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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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パスファインダー (松本城下町の移り変わり)

松本城下町の移り変わり トピック(テーマ) 松本城下町の移り変わり ねらい,資料リスト 雑誌 インターネット情報 2 書名 著者名 出版社 出版年 松本城下町の繁栄,著者名 出版社 出版年 中藤淳/著 中藤淳 1987 後世に伝えたい…松本城下町10景 「,国宝松本城を世界遺産に」推進実行委員会 2005.1 内容紹介 国宝松本城を、松本市の新たな,1 論題名 近世松本城下町成立期の様相 著者名 田中薫 雑誌名 信濃 出版年 1983 巻号頁数 [第 / 松本城下町の移り変わり
パスファインダー (松本城天守を守った市川量造)

松本城天守を守った市川量造 トピック(テーマ) ねらい キーワード 概要を知るための ツール,資料リスト 雑誌 インターネット情報 松本城天守を守った市川量造 明治初期の筑摩県の時代,に、松本城天守を博覧会の開催などをとおし て守った市川量造について、調べる。,市川量造 松本城 国宝松本城天守 筑摩県 永山盛輝 博覧会 文化 財 1 書名 わたしたちの,: 松本城を守れ! / 松本城天守を守った市川量造
安曇・筑摩両郡旧俗伝 (3、「信府統記」の構成)

まず、「第一諸城記上」は、松本城の開基と城主交替年数並びに諸普請士屋敷割城下の町割と、松本から近国への,第23巻「松本城地形間数記」で、松本城と城下の地形および間数などを詳述して城の規模をまとめています。
安曇・筑摩両郡旧俗伝 (1、「信府統記」の編さん)

月28日、その祖である忠清の時、旧領4万5000石に2万5000石を加封されて、三河国吉田から信濃国松本城,同年7月5日、忠幹の遺領を継ぎ松本城主になった弟の忠恒は、兄忠幹の遺志をつぎ、前記両人に命じて、編さんの
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (北深志町)

ケ輪/西安原/東安原/川北/縄手(なわて) 川: 女鳥羽川/紙漉(かみすき)川溝/麻葉溝/境溝/松本城壕,学校: 長野県師範学校公立松本支校/開智学校二番支校公立女学校/人民共立医学校 古跡・名勝: 松本城址
寛保二壬戌歳満水記 ([解説])

1666)に生まれ、元禄年間(1688~1703)に信濃国絵図調整に携わり、享保10年(1725)の松本城請取
秀吉と真田 (上田城の大改修)

松本城では五層の大天守が築造され、諏訪高島城でも三層ながら天守が建てられた。
秀吉と真田 (昌幸の秀吉への接近)

それにしても、この書状によると秀吉は、松本城主小笠原貞慶と「いよいよ申し談じ、越(落)度なき様に」と指示,いよいよ相談するようにとある小笠原右近大夫とは松本城主小笠原貞慶。
秀吉と真田 (家康重臣石川数正の秀吉への寝返り)

しかも、このとき数正は、松本城主小笠原貞慶の嫡男で人質として岡崎城に差し出されていた秀政を伴ってもいた
信濃地名考 ([解説])

上巻には高遠城と飯山城、中巻には飯田城や松本城、海津城など、下巻には長沼城や上田城、小諸城などの図が挟
善光寺道名所図会 (○筑摩 郷原)

(注)郷原宿は、慶長19年(1614)に松本城主小笠原秀政が、中山道洗馬宿と北国街道を結ぶために、北国脇往還
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

宮村大明神、松本城下の辰巳の方角(南東)にあり、祭神は上諏訪の健御名方命(たけみなかたのみこと)です。,小笠原氏が深志城を築き、ここに移ったときに、社殿を西面に直し松本城の巽の方角の鎮守の神としました。,図の上方に放光寺山(城山)が書かれ、その右側に松本城が書かれています。,慶長年間に松本城濠の拡張のため現在の裏町の場所に移りました。,この道は糸魚川街道で、江戸時代には松本城下から日本海岸の糸魚川までの120キロメートルでした。
善光寺道名所図会 (○筑摩 青柳)

武田と上杉が、天正11~2年(1583、84)に小笠原と上杉が攻防戦をした城で、青柳氏は、天正15年に松本城
分県之建白 (信濃国から二つの県へ)

筑摩県の県庁は旧松本県庁(旧松本城二の丸御殿)とさだめられ、木曽福島宿に取締所、高山に支庁、東京に支庁
『説諭要略』巻一 ([解説])

松本城内の筑摩県庁が開庁したのは五年一月十三日のことであった。
パスファインダー (十返舎一九の『続膝栗毛』)

著] 郷土出版社 1995.5 言修行金草鞋(むだしゅぎょうかねのわらじ) よみがえる城下町・松本 松本城下町歴史研究会
松本繁昌記 上・下 (2人の編輯人)

2人の編輯人 浅井洌は、嘉永2年(1849)松本城下の鷹匠町に松本藩士大岩昌言の3男として生まれ、幼名
諸国道中商人鑑 (4 小田井から本山まで)

松本城主小笠原秀政が慶長19年(1614)本山宿の問屋役を命じた文書が残されている。
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([現代訳])

明日4日朝六時頃、御奉行が松本城下の御徒士町(おかちまち)通り宮本へお出でなさるので、お通りの筋ではいつものように,一、御奉行方の川筋御見分が済み、押野村(おしのむら、安曇野市明科)を早朝に御出立、六九(ろっく、松本城下, 雨 九月三十日     (改頁)   十月一日 天気 御収方 宮村町鈴木彦助、中ノ丁(松本城下,一、金右衛門悴音十は、当四月に助十・徳十頼にて、御上屋敷御出入髪結の伊三郎と申す者が請人で、小柳町(松本城下,神尾喜作殿・増田為右衛門殿・喜多村熊太夫殿・組田蒸三殿・岩井浦右衛門殿が、明後一日に、六九(ろっく、松本城下
信濃奇談 (信濃奇談 下)

堀内元鎧一名鮏字魚卿号菅斎父中邨元恒信州伊那人母北原氏家世業医元恒初試業各処元鎧生于上穗長于大出既而元恒就仕高遠専任儒職元鎧従季父玄三受業于山寺業已成出為松夲堀内玄堂義子玄堂其仲父曩出嗣堀内氏者也翌年仲秋有疾荏苒不愈今兹己丑二月十四日終没亨年二十有三葬松夲城北沢邨賢忠寺後山元鎧為人貞信愨実口絶不道人之過悪善事継母矢野氏及義父母未有疎意是以皆視之猶所生合族感賞他人亦聞其死莫不哀慟其祖淡斎翁以善俳諧歌聞元鎧亦好之元恒聞其疾病走往視之実危篤也請題一句頷而揮毫蓋其旧題得意句也舍筆即暝悲哉
違作書留帳 ([現代訳])

どうしたことか、麦畑が途中からより折れて黄色になり、大不作、 七月二日、松本で火事、本町(ほんまち、松本城下町,心配している、稲穂が早すぎ、粳籾が見える、 うるちうるもみ見へる 八月二日 瑞松寺(ずいしょうじ、松本城下,にあたらなくても病んだまま亡くなる者も数多く、そのほか乞食も、     (改頁)   東町(ひがしまち、松本城下
むしくら日記 (1巻 元)

それから松本城下に行きましたが、町家に倒壊した家は見られませんでした。
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