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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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秀吉と真田 (真田昌幸、徳川と断交へ)

名目に出陣し、最低限の構にせよ上田城も造ってやり、恩を売った形の天正十一年の五月の時点で、真田昌幸に沼田城,そして、七月には真田の重臣で沼田城代であった矢沢頼綱らが、北条方からの使者を成敗、つまり斬殺するという,真田方は、北条方への沼田城引渡しを、断固拒否したものであり、この時点で真田は徳川と断交とみてよい。
秀吉と真田 (沼田領の分割裁定)

このときの秀吉の裁定は、上州の真田領のうち沼田城を含む三分の二の地を北条領とし、三分の一は真田領として,年来の沼田城・沼田領の帰属をめぐる北条と真田の争いを、秀吉が使者(検使)を派遣して裁決しようとした折のもの,沼田城の北条方への引き渡しについては家康の重臣榊原康政も立会いに出向いている。
秀吉と真田 (北条の兵、名胡桃城を奪取)

真田の属城とされた名胡桃(なぐるみ)城を、北条氏邦の配下で沼田城へ入った猪俣(いのまた)邦憲が攻め、乗,これについて真田信幸より報告を受けた家康は、十一月十日付け書状で、先の沼田城明渡しの両上使(津田・富田
松代まちあるきマップ (40無漏山実相院)

松代藩真田家二代藩主信政は、上州沼田城藩主の時代から長巌和尚への帰依も篤く、同師から法名を貰う。
松代まちあるきマップ (45照光山乾徳寺)

上州沼田城主時代の真田信政が、改愚和尚を開山として二男信守の菩提を弔うため建てた寺が照光寺。
松代まちあるきマップ (16矢澤家表門)

沼田城を落とすなど昌幸の戦いを支えた、戦国真田家の重鎮。
秀吉と真田 (真田氏上田領・沼田領の石高)

支配の拠点が上田盆地の上田城と沼田盆地の沼田城というように二つに分かれるのは、地理的にみても自然であった
秀吉と真田 (北条氏討伐へ)

昌幸宛て十一月二十一日付け書状で、北条の態度には大変問題があったが不問に付し、使者を派遣して要求どおり沼田城,最前御請け申すに依り、縦(たと)へ表裏有りと雖(いえど)も、其の段相構へられず、先ず御上使を差し越され、沼田城,去り乍(なが)ら上野(こうずけ)のうち真田持ち来たり候知行三分の二沼田城に相付け、北条に下さるべく候。
パスファインダー (真田氏関係の城址、寺社、文化遺産)

、海野幸義の墓、砥石城全景、上州我妻郡岩櫃城之図、岳 山城跡 箕輪城跡 白井城跡 平八石、上州利根郡沼田城之図,年月日 金箔瓦 信濃毎日新聞社(データベース) 2018.3.8 名胡桃城(なぐるみじょう) 沼田城
秀吉と真田 (武田氏・織田氏の滅亡と真田昌幸)

さらに昌幸は武田氏末期の天正八年(一五八〇)には上州沼田城を攻略する。
秀吉と真田 (東西に分かれた真田父子)

これ以後小田原の役にかけて、北条勢の攻勢に耐えて沼田城・沼田領を真田方が持ちこたえることができたのは、
秀吉と真田 (徳川秀忠軍の上田攻め)

明二十四日、こちらを発って小県郡(全域が上田領)を攻めるので、そちらへ出張するようにと沼田城の信幸に申
上田の早苗 ([翻刻])

其後徳川家ト北条家ト和議整テ甲信両国ハ徳川家ノ有ト定メ上野ハ北条  ノ有ト定ム、然レハ真田昌幸領知上州沼田城, 被命、右替地ハ信州ニ於テ下サルヘク旨也、此時昌幸申ケルハ麾下ニ属シ候儀  ナレハ替地下サルヽ上ハ沼田城差上可申,ト答ケルニ、先沼田城ヲ可渡、追テ替地御  沙汰可有ト再三ノ御使ナリ、依之天正十三年乙酉七月ニ至テ昌幸御使,アリテ     (改頁)    上田城ヲ松代へ処替ヲ命セラレタリ、此時上毛沼田城地
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