• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • キーワード一覧

NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 52件
辞書ファセット
/ 2ページ
小諸洪水流失改帳 ([現代訳])

小諸洪水流失改帳 / [現代訳] 「寛保二壬戌年八月朔日」   与良右兵衛筆記   『小諸洪水流失改帳の写』         ,29日は夜9時すぎから雨が降りだし、法圓房沢の所どころが崩れ、濁り川(蛇堀川)が氾濫し、与良町大橋が流失
小諸洪水流失改帳 ([翻刻])

小諸洪水流失改帳 / (改頁)      1    「寛保二壬戌年八月朔日」   与良右兵衛筆記   『小諸洪水流失改帳,寛保二壬戌七月廿八日大雨、翌廿九日夜五ツ半過ヨリ雨降リ、法圓房沢山所々崩レ、濁リ川江押出シ、与良町大橋流失,中嶋平六・中田傳右衛門着府、混雑之砌候間、御連状不来、右之趣口上ニ而被仰遣候、 一 御扶持人之分流家流失改, 流土蔵 二十八軒  寺   四ヶ寺  落橋  十壱ヶ所  (中略)  本町荒町男女并馬流失改帳写
小諸洪水流失改帳 ([解説])

小諸洪水流失改帳 / おそらくこうした活動などのために、「小諸洪水流失改帳の写」(小山隆司家所蔵)も小山家で作成されたものと,「小諸洪水流失改帳の写」は、「戌の満水」による被害状況を詳細に書き記したもので、どこの誰の家が、どのような,このように「小諸洪水流失改帳の写」は、「戌の満水」による小諸町を中心とした被害状況、その後の復興の取り
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([現代訳])

一 田中宿は流失し問屋の当主(小田中)長之助が流死、当家では左太夫を除いて残らず流死しました。,一 海野宿は半分流失し土砂が流れ込みました。海禅寺村と深井村も同じでした。,下塩尻下村、中島、新屋、大日向、横沢久保、軽井沢、大庭も流失しました。,一 川中島、稲荷山、塩崎が流失、岡田には土砂が流入しましたがそのほかの一万石の領地は無事でした。,一 小諸の六供、田町、本町が流失し、流死者は三四〇人、馬は一四ひき流され流れつぶれた家は二〇七軒にのぼりました
天明三年浅間騒動記 ([翻刻])

古田大膳知行所 赤羽祢(根)村 一高六拾弐石六斗五升四合 内三拾八石五斗五合泥押人別百七拾七人内男女拾四人 流失家数四拾五軒内三拾三軒流失馬弐拾八疋内八疋流失,深津弥市知行 今井村高百四拾三石弐斗三升八合 内五拾七石四斗九升六合泥押 人別百弐拾三人内男 女四拾七人流失家数九拾軒内弐拾四軒流失,馬弐十五疋ノ内壱疋流失 一三嶋村 高千百八拾七石 三斗六升八合内三百七拾石泥をし流失拾三人内男四人女九人,飢人弐百五拾人内男百拾八人女八拾七人馬六疋流死 流失本家五拾七軒半潰家八軒物置弐拾八軒土蔵 壱軒流失,高百拾壱石四斗九升四合内九拾八石弐斗 九升四合泥押人別弐百九拾人内男女百四拾九人流死ス 家数六拾三軒不残流失馬八拾壱疋内七拾疋流失寺壱
寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書 ([現代訳])

口上の覚え 一、望月宿は去年戌八月の大満水によって伝馬役屋敷二十軒ならびに裏家・土蔵・木小屋などまで流失,そのうえ田地もおびただしく流失し、伝馬役を務めかねる困窮状態です。,そこで先に宿場の堤防工事をお願いしましたが、今回流失しないで残った田地の堤防工事を、別紙帳面のとおりお
寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願 ([現代訳])

二日の大満水によって、田畑はいうまでもなく、家屋敷・家財・食糧・衣類・種物・諸道具・糞・灰まで、残らず流失,当八月の大満水によっておびただしい田畑・家財が流失したので、鎌・鍬・諸道具を購入する代金がありません。
寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願 ([翻刻])

・二日之大満水ニ而御田畑ハ不及申、家屋敷・  家財・夫食・衣類・種物・諸道具・冀・灰共ニ不残  流失仕,被下候物一円無御座候、尤御田  地流不申候以前茂困窮之百姓ニ御座候、当  八月之大満水ニ而夥敷田畑・家財流失仕候
寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書 ([翻刻])

役屋敷弐拾軒並裏家・土蔵・木小屋等迄流  失仕、此度御見分被成下置候通ニ御座候、  其上田地夥敷流失仕,、御伝馬役相勤り兼候  躰ニ而困窮仕候、依之宿之川除御普請  奉願上、猶又流失残り候田地川除場所、
寛保三年三月復旧方懇願書 ([翻刻])

落申候節者、上り之御家中様方相勤申候、  然所ニ去八月満水ニ付、居家四拾七軒、  其外蔵・長屋等迄不残流失仕,ハヽ、難有      4  奉存候、尤本町より去冬江戸表江御普請  願ニ罷出候絵図表江も、新町之流失仕候
寛保二年八月上畑村水災救恤願 ([解説])

上畑村水災救恤願」(一〇一一〇)によれば、流死者二四八人(『八千穂村誌』第四巻によれば、全体の四〇パーセント)、流失家屋一四,〇軒(八四パーセント)、流失馬二五頭にのぼり、田畑もおびただしく失われた(『八千穂村誌』第四巻によれば,、流失田畑は一四七石分で全体の三一パーセント)。,流失をまぬがれた家はわずかに二七軒であったが、それらの家も柱や壁を破って石砂が押し込み、家財雑物を残らず
寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願 ([解説])

上畑村水災救恤願」(一〇一一〇)によれば、流死者二四八人(『八千穂村誌』第四巻によれば、全体の四〇パーセント)、流失家屋一四,〇軒(八四パーセント)、流失馬二五頭にのぼり、田畑もおびただしく失われた(『八千穂村誌』第四巻によれば,、流失田畑は一四七石分で全体の三一パーセント)。,流失をまぬがれた家はわずかに二七軒であったが、それらの家も柱や壁を破って石砂が押し込み、家財雑物を残らず
寛保二年十月上畑村総百姓往還道・屋敷移転取極証文 ([解説])

上畑村水災救恤願」(一〇一一〇)によれば、流死者二四八人(『八千穂村誌』第四巻によれば、全体の四〇パーセント)、流失家屋一四,〇軒(八四パーセント)、流失馬二五頭にのぼり、田畑もおびただしく失われた(『八千穂村誌』第四巻によれば,、流失田畑は一四七石分で全体の三一パーセント)。,流失をまぬがれた家はわずかに二七軒であったが、それらの家も柱や壁を破って石砂が押し込み、家財雑物を残らず
寛保三年三月復旧方懇願書 ([現代訳])

ところが去年八月の満水によって、住宅四十七軒、そのほか蔵・長屋などまで残らず流失し、屋敷跡・往還跡は川筋,もっとも、本町より去年の冬、江戸表へ堤防工事のお願いに出府した際に持参した絵図にも、新町が流失した状態
寛保二年八月上畑村水災救恤願 ([翻刻])

千曲川・大石川・  飯塚川・沢入川四ケ所之川一つ罷成当村家居江押掛ケ、流死  之者男女弐百四拾八人、流失家百四拾軒,、流失馬弐拾五疋  御座候、相残候家纔《ワズカニ》弐拾七軒御座候得共、柱・壁等押ぬき石砂  押込、,2  北者沢入川河除押切り、村前後左右より水押掛ケ、男  女逃候儀相叶不申、右之人馬・家財流死・流失仕侯
寛保二年八月上畑村水災救恤願 ([現代訳])

千曲川・大石川・飯塚川・沢入川の四つの川が一つになり、当村の住宅地へ押しかけ、流死の者男女二百四十八人、流失家百四十軒,、流失馬二十五頭にのぼりました。,の堤防が切れ、村の前後左右から水が押しかけ、男女とも逃げることができず、右にあげた人馬・家財が流死・流失
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([解説])

・田中宿は所沢川で発生した土石流が直撃しそのほとんどが流失しました。,海野宿も半分は流失、しかし使用できる家も残ったので、以後機能を果たせなくなった田中宿の役割を担うこととなります,・小諸の六供、田町、本町が流失し、流死者は三四〇人、馬が四匹流され、流れつぶれた家は二〇七軒でした。,・上田藩内で流失した家は一一二〇軒ほど、流死者五四〇人余り、流された馬一〇匹ほど、と記されています。
むしくら日記 (4巻 貞)

の家、御領中にて千八十一軒、押埋の家三百十 七軒、押埋の上流失七軒、水押潰九軒、半分流失七 軒也、,、最初ハ流失水入人別へ焚出し御救被下 候而已ニ而、金子御手充無御坐候由、漸当月初旬ニ相成、流失者, 洪水之節  一、同石積流失延長弐千九百間余   但、洪水之節  一、同菱牛石積流失三百八ヶ所,  但、右同断  一、同石枠・合掌枠流失千弐百参拾六組   但、右同断  一、同岸囲打杭笈牛差出流失八千百四拾,  六百六軒       潰半潰湛水ニ而浮出之上流失   千四百壱軒      潰半潰之上流失洪水
寛保二年十一月堤防工事嘆願口上書 ([現代訳])

により鹿曲川が満水になり、望月宿北側の伝馬役屋敷二十軒、そのほか裏家・土蔵・木小屋・物置・厩などが残らず流失
寛保二年十一月堤防工事嘆願口上書 ([翻刻])

ニ付、鹿曲川満水望月宿  北側ニ而御伝馬役屋敷弐拾軒、其外裏家  並土蔵・木小屋・物置・厩等不残流失仕
寛保二壬戌歳満水記 ([解説])

これによると、被害は領内188ヶ村に及び、水難の家2,914軒(内流失の家1,755軒、潰家857軒、
寛保二戌年満水御届書 ([解説])

流失家屋1,733軒、潰家857軒。流死1,220人、流死馬51匹。
浅間山噴火の被害記 ([現代訳])

右の流失のためであろうか。鯉・鮒・どじょう・うなぎが残らず死んで流れた。  ,隣村に坪井村という村があったが、百姓助右衛門という者の土蔵一つを残して、ほかはすべて流失した。,右の分が流失した。流失した牛馬の数は多くてわからない。 右のとおり相違なく、写した。   
浅間山噴火の被害記 ([翻刻])

より注進有之候、    此間打続キ日照りにて有之候処、利根川八日・九日  泥水三四尺相増、右之通流失有之,有之候、     隣村ニ坪井村ト申邑御座候、百姓助右衛門与申ものゝ     土蔵壱ケ所相残り、外々ハ流失仕候,一小野木(子カ)村 姥(祖母嶋カ)村  右同断、 一杢橋両番所  砂入り候而家共押潰し、右之分流失仕候
寛保二年大洪水余禄 ([解説])

おそらくこうした活動などのために、「小諸洪水流失改帳の写」(小山隆司家所蔵)も小山家で作成されたものと,「小諸洪水流失改帳の写」は、「戌の満水」による被害状況を詳細に書き記したもので、どこの誰の家が、どのような,このように「小諸洪水流失改帳の写」は、「戌の満水」による小諸町を中心とした被害状況、その後の復興の取り
小諸大変書 ([解説])

おそらくこうした活動などのために、「小諸洪水流失改帳の写」(小山隆司家所蔵)も小山家で作成されたものと,「小諸洪水流失改帳の写」は、「戌の満水」による被害状況を詳細に書き記したもので、どこの誰の家が、どのような,このように「小諸洪水流失改帳の写」は、「戌の満水」による小諸町を中心とした被害状況、その後の復興の取り
寛保二年小諸大洪水変地絵図(1) ([解説])

おそらくこうした活動などのために、「小諸洪水流失改帳の写」(小山隆司家所蔵)も小山家で作成されたものと,「小諸洪水流失改帳の写」は、「戌の満水」による被害状況を詳細に書き記したもので、どこの誰の家が、どのような,このように「小諸洪水流失改帳の写」は、「戌の満水」による小諸町を中心とした被害状況、その後の復興の取り
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2) ([解説])

おそらくこうした活動などのために、「小諸洪水流失改帳の写」(小山隆司家所蔵)も小山家で作成されたものと,「小諸洪水流失改帳の写」は、「戌の満水」による被害状況を詳細に書き記したもので、どこの誰の家が、どのような,このように「小諸洪水流失改帳の写」は、「戌の満水」による小諸町を中心とした被害状況、その後の復興の取り
寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳 ([翻刻])

、北山并ニ其外山々     (改頁)      4    抜出、百姓家居流失,御地頭へ上候書付      覚  一 村高右之通リ     内流右之通、永荒当荒共ニ  一 流失家数
むしくら日記 (3巻 利)

  人、市村之船十一間余一艘流れ寄居、   同村山村住居囲土堤押切、村上より水一円ニ   押来り、流失之家多分,、床上二三尺   泥入ニ相成、ねこ畳等其外家財、泥の中より堀出し   洗居候次第、御夲領之方水潰流失家,      5     多く御坐候、   津野村鴨居下三四尺程之水入、床上へ泥二尺も   押込、流失家水潰,須坂ニ而地震并流失潰家死失人     (改頁)      21    一 流家二十九軒  一,流末川中島一円ニ致充満、人家ハ尚更   田畑共押流或河原ニ相成、其外近村村々并下続   川除村方流失
寛保二年十一月堤防工事嘆願口上書 ([解説])

寛保二年一一月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から幕府道中奉行所へ、流失をまぬがれた家の軒下が鹿曲川,また、望月新町では、五八軒のうち七軒がつぶれ、四〇軒が流失し、残った家は一一軒だったこともわかる。
寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書 ([解説])

寛保二年一一月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から幕府道中奉行所へ、流失をまぬがれた家の軒下が鹿曲川,また、望月新町では、五八軒のうち七軒がつぶれ、四〇軒が流失し、残った家は一一軒だったこともわかる。
寛保三年二月宿場引き移し嘆願書 ([解説])

寛保二年一一月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から幕府道中奉行所へ、流失をまぬがれた家の軒下が鹿曲川,また、望月新町では、五八軒のうち七軒がつぶれ、四〇軒が流失し、残った家は一一軒だったこともわかる。
寛保三年三月復旧方懇願書 ([解説])

寛保二年一一月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から幕府道中奉行所へ、流失をまぬがれた家の軒下が鹿曲川,また、望月新町では、五八軒のうち七軒がつぶれ、四〇軒が流失し、残った家は一一軒だったこともわかる。
むしくら日記 (3巻 利)

2尺前後泥が入り、流失した家がおびただしく流れ寄り、通行が難しくなっています。,同村山村では住居を囲った土手が決壊し、村の上手から水が辺り一帯に溢れて来て、流失した家も多く、川沿いの,同相之島村は泥と水が流入、村山村と同様ですが、この村は東西に大木を植えてあったためか、家の流失はありません,、むしろや畳など、そのほか家財を泥の中から掘り出して洗っているような状態です、御本領の方も浸水や家の流失,床上に泥2尺も流れ込み、流失した家、水に浸かった家もあります。
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([現代訳])

「(上略)この日信濃国では大山が崩れ、大河が洪水を起こして、6郡で家やかまどがすべて流失した。,仁和3年の大地震では信濃の6郡がことごとく流失したということです。
寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳 ([現代訳])

に提出した書類      覚  一 村高右の通り     内流右の通、永荒当荒ともに  一 流失家数
書留帳(延徳田んぼを漂流した話) ([翻刻])

取続  罷有候所ニ、同八月朔日夜半之頃千曲川  松川松崎川篠井川大満水俄ニ押かけ  候故、家居流失潰,御訴申上早速御見分を請、其後  御代官所奉入御見分ニ両度御吟味請申候  通り田畑深泥石砂入川欠押堀荒地家  居流失潰,レ家ニ罷成申候故、夫食衣類農     (改頁)    具等流失、或者深砂石埋
上田の早苗 ([翻刻])

#160;   (改頁)      17     訪部ノ中ニアリシニ、何時ノ洪水ニヤ流失,一田中駅溺死者六十三人、家の残り九軒、 一加沢村九軒流亡、村中河原となる、溺死十五人 一祢津大半流失,、溺死人六十人余之由、 一金井村皆流失、溺死人百八十人余、此村最第一之惨状 一栗林村之内大川八軒流,、溺死一人 一東田沢八軒流失、溺死人六人 一大屋村七軒流失、溺死七人 一海善寺村大半流失、溺死四人,一中曽根村大半流失     (改頁)   一堀村大抵流亡、溺死未詳
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([解説])

続いて「水内」という地名の語源について述べ、歌枕でもある水内の曲橋(久米路橋)が流失したことを嘆いています,その中に「崩山」「焼失」「洪水」「流失」「潰家」などが色分けして記入されています。  
寛保二壬戌歳満水記 ([現代訳])

日夕暮れから 大風雨となり、8月1日の夜8時頃から川は満水となり、 松代の御城を始め、御城下の家屋の流失,一諸所山抜、道200間、田畑水押入、家潰拾軒    大室村 一31軒流家、10軒潰家 男1人女5人流失,外は残らず流死、    東川田村 一家19軒押流、田畑残らず砂入、    川合村 一家51軒流失
寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳 ([解説])

しかし、村高の三分の一にのぼる83石余の流失田畑は幕末まで開墾不可能地として残された。  
寛保二壬戌歳満水記 ([翻刻])

廿九日、殊ニ廿九日黄昏ヨリ 大風雨卜成り、八朔戊の刻ヨリ川々大満水、 松代 御城ヲ始メ、御城下家屋流失并,一諸所山抜、道二百間、田畑水押入、家潰拾軒    大室村 一三拾壱軒流家、拾軒潰家 男壱人女五人流失,人数弐拾六人之内二人残、不残流死、    東川田村 一家拾九軒押流、田畑不残砂入、    川合村 一家五拾壱軒流失
むしくら日記 (2巻 亨)

御料所  中野平辺迄致充満、如湖水相見候処、追々減水  及候付、早速見分差出候得共、大小橋々多分流失,其辺之水丈六丈余ニも及候ニ付、川辺村々之内  更級郡四ツ屋村之儀は、軒別八十軒余之内六 七軒相残悉致流失,且又川辺  村々米穀之儀は山手村々へ相移候様兼而申付置  候得共、其外近辺村々ハたとへ水押来候共流失, は致間敷与心得、棚等拵候而上置候穀物居家一  同致流失候も不少、右ニ付村々為救方所々へ役人, 家震潰候村々之者迄も申渡を不相待日々出  精築立候、其甲斐も無之、一時ニ破壊致候ニ付、居  家流失水冠
地震後世俗語之種 ([翻刻])

・俵物積重 ね〆りをつけて東西南北夫々におのれか小 屋に逃去りて、けふや我家の押流れ、翌日や 流失,下賤のわれ/\ハ唯おのれか身の成行を案事、 妻子の愛情を恣にするのみにて、譬はいかなる 焼亡あり流失,附随ふ人々を始、民百姓歓 ひ仰といへとも、四月十三日一段の急破に縄悉く 切れて流失するとかや ○,にありとも、年経て後子々孫々 の世に至りなは、昔し大地震発して此大河洪 水し、其時に此辺りまて満水流失,川中嶋をはしめとし、川辺に連なる所 の民百姓は最寄の山々に小屋かけて仮居し、今 にや水の押来り我家の流失
善光寺道名所図会 (○佐久郡小諸)

じたる石あまたなり、  七月十一日夜ハ大雨大水にて、山々沢々に積りし砂石を押出し、往還  二手の橋流失
むしくら日記 (2巻 亨)

の者には防災の準備を申し付けてありましたが、急に溢れ出し、未曽有の早さの出水で、想定外のことで、家の流失,のように見えるところも、しだいに水が引いていきますので、早速調査に役人を派遣しましたが、大小の橋が多く流失,六丈余りにもなったため、流域の村々のうち更級郡四ツ屋村では80軒余りのうち6、7軒を残してことごとく流失,そのうえ山中筋で水際の山は多く崩落して、大木などが流れ出て、このために壊され押し流された家も少なくなく、流失,村々の米穀については山手の村々へ移すようかねて申し付けておきましたが、そのほか近辺の村々は水が来ても流失
善光寺道名所図会 (○佐久郡小諸)

7月11日夜は大雨で、大水が出て山や沢に積った砂石を押し流し、道に架かる2つの橋が流失、宿も危うくなりました
地震後世俗語之種 (絵の解説)

名橋として知られていましたが、岩倉山(虚空蔵山)が崩落して犀川を堰き止めたことにより水没し、流失してしまいました
浅間山 (第三編 浅間山変異記)

このときの被害は、流失家屋役一一五〇個、流死者一六二〇余名といわれています。
/ 2ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました