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寛保二壬戌歳満水記
([現代訳])
流死
馬
1疋 新
馬
喰町 一9軒流家 一10軒潰家、27人
流死
、 西寺尾村 一53,軒潰家 一2軒流家、
流死
13人、内[男3人女10人] 内川村 一41流家 一49人
流死
、但
流死
馬
,一男女合58人
流死
馬
2疋
流死
、 上山田村 一28軒山抜水潰、内7軒山抜により埋まった、田畑残,、
馬
1疋
流死
、抜崩田畑砂入、 千本0柳村 一家25軒流、2人
流死
、
馬
1疋
流死
、田畑砂入、, 土口村 一家33軒潰流共に、道300間損、5人
流死
、内1人女、
馬
1疋
流死
、田畑砂入、
寛保二壬戌歳満水記
([翻刻])
(改頁) 此外諸所小橋数々落 一八拾三軒[流家 潰家]共ニ
流死
一人、
流死
馬
一疋, 一弐軒流家、
流死
拾三人、内[男三人女十人] 内川村 一四拾壱軒流家 一四拾九人
流死
、但
流死
馬
弐疋,、土手押流 九拾間余、
馬
道三分一損之、 上五明村 一男女合五拾八人
流死
馬
弐疋
流死
,、
馬
壱疋
流死
、抜崩田畑砂入、 千本柳村 一家弐拾五軒流、二人
流死
、
馬
壱疋
流死
、田畑砂入、,、西入寺護摩堂流、家壱人
流死
、
馬
壱疋
流死
、 杵淵村 一家四拾六軒、内[二十五軒流二十一軒潰
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記
([翻刻])
一 田中宿亡所、問屋長之助
流死
、家内之内左太夫無難、不残
流死
。,一 小諸六句(供)、田町、本町亡所、
流死
三百四拾人、
馬
拾四疋、流潰家弐百七軒 尚御城下之分此外通,かゝり候旅人数不 知申候、本陣、問屋、庄や
流死
。,一 近所川筋
流死
、秋和正福寺中へ無縁塚被 仰付候。
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記
([現代訳])
一 田中宿は流失し問屋の当主(小田中)長之助が
流死
、当家では左太夫を除いて残らず
流死
しました。,一 小諸の六供、田町、本町が流失し、
流死
者は三四〇人、
馬
は一四ひき流され流れつぶれた家は二〇七軒にのぼりました,本陣・問屋・庄屋でも
流死
者がでました。 一 佐久郡は大災害となっています。,一 千曲川筋からの
流死
者は秋和の正福寺へ無縁塚を建てて埋葬するよう、上田藩主様がお指図しました。 ,以下、
流死
者等についての記述が続きますが、写真版の本文はここで終了しています。
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記
([解説])
・小諸の六供、田町、本町が流失し、
流死
者は三四〇人、
馬
が四匹流され、流れつぶれた家は二〇七軒でした。,本陣、問屋、庄屋の人々も
流死
しました。,次に続いている史料に記されている
流死
者数について他の史資料も加えて紹介します。,・上田藩内で流失した家は一一二〇軒ほど、
流死
者五四〇人余り、流された
馬
一〇匹ほど、と記されています。,しかし、ほかの史料などから
流死
者五四〇人余りは多すぎるといいます。
寛保二戌年水害御届書
([翻刻])
一、城下町大小橋流 五ヶ所 一、同流家 七十五軒 一、同潰家 百六軒 一、
流死
人, 男拾六人 女二十三人 一、
流死
馬
拾五疋 右之通城内并侍屋敷町家, 損失
流死
等仕候間御届申上候 以上 八月廿一日 真田豊後守
小諸洪水流失改帳
([現代訳])
馬
屋の外塀、中間部屋も流され、三ノ門西南北谷に水が流れ落ちた。,
流死
は昨日までで侍身分の妻子や足軽以下中間ならびにその者たちの妻子家中召仕ら77人である。,今後
流死
者は増えるかもかもしれないが、今後十分調査できるかわからないので昨日までの数字をまずお伝えする,町の流家は合計242軒、死者324人、死
馬
は14疋である。,
流死
者は武家・町人合わせて男女401人だが、旅人などよそ者は除いてある。
寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳
([翻刻])
名主清右衛門」 (改頁) (改頁) 2 一 組頭百姓代
流死
改役被仰付,、拾四疋
流死
村高之内、百弐拾壱石四斗九升九合 永荒 拾八石九斗五升弐合七夕,リ 内流右之通、永荒当荒共ニ 一 流失家数 五拾四軒 人別三百人之内 一
流死
之者百拾三人内, 一
流死
馬
拾四疋 御地頭様より 一 御拝料物 籾子拾五表 一 同断 金五両,上リ、其外下女ハ宿ヘ参、扨又 下男四人不残朝草苅ニ罷出、所々江 かけにけ、壱人ハむざんニ
流死
寛保二戌年満水御届書
([翻刻])
千七百三拾三軒 一、潰家 八百五拾七軒 一、半潰家 弐百五拾四軒 一、流船 弐艘 一、
流死
人, 男四百七拾人 女七百五拾人 一、
流死
馬
五拾壱疋 一、流木 九千弐百本余
寛保二戌年水害御届書
([現代訳])
城下町の大小橋流 5ヶ所 一、同流家 75軒 一、同潰家 106軒 一、
流死
人, 男16人 女23人 一、
流死
馬
15疋 右のとおり,、城内並びに侍屋敷、町家の 損失及び
流死
者数を御届申し上げます、 以上 8月21日
寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳
([現代訳])
現代訳] 「寛保二壬戌年金井村 戌出水万覚留帳 九月吉月 名主清右衛門」 一 組頭百姓代
流死
改役被仰付, 一 3軒 被害を免れた家 20人 11人は書き落とし 一 19疋の
馬
のうち, 内流右の通、永荒当荒ともに 一 流失家数 54軒 人別300人の内 一
流死
,の者103人の内 男62人 女51人
馬
19疋の内 一
流死
馬
14疋,しかし、1人は無惨なことに
流死
した。
寛保二壬戌歳満水記
([解説])
領内188ヶ村に及び、水難の家2,914軒(内流失の家1,755軒、潰家857軒、半潰302軒、)、
流死
人,1,220人(内男470人、女750人)、他に
流死
馬
64匹。
寛保二戌年満水御届書
([解説])
流死
1,220人、
流死
馬
51匹。流木9,200本余と幕府勘定所へ報告しました。
寛保二戌年満水御届書
([現代訳])
一、潰家 857軒 一、半潰家 254軒 一、流船 2艘 一、
流死
人, 男470人 女750人 一、
流死
馬
51疋 一、流木 9
寛保二戌年水害御届書
([解説])
流死
者は39人。
流死
馬
が15匹と報告されています。
小諸洪水流失改帳
([翻刻])
、上ノ袋町ヲ押し、下ハ押兼五郎左衛門屋敷庭より裏門塀押流、御
馬
屋外塀、御中間部屋流、三ノ御門西南北谷江水落申候,御在所八月七日発九日着 (改頁) 一 城下町方流家改メ書 一 同
流死
改書, (改頁) 22 男女
流死
之覚 本町分 一 孫八家内 ,死侍分之妻子御足軽以下 御中間并当人妻子御家中 (改頁) 30 召仕共ニ
流死
都合七拾七人昨日迄, 御家中并末々共ニ町方打込 流家弐百八拾軒尤此内ニ 半流も有之候
流死
御家中 町共ニ
小諸洪水流失改帳
([解説])
・市町の流家合計二五四軒(含寺四、宮一) 内、流家一九三軒、潰家三三軒、土蔵二八軒
流死
,(家中・郷中間・召使いなど)七九人 内、三七人男、四二人女
流死
(小諸町)四二八人,では武家方も合わせると(合計数が正しいとすると)、五〇七人が
流死
したことになる。,なお、このうしろに小諸藩領全体の流家・
流死
・流
馬
のことも記されている。,それによれば、小諸藩領全体では流家三七三軒、
流死
五八四人、流
馬
二三疋であった。
寛保二年大洪水余禄
([解説])
・市町の流家合計二五四軒(含寺四、宮一) 内、流家一九三軒、潰家三三軒、土蔵二八軒
流死
,(家中・郷中間・召使いなど)七九人 内、三七人男、四二人女
流死
(小諸町)四二八人,では武家方も合わせると(合計数が正しいとすると)、五〇七人が
流死
したことになる。,なお、このうしろに小諸藩領全体の流家・
流死
・流
馬
のことも記されている。,それによれば、小諸藩領全体では流家三七三軒、
流死
五八四人、流
馬
二三疋であった。
小諸大変書
([解説])
・市町の流家合計二五四軒(含寺四、宮一) 内、流家一九三軒、潰家三三軒、土蔵二八軒
流死
,(家中・郷中間・召使いなど)七九人 内、三七人男、四二人女
流死
(小諸町)四二八人,では武家方も合わせると(合計数が正しいとすると)、五〇七人が
流死
したことになる。,なお、このうしろに小諸藩領全体の流家・
流死
・流
馬
のことも記されている。,それによれば、小諸藩領全体では流家三七三軒、
流死
五八四人、流
馬
二三疋であった。
寛保二年小諸大洪水変地絵図(1)
([解説])
・市町の流家合計二五四軒(含寺四、宮一) 内、流家一九三軒、潰家三三軒、土蔵二八軒
流死
,(家中・郷中間・召使いなど)七九人 内、三七人男、四二人女
流死
(小諸町)四二八人,では武家方も合わせると(合計数が正しいとすると)、五〇七人が
流死
したことになる。,なお、このうしろに小諸藩領全体の流家・
流死
・流
馬
のことも記されている。,それによれば、小諸藩領全体では流家三七三軒、
流死
五八四人、流
馬
二三疋であった。
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([解説])
・市町の流家合計二五四軒(含寺四、宮一) 内、流家一九三軒、潰家三三軒、土蔵二八軒
流死
,(家中・郷中間・召使いなど)七九人 内、三七人男、四二人女
流死
(小諸町)四二八人,では武家方も合わせると(合計数が正しいとすると)、五〇七人が
流死
したことになる。,なお、このうしろに小諸藩領全体の流家・
流死
・流
馬
のことも記されている。,それによれば、小諸藩領全体では流家三七三軒、
流死
五八四人、流
馬
二三疋であった。
寛保二年八月上畑村水災救恤願
([翻刻])
一当八月朔日之夜中より二日之朝迄大満水ニ而、千曲川・大石川・ 飯塚川・沢入川四ケ所之川一つ罷成当村家居江押掛ケ、
流死
, 之者男女弐百四拾八人、流失家百四拾軒、流失
馬
弐拾五疋 御座候、相残候家纔《ワズカニ》弐拾七軒御座候得共,ニ而、 御巡見様御通被遊候節ハ御 宿茂被 仰付候儀ニ御座候、人
馬
附送仕所ニ右申上候通り 四ケ所之川端,、 2 北者沢入川河除押切り、村前後左右より水押掛ケ、男 女逃候儀相叶不申、右之人
馬
・,家財
流死
・流失仕侯、 依之相残り候者渇命ニ及難儀仕候ニ付、高野町御役所江 御願申上候所ニ、御見分被下少々夫食金御渡被下候得共
寛保二年八月上畑村水災救恤願
([解説])
寛保二年八月の「上畑村水災救恤願」(一〇一一〇)によれば、
流死
者二四八人(『八千穂村誌』第四巻によれば,、全体の四〇パーセント)、流失家屋一四〇軒(八四パーセント)、流失
馬
二五頭にのぼり、田畑もおびただしく,そして五〇年目の寛政三年(一七九一年)には、境内に
流死
者などの供養塔を建てた。,また本堂には、表に「
流死
万霊等」と記され、裏に二〇〇人余りの名前が記された位牌が安置されている。
寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願
([解説])
寛保二年八月の「上畑村水災救恤願」(一〇一一〇)によれば、
流死
者二四八人(『八千穂村誌』第四巻によれば,、全体の四〇パーセント)、流失家屋一四〇軒(八四パーセント)、流失
馬
二五頭にのぼり、田畑もおびただしく,そして五〇年目の寛政三年(一七九一年)には、境内に
流死
者などの供養塔を建てた。,また本堂には、表に「
流死
万霊等」と記され、裏に二〇〇人余りの名前が記された位牌が安置されている。
寛保二年十月上畑村総百姓往還道・屋敷移転取極証文
([解説])
寛保二年八月の「上畑村水災救恤願」(一〇一一〇)によれば、
流死
者二四八人(『八千穂村誌』第四巻によれば,、全体の四〇パーセント)、流失家屋一四〇軒(八四パーセント)、流失
馬
二五頭にのぼり、田畑もおびただしく,そして五〇年目の寛政三年(一七九一年)には、境内に
流死
者などの供養塔を建てた。,また本堂には、表に「
流死
万霊等」と記され、裏に二〇〇人余りの名前が記された位牌が安置されている。
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([翻刻])
ニ而権兵衛屋敷、惣五郎・庄右衛門・忠兵衛家半分、或ハ三分一程宛残ル、本町 家数弐百三拾六軒流家、
流死
男女共,ニ三百九拾七人、
馬
拾四疋、其外往来旅宿之もの数不知候、新町ニ而
流死
男(女脱カ)共ニ 弐拾九人、八月朔日, 三之御門・御櫓共ニ押流し、御水櫓へ押掛ケ、前之柱押折り、半没(潰)レニ成候、三之御門之内へ本町
流死
之人
馬
移,、娘壱人助ル、清左衛門夫婦共ニ流、三才之子壱人助ル、木屋弥三郎家内切流ル、兵右衛門娘・孫共ニ
流死
ス、妻計残,ル、 此時佐久郡川上より
流死
事移(夥)敷、千曲川通諸道具色々流通事、人
馬
共ニ移(夥)敷、あわれ成事
寛保二年八月上畑村水災救恤願
([現代訳])
二日の朝まで大満水で、千曲川・大石川・飯塚川・沢入川の四つの川が一つになり、当村の住宅地へ押しかけ、
流死
,の者男女二百四十八人、流失家百四十軒、流失
馬
二十五頭にのぼりました。,前々から甲州・越州への通路で、
馬
継ぎ村です。幕府のご巡見役人が通行される際には、宿泊地にされます。,八郡川、村北は沢入川の堤防が切れ、村の前後左右から水が押しかけ、男女とも逃げることができず、右にあげた人
馬
・,家財が
流死
・流失しました。
寛保二年大洪水余禄
([現代訳])
人
馬
や僧侶などが流され、行方不明となり
流死
した。
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([現代訳])
本町では家数二百三十六軒が流され、男女三百九十七人が
流死
し、
馬
十四頭が流されました。,新町では、二十九人の男女が
流死
しました。,かりました)、清左衛門夫婦(三歳の子は助かりました)、木屋弥三郎家内、兵右衛門と娘・孫(妻は助かりました)が
流死
,上田城主松平伊賀守様は、千曲川近くの村々へ命じて
流死
者を収容させ、秋和村の正福寺に無縁塚を建てさせ、法事,わせて三十人余りが
流死
し、土蔵が一つ残りました。
善光寺道名所図会
(○佐久郡小諸)
しを見侍りき、[三丁程の坂を登りてより、道平らにしてよし、 追分迄の路登り勝なり、]四ッ屋・平原・
馬
瀬口,の剋頃涌出し、未の刻頃にハ武州熊谷の在中瀬村辺まで押 出し、田畑村里一面に泥海の如し、老若男女の
流死
前代未聞,三十四五度あり、利根川筋別して砂押埋み、両三日流を留む、右川並 亡村四十八九ヶ村、吾妻川添村々の
流死
人魂魄夜毎,・ 安中・板鼻・高崎、武州児玉郡榛沢郡三十余里の間の灰砂二尺三尺、場所 により五六尺降り、人
馬
の,を主るといへり、 中庸にも君子於禽獣也、見其生不忍見其死、聞其声不忍食其肉 と見へたり、幾許の人
馬
及
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(小諸町)
/軽石/大安場/北竹原/北大平/鞍掛/古桝/大安平/東大平/南大平/南竹原/高津谷/斧石/西大平/野
馬
取,青木/水梨/岩上/狐原/押出/霧久保/滝久保/烏岩/富士見平/両神/山根/大梁/立石/中沢尻/横山/
馬
場裏町,門/足柄門/黒門橋/鍋蓋郭/根津曲輪/耳取曲輪/柏木曲輪/鹿島曲輪/岩村田曲輪/物見郭/遠見番所/下
馬
札,/桜
馬
場/雲海
馬
場/会所跡/太鼓櫓/稽古場/追手番所跡/栁並石/鶯宿梅石/大井氏邸址/高津屋/下河原城,民業男: 農桑・商・農商兼業 民業女: 農桑/(農間)座繰・製糸・縫織 その他特記ワード:
流死
塚
書留帳(延徳田んぼを漂流した話)
([翻刻])
も水入ル、上ミ村ニ而も松川の水ハ入 申候、羽場押切西村ハ屋ねのぐし隠れ候家 数多く有之、然共
流死
, 不及申、越後迄前代未聞之満水ニ候、水も 引候へハ泥二三尺より八九尺迄居候、是より上ミ何人
流死
人有之候,ニ、同八月朔日夜半之頃千曲川 松川松崎川篠井川大満水俄ニ押かけ 候故、家居流失潰レ家ニ罷成人
馬
流死
むしくら日記
(3巻 利)
致往来候場所間々有之、 (改頁) 4 御預所中嶋村水入五六尺、流家八軒、
流死
六,家或大木・財(ママ)木・芥など流れ 来りて懸りたる故、水左右へ刎流れて遁れたりとそ、 ○御領分にハ
流死
少,一 流家七拾軒 一 潰家三拾壱軒 一 土蔵拾一棟半潰相成申候、物置類九拾八棟流失仕候、 一
流死
人拾壱人内,今般御勘定様御普請役中 御越ニ付、相願、御見分之上急破御普請目論見 帳御同人様方へ差上申候、且又
流死
人之儀,は見 分相糺候処、
流死
相違無御坐、外怪敷儀も不 相聞候間、取片付候様申渡仕候、此段御届申上 候様在所役人共
善光寺道名所図会
(○佐久郡小諸)
追分までの道は上りがちです) 四ツ屋・平原・
馬
瀬口・三ツ屋などの村々が4、5丁づつ相対していて、休息所,老若男女の
流死
は前代未聞のこととなりました。 ,吾妻川沿いの村々の
流死
人の魂が夜ごと水辺で泣く声がし、止むことがないので、所々の寺院で水施餓鬼や堂塔供養追善,大災害で損害を受けた村々は32、3ケ村、流された家1200軒におよび、溺死の人はおよそ1400人ほど、
馬
は,(注5)現在も熊野神社の中央が長野県と群
馬
県の境です。
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図
([翻刻])
牛
馬
男女
流死
成丘云々。 私考之、距於今弘化丁未凡九百六十一年矣。
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図
([現代訳])
牛
馬
や男女の
流死
者が山のようにあった」 (注)平安時代後期の歴史書『扶桑略記』に見える仁和地震の記事
浅間山
(第三編 浅間山変異記)
このときの被害は、流失家屋役一一五〇個、
流死
者一六二〇余名といわれています。,そこには吾妻郡と群
馬
郡の村々三十六ケ村の名が挙げられています。
むしくら日記
(4巻 貞)
之水入人別へハ金弐歩ツヽ被下候由、右之内土屋坊村 (改頁) 小兵衛与申者親子三人
流死
,/\を埋め、漸く普請成就し けると申侍りき、 (改頁) 17 ○猿か
馬
場峠,改頁) 45 水内・高井右四郡之内八拾ヶ村一円之洪水ニ而 猶又居家其外流失
流死
人田畑損毛,洪水之節 一、同大破五百五拾ヶ所 一、同石砂泥水入六拾八ヶ所 但、洪水之節 一、圧死
流死
弐千五百八拾五人,改頁) 百九拾五人 山抜土中江埋死骸相見不申候、 六人 洪水之節
流死
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