・庫裡・鐘楼が焼失。仏像・仏画・什物も灰燼に帰した。,天保(てんぽう)四年(一八三三)、八代幸貫が
本堂
・御霊屋・鐘楼・庫裏など諸堂を再建。堂内には釈迦三尊、,
本堂
に松代七福神巡りの「布袋像」を安置。 国登録有形文化財
信州善光寺御堂額之写
([解説])
江戸時代の善光寺は、
本堂
に絵馬を奉納する習慣がありました。,「御堂額」とは、善光寺の
本堂
に奉納された絵馬のことです。,善光寺
本堂
は明治41年(1908)に特別保護建造物に指定されたため、堂内に絵馬を掲げることができなくなりました,その絵馬は「幽霊の絵馬」として
本堂
内でも有名なものでした。
松代まちあるきマップ
(47真光(信広)山 林正寺)
昭和二十七年(一九五二)、長国寺から松代藩真田家二代藩主真田信政の御霊屋を移し、
本堂
とした。,御霊屋(
本堂
)は万治三年(一六六〇)の建立で、入母屋作り桟瓦葺き、内部は桃山様式の豪華な極彩色で、三十六歌仙,
本堂
および表門は県宝。真光寺夜泣き石「岩船地蔵」は、子供の夜泣き止めに効用があるとして信仰された。
松代まちあるきマップ
(33尼巌山浄福寺)
本堂
は安政年間(一八五四~一八六〇)に再建、その後焼失したが、明治期に入り
本堂
と庫裡を、大正十五年(一九二六,
本堂
前には神聖な白皮松が生い立つ。藩御用商人・豪商八田家の墓地がある。
善光寺独案内
(『善光寺独案内』に収録された伝説)
弁慶ねじり柱 善光寺
本堂
の東向拝(ごはい)の柱で、一般には「地震柱」と呼ばれています。,亡者塚 善光寺
本堂
前の護法石(山王塚と諸神塚)は、
本堂
を建立した際に使用した大工道具を埋めて、
本堂
地震後世俗語之種
(著者)
という土産物の出店を出し、出入りの大工に店を任せていましたが、夕食後に家族そろって出店に出かけ、一人で
本堂
,に参拝して
本堂
を出たところで大地震に遭いました。
地震後世俗語之種
(著者)
という土産物の出店を出し、出入りの大工に店を任せていましたが、夕食後に家族そろって出店に出かけ、一人で
本堂
,に参拝して
本堂
を出たところで大地震に遭いました。
パスファインダー
(善光寺の火災と復興)
「現
本堂
は、元禄5年(1692)に計画され、途中で火災があったりして手間 取った末、宝永4年(1707,その前期は、善光寺 が独自で
本堂
造営を企てた時期、後期は、幕府が善光寺のみでは
本堂
造営はおぼつかないと,(第二章
本堂
の造営より) 2 書名 著者名 出版社 出版年 内容紹介 3 書名 著者名 出版社,出版年 善光寺の匠と技:絵で見る善光寺
本堂
の造営 相原文哉/著 銀河書房 1987年 善光寺
本堂
,論題名 著者名 雑誌名 巻号頁数 文永五年善光寺炎上をめぐって 片山正行 須高 25号 善光寺
本堂
松代まちあるきマップ
(40無漏山実相院)
本堂
には二代藩主信政、三代藩主幸道、幸道の母の位牌を祀る。,昭和二十六年に焼失した
本堂
は、同四十八年に再建され、現在に至っている。
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部
(著者、絵師等)
当時は
本堂
内で夜間の参籠(お籠り・お通夜)が行われていて、
本堂
内で夜を明かした人々は引き続いてお朝事に
松代まちあるきマップ
(21晧月山大英寺)
旧
本堂
は、五間四方入母屋造り。大蓮院(小松姫)の霊屋(県宝)で真田家最大最古のもの。,境内入口の信徒会館(現
本堂
)には、六文銭の鎧、葵の紋の陣羽織姿の勇ましい小松姫を描く掛け軸。
松代まちあるきマップ
(22寒松山 大林寺)
その後、槍術場の建物を、長国寺と分け、
本堂
兼庫裡としたが、明治二十四年の大火で再び焼失。,現
本堂
は四十五年建立。本尊釈迦牟尼如来は、左手に蓮の蕾を持つ拈華微笑坐像(ねんげみしょうざぞう)。
松代まちあるきマップ
(32芳谷山 梅翁院)
現
本堂
は、文久元年(一八六一)に再建された。天蓋は、真田家御霊屋から移したもの。,
本堂
の右手に魚濫観音祈願殿。右京が篤く信仰した魚濫(藍)観世音菩薩(江戸中期の作)を祀る。
小諸洪水流失改帳
([翻刻])
改頁) 20 實大寺 一 眠蔵 庫裏 表門 釣鐘
本堂
残, 不残押流 尊立寺 一
本堂
眠蔵 庫裏 番神堂 釣鐘 寺中不残押流 宅應寺 一
本堂
, 眠堂 庫裏 (改頁) 御長屋不残押流 成就寺 一
本堂
善光寺道名所図会
(○筑摩 郷原)
本堂
本尊は大日如来、観音堂の正観音は、聖徳太子の作といい、信州百番のうち28番の札所です。,
本堂
南側に、高さ63センチメートルの自然石に刻んだ芭蕉の句碑があります。
地震後世俗語之種
(絵の解説)
1-36 御開帳中の善光寺
本堂
前に建つ回向柱です。,善光寺の
本堂
前と思われます。,1-70
本堂
から避難する善光寺本尊の御輿です。,1-71
本堂
の東側、城山方面から見た善光寺です。,江戸時代には
本堂
の柱や壁に沢山の落書きがありました。
『長野史料』索引
([翻刻])
16 善光寺別当伝 御造営入料帳 元禄ヨリ宝永ニ亘ル
本堂
建築費用,御
本堂
古事控 仏四 御
本堂
屋根葺替入料帳 仏四 山門経蔵屋根見積帳, 仏四 寛文元禄宝永
本堂
設計ノ異同 仏五 十夜仏由来 人三
松代まちあるきマップ
(36杵渕山福徳寺)
一説には安置した夜、護摩堂から
本堂
まで火炎が激しく立ち上り、村人たちが恐がって取り外したという。
松代まちあるきマップ
(26高安山龍泉寺)
なお、かつて龍泉寺にあった大きな閻魔像は、現在、善光寺
本堂
に祀られている。
松代まちあるきマップ
(41龍潭山明徳寺)
本堂
裏に蛙合戦で有名な庭池があり、初夏、産卵期を迎えたひきがえるが群集する。
善光寺道名所図会
(○筑摩 郷原)
居見へて、稲荷の祠あり、郷原の産上神とす、 ○郷福寺[桔梗山白馬院と号す、真言宗京知恩院に属す、]
本堂
本尊
松代まちあるきマップ
(38真田林大鋒寺)
文政七年(一八二四)に
本堂
と墓地を大改修。藩は寺領百石を寄進、金井山と金井池は放生山・放生池として、周辺一帯
松代まちあるきマップ
(44関谷山西楽寺)
#160; 44 関谷山西楽寺 西楽寺 西楽寺
本堂
松代まちあるきマップ
(48松操山典廏寺)
本堂
内に鶴巣寺本尊といわれる薬師如来像。
善光寺独案内
([現代訳])
女は
本堂
に入って、牛の行方や、布を取り返すことを如来に祈り通夜した。,定額山善光寺 二天前より正面に見える
本堂
まで4丁。,納骨堂
本堂
の北西にある。人はこのお堂に歯骨を納める。 ,
本堂
が落成して冬になると、阿闍梨ヶ池の上に蝶が2羽舞っていた。,善光寺
本堂
より南へ30丁にある。
善光寺独案内
([翻刻])
経蔵
夲堂
前、西の方にあり。高サ 四丈三尺。六間三尺四方なり。 ,鐘楼堂
夲堂
の東の方にあり。 ,納骨堂
夲堂
の乾の方にあり。 人此堂に歯骨を納。 ,
夲堂
成就して冬になり、阿 闍梨ケ池の上に蝶の二羽舞 あり。,如来
夲堂
より南三十丁ニあり。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(徳間村)
腰牧/柳田/土井下/寺下/三反田/石原田/野ハタレ/塚田/三丁町/大下/未ノ割/東原/白水沢/宮東/
本堂
原
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図
([解説])
善光寺は
本堂
・山門・仁王門(いずれも文字はない)が一列に並んでいますが、町と接した仁王門のみが赤く塗られていて,十月十八日、
本堂
入仏。 善光寺地震が起きた3月24日、善光寺は御開帳の最中でした。,5月16日からは大勧進万善堂に安置し、10月18日にようやく
本堂
に戻りました。 ,吉田(長野市吉田)の天周院(天正院は誤り)では、授戒会(じかいえ)が行われている時に地震が起こり、
本堂
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(安茂里村)
/東小屋/弥勒寺御陣山/番場大戸張/中組/当組/遠藤塚/大文坂/里島/朝日官林/城戸/観音前/差出/
本堂
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
三井寺持なり、 其後真言宗と成て高野山に属し、また寛永年中東叡山 に属して再び天台宗に帰す、
本堂
南向,松を入る、是を親鸞聖人御手生の松といふなり、[毎月朔日に挿代ゆるなり、] 本尊閻浮檀金阿弥陀如来は
本堂
西屁,の如し、俗間に相 伝ふ、放辟邪侈なる人は此所にて犬と為り、又怪異ありといふ、未詳、 ○御年宮[
本堂
,の東に有、] ○毘沙門堂[
本堂
より東二丁に あり、別当所の別業爰に有、] ○納骨堂[
本堂
の乾にあり,、]此辺
本堂
の裏通りにて、諸家の石碑 多し、○経蔵[
本堂
の西ニ有、]高サ四丈六寸二分、横六間三尺二分四方
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(長野町)
墓/圧死人之墓/死事者之墓/本城墟/大峯城墟/真慶寺廃址/十二院廃寺跡/宝林院廃址/宝勝院廃址/如来
本堂
跡
善光寺道名所図会
(○小県郡上田)
現在の国分寺は、寺跡の北方400メートルの地にあり、
本堂
は薬師堂または八日堂と呼ばれています。
パスファインダー
(善光寺四十九霊地)
5 書名 国宝善光寺
本堂
保存修理工事報告書 著者名 文化財建造物保存技術協会/編 出版社
善光寺道名所図会
(○筑摩 会田)
山門は、天明3年(1783)、
本堂
は、享和3年(1803)の再建です。
善光寺道名所図会
(○筑摩 松本)
(略) 30 ○大宝山正行寺[東派松本御坊と称す、
本堂
十二間四面,禅宗済家京都妙心寺にぞくす、]信濃百番の内四番の札所なり、 本尊千手観音[聖徳太子御作] 秋葉社[
本堂
,の後に在、] 楼門[
本堂
の前にあり、] 稲荷社[客殿後の山手に在、] 鎮守権現[十八丁奥の山上にあり,○若沢寺[上波田村水沢のあり、真言宗京都智積院に属す、]寺領十石、境内囲三里半程、末寺四ヶ寺
本堂
本尊不動明王立像
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
○鐘楼(
本堂
の東にある) ○毘沙門堂(
本堂
から東へ2丁の所にある。,大勧進の別荘がここにある) ○納骨堂(
本堂
の北西にある)この辺りは
本堂
の裏通りで、諸家の石碑がたくさんある,○経蔵(
本堂
の西にある)高さ4丈6寸2分、横6間3尺2分四方である。,今は親鸞松と言い伝えている(
本堂
正面の太鼓壇にある。毎月1日に差し替えている)。,
本堂
からこの礎石まで、長さ4丁、幅3間余の敷石が、碁盤の目のように敷き詰められている。
寛保二年八月上畑村水災救恤願
([解説])
また
本堂
には、表に「流死万霊等」と記され、裏に二〇〇人余りの名前が記された位牌が安置されている。
寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願
([解説])
また
本堂
には、表に「流死万霊等」と記され、裏に二〇〇人余りの名前が記された位牌が安置されている。
寛保二年十月上畑村総百姓往還道・屋敷移転取極証文
([解説])
また
本堂
には、表に「流死万霊等」と記され、裏に二〇〇人余りの名前が記された位牌が安置されている。
地震後世俗語之種
(絵の解説)
2-67 大勧進万善堂の仮堂に一旦安置されていた本尊は、10月18日の昼前、7か月ぶりに
本堂
に帰りました,2-71 ご本尊を大勧進から
本堂
にお移しする行列です。,
本堂
の屋根に横線が見えますが、これは現在のように檜皮葺(ひわだぶき)ではなくて、栩葺(とちぶき)(板葺
善光寺道名所図会
(○筑摩 松本)
本堂
は12間四方、太子堂・経堂・佐々木堂・鐘楼があり、末寺は、妙勝寺・玄正寺・芳仙寺・浄信寺の4か寺です,明治19年(1886)2月8日の松本の北深志町の大火で、
本堂
・庫裡・廻廊・観音堂などを焼失。,本尊千手観音(聖徳太子作)、秋葉社(
本堂
のうしろ)、楼門(
本堂
の前)、稲荷社(客殿うしろの山手)、鎮守権現,楼門(山門)は享保期に、また「
本堂
」(観音堂)は宝暦11年(1761)の建立です。,
本堂
本尊は不動明王立像(弘法大師作)、観音堂本尊(行基作)。
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部
([翻刻])
本尊阿弥陀如来 御長ヶ二尺八寸
本堂
九間四面〇此寺往昔三州賀茂 源信和尚御作也。 ,
夲堂
建立ハ人皇三十 六代皇極天皇の勅願也。開基ハ本多善光朝臣也。 ,親鸞松
本堂
右の間、内陣
本堂
前惣戸帳の前、結界の内に大机あり。,
本堂
十二間四面、経堂一区、坊舎三坊。本尊阿弥陀 如来[開基西念坊百歳にして作]。,
本堂
九間。
善光寺道名所図会
(○筑摩 麻績)
本堂
は天保年間(1830~1844)の再建で、本尊は阿弥陀如来坐像です。
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部
([現代訳])
本堂
9間四方。 ,
本堂
の建立は、人皇36代皇極天皇の勅願である。開基は本多善光朝臣である。 ,親鸞松
本堂
右の間、内陣の
本堂
前の総戸帳の前の結界の内に、大机があり、その上の大きな花瓶に松を一本立,
本堂
12間四方、経堂一棟、坊舎3坊。本尊阿弥陀如来(開基西念坊の百歳での作)。 ,
本堂
9間。蓮師堂には蓮如上人御自画の真像を安置している。
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([翻刻])
怪我無之、田畑ハ移(夥)敷押流申候、 同日同刻ニ本町東沢川・中沢川同事(時)ニ水出、本町・六供・成就寺
本堂
,而町御同心町家数十二軒、下御目付家壱軒、都合十三流、六供・田町ニ而 宅応寺一宇も不残流、尊立寺一宇も不残、実大寺
本堂
計残, 御請不被成候、吉田様ニ者祇園之流残之寝殿にて御弁当被成、大沢式部様・佐藤善太夫様ニ者実大寺流残之
本堂
之内
松本繁昌記 上・下
(2人の編輯人)
関口友愛は、年嘉永5年(1852)に、松本藩士関口友忠の長男として松
本堂
町に生まれました。
パスファインダー
(善光寺史の研究)
雑誌名 長野 巻号頁数 第29号 2 論題名 江戸時代の善光寺の行事・・・安永五年「
本堂
日用行事控
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([現代訳])
同日同刻に本町を挟むように流れる東沢川(松井川)と中沢川で同時に泥流が発生し、本町・六供(ろっく)・成就寺
本堂
,六供・田町においては、宅応寺・尊立寺は一宇も残さず流され、実大寺は
本堂
だけが残りました。,大沢式部様・佐藤善太夫様は、実大寺の流れ残りの
本堂
で弁当を食べられました。
地震後世俗語之種
([現代訳])
善光寺
本堂
は大伽藍で、あまねく世の人の知るものですが、わずか5年で完成したことは本当に尊敬に値することです,その概要を記しますと、
本堂
(桁行29間3尺1寸5分・梁行13間7寸5分)高さは礎石から箱棟まで9丈,ここから善光寺
本堂
まで左右に家並みが続き、商人たちが思い思いに店を構えて家業に励んでいます。,二天門跡から敷石の道を4丁歩けば
本堂
です。,御
本堂
の裏はまた別です。
/ 2ページ