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小諸洪水流失改帳
([現代訳])
小諸洪水
流失
改帳 / [現代訳] 「寛保二壬戌年八月朔日」 与良右兵衛筆記 『小諸洪水
流失
改帳の写』 ,29日は夜9時すぎから雨が降りだし、法圓房沢の所どころが崩れ、濁り川(蛇堀川)が氾濫し、与良町大橋が
流失
小諸洪水流失改帳
([翻刻])
小諸洪水
流失
改帳 / (改頁) 1 「寛保二壬戌年八月朔日」 与良右兵衛筆記 『小諸洪水
流失
改帳,寛保二壬戌七月廿八日大雨、翌廿九日夜五ツ半過ヨリ雨降リ、法圓房沢山所々崩レ、濁リ川江押出シ、与良町大橋
流失
,中嶋平六・中田傳右衛門着府、混雑之砌候間、御連状不来、右之趣口上ニ而被仰遣候、 一 御扶持人之分流家
流失
改, 流土蔵 二十八軒 寺 四ヶ寺 落橋 十壱ヶ所 (中略) 本町荒町男女并馬
流失
改帳写
小諸洪水流失改帳
([解説])
小諸洪水
流失
改帳 / おそらくこうした活動などのために、「小諸洪水
流失
改帳の写」(小山隆司家所蔵)も小山家で作成されたものと,「小諸洪水
流失
改帳の写」は、「戌の満水」による被害状況を詳細に書き記したもので、どこの誰の家が、どのような,このように「小諸洪水
流失
改帳の写」は、「戌の満水」による小諸町を中心とした被害状況、その後の復興の取り
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記
([現代訳])
一 田中宿は
流失
し問屋の当主(小田中)長之助が流死、当家では左太夫を除いて残らず流死しました。,一 海野宿は半分
流失
し土砂が流れ込みました。海禅寺村と深井村も同じでした。,下塩尻下村、中島、新屋、大日向、横沢久保、軽井沢、大庭も
流失
しました。,一 川中島、稲荷山、塩崎が
流失
、岡田には土砂が流入しましたがそのほかの一万石の領地は無事でした。,一 小諸の六供、田町、本町が
流失
し、流死者は三四〇人、馬は一四ひき流され流れつぶれた家は二〇七軒にのぼりました
寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書
([現代訳])
口上の覚え 一、望月宿は去年戌八月の大満水によって伝馬役屋敷二十軒ならびに裏家・土蔵・木小屋などまで
流失
,そのうえ田地もおびただしく
流失
し、伝馬役を務めかねる困窮状態です。,そこで先に宿場の堤防工事をお願いしましたが、今回
流失
しないで残った田地の堤防工事を、別紙帳面のとおりお
寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願
([現代訳])
二日の大満水によって、田畑はいうまでもなく、家屋敷・家財・食糧・衣類・種物・諸道具・糞・灰まで、残らず
流失
,当八月の大満水によっておびただしい田畑・家財が
流失
したので、鎌・鍬・諸道具を購入する代金がありません。
寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願
([翻刻])
・二日之大満水ニ而御田畑ハ不及申、家屋敷・ 家財・夫食・衣類・種物・諸道具・冀・灰共ニ不残
流失
仕,被下候物一円無御座候、尤御田 地流不申候以前茂困窮之百姓ニ御座候、当 八月之大満水ニ而夥敷田畑・家財
流失
仕候
寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書
([翻刻])
役屋敷弐拾軒並裏家・土蔵・木小屋等迄流 失仕、此度御見分被成下置候通ニ御座候、 其上田地夥敷
流失
仕,、御伝馬役相勤り兼候 躰ニ而困窮仕候、依之宿之川除御普請 奉願上、猶又
流失
残り候田地川除場所、
寛保三年三月復旧方懇願書
([翻刻])
落申候節者、上り之御家中様方相勤申候、 然所ニ去八月満水ニ付、居家四拾七軒、 其外蔵・長屋等迄不残
流失
仕,ハヽ、難有 4 奉存候、尤本町より去冬江戸表江御普請 願ニ罷出候絵図表江も、新町之
流失
仕候
寛保二年八月上畑村水災救恤願
([解説])
上畑村水災救恤願」(一〇一一〇)によれば、流死者二四八人(『八千穂村誌』第四巻によれば、全体の四〇パーセント)、
流失
家屋一四,〇軒(八四パーセント)、
流失
馬二五頭にのぼり、田畑もおびただしく失われた(『八千穂村誌』第四巻によれば,、
流失
田畑は一四七石分で全体の三一パーセント)。,
流失
をまぬがれた家はわずかに二七軒であったが、それらの家も柱や壁を破って石砂が押し込み、家財雑物を残らず
寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願
([解説])
上畑村水災救恤願」(一〇一一〇)によれば、流死者二四八人(『八千穂村誌』第四巻によれば、全体の四〇パーセント)、
流失
家屋一四,〇軒(八四パーセント)、
流失
馬二五頭にのぼり、田畑もおびただしく失われた(『八千穂村誌』第四巻によれば,、
流失
田畑は一四七石分で全体の三一パーセント)。,
流失
をまぬがれた家はわずかに二七軒であったが、それらの家も柱や壁を破って石砂が押し込み、家財雑物を残らず
寛保二年十月上畑村総百姓往還道・屋敷移転取極証文
([解説])
上畑村水災救恤願」(一〇一一〇)によれば、流死者二四八人(『八千穂村誌』第四巻によれば、全体の四〇パーセント)、
流失
家屋一四,〇軒(八四パーセント)、
流失
馬二五頭にのぼり、田畑もおびただしく失われた(『八千穂村誌』第四巻によれば,、
流失
田畑は一四七石分で全体の三一パーセント)。,
流失
をまぬがれた家はわずかに二七軒であったが、それらの家も柱や壁を破って石砂が押し込み、家財雑物を残らず
寛保三年三月復旧方懇願書
([現代訳])
ところが去年八月の満水によって、住宅四十七軒、そのほか蔵・長屋などまで残らず
流失
し、屋敷跡・往還跡は川筋,もっとも、本町より去年の冬、江戸表へ堤防工事のお願いに出府した際に持参した絵図にも、新町が
流失
した状態
寛保二年八月上畑村水災救恤願
([翻刻])
千曲川・大石川・ 飯塚川・沢入川四ケ所之川一つ罷成当村家居江押掛ケ、流死 之者男女弐百四拾八人、
流失
家百四拾軒,、
流失
馬弐拾五疋 御座候、相残候家纔《ワズカニ》弐拾七軒御座候得共、柱・壁等押ぬき石砂 押込、,2 北者沢入川河除押切り、村前後左右より水押掛ケ、男 女逃候儀相叶不申、右之人馬・家財流死・
流失
仕侯
寛保二年八月上畑村水災救恤願
([現代訳])
千曲川・大石川・飯塚川・沢入川の四つの川が一つになり、当村の住宅地へ押しかけ、流死の者男女二百四十八人、
流失
家百四十軒,、
流失
馬二十五頭にのぼりました。,の堤防が切れ、村の前後左右から水が押しかけ、男女とも逃げることができず、右にあげた人馬・家財が流死・
流失
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記
([解説])
・田中宿は所沢川で発生した土石流が直撃しそのほとんどが
流失
しました。,海野宿も半分は
流失
、しかし使用できる家も残ったので、以後機能を果たせなくなった田中宿の役割を担うこととなります,・小諸の六供、田町、本町が
流失
し、流死者は三四〇人、馬が四匹流され、流れつぶれた家は二〇七軒でした。,・上田藩内で
流失
した家は一一二〇軒ほど、流死者五四〇人余り、流された馬一〇匹ほど、と記されています。
むしくら日記
(4巻 貞)
の家、御領中にて千八十一軒、押埋の家三百十 七軒、押埋の上
流失
七軒、水押潰九軒、半分
流失
七 軒也、,、最初ハ
流失
水入人別へ焚出し御救被下 候而已ニ而、金子御手充無御坐候由、漸当月初旬ニ相成、
流失
者, 洪水之節 一、同石積
流失
延長弐千九百間余 但、洪水之節 一、同菱牛石積
流失
三百八ヶ所, 但、右同断 一、同石枠・合掌枠
流失
千弐百参拾六組 但、右同断 一、同岸囲打杭笈牛差出
流失
八千百四拾, 六百六軒 潰半潰湛水ニ而浮出之上
流失
千四百壱軒 潰半潰之上
流失
洪水
寛保二年十一月堤防工事嘆願口上書
([現代訳])
により鹿曲川が満水になり、望月宿北側の伝馬役屋敷二十軒、そのほか裏家・土蔵・木小屋・物置・厩などが残らず
流失
寛保二年十一月堤防工事嘆願口上書
([翻刻])
ニ付、鹿曲川満水望月宿 北側ニ而御伝馬役屋敷弐拾軒、其外裏家 並土蔵・木小屋・物置・厩等不残
流失
仕
寛保二壬戌歳満水記
([解説])
これによると、被害は領内188ヶ村に及び、水難の家2,914軒(内
流失
の家1,755軒、潰家857軒、
寛保二戌年満水御届書
([解説])
流失
家屋1,733軒、潰家857軒。流死1,220人、流死馬51匹。
浅間山噴火の被害記
([現代訳])
右の
流失
のためであろうか。鯉・鮒・どじょう・うなぎが残らず死んで流れた。 ,隣村に坪井村という村があったが、百姓助右衛門という者の土蔵一つを残して、ほかはすべて
流失
した。,右の分が
流失
した。
流失
した牛馬の数は多くてわからない。 右のとおり相違なく、写した。
浅間山噴火の被害記
([翻刻])
より注進有之候、 此間打続キ日照りにて有之候処、利根川八日・九日 泥水三四尺相増、右之通
流失
有之,有之候、 隣村ニ坪井村ト申邑御座候、百姓助右衛門与申ものゝ 土蔵壱ケ所相残り、外々ハ
流失
仕候,一小野木(子カ)村 姥(祖母嶋カ)村 右同断、 一杢橋両番所 砂入り候而家共押潰し、右之分
流失
仕候
寛保二年大洪水余禄
([解説])
おそらくこうした活動などのために、「小諸洪水
流失
改帳の写」(小山隆司家所蔵)も小山家で作成されたものと,「小諸洪水
流失
改帳の写」は、「戌の満水」による被害状況を詳細に書き記したもので、どこの誰の家が、どのような,このように「小諸洪水
流失
改帳の写」は、「戌の満水」による小諸町を中心とした被害状況、その後の復興の取り
小諸大変書
([解説])
おそらくこうした活動などのために、「小諸洪水
流失
改帳の写」(小山隆司家所蔵)も小山家で作成されたものと,「小諸洪水
流失
改帳の写」は、「戌の満水」による被害状況を詳細に書き記したもので、どこの誰の家が、どのような,このように「小諸洪水
流失
改帳の写」は、「戌の満水」による小諸町を中心とした被害状況、その後の復興の取り
寛保二年小諸大洪水変地絵図(1)
([解説])
おそらくこうした活動などのために、「小諸洪水
流失
改帳の写」(小山隆司家所蔵)も小山家で作成されたものと,「小諸洪水
流失
改帳の写」は、「戌の満水」による被害状況を詳細に書き記したもので、どこの誰の家が、どのような,このように「小諸洪水
流失
改帳の写」は、「戌の満水」による小諸町を中心とした被害状況、その後の復興の取り
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([解説])
おそらくこうした活動などのために、「小諸洪水
流失
改帳の写」(小山隆司家所蔵)も小山家で作成されたものと,「小諸洪水
流失
改帳の写」は、「戌の満水」による被害状況を詳細に書き記したもので、どこの誰の家が、どのような,このように「小諸洪水
流失
改帳の写」は、「戌の満水」による小諸町を中心とした被害状況、その後の復興の取り
寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳
([翻刻])
、北山并ニ其外山々 (改頁) 4 抜出、百姓家居
流失
,御地頭へ上候書付 覚 一 村高右之通リ 内流右之通、永荒当荒共ニ 一
流失
家数
むしくら日記
(3巻 利)
人、市村之船十一間余一艘流れ寄居、 同村山村住居囲土堤押切、村上より水一円ニ 押来り、
流失
之家多分,、床上二三尺 泥入ニ相成、ねこ畳等其外家財、泥の中より堀出し 洗居候次第、御夲領之方水潰
流失
家, 5 多く御坐候、 津野村鴨居下三四尺程之水入、床上へ泥二尺も 押込、
流失
家水潰,須坂ニ而地震并
流失
潰家死失人 (改頁) 21 一 流家二十九軒 一,流末川中島一円ニ致充満、人家ハ尚更 田畑共押流或河原ニ相成、其外近村村々并下続 川除村方
流失
寛保二年十一月堤防工事嘆願口上書
([解説])
寛保二年一一月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から幕府道中奉行所へ、
流失
をまぬがれた家の軒下が鹿曲川,また、望月新町では、五八軒のうち七軒がつぶれ、四〇軒が
流失
し、残った家は一一軒だったこともわかる。
寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書
([解説])
寛保二年一一月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から幕府道中奉行所へ、
流失
をまぬがれた家の軒下が鹿曲川,また、望月新町では、五八軒のうち七軒がつぶれ、四〇軒が
流失
し、残った家は一一軒だったこともわかる。
寛保三年二月宿場引き移し嘆願書
([解説])
寛保二年一一月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から幕府道中奉行所へ、
流失
をまぬがれた家の軒下が鹿曲川,また、望月新町では、五八軒のうち七軒がつぶれ、四〇軒が
流失
し、残った家は一一軒だったこともわかる。
寛保三年三月復旧方懇願書
([解説])
寛保二年一一月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から幕府道中奉行所へ、
流失
をまぬがれた家の軒下が鹿曲川,また、望月新町では、五八軒のうち七軒がつぶれ、四〇軒が
流失
し、残った家は一一軒だったこともわかる。
むしくら日記
(3巻 利)
2尺前後泥が入り、
流失
した家がおびただしく流れ寄り、通行が難しくなっています。,同村山村では住居を囲った土手が決壊し、村の上手から水が辺り一帯に溢れて来て、
流失
した家も多く、川沿いの,同相之島村は泥と水が流入、村山村と同様ですが、この村は東西に大木を植えてあったためか、家の
流失
はありません,、むしろや畳など、そのほか家財を泥の中から掘り出して洗っているような状態です、御本領の方も浸水や家の
流失
,床上に泥2尺も流れ込み、
流失
した家、水に浸かった家もあります。
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図
([現代訳])
「(上略)この日信濃国では大山が崩れ、大河が洪水を起こして、6郡で家やかまどがすべて
流失
した。,仁和3年の大地震では信濃の6郡がことごとく
流失
したということです。
寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳
([現代訳])
に提出した書類 覚 一 村高右の通り 内流右の通、永荒当荒ともに 一
流失
家数
書留帳(延徳田んぼを漂流した話)
([翻刻])
取続 罷有候所ニ、同八月朔日夜半之頃千曲川 松川松崎川篠井川大満水俄ニ押かけ 候故、家居
流失
潰,御訴申上早速御見分を請、其後 御代官所奉入御見分ニ両度御吟味請申候 通り田畑深泥石砂入川欠押堀荒地家 居
流失
潰,レ家ニ罷成申候故、夫食衣類農 (改頁) 具等
流失
、或者深砂石埋
上田の早苗
([翻刻])
#160; (改頁) 17 訪部ノ中ニアリシニ、何時ノ洪水ニヤ
流失
,一田中駅溺死者六十三人、家の残り九軒、 一加沢村九軒流亡、村中河原となる、溺死十五人 一祢津大半
流失
,、溺死人六十人余之由、 一金井村皆
流失
、溺死人百八十人余、此村最第一之惨状 一栗林村之内大川八軒流,、溺死一人 一東田沢八軒
流失
、溺死人六人 一大屋村七軒
流失
、溺死七人 一海善寺村大半
流失
、溺死四人,一中曽根村大半
流失
(改頁) 一堀村大抵流亡、溺死未詳
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図
([解説])
続いて「水内」という地名の語源について述べ、歌枕でもある水内の曲橋(久米路橋)が
流失
したことを嘆いています,その中に「崩山」「焼失」「洪水」「
流失
」「潰家」などが色分けして記入されています。
寛保二壬戌歳満水記
([現代訳])
日夕暮れから 大風雨となり、8月1日の夜8時頃から川は満水となり、 松代の御城を始め、御城下の家屋の
流失
,一諸所山抜、道200間、田畑水押入、家潰拾軒 大室村 一31軒流家、10軒潰家 男1人女5人
流失
,外は残らず流死、 東川田村 一家19軒押流、田畑残らず砂入、 川合村 一家51軒
流失
寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳
([解説])
しかし、村高の三分の一にのぼる83石余の
流失
田畑は幕末まで開墾不可能地として残された。
寛保二壬戌歳満水記
([翻刻])
廿九日、殊ニ廿九日黄昏ヨリ 大風雨卜成り、八朔戊の刻ヨリ川々大満水、 松代 御城ヲ始メ、御城下家屋
流失
并,一諸所山抜、道二百間、田畑水押入、家潰拾軒 大室村 一三拾壱軒流家、拾軒潰家 男壱人女五人
流失
,人数弐拾六人之内二人残、不残流死、 東川田村 一家拾九軒押流、田畑不残砂入、 川合村 一家五拾壱軒
流失
むしくら日記
(2巻 亨)
御料所 中野平辺迄致充満、如湖水相見候処、追々減水 及候付、早速見分差出候得共、大小橋々多分
流失
,其辺之水丈六丈余ニも及候ニ付、川辺村々之内 更級郡四ツ屋村之儀は、軒別八十軒余之内六 七軒相残悉致
流失
,且又川辺 村々米穀之儀は山手村々へ相移候様兼而申付置 候得共、其外近辺村々ハたとへ水押来候共
流失
, は致間敷与心得、棚等拵候而上置候穀物居家一 同致
流失
候も不少、右ニ付村々為救方所々へ役人, 家震潰候村々之者迄も申渡を不相待日々出 精築立候、其甲斐も無之、一時ニ破壊致候ニ付、居 家
流失
水冠
地震後世俗語之種
([翻刻])
・俵物積重 ね〆りをつけて東西南北夫々におのれか小 屋に逃去りて、けふや我家の押流れ、翌日や
流失
,下賤のわれ/\ハ唯おのれか身の成行を案事、 妻子の愛情を恣にするのみにて、譬はいかなる 焼亡あり
流失
,附随ふ人々を始、民百姓歓 ひ仰といへとも、四月十三日一段の急破に縄悉く 切れて
流失
するとかや ○,にありとも、年経て後子々孫々 の世に至りなは、昔し大地震発して此大河洪 水し、其時に此辺りまて満水
流失
,川中嶋をはしめとし、川辺に連なる所 の民百姓は最寄の山々に小屋かけて仮居し、今 にや水の押来り我家の
流失
善光寺道名所図会
(○佐久郡小諸)
じたる石あまたなり、 七月十一日夜ハ大雨大水にて、山々沢々に積りし砂石を押出し、往還 二手の橋
流失
むしくら日記
(2巻 亨)
の者には防災の準備を申し付けてありましたが、急に溢れ出し、未曽有の早さの出水で、想定外のことで、家の
流失
,のように見えるところも、しだいに水が引いていきますので、早速調査に役人を派遣しましたが、大小の橋が多く
流失
,六丈余りにもなったため、流域の村々のうち更級郡四ツ屋村では80軒余りのうち6、7軒を残してことごとく
流失
,そのうえ山中筋で水際の山は多く崩落して、大木などが流れ出て、このために壊され押し流された家も少なくなく、
流失
,村々の米穀については山手の村々へ移すようかねて申し付けておきましたが、そのほか近辺の村々は水が来ても
流失
善光寺道名所図会
(○佐久郡小諸)
7月11日夜は大雨で、大水が出て山や沢に積った砂石を押し流し、道に架かる2つの橋が
流失
、宿も危うくなりました
地震後世俗語之種
(絵の解説)
名橋として知られていましたが、岩倉山(虚空蔵山)が崩落して犀川を堰き止めたことにより水没し、
流失
してしまいました
浅間山
(第三編 浅間山変異記)
このときの被害は、
流失
家屋役一一五〇個、流死者一六二〇余名といわれています。
地震後世俗語之種
([現代訳])
や米俵は積み重ねて縄を掛け、東西南北それぞれの仮小屋に避難して、今日は我が家が押し流されるか、明日は
流失
,付き従う人々も民百姓も喜んで感謝しましたが、4月13日の決壊で、縄はすべて切れて
流失
したということです,南は小松原村・四ツ屋村辺りの堤を押し破り、この2つの村の
流失
・損害は夥しいものでした。
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