• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • キーワード一覧

NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 906件
辞書ファセット
/ 19ページ
パスファインダー (延徳沖の水害と治水)

延徳沖の水害と治水 トピック(テーマ) 延徳沖の水害と治水 ねらい 千曲川,延徳沖水害の実情及び延徳沖水害防御期 成同盟会の取り組みを明らかにすることにより、今後の治水事業の一助,2 書名 著者名 出版社 出版年 中野市千曲川水系治水史 中野市千曲川水系治水史編纂委員会 ほおずき,そのなかで、延徳沖周辺水害と千 曲川治水を取り上げており、中世・近世・近代・現代の水害状況と治水 対策,また、巻末の中野市年表には水害と治水についても記されており、 水害・治水の歴史的な流れを知ることが出来 / 延徳沖の水害と治水
パスファインダー (純水館)

純水館 トピック(テーマ) 純水館 ねらい 佐久地域最大の器械製糸場純水館,神奈川 県に創設した茅ケ崎純水館、両純水館を支えた人々の活躍をも知る。,江戸中期から活躍していた商人 内容紹介 の力で発展していく純水館製糸場の姿を語っている。,その中から「工場」としての純水館製糸場を紹介して いる。,小諸町の写真・絵図の項では「純水館第一工場」「第二工場」「小 山久左衛門」など純水館関連の写真6枚が載 / 純水館
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (三水村)

三水村 地域 北信 市町村名 現在(令和2年):長野市(ながのし) 明治初期:三水村(さみずむら,) 幕末から明治初期:三水今泉村 幕末から明治初期(よみ):さみずいまいずみむら 『長野県町村誌,キーワード 字地: 上栗/北畑/分道/田中島/大芝原/荻野/竹ノ元/イモリ池/大日向/村添/日方/三水/,花倉/赤畑/沢田/大沼/高山/峯 山: 秀秘山/氷山/高山/花倉山 川: 犀川/高野川/権現清水/,諏訪清水/八満清水 渡・堰: クヽリ池/夫婦池/太郎池 橋: 高野川橋 道路: 長野より松本道 / 三水村
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (水内村)

水内村 地域 北信 市町村名 現在(令和2年):長野市(ながのし) 明治初期:水内村(みのちむら,) 幕末から明治初期:水内村 幕末から明治初期(よみ):みのちむら 『長野県町村誌』 1巻 p237,向山/寺尾/日影 山: 飯綱山/大峯山 川: 犀川 道路: 糸魚川及び松本街道 社: 水内神社,/伊勢社/瀬就社/熊野社/飯縄社/諏訪社 寺: 延命寺 学校: 水内学校 古跡・名勝: 香坂塚,1 5-18 目録を見る 変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 信州新町史/上水内郡誌 / 水内村
寛保二年大洪水余禄 ([翻刻])

寛保二年大洪水余禄 / [翻刻] 1   「寛保二年大洪水余録」     (改頁)      32   同年七月一日,リト(虫食い) 驚キさわく(虫食い)     (改頁)      33   水煙リ天ニ上リ(,水 押来、与良口木戸 〓《ヒサ》シより高ク水 はね、押通リ、一文字ニ 橋を押落シ、御構之 柵之木,を押払へ 十王堂之広庭(ヒロニワ)江 水押上ケ、御番所之 ふみ石迄水押上ケ候 たちまに両掘れて,一番水又二番水三番 水迄押出し候、右 同時ニ浅間山真楽寺 之入ニ寺沢と申所 より与良口ことく
小諸洪水流失改帳 ([翻刻])

小諸洪水流失改帳 / (改頁)      1    「寛保二壬戌年八月朔日」   与良右兵衛筆記   『小諸洪水流失改帳,サ三丈弐尺、横六間押通リ申候、 一 八月朔日晴天之処、浅間前掛山続之山崩レ大水出ル、辰ノ中刻北山之方震動強,ク、俄に曇リ黒闇六供之上成就寺ヨリ山澤共に高水押掛ケ、六供田町本町辺を押流し、大手江水入、足柄御門、三,ニ、道中所々高水、仍而漸々二日立七日午ノ中刻過ニ中嶋平六・中田傳右衛門着府、混雑之砌候間、御連状不来、,  右八月十三日立十七日着便来    覚       押兼五郎左衛門 一 屋敷裏両方ヨリ水入
寛保二壬戌歳満水記 ([現代訳])

寛保二壬戌歳満水記 / 打ちつける程で、短時間に松代に水が入り、 御城が水ひたしとなり、士農工商の家屋へ水が押し入り、人は梁,水の水位は高く、 長身の人の股のあたりを越して水がついている人が多い、子どもは男女に 背をわれ、あちこちでばらばらとなり,往還道諸所損、家居水入砂入、田畑水押、    植(上)松村 一山抜水押出し、諸所堰形が見えない、,   水内尻組 一山抜水押出、田畑押流砂入、    埋牧村 一田畑山抜水押出、山抜石砂入、,、諸所用水堰 覆った、    岩草村 一用水大破、諸所損、700間程道損、650間皆山抜、水押出
小諸洪水流失改帳 ([解説])

小諸洪水流失改帳 / [解説] [目録] 小諸市古文書調査室 斉藤洋一  千曲川流域において、一地域単位で「戌の満水」,「戌の満水」の際には、もちろん蛇堀川も洪水を起こし、蛇堀大橋を破壊するなどの被害を与えたが、より大きな,「小諸洪水流失改帳の写」は、「戌の満水」による被害状況を詳細に書き記したもので、どこの誰の家が、どのような,このように「小諸洪水流失改帳の写」は、「戌の満水」による小諸町を中心とした被害状況、その後の復興の取り,「寛保二年大洪水余録」(小山隆司家所蔵)は、「戌の満水」の前年に浅間山の法印坊沢に山ごもりした僧を小諸藩
寛保二壬戌歳満水記 ([翻刻])

寛保二壬戌歳満水記 / 、    新山村 一用水堰山抜押拂、田畑砂入、堰押埋、    網懸(掛)村 一大口六ケ村用水堰口破脚却,而押払、    小島村 一押出水急ニ家へ押込、家財相流、田畑水入多御座候、    布野村 一流家七軒,往還道諸所損、家居水入砂入、田畑水押、    植(上)松村     (改頁)      ,、弐百間余用水堰砂押埋り、    和佐尾村 一山抜水押出、田畑砂入、川欠二罷成候、    地京原村,シ、用水堰道橋押払申侯、    中牧村 一足沼堤土手拾二間、沢水二而押払、新町通道廿八間余押抜、
パスファインダー (千曲川・犀川と水害)

千曲川・犀川と水害について トピック(テーマ) ねらい キーワード 概要を知るための ツール,水害も引き起こ してきた。,その水害の歴史と治水について知ることは重要である。,寛保2年 千曲川大洪水 戌の満水 千曲川の自然、荒れる千曲川 用 水と上下水道 渡船と通船 自然堤防と,江戸時代中期の1742年、長野県と関東地方を襲った歴史的な洪水「戌 内容紹介 の満水」の千曲川流域 / 千曲川・犀川と水害
パスファインダー (「戌の満水」(寛保2年の洪水)による小諸の被害)

「戌の満水」(寛保2年の洪水)による小諸の被害 トピック(テーマ) ねらい キーワード 概要,を知るための ツール 雑誌 インターネット情報 「戌の満水」(寛保2年の洪水)による小諸の被害,戌の満水 寛保2年 洪水 8月1日(八朔) 千曲川 小諸 松井川 中沢川 本町 六供 田町 浅間山麓,1 書名 寛保2年の千曲川大洪水「戌の満水」を歩く 著者名 出版社 出版年 信濃毎日新聞社出版局,の洪水) 青木隆幸/著 長野県立歴史館研究紀要 2017.3 No.23,17-33 「戌の満水」(「 / 「戌の満水」(寛保2年の洪水)による小諸の被害
小諸洪水流失改帳 ([現代訳])

小諸洪水流失改帳 / [現代訳] 「寛保二壬戌年八月朔日」   与良右兵衛筆記   『小諸洪水流失改帳の写』         ,水の高さは約10メートル、川幅は11メートルほどになった。,一 8月1日は晴天だったが、浅間山の前掛山付近の山が崩れ大洪水になった。,馬屋の外塀、中間部屋も流され、三ノ門西南北谷に水が流れ落ちた。,江戸の藩邸に連絡するため二日に飛脚を送ったが、道中ところどころ水害のため難儀し、ようやく七日に使いが到着
寛保二年大洪水余禄 ([解説])

寛保二年大洪水余禄 / [解説] [目録] 小諸市古文書調査室 斉藤洋一  千曲川流域において、一地域単位で「戌の満水」,「戌の満水」の際には、もちろん蛇堀川も洪水を起こし、蛇堀大橋を破壊するなどの被害を与えたが、より大きな,「小諸洪水流失改帳の写」は、「戌の満水」による被害状況を詳細に書き記したもので、どこの誰の家が、どのような,このように「小諸洪水流失改帳の写」は、「戌の満水」による小諸町を中心とした被害状況、その後の復興の取り,「寛保二年大洪水余録」(小山隆司家所蔵)は、「戌の満水」の前年に浅間山の法印坊沢に山ごもりした僧を小諸藩
パスファインダー (水戸の浪士伊那路通行)

水戸の浪士伊那路通行 トピック(テーマ) 水戸の浪士伊那路通行 ねらい 幕末期,の世情の激しい動きの中で、水戸徳川家の人たちによりできた 天狗党が、京都へ向かうために伊那路を通過したことは,中の変化と時代の移 り変わりを学ぶ キーワード 概要を知るた めのツール 資料リスト 水戸藩,  幕府追討軍  薄井龍之  亀山 嘉治 1 書名 水戸義軍と信濃路 著者名 出版社,の信濃路通行「憂国の情やみがたし」 塩澤尚人/著 郷土出版社 1985.2 水戸浪士の信濃路通行 / 水戸の浪士伊那路通行
寛保二戌年水害御届書 ([解説])

寛保二戌年水害御届書 / [解説] [目録] 真田宝物館 降幡浩樹  寛保2年(1742)8月1日の水害による幕府への被害届,日付は8月21日、水害から20日後に提出されたものです。  ,被害の概要は、本丸・二の丸・三の丸ならびに居宅は床上3尺が浸水し、場所によっては4、5尺まで泥水が押しこみました,急に水が押しかけたので防ぎようがなく、城詰御用米蔵にも泥水が押しこみ、使えなくなりました。,松代藩ではこの水害をきっかけに、城や城下を水害から守るため、千曲川の本瀬を北に付け替える「瀬直し」を延享
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

○水内 善光寺 3   登リ丹波嶌ヘ一里なり、越後の方へ下るにハ、善光寺より荒町ヘ一里、 牟礼へ,二里半、柏原ヘ一里、野尻ヘ一里、越後の関川ヘ一里半、是迄の 順路七里なり、野尻に湖水あり、其流れ越後,の今町の浜にて海に入る、 此川を関川といふ、野尻の湖水も諏訪と同じく氷張つめたる其上を 人馬とも往来,・二《マタ》・関山・二本木・荒井迄を   中山八宿といふ也、又善光寺ハ北国街道の宿駅にして、本名ハ水内,より東へ伊勢町・新町・淀が橋を渡り、横山村の次三輪村の南 脇に美和神社立給ふ、[神名記に美和神社、水内郡小八座 / ○水内 善光寺
パスファインダー (上水内郡飯綱町の歴史)

上水内郡飯綱町の歴史 トピック(テーマ) 上水内郡飯綱町の歴史 ねらい 長野市,の北に隣接する上水内郡飯綱町は、牟礼村と三水村が合併して 発足した。,キーワード 飯縄山 斑尾山 髻山 牟礼村 三水村 芋川 倉井 普光寺 用水 鳥 居川 牟礼宿 武州加州道中堺,2 書名 著者名 発行者 出版年 三水村誌 三水村誌編纂委員会/編 三水村 1980.3,芋川堰・倉井堰・普光堰の三用水に由来する「三水」の村名につい ても記載されている。 / 上水内郡飯綱町の歴史
寛保二年大洪水余禄 ([現代訳])

寛保二年大洪水余禄 / [現代訳] 「寛保二年大洪水余録」(小諸市 小山隆司氏)   寛保2年7月1日は戌午の日、同月29,浅間山方面の法印坊沢というところから「蛇水」(土石流)が発生したらしく、みな驚き騒ぎはじめた。,(蛇堀川、別名にごり沢で発生したこの)土石流の水煙は天に達するほど高く、段々屏風をたてたような形になり,石が摺れて霹靂(雷)のような音が響き、水の中で火花を散らして流れ下ってきた。,同じ頃、浅間山真楽寺の付近の寺沢という所から土石流が発生し、与良口のような水が押し出し、寺社ばかりを残
寛保二戌年水害御届書 ([翻刻])

寛保二戌年水害御届書 /  松代従去月廿七日雨降続同  廿九日夜中大風雨當朔日従  未之刻千曲川・犀川其外川々  満水千曲川定水,ニ二丈五尺余  増水仕、城内并侍屋鋪・町家  損失之覚 一、本丸二丸三丸并居宅床上三尺   所,ニより四、五尺泥水押込申候 一、御用米蔵城下迄泥水入   御用米五百石泥下罷成用立   不申候,   但随分防候得共急水押懸退合    不申(候)、右之通御座候 一、本丸東之方石垣高弐間、南北
寛保二戌年水害御届書 ([現代訳])

寛保二戌年水害御届書 / 日より雨降りとなり、 29日夜には大風雨、8月1日午後2時頃から 千曲川、犀川その他の川が 満水となりました,千曲川は定水より約7m57cm 増水し、松代城内並びに侍屋敷、町家に以下のような 被害が出しましたので,一、本丸・二の丸・三の丸並居宅床上浸水約90cm、   所により約1.2~1.5m泥水が押し込みました,、 一、御用米蔵や城下まで泥水が入り、   御用米500石余に泥が入り、用を   なさなくなりました,、    但し、ずいぶん防いだのですが、水が押し寄せるのが急でしたので    右のような被害となりました
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

○水内 善光寺 3左   ○水内善光寺  上りは丹波島へ1里である。,野尻の湖水も諏訪湖と同様に、氷が張ったその上を人も馬も往来する。,水内郡小八座の一つである)。,「この国の水内郡芋井郷に私を移せ。,その間に池は水をたたえていて、水深は計り知れません。 / ○水内 善光寺
寛保二戌年満水御届書 ([翻刻])

寛保二戌年満水御届書 / [翻刻] 3 別紙申上候當朔日就 満水、私領分田畑損耗并 民家其外損失之覚   一、高六万千六百弐拾四石余,] 共         村数百八拾弐箇村    内訳   田方 三万七百五拾石余    但泥水砂利深,サ八、九尺より    三丈迄押懸、七、八日湛水腐    仕候付、皆無与相見江申候    尤川欠其外永之開発,   難成場所茂御座候   畑方 三万八百六拾九石余    右同断皆無与相見江申候 一、用水堰損埋
パスファインダー (天竜川・木曽川と水害)

天竜川・木曽川と水害について トピック(テーマ) ねらい キーワード 概要を知るための ツール,資料リスト 天竜川・木曽川と水害 1 書名 著者名 出版社 出版年 千曲川・犀川,は人々の生活に密着した大河だが大きな水害も引き起こ してきた。,その水害の歴史と治水について知ることは重要である。,天竜川 木曽川 三峰川 三六災害 じゃぬけ 諏訪湖 大西山 遠山 川 通船 伊那谷の土石流と満水:三六災害 / 天竜川・木曽川と水害
寛保二戌年満水御届書 ([現代訳])

寛保二戌年満水御届書 / [現代訳] 別紙で申し上げましたように、8月1日の  満水で、私領分の田畑の損害並びに民家その他の,        村数は182箇村     その内訳    田方 3万750石余     但泥水砂利深,サ8、9尺より     3丈迄押しかけ、7、8日湛水して腐って     しまい、皆なくなったように,、    畑方 3万869石余     田、同様皆無くなってしまったように見えます、  一、用水堰
寛保二壬戌歳満水記 ([解説])

寛保二壬戌歳満水記 / 降幡浩樹  寛保2年(1742)7月、関東一円及び信濃を襲った大豪雨は、戌年にあたっていたため、戌年の満水とも,これによると、被害は領内188ヶ村に及び、水難の家2,914軒(内流失の家1,755軒、潰家857軒、
パスファインダー (江戸時代飯田・下伊那の水害)

江戸時代飯田・下伊那の水害 トピック(テーマ) 江戸時代飯田・下伊那の水害 ねらい,その歴史と人々の治水対策を知ることにより、今日の対策を 考える。,天竜川  松川  未満水  満水  洪水  川除  川除普請  惣兵 衛川除  石川除  治水  川路村,長野県史 近世史料編 第4巻(3) 長野県/編 長野県史刊行会 1988.3 飯田・下伊那の水害や治水,に関する史料が載っている 川路村水防史 代田豊太郎、竹内武司/編 川路村水害予防組合 1936 川路村 / 江戸時代飯田・下伊那の水害
寛保二戌年満水御届書 ([解説])

寛保二戌年満水御届書 / [解説] [目録] 真田宝物館 降幡浩樹  寛保2年(1742)8月1日の水害による幕府への被害届,用水被害3万3790間余、土手の被害1万480間余。道路被害3万6千140間余。山抜け988ヶ所。
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([翻刻])

寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 / (改頁)      1   (改頁)   一 八月朔日風雨前代未聞満水、,一 川東通松代大変、下越後大水。,一 江戸大水、五百羅かんはふ迄水つき申候由、上州筋大水、熊谷   土手三ケ所切れ候、阿部豊後守様御城下大変
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([解説])

寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 / [解説] [目録] 上田歴史研究会 阿部勇  上田地域の「戌の満水」については『原町問屋日記』『,・旧暦の七月二七日から八月一日(新暦八月二七日から三〇日)にかけての豪雨による洪水を戌の満水といいます,上田地域では被害が続出し、千曲川の満水は以後もしばらく続きます。,・江戸も上州も大洪水に襲われたといいます。,『原町問屋日記』の戌の満水記録はさらに続きますが、掲載した史料はここまでです。
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([現代訳])

寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 / [現代訳] 一 八月一日は激しい風雨になり前代未聞の洪水になりました。,一 千曲川東の松代も被害を受け洪水になりました。,一 江戸も洪水になり五百羅漢まで水がついたといわれています。,上州も洪水になり熊谷の土手は三カ所切れ、阿部豊後守様の御城下も被害を受けました。
寛保二年八月上畑村水災救恤願 ([解説])

寛保二年八月上畑村水災救恤願 / [解説] [目録] 小諸市古文書調査室 斉藤洋一  千曲川上流域で「戌の満水」の最も大きな被害を,寛保二年八月の「上畑村水災救恤願」(一〇一一〇)によれば、流死者二四八人(『八千穂村誌』第四巻によれば,、「村前後左右より水(が上畑村へ)押しかけ」たからであった(これによれば、洪水は八月二日に起こったことになる,上畑村は当時、七〇〇〇石の旗本水野惣兵衛忠穀領であったが(役所は高野町にあった)、願書のなかで「殿様(,上畑では現在も住民による「戌の満水」による被災者の供養が続けられている。
寛保二年八月上畑村水災救恤願 ([翻刻])

寛保二年八月上畑村水災救恤願 / [翻刻] 1      乍恐願書を以御訴詔申上候御事 一当八月朔日之夜中より二日之朝迄大満水ニ,ハ御  宿茂被 仰付候儀ニ御座候、人馬附送仕所ニ右申上候通り  四ケ所之川端ニ而、  千曲川出水之節,而村東ハ千曲川、村南ハ大石川、村西ハ八郡川、      2  北者沢入川河除押切り、村前後左右より水押掛,千曲河通南ハ大石川  より北中畑村境迄不残御河除奉願候、扨又西ハ八郡川  相残候御田地中を本瀬ニ罷成水通,、一村亡所ニ罷成難儀      3 至極ニ奉存候、乍恐此度之儀 殿様(水野忠穀)御ちからニも御及被遊
木曾山林学校 (◎農商務省営林技師水戸章造氏の演説)

そこで此の水蒸気と言ふものは、鍋に水を入れて煮沸するときは空気中に飛散す。,此空気中の水蒸気は熱ければ多く寒ければ少ない。,処(ところ)で、ある作用に因(より)て水気森林内に入り一部は林内の寒気の為めに水蒸気湿潤となる。,又米を取るにも水がなければならぬ。総(すべ)ての農産物を繁殖するにも此の水が必要である。,而して此の水を得んとするに就ても、森林と水との関係が密接であるのであると言ふことを知らないのである。 / ◎農商務省営林技師水戸章造氏の演説
パスファインダー (江戸時代千曲川水害と上今井瀬直し工事)

そこで、 記録に残る江戸時代の千曲川水害と明治初期に行われた上今井瀬直 し工事の様相を究明し、今後の治水事業,仁和4年の洪水 戌の満水 善光寺地震 千曲川瀬直し 内務省堤防 むしくら日記 信濃国地震大絵図 信濃国大地震火災水難地方全図,特に、洪水と瀬直しの章では、歴史上の 大洪水についてどの様な被害であったかを明らかにし、その対応策で,年、長野県と関東地方を襲った歴史的な洪水― 内容紹介 「戌の満水」の千曲川流域をルポ、その全容と今を検証,、寛保2年(1742年)の「戌の満水」が千曲川史上最大の洪水 であったと記している。 / 江戸時代千曲川水害と上今井瀬直し工事
寛保二年八月上畑村水災救恤願 ([現代訳])

寛保二年八月上畑村水災救恤願 / [現代訳] 恐れながら願書をもってご訴訟申し上げます 一、当八月一日の夜中から二日の朝まで大満水で,そのような交通の要衝ですが、右に申し上げたように四つの川の川端なので、千曲川の洪水の節は、当村の住宅地,ところが今度の満水で、村東は大石川、村西は八郡川、村北は沢入川の堤防が切れ、村の前後左右から水が押しかけ,また、住宅はほかへ移しても、堤防工事をしなければ残った田地が再び洪水によって荒らされてしまいます。,右に申し上げましたとおり、これまで聞いたこともない大満水によって、田地はいうまでもなく、住宅や家財・雑物
パスファインダー (高井・水内地域の文学(1))

高井・水内地域の文学(1) トピック(テーマ) 高井・水内地域の文学(1) ねらい,高井・水内地域について代表的な 文学作品について調べる。,栗生純夫/著 信濃郷土誌刊行会 1946 句集 1/2 信州地域史料アーカイブ 高井・水内地域,著者名 雑誌名 出版年 巻号頁数 1 サイト名 URL 概要 2 サイト名 URL 概要 -水の / 高井・水内地域の文学(1)
寛保二年小諸大洪水変地絵図(1) ([解説])

寛保二年小諸大洪水変地絵図(1) / [解説] [目録] 小諸市古文書調査室 斉藤洋一  千曲川流域において、一地域単位で「戌の満水」,「戌の満水」の際には、もちろん蛇堀川も洪水を起こし、蛇堀大橋を破壊するなどの被害を与えたが、より大きな,「小諸洪水流失改帳の写」は、「戌の満水」による被害状況を詳細に書き記したもので、どこの誰の家が、どのような,このように「小諸洪水流失改帳の写」は、「戌の満水」による小諸町を中心とした被害状況、その後の復興の取り,「寛保二年大洪水余録」(小山隆司家所蔵)は、「戌の満水」の前年に浅間山の法印坊沢に山ごもりした僧を小諸藩
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2) ([解説])

寛保二年小諸大洪水変地絵図(2) / [解説] [目録] 小諸市古文書調査室 斉藤洋一  千曲川流域において、一地域単位で「戌の満水」,「戌の満水」の際には、もちろん蛇堀川も洪水を起こし、蛇堀大橋を破壊するなどの被害を与えたが、より大きな,「小諸洪水流失改帳の写」は、「戌の満水」による被害状況を詳細に書き記したもので、どこの誰の家が、どのような,このように「小諸洪水流失改帳の写」は、「戌の満水」による小諸町を中心とした被害状況、その後の復興の取り,「寛保二年大洪水余録」(小山隆司家所蔵)は、「戌の満水」の前年に浅間山の法印坊沢に山ごもりした僧を小諸藩
パスファインダー (高井・水内地域の文学(2))

高井・水内地域の文学(2) トピック(テーマ) 高井・水内地域の文学(2) ねらい,高井・水内地域について代表的な 文学作品について調べる。,戯作秋山紀行 鈴木牧之/著 郷土出版社 1986.1 1/2 信州地域史料アーカイブ 高井・水内地域 / 高井・水内地域の文学(2)
寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳 ([現代訳])

寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳 / [現代訳] 「寛保二壬戌年金井村 戌出水万覚留帳 九月吉月  名主清右衛門」   一 組頭百姓代流死改役被仰付,113人   7歳以下は除くと男62人、女51人  信州小縣郡松平采女正知行所金井村は、8月の洪水の,(中略)  一 8月1日夜中におびただしく雨が降り、朝5ツ時(8時頃)に大洪水となった。,水は村を押し流した。,一 私たち生き残った村人105名は残らず誰彼の隔てなく助け合いながら、水が引くと直ちに1日昼九ツ時(正午
寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳 ([翻刻])

寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳 / [翻刻] 「寛保二壬戌年金井村      1 戌出水万覚留帳 九月吉月  名主清右衛門」  ,  男六拾弐人   女五拾壱人  右ハ信州小縣郡松平采女正  知行所金井村之儀、当八月  出水之節,  (改頁)      9    一 八月朔日朝五ツ時、夜中夥鋪降リ   五ツ大水、,下男四人不残朝草苅ニ罷出、所々江   かけにけ、壱人ハむざんニ流死、扨又   馬三疋所持内弐疋ハ村下水とう,  夫より片羽村へ家共方へ預ケ置  一 手前不残村中都合百五人、自他之   へたてもなく、朔日水ひけ
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2) ([翻刻])

寛保二年小諸大洪水変地絵図(2) / と茶屋より告来ル、早速罷出見申所ニ最早橋押流シ、御門之内迄水押入、水之  高サ三丈之余、横向之穢多石垣降,(際カ)より御門之内迄押上、柵之木押流、兵助屋敷迄水押上、前之橋之高サ弐丈八尺有之、  今堀(掘)レ,而民家無恙、人馬共ニ怪我無之、田畑ハ移(夥)敷押流申候、  同日同刻ニ本町東沢川・中沢川同事(時)ニ水出,り、  御長屋押流ス、御馬屋計残ル、御花見御櫓押掛ケ、水壱尺之余御櫓之壁へ上ル、大手口之水者瓦御門へ,、此山御座候付、水除ニ者及申間敷由被遊御意候、藤吉申上候、右川向之山岸ヲ通り申候所ニ、去年中此方江水押付申候
寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳 ([解説])

寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳 / [解説] [目録] 元長野県立歴史館 青木隆幸  「寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳」(以下、「,瀬田家には「万覚留帳」のほか、「戌の満水」による耕地の被害状況を書き上げた史料(「寛保三年四月二十一日,戌の満水」を歩く』)。,道に面する部分の幅は村役人たちが広く、水の便もよかったという。,この祭りは「戌の満水」の流死者の霊を供養と無病息災を祈る行事と言われる。
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([現代訳])

弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 / 高井郡に大洪水をもたらしました。,また割戸の滝磐を割って雁越に入り、栗柄の道と上邑の道を開いた」  考えるに、水内郡水内村(長野市信州新町水内,)は水内郡の発祥の地で、上代に水内の海と言われたのも、この辺りを言ったものでしょうか。,水内橋の技巧がなければ、知られていないでしょう。思うに、水内の地名はこれに由来しているのでしょう。,[『《アイ》嚢鈔』の善光寺の由来の条には、「信濃は標高の高い地で、ことにこの郡は高いので水落(水内)の
寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願 ([解説])

寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願 / [解説] [目録] 小諸市古文書調査室 斉藤洋一  千曲川上流域で「戌の満水」の最も大きな被害を,寛保二年八月の「上畑村水災救恤願」(一〇一一〇)によれば、流死者二四八人(『八千穂村誌』第四巻によれば,、「村前後左右より水(が上畑村へ)押しかけ」たからであった(これによれば、洪水は八月二日に起こったことになる,上畑村は当時、七〇〇〇石の旗本水野惣兵衛忠穀領であったが(役所は高野町にあった)、願書のなかで「殿様(,上畑では現在も住民による「戌の満水」による被災者の供養が続けられている。
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([翻刻])

弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 / 概(オホムネ)水災ノ所及殆ト六郡、人畜圧溺セラルヽ者亦仁和ノ厄ノ如シ。今俗以為古今未曽有ナリト。,廻箕野(ミノ)、至科野(シナノ)治水内(ミヌチノ)海、至上毛(カミツケ) 治利根(トネノ)海。,按るに、水内郡水内邑ハ夲郡初発の地にして、上古に  水内の海と聞へしも此辺をいへるにや。,実に水内  橋の奇巧(たくみ)なかりせは便りなかるべし。,浮みながれて穂刈(ほかり)[村名]の水面に漂(たゝよ)ふ。  
パスファインダー (千曲市武水別(たけみずわけ)神社大頭祭(だいとうさい))

千曲市武水別神社大頭祭 トピック(テーマ) 千曲市武水別(たけみずわけ)神社大頭祭(だいとうさい,) ねらい 千曲市の武水別神社の頭人(とうにん)行事(大頭祭)は、昭和 61(1986)年,キーワード 概要を知るた めのツール 1 書名 著者名 出版社 出版年  武水別神社,武水別神社大頭祭 島田 國孝 千曲 2005 平成10・11年 長野県市町村史誌目次情報ネットワーク,http://misuzu-mokuji.net/ 概要 市町村史誌の目次に「武水別神社  / 千曲市武水別(たけみずわけ)神社大頭祭(だいとうさい)
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([解説])

弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 / 弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 弘化丁未春三月二十四日信州大地震山頽川塞堪水之図,続いて「水内」という地名の語源について述べ、歌枕でもある水内の曲橋(久米路橋)が流失したことを嘆いています,この図は、4月13日に大洪水が発生する前までの被害状況を図示しています。,山崩れで埋没した村や、水没した村も、詳細に知ることができます。  ,その前に描かれた水田は、田毎の月で名高い棚田でしょう。  
寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願 ([現代訳])

寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願 / [現代訳] 恐れながら願書をもってご訴訟申し上げます 一、当八月一日・二日の大満水によって、田畑はいうまでもなく,当八月の大満水によっておびただしい田畑・家財が流失したので、鎌・鍬・諸道具を購入する代金がありません。
寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願 ([翻刻])

寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願 / [翻刻] 乍恐願書を以御訴詔申上候御事      1 一当八月朔日・二日之大満水ニ而御田畑ハ不及申,流失仕、当分より被下候物一円無御座候、尤御田  地流不申候以前茂困窮之百姓ニ御座候、当  八月之大満水ニ
/ 19ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました