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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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木曾山林学校 (◎校友会収支決算)

木曾山林学校 / ◎校友会収支決算 31   本会組織変更後、本日に至る会計収支決算を左の通り報告致します,経常部      収入 一、 金7円6銭    繰越金 一、 金8円60銭   会費収入 一、,48円70銭   寄付金収入    合計金48円70銭     支出 一、 金41円64銭   校友会運動会費,銭   差引なし 右之通り相違ありませぬ   明治35年6月15日             校友会幹事長 / ◎校友会収支決算
木曾山林学校 (校友会の起源と岐蘇林友の発達)

木曾山林学校 / 校友会の起源と岐蘇林友の発達 45  吾校の設立は、明治34年の4月で、其歳の7月第2日躍日に在校生即,目的で、茲(ここ)に校友会が創立したのである。,是に於て校友会の面目も一新し、基礎も確定したわけである。,殊に機関雑誌として、校友会報を発行することゝした。,然るを本年5月吾々協議の上、本校々長を会長に推戴しまして校友会を復興し、且つ組織を改正して今日第1回の / 校友会の起源と岐蘇林友の発達
木曾山林学校 (◎木曾山林学校々友会の沿革)

木曾山林学校 / ◎木曾山林学校々友会の沿革 33   本会は名称を木曾山林学校々友会と称して、会員相互,の智識を交換して親密を図り、一致団結するの精神を鞏固にすると云ふ目的で、明治34年7月に当校内に設けられたでしたが,、此時には生徒ばかりで設立したのみでなく其人も少なかつた為(た)めか、2、3度例会を開いたのみで、会毎,様に会則を改めて、今度会誌をも発行して校友相互相頒(わ)かつと言ふことにした。,△創立会 明治34年7月第2日曜日開会    会するもの60名会則を議して左の役員を選定す   一 / ◎木曾山林学校々友会の沿革
木曾山林学校 (◎木曾山林学校々友会々則)

木曾山林学校 / ◎木曾山林学校々友会々則               32      第1章  名称 ,位置 第1条  本会は木曾山林学校々友会と称し木曾山林学校内に設置す      第2章  目的,  本会の目的を達せんが為めに左の方法を設く      1、機関雑誌として年2回校友会々報を発刊し会員,関係ある諸士及本会の趣旨に賛成せらるゝ諸士を以て特別会員とす 第7条  本校在学生を以て通常会員とす,編集長1名 編集員若干名 第11条  会長は本校長を推戴し、副会長・幹事長・編集長は本会の決議により / ◎木曾山林学校々友会々則
木曾山林学校 (◎山林校友会々報の発刊を祝す)

木曾山林学校 / ◎山林校友会々報の発刊を祝す 11           通常会員  坪 倉 藤 三 郎(注16),吾が山林校友会の機関雜誌は今月今日を以て本校内に生れたのであります。,処(ところ)が、本年4月即ち学年試験後に至つて、校長始め先生方より時々(ときどき)校友会は如何(いか),然(しか)るを本年5月吾々協議の上、本校校長を会長に推戴しまして、校友会を復興し且つ組織を改正して、今日第,吾が輩は一同両手を挙げて校友会の万歳を祝する次第であります。 / ◎山林校友会々報の発刊を祝す
木曾山林学校 (24.木曾山林学校々友会々則)

木曾山林学校 / 24.木曾山林学校々友会々則 56      第一章  名称 位置 第1条 本会は木曾山林学校々友会,第4条 本会の為め特に功労ありしものを推挙して名誉会員とす 第5条 本校現職員及び旧職員並に本校卒業生,本会の目的を達せん為左の事業をなす     1、機関雑誌として毎月1回岐蘇林友を発刊する事     ,し、副会長は本校教頭を推薦するものとす 第12条 顧問は各部に之を置き、会長より本校職員中につき委嘱,一、収支決算簿 第20条 本会の収支決算は毎年3月発行の岐蘇林友誌上を以て之を報告す 第21条 本校在学生 / 24.木曾山林学校々友会々則
木曾山林学校 (◎開校一周年紀念祝賀運動会)

木曾山林学校 / ◎開校一周年紀念祝賀運動会 26 去る5月15日は本校開校一周年紀念日に当りますから、祝賀運動会を,校庭に催す目的であつたが、折り悪しくも雨降りとなつたので17日まで延ばして此運動会は開かれたのです。,来賓としては裁判所・郡役所・警察署・税務署・銀行会社・郡参事会員・福島町役場・各学校職員等80余名。,内来賓には「木曾山林学校一周紀念」と染め抜きたる手拭(てぬぐい)一通づゝを配り、正午より生徒校友一同にて,800ヤード   齊藤正雄  三澤義治   青戸為九郎 職員競争    宮田重郎  伊東 淳   林 友重 / ◎開校一周年紀念祝賀運動会
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 ([解説])

「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 / [解説] [目録]     「上田郷友会月報」記念号 -既往80年 宮下釚太郎-の解説 長野県図書館協会,また、上京し東京専門学校(早稲田大学)では小河滋次郎と同寮であったし、勝俣、小河、山極勝三郎等上田郷友会草創,また、旧藩主松平家の家令の任にあり松平家の財産処分に当たるとともに、蚕糸専門学校の上田誘致、上田郷友会郷里部大会,宮下翁は昭和20年まで長寿を保ち、上田郷友会幹事、編集発行人として上田郷友会を支え発展に尽くし、上田郷友会育,早稲田大学)に着くが、学校や寮の様子、そして小河君他同郷の友と再会する。
木曾山林学校 (23.諸種の会合)

木曾山林学校 / 23.諸種の会合 55 (1)全校生徒一般に関するもの (注 「全校生徒一般に関するもの」の表は,するもの (注 「通学生に関するもの」の表は原本ビューワ55コマを参照) 以上列記する処、通学生会あり,、寄宿生会あり、一団としては校友会あり。,各生は是等の会合に於て講演を傾聴し全生一堂の下に会食をなし一     (改頁)      ,きまわる)し、困苦歓楽は相済(すく:たすける)ひて各人の品性を陶冶(とうや:人材を養成すること)し、校風 / 23.諸種の会合
木曾山林学校 (学校要覧)

木曾山林学校 / 同年10月臨時郡会に於て乙種程度の山林学校設立の適切なるを認め全会一致之を可決す 〇同年10月29日郡立乙種山林学校設立,1,500円、36年度以後は毎年金2,000円宛郡立中交付せらるゝことゝなれり 〇同年10月18日校友会報第,1号を発刊す 〇同37年3月第1回卒業生28名を出す 〇同38年12月長野県会に於て明治39年より,校友会雑誌を毎月一回発行の月刊となし、其の第12号を出す ○同44年11月長野県立甲種木曾山林学校を,同時に林業教育品展覧会並に信濃山林会総会及び同購演会を開催し盛況を以て終了す ○同年11月30日新築校舎追加建物林産製造室 / 学校要覧
木曾山林学校 (母校を思ひて)

木曾山林学校 / 母校を思ひて 20           S K 生 山林学校が木曽の谷間に産声を挙げてから20歳漸,此の佳辰(かしん:よき日)に当って山林学校が今後如何にして社会に立つべきかを林友六百の会員と共に研究する,過去の山林学校、兎に角(とにかく)中等程度の林学専門の学校として全国に否海外までも名声を博して来たことは,吾々は今まだ社会校の1年生である。何れに向つても未だ疑問ばかりだ。,、10夜)             南安曇郡烏川(からすがわ)村 農主 黒岩正平(注23) 母校創立記念会 / 母校を思ひて
木曾山林学校 ([解説])

木曾山林学校 / [解説] [目録] 木曽山林資料館 山口登  『木曾山林学校校友会報』1号は、開校2年目に校友会,また校長を会長とした校友会が組織され、生徒・職員のみならず林業界や地元関係者も会員となり、さらに卒業生,が出ると彼らも会員となった。,この会の『会報』は会員相互の親睦を深めることはもちろん、教科書すら満足に揃わなかった時代、教科書や副教材,後、この校友会と『会報』は同校教育推進の大きな原動力の一つとなっていった。
木曾山林学校 (◎発刊の辞)

木曾山林学校 / ◎発刊の辞 木曾山林学校々友會報 第一號      2         (明治35年10月 日発行,)(注1)     ◎発刊の辞   校友会報は校友相互の気脈を通じ智徳を,校友諸君、彼(か)の日光雨露の潤ひを適当ならしむるものは抑(そもそ)も誰ですか。,風雨霜雪寒暑の防御を為(な)すものは、そも誰れか、言はずもがな此の会報の培養者は校友諸君である。,諸君が熱心に会報の為めに骨を折らるゝならば、今や甲拆したる会報は回を重ねて発刊すると共に益(ますます)
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 ([ルビ・注記])

「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 / 上田郷友会設立に関して、詳細なる経緯の、報告を受けた。  ,其の当時、時々出掛けて、上田郷友 会に入会を勧めにゆく。,二日に上田郷友会大会を、神田錦町の錦輝館に開いた。,1903年立憲政友会総裁、06年首相。     ,十二月八日、上田郷友会大会を、富士見楼に開いた、征 清の諸君も見へて、出席五十一名、会費は参拾五銭であっ
木曾山林学校 ([解説])

木曾山林学校 / [解説] [目録] 木曽山林資料館 山口登  第2代校長江畑猷之允は、『木曾山林学校々友会報』の,名称を『岐蘇校友』にかえ、明治43年10月から、それまでの年2回発行を月刊化した。,さらに名称から「校友」を外して『岐蘇林友』とし、19号はその最初の号となった。,こうして同誌は学内の枠を超え、地域への近代林業の啓蒙誌となり、県下の郡役所・町村役場・小学校・青年会などへ,こうした取組みや県外入学生が多いことは地域の人々を動かし、同校を国立化して高等山林学校に昇格させようという
木曾山林学校 ([注記])

木曾山林学校 / 「同年10月18日校友会報第一号を発刊す」(「学校要覧」)としている。,(注12)通常会員:校友会では全在学生徒を「通常会員」として組織した。,校友會報第1号の編集に携わった編集委員の1人。卒業後、長野大林区署に勤務。,校友会発足時は副会長、翌年の校友会再興のとき編集委員となり、この第1号の発刊に奔走した。,校友会幹事を務める。卒業後は帝室林野局名古屋支庁に勤務。
木曾山林学校 ([注記])

木曾山林学校 / [注記] *この注では、木曾山林学校のことを「木曾山林」、校友会報のことを「会報」、岐蘇林友のことを,を受けて「是非、山林学校をつくるべきだ」と郡会に報告したというエピソードがある。,校友會報や岐蘇林友等の発行者にもなっており、印刷所との折衝等に事務方として参画した。,(注37)門田生:当時3年生で、校友会雑誌部長を務めていた。高知県出身。,卒業後、国民英学会英文科に学び、大正10年(1921)2月母校へ赴任。英語担当の教諭心得。
木曾山林学校 ([本文])

木曾山林学校 / 職員名簿    1、旧職員一覧    2、表現職員一覧  (7)卒業生名簿  (8)在学生氏名 校友会,の起源と岐蘇林友の発達 20周年記念号の終に 本校位置略図     (改頁)  ,;      口 絵 写 真 本校新校舎全景/旧校舎/標本室 (注 このページの写真は原本ビューワ,3コマ参照) 初代松田校長/二代江畑校長/現岡部校長/三代安藤校長/四代七宮校長 (注 このページ,の写真は原本ビューワ4コマ参照) 本校講堂/全校生徒 (注 このページの写真は原本ビューワ5コマ参照
木曾山林学校 ([総合解説])

木曾山林学校 / [総合解説] 木曾山林学校は、実業学校令に基づき、我が国最初の森林・林業を専門とする実業学校として、,しかし、同校では旧職員・同窓生らが中心となって奔走し、同校に残された林業および、その教育関係資料(標本類,さらに同年3月には、日本森林学会から同校に残されているこれら資料と、現在も実習で使われている演習林(約,(2)参考資料 ・『校友会報』1号~『岐蘇林友』164号、及びそれらの『総目次』(木曾山林資料館),・木曽山林高校百周年記念誌『山霊生英傑』(木曽山林高等学校) ・『沖縄近代林業の父園原咲也と木曽山林学校
木曾山林学校 (19.在学中学資金予定)

木曾山林学校 / 食費僅少なるに比し食料品は                頗る善良なり 筆墨其他雑費 1円70銭 校友会費,50銭   入学後5月までに新調すべし、但それまでは袴着用                の上出校すべし
木曾山林学校 (◎証書授与式)

木曾山林学校 / はれましたが、来賓には郡役所員・裁     (改頁)   判所長・警察署長・郡参事会員,・郵便電信局長・役場員及び生徒父兄・同保証人等にして、松田校長より学事報告及び、生徒父兄及び修業・卒業生徒,又優等及び精勤出席者に賞品を授与せられ、手塚教諭より生徒一同に対して勉強の必要を訓示せられ、郡視学・郡参事会員等,園原咲也 予科優等生 蜂谷光香・平澤政吉 本科1学年皆勤生 宮下作治・輪湖正由・小瀧升太郎・福田友次郎
木曾山林学校 ([注記])

木曾山林学校 / すでに《解説》で紹介したとおり、卒業生まで巻き込んだ校友会の刷新更張を提唱し、自らそのリーダーとして力強,(注2)本編は……翻訳せし者:1908年ヨセフピステル氏の記事を翻訳したとあるが、この『岐蘇林友』19,しかしその後米国へ渡りワシントン大学で学び、『岐蘇林友』誌にも「民族の興亡と其原理」(152号)などの,しかし在任中は、ドイツ関係の原書を翻訳して『校友会報』や『岐蘇林友』に発表するなど、大きな影響を生徒たちに,初代松田校長、2代江畑校長など歴代校長をはじめ、何人かの教諭は農科大学林学科の卒業生であった。
木曾山林学校 (創立20周年を迎へて所感を述ぶ)

木曾山林学校 / の学生しか居なかった時代であったから、長野県の木曽に郡立の山林学校が出来て松田林学士が校長になられたと,斯(か)く本校が盛大になったのは、松田、江畑、安藤、七宮各校長始め先師諸君の一方ならぬ御努力の賚(たまもの,官公署や民間会社抔(など)に就職する者が多い為め、或る一部には木曾山林学校国立論が唱へらるゝ様になった,校友諸君には外にありて奮闘して母校の声価を益々発揮して戴かねばなりません、内外一団となりて努力したならば,我校の位置は林業の研究には天下無類の地でありますから、追々母校に止(とど)まって研究せんとする者も出来
木曾山林学校 (16.舎生心得)

木曾山林学校 / 寄宿舎は生徒の品性を陶冶し、共同自治の精神を涵養し、智能を錬磨せしむるを以て目的とす 一、寄宿生は本校諸規則,       第二 寄宿舎編制及役員 一、寄宿生を分ちて数組とし、各組に組長1名、各室に室長1名、学友若干名,れが代理たるべし     (改頁)   一、室内の整理・貸与品の保管、学友の,監督命令の伝達、学友の願届等の進達 一、人員検査及其他検査の際は、部下の学友を指定の場所に整列せしむべし,ず 一、荷物を舎外に持出さんとする時は、当直組長を経て舎監に申出で許可を受くべし 一、舎内にて集会を
木曾山林学校 (◎実験談)

木曾山林学校 / ◎実験談 14           通常会員  中 村 茂(注20) 私は林業に志してから至て日,林業上の学識は勿論の事経験も皆無の事ですから迚(とて)も林業上の事には嘴(くちばし)が出ませんが、茲に校友会報,夫(そ)れですから学理に照して相違の点がありましたら、校友諸君の御教示を仰ぎます。
木曾山林学校 (柔道の真価)

木曾山林学校 / 此の記念号に何か書て呉れとの事で御座いましたから、毎月の林友にも御無沙汰のみして居りますから、一寸(ちょっと,自分は大正6年の10月に当校に赴任して体操と柔道を兼務しました。,其の年の5月に自分が京都武徳会へ出演する為め、伊東君をも一所につれて行きました。,此外県下連合マーチにも出演する、学校内にても進級試合をやったりして、益々当校の柔道部は盛んになったのであります,其他中等学校にては正課に加へた学校は実に到る処で然(しかる)べき事と思ふ。
木曾山林学校 ([本文])

木曾山林学校 / [本文] 木曾山林学校要覧 目次      2 1.木曽ノ天然………………………………………………,…………… 12 5.中等程度森林教育ノ方針………………………………………………… 17 6.本校ノ,沿革………………………………………………………………… 28 7.本校ノ目的………………………………,…………………………………………………100 23.諸 種 会 合……………………………………………,……………104 24.校 友 会 則…………………………………………………………106 25.生徒父兄
木曾山林学校 (アイヌ物語)

木曾山林学校 / さればアイヌ種族の現今は天然物のみを友とせし。,お前も言ふまでもない事であるが、良い友達を誘って時折遊びに参り、其の家の好運を計り且つ富ませよ」と親子,は再会を喜んで、之より更に其の家の福来安泰を計るのである。,現今の学校教育に明治中年土人の相当集団せる部落に於てのみ、国費を以て旧土人小学校を設けられ教育の進歩を,其後経験により実際の状況に適せざる所ありしが為、大正の御代となり旧土人児童教育特別法等の規定せらる学校教育
木曾山林学校 (ペテロ大帝と脱走兵)

木曾山林学校 / セン卜ピータースブルグ(注41)でさ、皇帝が造られつゝある新都会でさ。,此の老母はひどくおれに会ひたがった、そしてのみならず此処に恋人が居るのだ。,スタン 何…エー…此が…馬鹿な…  此は私の友人のぺテロです。,士官 彼は軍法会議に廻され、銃殺されなくちゃならん。,スタン 何………吾が昔の友人ぺテロに!  
木曾山林学校 (八戸林学士森林行政論)

木曾山林学校 / )中所有即ち千町歩以上数千町歩以下の森林に至りては国有林の管理員と同資格を有する堪能の職員並低度の学校を,我私有林にありては住友別子鉱業所の如き、古川足尾銅山の如き、北海道炭鉱鉄道会社の如き、小樽木材株式会社
松本繁昌記 上・下 (2人の編輯人)

6年5月「学制」による第一番小学開智学校の開校にともない訓導に命じられました。,明治31年11月、信濃教育会は小学校唱歌教授細目取調委員会を組織し、作詞を委嘱された浅井洌の「信濃の国,関口友愛は、年嘉永5年(1852)に、松本藩士関口友忠の長男として松本堂町に生まれました。,地元の『信飛新聞』に、明治8年9月から連載された関口友愛による、筑摩県の永山盛輝権令(いいまの県知事),の教育方針批判の投書が、讒謗率違反となって、友愛は編集者とともに処罰されました。  
木曾山林学校 (木材の欠乏を憂ふ)

木曾山林学校 / 木材の欠乏を憂ふ 20           松 舘 藤 太 郎(注24) 我が木曽山林学校は明治,34年4月開校以来堅実なる発達を遂げ、茲(ここ)に20周年を迎ふるに至れるは邦家(ほうか:わが国)並に,茲に謹みて満腔(まんこう:胸いっぱい)の熱誠を以て祝意を表し、益々発展斯界(しかい:この社会、その方面,紀念号発刊に際し何れにかと思へども、真の山人にて足は人一倍頑強なるも、口手の発達至つて鈍く林友紙上へも,鳥居峠の頂上にて恩師松田校長先生に邂逅(かいこう:めぐりあうこと)し、茲に青森行に付堅き決心を言上しお
龍駕の跡 (『龍籠の跡』解説)

『龍籠の跡』解説 本書は明治天皇北陸・東海巡行30周年の明治40年9月に、長野師範学校佐々木秀一編集,、学友会発行、印刷信濃新聞株式会社により出版された。  , 印刷・頒布所信濃毎日新聞株式会社)に所収されている。  ,なお、国立国会図書館・近代デジタルライブラリーにおいてもその全文を閲覧することができる。  ,『善光寺街道の近代を歩く』(平成24年11月 善光寺街道協議会編集・発行)
パスファインダー (佐藤寅太郎)

キーワード 小諸尋常高等小学校 小諸小学校 小諸商工学校 岩村中学校 岩村田高等 女学校 浅間山研究会,尋常師範学校出で初の県学務課長・信濃教育会長となっ 内容紹介 た。,2 書名 著者名 出版社 出版年 浅間山 小諸尋常高等小学校 田中書籍出版部(復刻版 国書刊行会,3 書名 著者名 出版社 出版年 小商七十五年誌 長野県小諸商業高等学校小商七十五年誌編集委員会,https://www.echol.gr.jp/ 概要 佐藤寅太郎に関する書籍の他、郷友会月報
パスファインダー (山極勝三郎博士)

上田市裏鎌原 山本政策 滝沢末子 松平学校 正木直太朗 小河滋 次郎 勝俣英吉郎 宮下釚太郎 上田郷友会,出版年 内容紹介 6 書名 世界初の人工発癌に成功した山極勝三郎 (人と学問選書) 小高健/著 学会出版,信州の生んだ世界の偉人山極勝三郎博士:世界最初の人工ガン成功 上田市立第三中学校/編 上田市立第三中学校,3 サイト名 URL https://adeac.jp/shinshu-chiiki/ 上田郷友会月報, 第壱号「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 の画像がある 国立国会図書館サーチ https:/
パスファインダー (伊藤千代子)

トピック(テーマ) 伊藤千代子 ねらい 明治38年に諏訪に生まれ、貧困と社会の,不平等をなくしたいと立ち上が り、昭和4年に24歳で病死した女性の生き方と、当時の社会状況を学 ぶ。,キーワード 伊藤千代子 上條(川上)茂 土屋文明 平林たい子 浅野晃 諏訪高 等女学校 治安維持法,2 書名 著者名 発行者 出版年 時代の証言者 伊藤千代子 増補新版 藤田廣登/著 学習の友社,葛城誉子/著 1998 こころざしいまに生きて 伊藤千代子の生涯とその時代 藤森明/.著 学習の友社
千曲真砂 ([解題])

目録] 千曲之真砂 三 [目録] 千曲之真砂 四 [目録] 千曲之真砂 五 六 高井地方史研究会 ,寺島正友 『千曲之真砂(ちくまのまさご)』は、江戸中期の郷土史家・俳人である瀬下敬忠(せじものぶただ,国立東京博物館所蔵の十巻本を底本としており、その末尾には「惣紙数五百、全部十壱巻、宝暦十四歳甲申春再校合之,これらのことから、著者が宝暦3年に編纂を終えた後、交友の文士たちからの要望に応じて自ら再写して贈答し、,その後さらに校正が加えられ転写されたと考えられる。
パスファインダー (保科百助)

信濃図 書館の創設者、保科塾を創設した育英教育者、信濃公論の発刊者など 様々な面から明治期の教育や社会啓発,を推し進めた五無斎保科百助 を知る キーワード 長野県地学標本 飯山小学校 武石小学校 大豆島小学校,佐久教育会 1969 保科百助の師や友人、教え子などが「五無斎を語る」から彼の業 績や人となりを知ることができる,1 書名 五無斎保科百助全集 著者名 佐久教育界会 出版社 佐久教育界会 出版年,長野師範学校卒業後学校に勤務するが途中退職 内容紹介 し鉱石標本作りを始めるが生計は立たず
パスファインダー (三吉米熊)

、藤本善右衛門、大里忠一郎、田中甚平、 木村九蔵、三吉愼蔵日記、イタリア・フランス留学、パリ万国博覧会、,ノ農業博物館、パドヴァ蚕業講究所、トリノ製糸場、中島精一、工藤善 助、井出喜重、信濃毎日新聞、上田郷友会月報,3 書名 著者名 出版社 出版年 三吉米熊先生 尾崎章一、猪坂直一/編著 長野県小県蚕業学校同窓会,蚕都上田を築いた人々 新津新生ほか会員多数が執筆 1/2 信州地域史料アーカイブ,/iss.ndl.go.jp/ 「三吉米熊」で検索すると、図書を探すことができる 長野県上田東高等学校同窓会
パスファインダー (長野県上田点字図書館)

キーワード 本間一夫 雨池信義 森田佐登志 金子直躬 小河滋次郎 上田慈善 会 上田盲学校 浄念寺盲人講習会,上田市立図書館点字図書部 黒 沢ひで子 情報紙『点訳の友』 「声のライブラリー」(録音図書) 盲導犬,デモクラシーと上田市政」と「第五章 高度成長と市政」 で、「市立上田盲学校の開校と経過」および「全国初,上田慈善会第一期報告書 上田慈善会 上田慈善会 上田慈善会 1900 恤救を求めた上田慈善会の収支表,信濃毎日新聞 明治35年月22日 連載記事・廃校運命の上田盲学校 2 信濃毎日新聞 昭和8年12月20
パスファインダー (赤松小三郎)

情報 新聞 バンフレットそ の他 2 論題名 東郷上村両将軍の懐旧談 著者名 雑誌名 上田郷友会月報,出版年 1906.5 3 論題名 東郷大将の赤松先生談 著者名 雑誌名 上田郷友会月報 出版年 1910.9,http://uedakant.sakura.ne.jp/datas/akamatsu.html 上田高校関東同窓会,の同好会、郷土の偉人赤松小三郎について研究する「赤松小三 郎研究会」を立ち上げ、隔月に研究会を開催している,年月日 2011.9.3 内容 学校の子どもにも理解してもらうよう紙芝居にしてある。
パスファインダー (工藤善助)

南條吉左衛門、大里忠一郎、松本夏秋蚕試験場、上 田蚕糸専門学校、製糸業、長野県製絲同業組合連合会、下村亀三郎,羽田桂之 進、深井千代吉、柴崎虎五郎、金子金平、鷲沢与四二、伊藤傳兵衛金 三製糸場、依田社、丸子農商学校、,著者名 工藤善助組長ほかの会員が執筆 雑誌名 長野県蚕種同業組合連合会会報 出版年 1909,51号など 巻号頁数 2 論題名 所感 著者名 工藤善助/著 雑誌名 上田郷友会月報,巻号頁数 第236号 3 論題名 郷里の景況 著者名 工藤善助/著 雑誌名 上田郷友会月報
伊那の中路 わがこころ (伊那の中路)

文政五年(1822)の12月、真澄は日記類のほとんど全てを秋田藩校明徳館に献納した。,(前掲書) 明治時代になって、藩校が廃止されたとき真澄の蔵書は佐竹家の蔵書となったが、現在はみな秋田県重要文化財,洗馬、松本、和田等の友人を訪ねて得意の和歌を詠みあったり、神社、仏閣を訪ねている。,また、近郷、近在を訪ねて、和歌を詠み、友人と交流している。,そして、八月十三日には姨捨の月見に友人と出かけている。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (下諏訪村)

下諏訪町(しもすわまち) 明治初期:下諏訪村(しもすわむら) 幕末から明治初期:下原村/下諏訪町/友之町,/天照皇大神宮/山ノ神社/秋葉社 寺: 慈雲寺/来迎寺/死事者墓/日根野氏墓/青塚(大塚) 学校:,小学下諏訪学校 古跡・名勝: 桜城跡/山吹城址/高木城址/霞城址/矢木崎/石窟/犬射馬場/梶原塚,民業男: 農桑/薪炭/工/商/漁猟 民業女: 耕作/縫織/養蚕 その他特記ワード: 掲示場/村会所
松代まちあるきマップ (49池田満寿夫美術館)

栗菓子製造・販売の株式会社竹風堂(上高井郡小布施町)が運営し、竹風堂松代店も併設されている。,同館の展覧会に向け制作された「美貌の青空」「土の迷宮」シリーズが、最後の作品となった。,また、畏友・故渋澤龍彦に捧げた西陣織の打掛けによる超大作レリーフ・コラージュ「天女乱舞」や庭園のブロンズ,〜16:30 休館日 毎週木曜日 入館:一般 700(630)円、大学生 500(450)円、高校生
明治天皇御巡幸の折奉りたる地図 ([解説])

明治天皇御巡幸の折奉りたる地図 [目録] 長野県図書館協会 宮下明彦 明治天皇は明治11年8月30,上州松井田駅御発輦、7日~10日軽井沢~小諸と経由して9月11日午後4時頃上田行在所(あんざいしょ)(上田街学校・,現上田商工会議所)に到着した。,その俯瞰図作成に飯島保作少年が当たった経緯について、花岡百樹(注)は『上田郷友会月報』(第526号)の,其所で上田では町分で今の市役所の所へ上田街学校を新築して之を行在所に充てることになった。
上田市街全図 ([解説])

上田市街全図 [目録] 長野県図書館協会 宮下明彦 明治天皇は明治11年8月30日、北陸御巡幸,現上田商工会議所)に到着した。,その俯瞰図作成に飯島保作少年が当たった経緯について、花岡百樹(注)は『上田郷友会月報』(第526号)の,其所で上田では町分で今の市役所の所へ上田街学校を新築して之を行在所に充てることになった。,この校舎は明治三十一年の三月に炎上して今其輪奐の美を知るのよすがもないが、四階建でその頃田舎には稀な洋風
パスファインダー (鈴木鎮一)

才能教育 松本音学楽院 バイオリン製作 愛知県名古屋市 バイオリ ン工場 徳川義親 東京音楽学校 ,バイオリニスト カール・ク リングラー アインシュタイン ワルトラウト・プラング 鈴木カルテット 帝 国音楽学校 ,木曽福島工場 才能教育研究会 才能教育会館 ワシン トンで演奏会 カーター米国大統領 鈴木メソード 本郷小学校,ケーブルビジョン/制作 鈴木鎮一についての映像を30分にまとめる 歩いて来た道 鈴木鎮一/著 音楽之友社,から世界へ 中古楽器寄贈 信濃毎日新聞 23ページ 1996.11.28 スズキメソード 音楽院 開校
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (田口村)

市杵島社/幸ノ神の社/五社神の社/社宮司社 寺: 上宮寺/藩松院/千潭寺/禪昌寺/妙泉寺/観音院 学校:,尚友学校 古跡・名勝: 田口城址/龍岡五稜郭址/龍華山法正寺廃址/御瀧山善福院廃址/薬師堂廃址,砥石山/招魂墓/新海神社之記/田口峠/榊山冷泉/ハカンド冷泉/巽ケ沢冷泉/湯ノ入冷泉/五庵林/主計原林/会下窪林
菴の春秋 ([解説])

文政五年(1822)の12月、真澄は日記類のほとんど全てを秋田藩校明徳館に献納した。,(前掲書) 明治時代になって、藩校が廃止されたとき真澄の蔵書は佐竹家の蔵書となったが、現在はみな秋田県重要文化財,宿の前を通りがかった昔馴染みと出会い二人で花見を楽しんだ。,また、近郷、近在を訪ねて、和歌を詠み、友人と交流している。,そして、八月十三日には姨捨の月見に友人と出かけている。
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