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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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諸国道中商人鑑 (4 小田井から本山まで)

本陣や脇本陣などの大きな旅籠屋には飲食物の広告は見られない。  ,岩村宿の旅籠屋は8軒と少なく、本陣や脇本陣のない宿駅であった。,本陣1、脇本陣4と宿の大きさに比して脇本陣が多いのは、3カ村から人家が集められたことに起因しているのであろうか,天保14年の明細帳によると、町の長さは6丁余、総家数82、本陣1、脇本陣1、旅籠屋が9軒であった。,宿の中央には本陣と脇本陣が置かれ、問屋は両家が交代でつとめた。
パスファインダー (北国街道小諸宿)

書名 著者名 出版社 出版年 中山道 追分宿 海野宿 田中宿 参勤交代 加賀藩 佐渡金山 蠟 本陣, 脇本陣 問屋 戌の満水 小諸市誌 歴史編(三)近世史 小諸市誌編纂委員会/編 小諸市教育委員会,資料で見る郷の歴史 塩川友衛/編 塩川友衛 信毎書籍出版センター 1997.4 内容紹介 本陣,・脇本陣など宿泊施 設について解説する。,道研究会/解説 信濃毎日新聞社 1981.4 内容紹介 北国街道の紹介で、小諸城三ノ門や本陣
善光寺道名所図会 (○筑摩 洗馬)

洗馬宿本陣の百瀬氏と志村氏の林泉は中山道にも珍しいといわれています。,慶安4年(1651)に戸数117軒、天保14年(1843)に163軒で、本陣・脇本陣・問屋などは中央部,本陣の南側に、正徳2年(1712)から江戸の板橋宿とともに幕府の貫目改所がおかれ、継ぎ立荷物の目方を検査,年(1932)の大火で洗馬宿の大部分を焼失しましたが、善光寺道との分岐の石標・邂逅(おおた)の清水・本陣,・協本陣の庭園などにわずかに昔の面影をとどめています。        
善光寺道名所図会 (○筑摩 会田)

○筑摩 会田 26右   七町程相対して巷をなす、本陣横内氏が林泉佳景也、乱橋 迄壱里十二丁、此間立峠也
善光寺道名所図会 (○小県郡上田)

         18左   加賀川 深山数多乃溪水落合て千隈川に入なり、慶長の頃上田勢国 分寺を本陣
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([翻刻])

流死三百四拾人、馬拾四疋、流潰家弐百七軒       尚御城下之分此外通かゝり候旅人数不 知申候、本陣
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (奈良井村)

浄竜寺上知山林/寺林/寺林/峠山林/峠山林/峠山林/清高寺山林/諫原山林/峠山林/上ノ山山林/池ノ沢山林/本陣林
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([現代訳])

本陣・問屋・庄屋でも流死者がでました。 一 佐久郡は大災害となっています。
善光寺道名所図会 (○筑摩 洗馬)

分凌ぎ、桔梗が原の曠野に出るの始なり、よつて木 曽の咽喉なりと謂ふ、繁昌の宿駅にして、遊女等多し、本陣
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([解説])

問屋と本陣を兼ねていた小田中家の当主と家族は流死、実家に帰っていた左太夫が生き残ったといわれています。,本陣、問屋、庄屋の人々も流死しました。
諸国道中商人鑑 (3 松井田から追分まで)

文久元年(1861)11月8日、和宮御降嫁の際の本陣御宿泊所となったことが大きなできごとであった。,安永2年の大火では総戸数140戸のうち104戸が焼失、文化12年には本陣と大家5軒、昭和26年の大火ですべての
秀吉と真田 (神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き)

これは漢の張良の故事で、帷幄とは作戦計画を立てる所、本陣、本営の意。 [目録]
秀吉と真田 (真田幸村と大坂の役)

その翌二十年の夏の陣で幸村は、徳川軍の本陣を突き崩し家康を危機に陥れる程の大活躍ののち討死したと伝える
善光寺道名所図会 (○小県郡上田)

慶長の頃、上田勢(注5)は国分寺を本陣として、20町ほど東の加賀川に柵を構えたといわれています。  
善光寺道名所図会 (○筑摩 会田)

本陣の横内氏の林泉は佳景です。
天保飢愁 ([解説])

表紙に付記された「(東山堂主人)」が正しいとすると、松原晋蜂は上田宿の「松屋伝八郎・東山堂」として「脇本陣代
小諸洪水流失改帳 ([解説])

このうちの本町が壊滅的な被害を受けたのである(史料には、本町では「本陣・問屋」などが流され、「亡所」になったと
寛保二年大洪水余禄 ([解説])

このうちの本町が壊滅的な被害を受けたのである(史料には、本町では「本陣・問屋」などが流され、「亡所」になったと
小諸大変書 ([解説])

このうちの本町が壊滅的な被害を受けたのである(史料には、本町では「本陣・問屋」などが流され、「亡所」になったと
寛保二年小諸大洪水変地絵図(1) ([解説])

このうちの本町が壊滅的な被害を受けたのである(史料には、本町では「本陣・問屋」などが流され、「亡所」になったと
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2) ([解説])

このうちの本町が壊滅的な被害を受けたのである(史料には、本町では「本陣・問屋」などが流され、「亡所」になったと
信濃名勝詞林 (越路廼日記)

【注6】 追分宿には脇本陣が二軒あり、そのうちの一軒が油屋小川助右衛門家である。
龍駕の跡 (龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))

行在所(あんざいしょ)は旧本陣たる佐藤織衛の邸内にして「行在所」と厳(いかめし)く記したる表門より遥入,12  行在所は旧本陣小田中重右衛門方なり、昔時は本海野にも旧本陣有りて、上半月を田中にて勤め、下半月,街を遊覽すること数次学生等は本陣より下に十三校、各学銘旗を立て並列重畳(ちょうじょう)せり。,御板輿(いたこし)に召し替へて渡らせ給ひ篠ノ井を経て旧本陣伊藤盛太郎方に著御在らせらる。,原村御発輦丹波島区会所[旧本陣柳島ひでの邸宅]構内なる御小休所に著御在らせ給ふ。
善光寺道名所図会 (○別所温泉)

いざや出浦を遠見せんと下郎の躰に省し、百姓の孕馬に   単鞍置て打乗り、山上より篤と見届、手塚・樋口を本陣
上田の早苗 ([翻刻])

ヨリ木戸ヲ  開キテ突テ出寄手ノ先陣ツキ立テラレケル処城中ヨリ左衛門佐大勢ヲ随ヒテ秀  忠卿ノ御本陣, の良材を悉く伐出して火災の普請料に下されたり、   因曰、明治二巳年八月百姓暴動放火の時海野町本陣柳沢太郎兵衛,  歩金閉塞を名として、村吏之宅を破壊焼払乱暴之末、上田城下へ   来り、問屋太郎兵衛宅へ 海野町本陣
寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)

断るより外なしと了簡を究め平生  心友にて万事咄合致ス心友の朋友三日町村伊兵衛殿子息後に松島  本陣,之寛政十一春松島にて類焼之節ハおばさまも御同居故其夜忠吉ヲ  脊負ひ御働被成候 其後木下へ暫く御預ケ申置本山宿本陣小林氏,を霞と当テなし  の御浪人故最早手切と相成木下町ニ御座候を雨沢直治正盛隠居の  御世話ニて本山宿本陣小林氏江後妻,私宅ニ而拙を負  ひ御働被成候よし 本山へ御出之後も倉沢へ御出之度毎叔母様ニ  ハ御出被下候 御本陣,言の葉何とかゝまし                            同  中山道美江寺宿の本陣山本宇兵衛俳号雪香園主人
むしくら日記 (2巻 亨)

まゝあり、水も能湛て   木艸も生茂りたれど、いたく狭みて形チ残りたる   のみ也、今度御巡見の時御夲陣,打立、 西寺尾に行、甚七郎を伴ひうち立し也、 ○上野村明松寺も、兼て御巡見の【(付箋)「明松寺ハ御本陣,の御ならしハ無御座候」】時御夲陣のなら し也しが、一揺に地われ、庫裡も本堂も潰れながら 割目へ狭まり
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2) ([翻刻])

稲荷之御宮、御銭蔵・御詰蔵、御城裏  御馬場無残所御覧被遊、夫レより瓦御門江御出被成、本町押流御覧、本陣清兵衛屋敷跡
善光寺道名所図会 (○別所温泉)

若大将義仲は、出浦を遠見しようと、身分の低い者の姿で百姓の馬に乗り、山上からしっかり見届け、手塚と樋口を本陣
むしくら日記 (2巻 亨)

今度のご巡見の時にご本陣になるはずの所だからと、その準備に建てた駒建だけは倒れもせずにそのままにあります,◯上野村明松寺もかねてご巡見の時のご本陣のならわしでしたが、(付箋)(明松寺はご本陣のならわしはございません
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2) ([現代訳])

本町問屋平右衛門、本陣清兵衛の家は破風のついた高い家ですが、泥流はその棟を越えました。
善光寺独案内 ([現代訳])

この館は旧本陣で、ふぢや平五郎という旅館である。   二天前  大門町上の辻をいう。
北向山霊験記 戸隠山鬼女紅葉退治之伝 全 ([翻刻])

然(しか)れ共(ども)今度(こんど)敗北(はいぼく)の容子(ようす)がら、君(きみ)の御本陣(ごほんぢん,不肖(ふしょう)なれ共(ども)拙者(せっしゃ)めへ御許(おゆる) しあらば、早速(さっそく)に御本陣,(ふ)し、江上四郎(えがみしらう) にまかせしかバ、四郎(しらう)は急(いそ)ぎ出浦(でうら)の御本陣,成田(なりた)がおもふ子細(しさい)あれバ、一騎(いっき) 打(うち)にて御本陣(ごほんぢん)へ御注進,斯(か)くて成田(なりた)ハ御本陣(ごほんぢん)に走(は)せ付(つけ)、先(ま)づ金剛兵衞政 景(こんごうひゃうゑまさかげ
地震後世俗語之種 ([翻刻])

渡船 口は、最も上なるときは裾花川を渡りそれより 南して丹波島駅本陣の真北にあたり、最下 なるときは
地震後世俗語之種 ([現代訳])

舟着き場は最も川上にあった時は、裾花川の合流点を過ぎてそこから南下して、丹波島宿本陣の真北に当たる場所
贈答百人一首 ([本文、奥付])

九州を責随へ帰陣の時、筑前博多の町に着給ふ、此所前(さき)に兵火のため荒野となりしかば、箱崎の神殿を本陣
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