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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([現代訳])

一 小諸の六供、田町、本町が流失し、流死者は三四〇人、馬は一四ひき流され流れつぶれた家は二〇七軒にのぼりました,本陣・問屋・庄屋でも流死者がでました。 一 佐久郡は大災害となっています。,一 千曲川筋からの流死者は秋和の正福寺へ無縁塚を建てて埋葬するよう、上田藩主様がお指図しました。  ,以下、流死者等についての記述が続きますが、写真版の本文はここで終了しています。
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([解説])

『松代満水の記』によると、流死者は塩崎村で八三人、御幣川村で一〇二人、会村一六人の多数に及んでいます。,・小諸の六供、田町、本町が流失し、流死者は三四〇人、馬が四匹流され、流れつぶれた家は二〇七軒でした。,正福寺境内の入り口には現在も「千人塚」と呼ばれる戌の満水による流死者埋葬塚に供養塔が建っています。,次に続いている史料に記されている流死者数について他の史資料も加えて紹介します。,しかし、ほかの史料などから流死者五四〇人余りは多すぎるといいます。
小諸洪水流失改帳 ([現代訳])

今後流死者は増えるかもかもしれないが、今後十分調査できるかわからないので昨日までの数字をまずお伝えする,流死者は武家・町人合わせて男女401人だが、旅人などよそ者は除いてある。  
宮坂弥五左衛門古記録 ([現代訳])

家60軒が流され、潰家は29軒、流死者は158人だった。
寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳 ([解説])

「万覚留帳」によれば、この土石流による金井村の流死者は113人だったという。,なお、土石流は金井村を直撃したあと田中宿に壊滅的な被害を与え、大量の土砂・樹木・家屋・流死者等を含んで,この祭りは「戌の満水」の流死者の霊を供養と無病息災を祈る行事と言われる。
寛保二年八月上畑村水災救恤願 ([解説])

寛保二年八月の「上畑村水災救恤願」(一〇一一〇)によれば、流死者二四八人(『八千穂村誌』第四巻によれば,そして五〇年目の寛政三年(一七九一年)には、境内に流死者などの供養塔を建てた。
寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願 ([解説])

寛保二年八月の「上畑村水災救恤願」(一〇一一〇)によれば、流死者二四八人(『八千穂村誌』第四巻によれば,そして五〇年目の寛政三年(一七九一年)には、境内に流死者などの供養塔を建てた。
寛保二年十月上畑村総百姓往還道・屋敷移転取極証文 ([解説])

寛保二年八月の「上畑村水災救恤願」(一〇一一〇)によれば、流死者二四八人(『八千穂村誌』第四巻によれば,そして五〇年目の寛政三年(一七九一年)には、境内に流死者などの供養塔を建てた。
天明三年浅間騒動記 ([解説])

鎌原村の場合は、村高・内泥押高・流死者数・流死馬数・飢人数・流家数の順に書かれている。,この騒動記では、流死者の合計が1276人、流死馬576疋となっている。
寛保二戌年水害御届書 ([解説])

流死者は39人。流死馬が15匹と報告されています。  
寛保二戌年水害御届書 ([現代訳])

23人 一、流死馬      15疋    右のとおり、城内並びに侍屋敷、町家の  損失及び流死者数
パスファインダー (「戌の満水」(寛保2年の洪水)による小諸の被害)

流死者数や災害環境などがまとめられてい る。
宮坂弥五左衛門古記録 ([解説])

していた水が何らかの理由で一気に流下したからと考えれば、下流の寂蒔を10時頃に洪水が襲い160人近い流死者
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([現代訳])

牛馬や男女の流死者が山のようにあった」 (注)平安時代後期の歴史書『扶桑略記』に見える仁和地震の記事
浅間山 (第三編 浅間山変異記)

このときの被害は、流失家屋役一一五〇個、流死者一六二〇余名といわれています。
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2) ([現代訳])

上田城主松平伊賀守様は、千曲川近くの村々へ命じて流死者を収容させ、秋和村の正福寺に無縁塚を建てさせ、法事
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