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秀吉と真田
(沼田領の分割裁定)
沼田
領の分割裁定 「秀吉と真田」の目次はこちら 秀吉は、天正十三年(一五八五)に四国を、同十五年,ここで氏規は真田氏の
沼田
領と氏直の上洛を引き換えにしようとした。,これにつき真田信幸に上田から
沼田
までの案内と伝馬人足を出すように命じている(写真)。,年来の
沼田
城・
沼田
領の帰属をめぐる北条と真田の争いを、秀吉が使者(検使)を派遣して裁決しようとした折のもの,然れば、其の地より
沼田
迄、伝馬六十疋・人足弐百人申し付け、上下共送付すべし。 /
沼田
領の分割裁定
秀吉と真田
(真田氏上田領・沼田領の石高)
真田氏上田領・
沼田
領の石高 「秀吉と真田」の目次はこちら 関ケ原合戦のあった慶長五年(一六〇〇),同じく慶長五年までの信幸の
沼田
二万七千石(上州利根郡・吾妻郡)は、江戸前期ごろ三万石であった。 ,しかし、その領域は上田・
沼田
間だけでも約百Kmという広大さであった。,支配の拠点が上田盆地の上田城と
沼田
盆地の
沼田
城というように二つに分かれるのは、地理的にみても自然であった / 真田氏上田領・
沼田
領の石高
秀吉と真田
(北条氏討伐へ)
昌幸宛て十一月二十一日付け書状で、北条の態度には大変問題があったが不問に付し、使者を派遣して要求どおり
沼田
城,しないことには、許すことはできない、とするとともに、北条が裁定違犯をしたからには、「本知」つまり元々の領地
沼田
,長文で
沼田
領をめぐる経緯が詳しく記されている。,旨申し上げ候歟(か)と思し食(め)され、其の儀に於いては
沼田
下さるべく候。,茲(ここ)に因り津田隼人正・富田左近将監を差し遣はされ、
沼田
渡し下され候事。
秀吉と真田
(家康の関東移封と真田昌幸・信幸)
とともに家康に返されたはずの真田昌幸だけは、そのまま上田にとどまり引き続き小県郡一円を支配し、問題の上州
沼田
領,これ以前から秀吉は昌幸を実質的には直臣扱いしていたのだが、
沼田
・名胡桃の件から北条氏討伐に至ったという,経過もあり、昌幸の身柄を名実ともに自分の直臣とするとともに、いったん北条領とした
沼田
も真田に返すことを,
沼田
領については前にみたように前年十一月の時点で既に返してやる旨を昌幸に伝えていたものでもあった(写真,もっとも上州
沼田
領は昌幸の長男信幸が、父の上田領(小県郡)とは独立した形で支配を展開することになる。
秀吉と真田
(真田昌幸、徳川と断交へ)
名目に出陣し、最低限の構にせよ上田城も造ってやり、恩を売った形の天正十一年の五月の時点で、真田昌幸に
沼田
城,そして、七月には真田の重臣で
沼田
城代であった矢沢頼綱らが、北条方からの使者を成敗、つまり斬殺するという,真田方は、北条方への
沼田
城引渡しを、断固拒否したものであり、この時点で真田は徳川と断交とみてよい。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(福島村)
下町小橋/檻獄門前橋/前沢橋/万郡(まんごおり)橋/塩淵(しおぶち)坂片土橋/矢崎橋/川渕橋/中平石橋/
沼田
野沢橋,/
沼田
野沢橋/
沼田
野沢石橋/鳥居片土橋/鳥居片橋/橡の木片土橋/橡の木片石橋/神戸石橋/東の沢土橋/小仏沢橋
松代まちあるきマップ
(45照光山乾徳寺)
上州
沼田
城主時代の真田信政が、改愚和尚を開山として二男信守の菩提を弔うため建てた寺が照光寺。,信政が
沼田
から松代に移り、松代藩二代藩主となった明暦二年(一六五六)の数年後、この地に雲龍山照光寺を建立
秀吉と真田
(武田氏・織田氏の滅亡と真田昌幸)
さらに昌幸は武田氏末期の天正八年(一五八〇)には上州
沼田
城を攻略する。,武田氏の家臣としてではあるが、昌幸は小県に隣接する上州の吾妻郡から利根郡
沼田
にかけてという上州北部一帯,昌幸はこの混乱を乗り切って、従来からの勢力圏であった吾妻・
沼田
領を再び確保しただけでなく、元来の本拠地小県郡全域,しかも、その講和条件は、真田領の上州吾妻・
沼田
と北条勢力下の佐久郡・甲州都留(つる)郡とを交換し、家康,家康も昌幸に対して、吾妻・
沼田
を引き渡せと、すぐには言い出せなかった。
秀吉と真田
(北条の兵、名胡桃城を奪取)
真田の属城とされた名胡桃(なぐるみ)城を、北条氏邦の配下で
沼田
城へ入った猪俣(いのまた)邦憲が攻め、乗,これについて真田信幸より報告を受けた家康は、十一月十日付け書状で、先の
沼田
城明渡しの両上使(津田・富田
秀吉と真田
(上杉方による上田城増築普請)
昌幸の長男信幸は
沼田
方面の家臣に出した書状で、その戦果を簡潔に知らせている(6)。,」 長野市真田宝物館蔵 天正十三年(一五八五)閏八月十三日 真田昌幸の長男源三郎信幸が
沼田
周辺,から出張してきた徳川軍と一戦を遂げ、千三百余人を討ち取った、と勝利を知らせるとともに、南衆(北条勢)が
沼田
攻
秀吉と真田
(徳川秀忠軍の上田攻め)
沼田
の信幸にも小県攻めに向かうので、そちらへ出張するように命じ(写真)、他の諸将へは「真田表仕置きのため,真田信幸宛徳川家康書状」 真田宝物館蔵 慶長五年(一六〇〇)八月二十一日 真田信幸(伊豆守)の
沼田
領,明二十四日、こちらを発って小県郡(全域が上田領)を攻めるので、そちらへ出張するようにと
沼田
城の信幸に申,これが真田家文書中に伝わっているのは、真田氏の
沼田
領・上田領経由で大坂まで届けられるはずのところ、信幸,の
沼田
領で止められてしまった故だろう。
松代まちあるきマップ
(40無漏山実相院)
松代藩真田家二代藩主信政は、上州
沼田
城藩主の時代から長巌和尚への帰依も篤く、同師から法名を貰う。
松代まちあるきマップ
(47真光(信広)山 林正寺)
そのため
沼田
真田家によるお家騒動が勃発。これを裁いた信之も、同年十月に亡くなった。
松代まちあるきマップ
(16矢澤家表門)
沼田
城を落とすなど昌幸の戦いを支えた、戦国真田家の重鎮。
パスファインダー
(真田氏関係の城址、寺社、文化遺産)
真田氏館跡 本原の真田氏館跡(御屋敷)天白城跡 砥石城全景 岩櫃城跡 岳山城跡 箕輪城跡 白井城跡 平八石
沼田
,、海野幸義の墓、砥石城全景、上州我妻郡岩櫃城之図、岳 山城跡 箕輪城跡 白井城跡 平八石、上州利根郡
沼田
城之図,年月日 金箔瓦 信濃毎日新聞社(データベース) 2018.3.8 名胡桃城(なぐるみじょう)
沼田
城
秀吉と真田
(東西に分かれた真田父子)
昌幸は
沼田
領問題をめぐっては家康と干戈を交えてさえいる。,これ以後小田原の役にかけて、北条勢の攻勢に耐えて
沼田
城・
沼田
領を真田方が持ちこたえることができたのは、,天正十三年の上田合戦の時はもちろんだが、秀吉書状によれば、翌十四年の時点でも
沼田
領の真田持ち分の城の二
秀吉と真田
(上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸))
証人信繁(弁丸) 「秀吉と真田」の目次はこちら 天正十三年(一五八五)になり、家康からの再度の
沼田
引渡,上杉景勝は、右の誓詞で昌幸に、
沼田
・吾妻・小県等のほか、「屋代一跡」も給付するとしている。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(上野村)
川: 神川 渡・堰: 堀越堰/新屋堰/染屋堰/岩門堰 橋: 川久保橋/畑山橋 道路:
沼田
街道
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(住吉村)
/山名詮議中/米山 川: 矢出沢川 渡・堰: 堀越堰 橋: 東条橋/坂下橋 道路:
沼田
街道
パスファインダー
(真田一族と家臣団)
出版年 1985年9月 改訂版2002年1月 巻号頁数 第123号 2 論題名
沼田
真田藩
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(長倉村)
(読みは「ミズマ」カ)/埴生/経塚/夷隅(読みは「イスミ」カ)/熊沢/蓁原/企救/堅田/朝開/水口/
沼田
パスファインダー
(明治17年(1884)の秩父事件)
井上幸治執筆の「秩父事件」の項目は、全体像がよくわかる 女たちの秩父事件 五十嵐睦子・石原芳枝・大
沼田
鶴子
秀吉と真田
(昌幸の秀吉への接近)
昌幸は天正十一年七月からは
沼田
領問題をめぐって德川と断絶していたとみられ、事態の打開を図る必要に迫られていた
上田の早苗
([翻刻])
其後徳川家ト北条家ト和議整テ甲信両国ハ徳川家ノ有ト定メ上野ハ北条 ノ有ト定ム、然レハ真田昌幸領知上州
沼田
城,ト答ケルニ、先
沼田
城ヲ可渡、追テ替地御 沙汰可有ト再三ノ御使ナリ、依之天正十三年乙酉七月ニ至テ昌幸御使,ニ対シ 申ケルハ
沼田
領ノ儀ハ旧主武田家ヨリモ賜ハラス又徳川家ヨリモ給ハラス全ク昌幸 カ鎗先ヲ以, (改頁) 8 未一所ノ賞禄ヲモ賜ハラス、剰自身ノ武勇ヲ以テ取所ノ
沼田
領,則両人ヲ紀州高野山ノ麓久度村へ蟄居サセラレタリ、其節 上田城郭ハ破却セラレ、尋テ昌幸ノ領地上田并上州
沼田
パスファインダー
(真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村))
真田信繁(幸村) 真田幸隆 真田昌幸 真田信之(信幸)上田合戦 関ケ原の戦い 真田十勇士 犬伏の陣 上田
沼田
木曾山林学校
(2.木曽の歴史)
弟二子基家、其外祖
沼田
氏に匿(かくれ)る。
秀吉と真田
(三成ほか西軍諸将よりの書状)
また
沼田
越えで会津へ向かう使者の案内も依頼している。,真田氏
沼田
領と上杉氏会津領とは峠(尾瀬)越えで接してもいたのである。
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