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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「年内諸事控日記 小沢和徳(注1) 慶応四戊辰年正月吉日」)

寺子屋師匠の日記「年内諸事控日記 小沢和徳(注1) 慶応四戊辰年正月吉日」 その五 明治元年一月~五月日記,~五月     (改頁)      1       「年内諸事控日記 小沢和徳 慶応四戊辰年正月吉日,二月十六日 一入門酒壱朱升柿三串添 遠藤 寿市 同日 一鮒焼串弐把  倉沢玉之助 〆五拾三人 正月二日,涅槃会 手習休 朝余寒川氷   (○中略)     (改頁)      6     当正月,一慶長軍記三巻 かし  休戸 幸七殿 二月 一志道軒壱巻 かし  同所清兵衛殿息 岩次郎殿 正月中 / 寺子屋師匠の日記「年内諸事控日記 小沢和徳(注1) 慶応四戊辰年正月吉日」
寺子屋入門記録「壱番入門記録」 ([翻刻・注記])

伝馬町二丁目 同断 喜太郎殿息子 一 当酉九歳 野口銀蔵   爪印 (改頁) 島田村名 文政八酉正月,綿屋隠居息子 一 当戌八歳 樋口友次郎  爪印 (改頁) 伝馬町壱丁目 正月二十二日 殿岡屋久七殿息子,一 当戌拾弐歳 鳴瀬源之助  爪印   愛宕坂 正月二十三日 阿波屋弥三郎殿息子 一 当戌八歳,藤田猪三郎  爪印 【(付箋)「現住 東京」】 知久町三丁目 正月十一日 藤屋為吉殿息子 一,当戌拾歳 佐藤伊作   爪印   (改頁)      11 本町三丁目 正月二十三日 藤屋惣助殿息子
秀吉と真田 (家康の命令による上田築城の開始)

 この年正月(一月)「武石・丸子・和田・大門・内村・長窪」など、つまり小県郡のうち千曲川の南、依田川流域,昌幸は翌閏正月、これらを攻め丸子で合戦が行われた。,なお、原文は写真のとおり「正月」だけで「閏」がついていないが、これは三島暦を使っていたため。,京暦では「閏正月」であった。,天正十一年癸未 正月廿九日 昌幸(花押)      宮下善七郎殿
パスファインダー (川上村原おかたぶち(オカタブチ))

キーワード 概要を知るた めのツール 1 書名 著者名 出版社 出版年 小正月,川上村原 小正月 道祖神祭り 親方 オカタブチ コブチ はんてん たすき 鉢巻き おんべ 家内安全 子孫繁栄,船祭り  湯原の式三番  田立の花馬祭り 遠山霜月祭り等掲載 雑誌 1 論題名 川上村小正月行事参加記
パスファインダー (佐久市浅科上原の鳥追い祭り)

るた めのツール 1 書名 著者名 出版社 出版年 佐久市浅科上原の鳥追い祭り 佐久の正月,浅科村甲上原 五穀豊穣 子孫繁栄 家内安全 五郎兵衛記念館 道祖神 鳥追い 1月3日 道祖神の日 は つか正月,旧浅科村 甲上原(かみはら))で江戸時代から行われてきたといわれる五穀豊穣 や子孫繁栄・家内安全を祈る正月,五郎兵衛記念館 所蔵の『寛政五年正月 道祖神鳥追い之覚』という古文書から、寛政5年 (1793年)には
寺子屋師匠の日記 (概要)

概要 寺子屋入門記録「壱番入門記録」 寺子屋師匠の日記「年内諸事控日記 小沢和徳 慶応4戊辰年正月吉日,慶応4戊辰年六月朔日ヨリ」     寺子屋師匠の日記「年内諸事控日記 小沢和徳 慶応4戊辰年正月吉日,ここでは、慶応4年(明治元年)の1年間の日記2冊(「年内諸事控日記 慶応四戊辰年正月吉日」「諸事日新録
パスファインダー (江戸時代中期に起きた安永中野騒動)

出版社 出版年 遠山孝典/著 ほおずき書籍 2012.11.10 内容紹介 安永6年正月,beccan.blog56.fc2.com/blog-entry-3509.html 安永6年(1777)の正月,、幕府は年貢金上納の皆済期日を、これまでの3 月から正月に繰り上げると命じてきた。
軽口宝船 ([解題])

目録の見開き丁の左右に季節に応じた草木の挿画(第1巻は正月飾りと注連縄、第2巻は梅、第3巻は杜若(かきつばた,冒頭の詩には、「元文三年午正月吉日 作者呑海」とあり、「四つの海」、「宝船」、「七珍万宝」、「順風に帆,をあげて」、「千秋万歳」と平和、繁栄や長寿を願う気持ちが込められていて正月らしく晴れ晴れとした気持ちになる
赤松小三郎書簡 実母宛 (幕末の先覚者赤松小三郎)

後、嘉永7年(1854)同藩士赤松弘の養子となり、文久元年正月小三郎と改めた。  
書留帳(延徳田んぼを漂流した話) ([翻刻])

仰付被下置候ニ付、漸取続罷有候得共、最早  当村々之内少々貯有之候者共も致方無  御座及餓死申候、当亥正月,ヶ月之飢人夫食日数六十日分御物借  被仰付候迄ニ而当分者必至と御百姓餓死仕候  ニ付、右村々当亥正月中,;  之通御願申上候所ニ、村々願書御取上被下置候而  野呂猪右衛門様御役所へ御渡シ被遊候得共、当正月,村々御百姓餓死仕深泥石砂入田畑等開作  仕候事不相成亡所仕候より外無御座候 右之通廿三ヶ村飢百姓当亥正月,村追々国元へ罷帰り申候、 相残ル者共御支配御代官様へ段々申上候所ニ、 当月九日ニ被召出被仰渡候ハ、正月廿日
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (夫神村)

キーワード 字地: 稗田/獄ノ花/小田/舞台/五反田/欠田/飯米場/諏訪田/一ノ口/西ノ原/正月
松代まちあるきマップ (20平林山本誓寺)

永正八年(一五一一)、本願寺実如上人から倉科平林山本誓寺に「瀬踏阿弥陀如来(伝親鸞作の秘仏、正月三ケ日
善光寺道名所図会 (○筑摩 麻績)

の出郷宮本村に神明宮立給ふ、白鳳十二年酉二月九日 勧請なり、豊受皇太神を祀る、[神領十二石、]神事正月朔日
松本藩庄内組大庄屋御用留 (5、「御用留」にみる善光寺大地震の記録)

5、「御用留」にみる善光寺大地震の記録 収録した「御用留」の記述は、弘化5年正月元旦からはじまりますが
江戸鹿の巻筆 ([解題])

三巻に収録された話は、「太鼓櫓の落書」「浅草観音梅の狂歌」「境町馬の顔見世」「二くづし」「正月は物いまひ
浅間焼覚帳 ([翻刻])

十二月迄両ニ  両替六〆七百文、米六斗、大麦八斗五升、小麦七斗、ひへ弐石、大豆八斗、小豆  七斗、辰ノ正月,此年穀相場、両ニ米石五升、  其暮ニ至、両ニ米九斗八升直段也、一、午ノ年又不作也、  卯ノ年同事、午ノ正月,天気、又八月より九月まで雨ふりつゝき、右ニ付田畑三分  又ハけ(かカ)いむ也、それ故又穀物引上、午ノ正月,ニ九斗より八斗、十月ニハ米壱石、十一月より上り両ニ七斗、  十二月ニ至米五斗七升、一、未ノ春ニ至、正月
善光寺道名所図会 (○安曇 池田)

例祭は、御戸開(正月11日)、祈念祭(2月9日)、御戸開(12月16日)です。,そのほか、正月、5月、9月14日に国家安穏五穀豊饒の祈躊をします。  
小県郡民謡集 (付録 春駒一首)

正月に各戸を回り、馬の首の形をしたものを持ったり、また、これにまたがったりして歌い踊るもの。,また、正月、初子(はつね)の日、養蚕室を掃き清めて祝う女。
松本藩庄内組大庄屋御用留 (1、御用留)

この年の正月からの1年間と、翌嘉永元年12月までが収録されています。  
浅間焼覚帳 ([現代訳])

天明四年正月からは、一両当たり以下の値段だった。米五斗、大麦七斗、小豆六斗、黍六斗五升。  ,正月から六月まで寒さが強く、雨が降り続いた。,そのため穀物の値段がまた上がり、天明六年の正月から八月まで米は一両に九斗より八斗の値段だった。,さらに天明七年正月・二月には、一両に米五斗、三月より五月まで徐々に上がり続け、一両に四斗五升、五月には
書留帳(延徳田んぼを漂流した話) ([解説])

そこで、寛保三年正月十一日、二十三か村代表が直訴願書を持って江戸へ出発した。,家がなければ耕作することもできないので、小屋がけ代金を貸してほしい」、「麦作ができるまで、正月から五月
秀吉と真田 (伏見城普請)

このときの秀吉の奉行や普請奉行からの幾つかの通達の内の一通、文禄三年正月十八日付け書状(写真)の宛名には,佐久間甚四郎正実(花押)    正月十八日  山城少兵衛 一久(花押)           伏屋小兵衛
善光寺道名所図会 (○安曇 池田)

以上宝永四亥年の改なり、        (略)          5右   △例祭 ○御戸開[正月十一日
豆から日記 ([翻刻])

わづかの草に夜のあけて さがミ 玉扇女 蟇啼くや何かひとふしあるやうに 二峰 むつき衣更着 正月,やこゝろ高ぶる調市ども 上田 菊成 正月やむきあふ家の朝きげん 宇籟 (改頁) 正月や夕(ゆうべ,)となるぞあたら空 会 素江 正月は雨のもる日を覚けり 諏方 若人 正月の雨に肥たる松露かな,武 可良久 正月の宵寝も人の花にこそ 上毛左右山 正月のくつろぎ見ゆる海辺かな さがミ 仲女
松代まちあるきマップ (18松代まち歩きセンター 八田家)

長野市松代町松代伊勢町577  026-278-1277 営業時間 9:00〜17:00 休館日 年末~正月三
信濃奇勝録 ([解説])

道貞は、天保13年正月に86歳で没した。
烈女百人一首 ([解説])

松本大学 中西満義  『烈女百人一首』は、緑亭川柳編輯の変わり百人一首で、奥付には「弘化四丁未正月発市,」とあり、弘化四年(1847)の正月に刊行、発売したことが知られる。
小県郡民謡集 (目次)

おらが裏三首     向の山四首     (改頁)       向ふ通る二首     おん正正月二首
違作書留帳 ([翻刻])

 与頭ハまわりニ役人之内ニ而致ス     (改頁)   飢饉に連年向へ 天保五甲午年記 正月,元日おだやかにして暖、雪少 ふる 四日大じみ 十日雪三尺程降 〇正月廿八日、塩尻阿礼神社,まで 下り不申ニ付、夫迄正月を 延し候よし、前代未聞の 事ニ候 〇十二月小廿九日 せつふん年取候,閏正月廿三日願書之覚  乍恐願上奉り候御事 私共村々国役金、去卯年 差上侯分凶作ニ付年延,間、御上納御触金之内へ御差 加へ被下置候様奉願候           ハケ村 天明四辰年閏正月
俳諧二重染 ([序文])

月正(正月)、我がともがらが未熟のために、心のはたらきをほしいままにしてはなはだ自由を失った。
善光寺道名所図会 (○筑摩 麻績)

神領12石、神事正月朔日、2月9日、6月17日、8月14日。
違作書留帳 (4、『松本市史』記述の天保の飢饉)

違作書留帳」に、「おだやかにして世上静になる」としるすように、天保5年の暮れに人々はひと息つくことができ、正月
はなの (春部)

上 乙人 冴かへる 梅ちるや冴かへる夜の水の味 武 鷺雪 きり餅のさえかへりたるむしろ哉 正月,松とりて正月心はなれたり 正月やひまな日もなく十五日 出代 出代や膝に手を置朝の雨 相 百亀
パスファインダー (中野騒動2)

中野騒動2 雑誌 出版社 出版年 ほおずき書籍 2012.12 安永6年正月
パスファインダー (佐久市望月春日本郷地区道祖神祭り)

キーワード 概要を知るた めのツール 1 書名 著者名 出版社 出版年 佐久の正月
信濃国浅間嶽之記 天明騒動記 (信濃国浅間嶽之記)

外五拾五ヶ村組合砂除計往還用水砂共ニ、外用 水砂拾ヶ村組合 (改頁) 一 御普請出来永見分辰正月九日御駕着,にもならすしかもまゆ半吉也 一 七月十三日八月朔日泥降諸作草木迄枯たり稗少々 実あり 一 同年正月元朝,小麦百文ニ付壱升 一 小豆百文ニ付壱升 一 大麦壱両ニ付壱石四斗 一 素麵百文ニ付弐百五拾目 辰正月,付六斗四升 一 小豆百文ニ付九合 一 小麦百文ニ付壱升弐合 一 素麵百文ニ付弐百四拾目 同閏正月
原町問屋日記(安政6年 6・7月) ([解説])

明けて六年の正月、中居撰之助を上田藩江戸屋敷に呼び出し、貿易の仕事を依頼する。
違作書留帳 ([現代訳])

塩尻市)では、拝借は来る正月十七日までできないということで、それまで正月を延すという、前代未聞のことだ,、塩尻市)へ罷り出た、その場で指図するとのこと、十月一日、天明三卯年である、 天明四辰(一七八四)正月,の書留、 閏正月二十三日の願書の覚、 恐れながら願上奉ること、 私ども村々の国役金(くにやくきん,御上納金もないので、御上納の御触金のなかへ差し加えくださるように願いあげた、八か村、 天明四辰年閏正月,村々一同願い上げる、私ども連判をして差し上げる、八か村の連印、 天明辰年(四年)閏正月、 覚 その
はなの ([追善連句])

(ひとり)気遣ふ花のあめ 文岱 数のともしもながき日のかげ 易足 15 牛町をいく度も通る正月
源氏百人一首 ([解説])

刊年は天保十二年(1841)正月で、出版元として江戸書林の千鍾房、金花堂、玉山堂の名が並ぶ。
義烈百人一首 ([解説])

 中西満義  『義烈百人一首』は、緑亭川柳の編輯になる変わり百人一首で、刊本奥付には「嘉永三年庚戌正月発売
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

この例祭はむかしから正月11日の初市立として、塩を売ることがあります。,(注)初市の図には、「正月十一日 松本初市」と右上に書かれています。,享和3年(1803)年閏正月に火災にあい、それから39年後の天保13年(1842)に起工し、檀家の協力,その後、徳川家康が幕府を開くと、これはあの兎のお蔭であると、正月には諸侯に兎のお吸い物を振る舞うこと幕府
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([翻刻])

 々惣代御差出可被下候様、  当番組惣代江申出候間、例之通御  差出可被成候、以上、   正月箋,不洩様、可  申聞候、追而此書付可相返也、 一組融通金取計方、急ニ而指  出、可被成来年より春ハ正月,御馬役江、別紙之通申参候ニ付、  売買等之義、委細取調急之  申出候様、郷目附被仰聞候、   正月廿三日,ニ付、此段御回答申上候、否御返書 被仰下候様、仕度奉存候、右申上度、如此御座 候、以上、   正月廿四日,  表勘定所印 十二月申達ス     (改頁)      143   一水車当年より冥加、正月
おらが春 ([翻刻])

れたる娘に、     一人前の雑煮膳を居へて    這へ笑へ二ツになるそけさからハ   文政二年正月一日,りぬけせよと垣から柳かな ゝ   餅腹をこなしかてらのつき穗哉 ゝ      (改頁)   正月元日,のあいそになひく柳かな ゝ     (改頁)     藪村やまくれあたりも梅の花 一茶   正月,其うちはかり 母ハ正月と思ひ、飯焚そこら掃かたつけて、 団扇ひら/\汗をさまして、閨に泣声のするを,冬篭り悪く物喰を習けり ゝ    廿一日節分   一声に此世の鬼ハ逃るよな ゝ   けふからハ正月分
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 ([解説])

4.明治14年の上田の正月風景 「本年も茲(ここ)に暮れて、私は十八歳の青年となった。
御城下古法并市場古法書抜書集 ([翻刻])

      2 【(朱書)一】 一寛永二乙酉年閏四月廿五日 横町商売之事 【(朱書)二】 一寛文四甲辰年正月十三日,而取扱候次第書上之事 【(朱書)十三】一安永四丁未年       市場申合之事 【(朱書)十四】一安永六酉年正月,類 右之品々於中之横町商売堅可為無用、若於相背者大屋 迄過銭可申付者也、     寛文四年甲辰正月十三日,                十三町                 惣役人宛名也  右正月廿日講,ニ付壱〆文宛〆テ  四貫文過料、荷歩方江差出申候    但去酉年暮より三問屋へ歩銭方被申付、当戌正月
小県郡民謡集 (児童謡)

○おらの日影になるものは 正月傷寒(注2)病み出して 盆にやぼつくり 死ぬやうに。,○正月とへ 障子あければ万歳が/\    皷(つづみ 注4)の音より謡(うたい)の声/\  二月とへ,(改頁)         おん正正月二首 ○おん正正正正月は 松立てて竹立てて 喜ぶお方はお子供衆,○おん正正正正月は お目出度い 松飾り竹飾り 飾の下から出た 鳥は 羽根が十六目が(一つ)(三つ)目,定月に關するもの八首 ○お正月は良いもんだ ちんぱと羽根ついて 氷のやうな餅たべて 雪のやうな飯(
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([現代訳])

[現代訳] 正月元旦、2日、 3日、御目見え仰せつけられ、大庄屋の皆と例のとおり在方の者も出席し、,正月1日、表勘定所より。 これを1日、金井へ継ぐ。     ,正月29日。,この書付を返すこと、 一、組の融通金の取り計らいについては、急いで指し出してほしい、来年からは春は正月中,について同役より通達があり、二十五日に達す 十月二十五日 雨天、風 水車の臼数と冥加調について、正月
寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)

大ニ繁昌し御旗本御家人  并町家之子供共ニ門人多し老年迄栄耀ニくらし  七十一才ニ而卒ス[天保五正月四日葬送,而寺子屋相始其後花房町 代地へ引移り又上野町ニ而指南いたし六十八才ニて帰郷横川 木曾沢ニ而一ケ年教又江戸へ帰り一ケ年遊ひ正月二日卒,々者還而御若キ時より者両親共ニ御達者ニ被為成候 諏訪江入湯  之節御立願ニ而間も無ク妊娠臨月ニ成寛成五癸丑正月十四日平産,池田大町辺其外打こはし候 甲州も  騒動起り六川酒屋近所迄騒動諏訪様より防キニ出其内鎮り帰ル 一文政九年正月横川市,なれば傍ニ而如何様ニ申慰ノ候  而も御案事強ク候故分ケ而御弱ク相見心配いたし候 然る処天保  五甲午正月
おらが春 ([現代訳])

正月元日の夜の午前2時頃から始まって、引き続き8日目ごとに天から音楽が聞こえるということを、誰が言うともなく,その間だけを母親は正月のように思い、飯を炊きそこらを掃き片付けて、団扇(うちわ)をはたはたさせて汗を冷
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