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小諸洪水流失改帳
([現代訳])
(中略) 覚 御家中の
流家
半流潰家は11軒、下目附から御与御中間まで
流家
17軒、合計,町の
流家
や潰家の数もようやく一通り確認したが、これもとりあえずのものでたしかとはいえな。,町の
流家
は合計242軒、死者324人、死馬は14疋である。,武家と町方と合わせて
流家
は280軒だが、この中には半流のものもある。
小諸洪水流失改帳
([翻刻])
ニ中嶋平六・中田傳右衛門着府、混雑之砌候間、御連状不来、右之趣口上ニ而被仰遣候、 一 御扶持人之分
流家
流失改,メ 但シ御在所八月七日発九日着 (改頁) 一 城下町方
流家
改,メ書 一 同 流死改書 一 御家中町方
流家
人惣〆書 右八月十三日立十七日着便来 覚, (改頁) 9 荒町分 (改頁) 一
流家
, 拾壱軒 下目附以下御与御中間迄
流家
弐拾七軒 都合三拾八軒 死侍分之妻子御足軽以下
寛保二壬戌歳満水記
([現代訳])
西寺尾村 一53軒潰家 一2軒
流家
、流死13人、内[男3人女10人] 内川村 一41
流家
, 矢代村 一34軒流潰共に、流死はなし、田畑砂入、 町川田村 一18軒
流家
, 一
流家
4人、山抜4ケ所 柴 村 一40軒余
流家
一男女共70人流死、 小出村, 荒町東条村分、 一家7軒ノ内
流家
3軒、潰家4軒 柴町末在郷分 一家4軒皆
流家
、同所下屋敷之内,1軒
流家
上田町 一
流家
1軒 外下田町
流家
1軒、潰家1軒 下田町同心町 一家22軒
寛保二壬戌歳満水記
([翻刻])
きやう くわん目前にありて、耳のふたとなる、馬ハつながれながらにして 死す、家を流し、或ハ半潰、
流家
留, 西寺尾村 一五拾三軒潰家 一弐軒
流家
、流死拾三人、内[男三人女十人] 内川村 一四拾壱軒
流家
, 一
流家
四人、山抜四ケ所 柴 村 一四拾軒余
流家
一男女共七拾人流死、 小出村, 荒町東条村分ナリ、 一家七軒ノ内
流家
三軒、潰家四軒 柴町末在郷分 一家四軒皆
流家
,、同所下屋敷之内壱軒
流家
上田町 一
流家
壱軒 外下田町
流家
壱軒、潰家壱軒 下田町同心町
割田家文書
(史料3 寛保二年十二月 乍恐以書付奉願候御事)
何拾ヶ年ニ茂無御座大雨降 千曲川満水、其上所々谷川より水押出田畑 泥砂入ニ罷成、家居迄水押込
流家
潰家多
小諸洪水流失改帳
([解説])
本町・六供・田町・荒町・市町の
流家
合計二五四軒(含寺四、宮一) 内、
流家
一九三軒、潰家三三軒,なお、このうしろに小諸藩領全体の
流家
・流死・流馬のことも記されている。,それによれば、小諸藩領全体では
流家
三七三軒、流死五八四人、流馬二三疋であった。
寛保二年大洪水余禄
([解説])
本町・六供・田町・荒町・市町の
流家
合計二五四軒(含寺四、宮一) 内、
流家
一九三軒、潰家三三軒,なお、このうしろに小諸藩領全体の
流家
・流死・流馬のことも記されている。,それによれば、小諸藩領全体では
流家
三七三軒、流死五八四人、流馬二三疋であった。
小諸大変書
([解説])
本町・六供・田町・荒町・市町の
流家
合計二五四軒(含寺四、宮一) 内、
流家
一九三軒、潰家三三軒,なお、このうしろに小諸藩領全体の
流家
・流死・流馬のことも記されている。,それによれば、小諸藩領全体では
流家
三七三軒、流死五八四人、流馬二三疋であった。
寛保二年小諸大洪水変地絵図(1)
([解説])
本町・六供・田町・荒町・市町の
流家
合計二五四軒(含寺四、宮一) 内、
流家
一九三軒、潰家三三軒,なお、このうしろに小諸藩領全体の
流家
・流死・流馬のことも記されている。,それによれば、小諸藩領全体では
流家
三七三軒、流死五八四人、流馬二三疋であった。
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([解説])
本町・六供・田町・荒町・市町の
流家
合計二五四軒(含寺四、宮一) 内、
流家
一九三軒、潰家三三軒,なお、このうしろに小諸藩領全体の
流家
・流死・流馬のことも記されている。,それによれば、小諸藩領全体では
流家
三七三軒、流死五八四人、流馬二三疋であった。
寛保二戌年満水御届書
([翻刻])
九百八拾八ヶ所 但、田畑江押懸申候故永悪之 場所多御座候 一、寺流 四箇寺 一、
流家
割田家文書
(史料1 (寛保二年)八月六日 乍恐以書付ヲ申上候御事)
田畑砂泥入申候 畑方土洗流申候 一家拾弐軒
流家
七軒
寛保二戌年水害御届書
([翻刻])
過半用立不申候 一、侍屋敷百拾三軒泥砂押込 及大破候 一、城下町大小橋流 五ヶ所 一、同
流家
寛保二戌年満水御届書
([現代訳])
へ押し込んだ故、永く田畑に向かない 場所も多くあります 一、寺流 4ヶ寺 一、
流家
寛保二戌年水害御届書
([現代訳])
一、侍屋敷113軒に泥砂が押し込み 大破しました、 一、城下町の大小橋流 5ヶ所 一、同
流家
むしくら日記
(3巻 利)
領水入ニ相成候へとも、永荒之場所ハ多分須坂御領 多相見候、 福嶋村五六尺より壱丈位住居水入、
流家
,も有之、 流れ来り候、又ハ大木等往来へ押倒し有之、右
流家
の屋根を致往来候場所間々有之、,の椽側へ藁を敷、夫へ致按内、 同相之嶋村水入泥入、村山村同様、此村東西ニ大木 建置候故や
流家
無之,耕地水入押堀有之、 同福原新田・小布施村・中条村・ 桜沢村別条無之、中条・桜沢両村之沖、
流家
其外,須坂ニ而地震并流失潰家死失人 (改頁) 21 一
流家
二十九軒 一
寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳
([現代訳])
一 53軒
流家
240人 一 9軒 倒壊した家 29人 一 3軒
寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳
([翻刻])
委細御吟味之上、少も無相違 申上候、尤右之外当時飢人 一切無御座候、 一 五拾三軒
流家
宮坂弥五左衛門古記録
([解説])
流家
65軒、潰家28軒、流死人158人。
書留帳(延徳田んぼを漂流した話)
([翻刻])
其時之事、草間村 宮坂之上へに三四軒、是も其時より、牛出村是者 千曲川ばた居村有之候所、大水故潰家
流家
等,ハ、御普請御手支無御座勝手ニ 罷成候、何分ニも村請ニ被仰付被下置候様ニ 奉願上候 一右村々
流家
潰家
善光寺道名所図会
(○佐久郡小諸)
二手の橋流失にて、宿方も危く見へ、水涌切れし音山河動揺せり、 此大変にて損じたる村数廿二三ヶ村、
流家
千二百軒
むしくら日記
(2巻 亨)
上堰より千曲川へハ多分に押入し、 上中下の堰小山堰も皆押潰して一面の河原に したり、川中嶋川北川東
流家
夥,ニ相成申候、兼而村方之者 共水防手当申付置候得共、俄ニ押出、未曽有迅速 之大水、在外之儀ニ而
流家
,多有之、其上山中筋水 付之山多分欠崩候ニ付、大木等流出、是か為ニ被押 倒致流失候居家も不少、
流家
凡六百軒余
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([翻刻])
、北側ニ而権兵衛屋敷、惣五郎・庄右衛門・忠兵衛家半分、或ハ三分一程宛残ル、本町 家数弐百三拾六軒
流家
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