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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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パスファインダー (花街権堂の歴史)

花街権堂の歴史 トピック(テーマ) 花街権堂の歴史 ねらい 善光寺の精進落,としの場とも言われた権堂(長野市権堂町)は、水茶屋 が建ち並び、信州一の花街として知られていた。,キーワード 概要を知るための ツール 資料リスト 雑誌 インターネット情報 権堂町 権堂村,/編 権堂町 権堂町公民館 1993.4 通史編の「花街権堂村」の章に江戸時代の権堂が詳述されている。,三編「権堂の芸妓」 に、明治初期の権堂花街の実態が具体的に述べられている。 / 花街権堂の歴史
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (鶴賀村)

市町村名 現在(令和2年):長野市(ながのし) 明治初期:鶴賀村(つるがむら) 幕末から明治初期:権堂村,地蔵寺跡/玄蕚斎跡/観音堂跡/延命院跡/往生院 物産2: 綿/菜子油/胡麻油 その他特記ワード: 権堂村
『長野史料』索引 (『長野市史』と『長野史料』)

「渡辺敏氏蒐集長野史材料二十六冊之内   震災記事 七冊 永井幸一著  権堂永井益之助氏蔵   同,光寺古事見聞録、善光寺由来記、文久二年人馬継立之件、栗田家譜、善光寺火   災記、市場衰微歎願訴訟、権堂飯盛女,に付約定書、安政年中歩役一件出入、元   禄度市場伺、慶長宿証文、寛保権堂村水茶屋渡世に係る文書、桜屋火事
地震後世俗語之種 (著者)

著者 『地震後世俗語之種』を著した永井善左衛門幸一は、善光寺大勧進家老久保田家に生まれ、権堂村名主永井家,権堂は水茶屋が軒を連ねる花街でしたが、永井家は酒屋を営んでいました。
地震後世俗語之種 (著者)

著者 『地震後世俗語之種』を著した永井善左衛門幸一は、善光寺大勧進家老久保田家に生まれ、権堂村名主永井家,権堂は水茶屋が軒を連ねる花街でしたが、永井家は酒屋を営んでいました。
『長野史料』索引 ([翻刻])

権堂永井氏著、図アリ。,    善光寺ヨリノ起訴ニ対スル     問御所ヨリノ訴願     人四 一七     同ク権堂村, 二〇     安政年度歩役一件     人六     文久元年人馬継立ニ関スル訴願     権堂村人打擲,ノ件 人三     権堂飯盛女ノ件ニ付    人六     弘化未年遊女通ノ件    人三 一三,人四[三〇 命令規定ニ復出]     鳥飼菓子屋[菓子ノ元祖 善光寺町ニテ] 人四 三〇     権堂町
地震後世俗語之種 (『地震後世俗語之種』の価値)

『地震後世俗語之種』の価値 [目録] 長野郷土史研究会 小林一郎  『地震後世俗語之種』は、権堂村名主
地震後世俗語之種 (『地震後世俗語之種』の価値)

『地震後世俗語之種』の価値 [目録] 長野郷土史研究会 小林一郎  『地震後世俗語之種』は、権堂村名主
パスファインダー (善光寺地震)

 弘化四年 虫倉山 虚空蔵山 松代藩 むしくら日記 河原綱 徳 地震後世俗語之種 永井善左衛門幸一 権堂村,著者の永井善左衛門幸一は権堂村の名主だったが、 地震被害により権堂の家屋敷、貸家、出店等全て焼失
パスファインダー (長野市の映画館)

映画、劇場、芝居小屋、活動写真、シネコン、シネマコンプレックス、芸 能、権堂 1 書名 長野,ありがとう長野東宝中劇 2007.4 2007年4月に閉館した、権堂町の映画館の閉館記念冊子 ※県立長野
犀川を下る記 (3.千曲川通船)

3.千曲川通船 (1)通船の始まり  千曲川通船計画は、寛延2年(1749)水内郡権堂村瀬兵衛ら4
パスファインダー (善光寺四十九霊地)

これは、権堂村名主の永井善左衛門幸一 内容紹介 が、善光寺地震(1847年)の体験を子孫に伝えるために
地震後世俗語之種 (絵の解説)

1-91 「善左エ門家内、本城より権堂田甫に帰る路すがら、廿五日昼巳の尅頃、岩石町裏通りに炎々たる焼亡,を見る図畧」  城山で一夜を過ごした善左衛門の家族(家内)は、翌25日の午前中に権堂に帰りました。,1-97  権堂の家に帰った善左衛門一家は、家の中から主な家財を持ち出し、田畑の中に障子や襖(ふすま,この時権堂周辺の人々が避難したのは、本城、長谷越(はせごし)、高土手といった場所でした。,4月13日に実際に犀川が決壊した時も、洪水は権堂はじめ善光寺近辺へは押し寄せませんでした。
善光寺独案内 ([現代訳])

権堂小路  後町より千歳町に通じる。   宮内省御用の芳雪堂菓子店  有名な鳥飼。,権堂小路の上の角にある。   長野米穀取引所  千歳町にある。,権堂小路の突き当たりにある。   第六十三国立銀行  後町、左側にある。,これを行くと東町および権堂に至る。 名産 まんじゅう   東洋館  大門町の左側にある。,そのためにこの地を権堂という。  
パスファインダー (明治3年(1870)の農民一揆(松代騒動))

善光寺町の被害取調、松代町騒動焼亡人 別、松代暴動人権堂村乱入顛末、騒動参加者吟味、真田桜山閉門申 付書
善光寺独案内 ([翻刻])

○権堂小路 後町より千歳町に通。 宮内省御用の。 ,権堂小路行当。 第六十三国立銀行 後町左り側にあり。,是を行ハ東町及  権堂町にいたる。 名産 まんちう 東洋館 大門町左ノ側ニあり。     ,明行寺  権堂町にあり。真宗東派なり。 蓮池山往生院  浄土宗。記主禅師の開基。  ,故に此地を権堂卜いふ。
パスファインダー (長野市中央通り(善光寺表参道)の移り変わり)

周年記念実行委員会 出版年 2005.9 内容紹介 長野市第四地区に属する問御所町、権堂町
むしくら日記 (3巻 利)

、   三輪村・相之木村ハ地震之上善光寺出火ニて類   焼仕、少々つゝハ小屋懸出来申候、   権堂村土蔵迄,    大地震二而、高井郡・水内郡村々民家押潰死失有之付、   早速見分役人差出候処、別而水内郡権堂村之儀者,左之通御座候、 村高六百七十石壱斗八升八合 惣家数三百七軒   水内郡 一 焼失家数弐百七拾四軒   権堂村,・中尾村之儀者差当り夫食指   支候間、御名手内より取救方早速手当仕候儀ニ   御坐候、則別状権堂村麁絵図相添,へ水付候へ共、村内ヘ   ハ水入不申、居家水災無御坐候、        同郡         権堂村
地震後世俗語之種 ([現代訳])

この時庄五郎が権堂の家に戻って、様子を見て来るようにと相談しました。,世のことわざに言う「地獄で仏に会ったよう」な気持で様子を聞きますと、「いまだ権堂は類焼していません、少,驚き恐れながらようやく権堂の田んぼに着いて辺りを見ると、人々が野宿しています。,すると正午過ぎ頃から、権堂・後町に同時に火が移り盛んに燃え上がりました。,そうするうちに東町から権堂に向かって火は激しい勢いで燃え広がっていきます。
信州善光寺御堂額之写 ([翻刻])

(下段)   「天保三壬辰    権堂村田町   九月十六日未明    宮下勝右衛門  御導師
むしくら日記 (3巻 利)

権堂村は土蔵まで残らず焼き払われて、野原のようになっています。,水内郡の村々では民家が押し潰されて死者が出たため、早速見分の役人を差し向けましたところ、とりわけ水内郡権堂村,また権堂村・中尾村につきましては、差し当たり食料が不足していますので、代官のもとから救援金を早速手配いたした,そこで別紙にて権堂村の略図を添えて、この段お届け申し上げますよう役人より申して参りましたので、ここに申
信州善光寺御堂額之写 ([現代訳])

(絵)「天保三壬辰九月十六日未明 御導師の図 権堂村田町 宮下笹右衛門」      (杖の絵)「尾州中島郡
地震後世俗語之種 ([翻刻])

火事ハ横町より上のかた盛りにして、風も西南と おぼえしかハ、よもや権堂・後町の辺は類焼は 致すまじ,か家より迎ひの者来りけれは、世 俗の諺に地獄にて仏に逢たる心地して、様子 を尋ね問けれは、いまた権堂,驚怖しなから 漸くに権堂たんぼに至りて見れハ、野宿のあり さま、家財取出し囲となし、残りし家財こはれ,しかるに午の刻過 にし頃より、権堂後町ヘ一やうに火移り盛に 燃え立つ。,ハ、手足を労するに     (改頁)   甲斐なく、しかする中に東町より権堂
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 ([ルビ・注記])

)、堂庭松風亭の五色餅(一皿壱銭)、寝釈迦 堂前のでんがく(一食参銭)、二王門横の五厘蕎麦、表 権堂,と裏権堂の間の、を雪蕎麦(壱杯壱銭)等を、能(よ)く食 いあるいた。,まだ私は子供であったから、能(よ)くからかわれた ぐらゐのものだ、表権堂裏権堂は、大厦高楼(たいかこうろう,ふて、 相当に貸してくれたので、帰途(きと)を雪蕎麦で、一杯驕(おご)ってや った、帰途(きと)権堂
小県郡民謡集 (成人謡)

○信濃善光寺御堂で見下ろす大門町 權堂お女郎は吉原まがひで まわしの無いのがよござんす とこよいとこ
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