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浅間山
(第二編 浅間山)
浅
間山
/ 第二編
浅
間山
はじめに、
浅
間山
は富士山と並び称される名山であり「地理学者は之を活火山最良の好標本なりと,そのあと、
浅
間山
は上信国境にあり、山の構造は二つの外輪山と火口丘によって成り立っていることが記されています,以下、
浅
間山
を構成刷りそれぞれの山や谷、川、池などとともに、二五二〇メートルの火口丘
浅
間山
(現在公表されている,次に、
浅
間山
の裾に並ぶ「
浅
間三宿」の軽井沢・沓掛・追分を北国往還の宿として紹介しています。,「吹き飛ばす石も
浅
間の野分かな」(芭蕉)であった
浅
間山
の裾野は近来、広野を開墾するとともに植林をし、山 / 第二編
浅
間山
浅間山
(第三編 浅間山変異記)
浅
間山
/ 第三編
浅
間山
変異記 この編は『
浅
間山
』の中核部分であり、本書のなかで最も多い一七〇余ページにもわたる,本書の記述内容に入る前に、
浅
間山
の火山活動について概観しましょう。 ,
浅
間山
の噴火が日本の歴史を大きく動かしたのです。 ,天明の
浅
間山
大噴火は、歴史を近世から近代へと動かす一因ともなったのです。 ,第三節は天明以後の
浅
間山
です。 / 第三編
浅
間山
変異記
浅間山
(第七編 浅間山附近の動物)
浅
間山
/ 第七編
浅
間山
附近の動物 哺乳類では・野兎・熊・鹿などがあげられ、鳥類、爬虫類及び両生類、軟体及び蠕形動物,次に、「特に此項を設けて詳細なる研究を掲載す」として、
浅
間山
附近の蝶類について、アゲハからミヤマセセリ,「ヤマモンキテフ(一名ミヤマオツネンテフ)―
浅
間山
第一外輪山と第二外輪山との落合なる火口原湯平、海抜六千六百余尺 / 第七編
浅
間山
附近の動物
浅間山
(第五編 浅間山の地質及び岩石)
浅
間山
/ 第五編
浅
間山
の地質及び岩石 第一章
浅
間山
四圍の地
浅
間山
の北東には榛名山・赤城山、東南には妙義山,停車場から
浅
間山
へかけての道順に沿って説明を続けています。,次に、
浅
間山
の岩石などがどのように用いられているか、項を立てて述べています。 / 第五編
浅
間山
の地質及び岩石
浅間山
(第六編 浅間山附近の植物)
浅
間山
/ 第六編
浅
間山
附近の植物 第一章 植物採集概況 山頂付近は火山溶岩地帯であり、生物は全く見られず / 第六編
浅
間山
附近の植物
浅間山
(第八編 浅間登山)
浅
間山
/ 第八編
浅
間登山 はじめに、
浅
間山
麓のことわざには「二度行く馬鹿に行かぬ馬鹿」とある、
浅
間山
に行かないのはその,通りだが、二度行くのも馬鹿というが、これは
浅
間山
を知らぬものの言うこと、これこそ大馬鹿者だと述べ、
浅
間山
登山,
浅
間山
登山会の項には小諸町有力者のもの、小諸尋常高等小学校職員児童一同の大登山会などがあるとし、その活動 / 第八編
浅
間登山
浅間山
(第九編 浅岳餘情)
浅
間山
/ 第九編
浅
岳餘情 和歌の部、漢詩之部、長歌の部、俗謡の部があり、「
浅
間山
さんなぜ焼けしやんす、裾にお,十七(三宿)もちながら」や「
浅
間山
から鬼やけつ出して、鎌でかつ切るよな屁をたれた」などの俗謡を紹介しているのがおもしろい,この編の終わりに「《附》
浅
間山
に関する記文」として、「研究資料の一端を紹介しておくべし」と、十八の「紀行 / 第九編
浅
岳餘情
浅間山
(第十編 浅間性情論)
浅
間山
/ 第十編
浅
間性情論 ここでは、
浅
間山
によって人はどのような性質と心情をはぐくまれるかを述べています。,二
浅
間人士は言語行為赤裸々にして果断の民なり。,三
浅
間人士は思想多けれとも実行の至りて少なき民なり。,四
浅
間人士は圭角稜々たる気質の民なり。,之を要するに
浅
間人士は、至りて自意識の強烈なる民なり。」 / 第十編
浅
間性情論
浅間山
([解説])
浅
間山
/ となす」と
浅
間山
研究会会長の佐藤寅太郎が『
浅
間山
』の「序」で述べています。,上げられ『
浅
間山
』刊行への道が生まれます。 ,では、研究会が発行した『
浅
間山
』を見ましょう。,第一編「東信風景論」からはじまり、第二「編
浅
間山
」、第三編「
浅
間山
変異記」、第四編「
浅
間神社考」、第五編,「
浅
間山
の地質及び岩石」、第六編「
浅
間山
附近の植物」、第七編「
浅
間山
附近の動物」、第八編「
浅
間登山」、
浅間山
(第一編 東信風景論)
浅
間山
/ 第一編 東信風景論 はじめに「煙は高き
浅
間の峰、流れは清き千曲の川」が東信濃風景の「代表語」であると,また、「美しかな東信濃の山河の固め」としての
浅
間は「巨人の山。偉人の山。不朽の山。」,さらに、徳富蘆花は「
浅
間と千曲とを除き去らば、東信の風景は、殆ど皆無」と述べたことも紹介しています。,「嗚呼、地上唯一の偉よ、壮よ、
浅
岳よ、吾人は決して汝を忘る々能はざるを奈何せん。」,と
浅
間山
の偉大さを賛美して、風景論は結ばれています。
浅間山
(第四編 浅間神社考)
浅
間山
/ 第四編
浅
間神社考 日本には古代から山岳信仰がありますが、それは「火山国」だからではないでしょうかと,『天明信上變略記』に「高山は神を祭る事和漢共に同じ、富士に祭れる
浅
間の社は、木花開耶姫の命なりといふ」,小諸町の山田辨道が明治三年に記した「大
浅
間神社大意書」と「大
浅
間神社の遺跡を捜索る議」を示しています。,遺跡と思われる地を
浅
間神社(一)から(五)まであげ、それぞれにくわしい説明を加えています。,頂上少けき石宮あるのみと言はれたるは然る事ながら、其は彼の大焼前の事にて、其後はなかりける」からはじまる
浅
間神社 / 第四編
浅
間神社考
浅間山噴火の被害記
([解説])
浅
間山
噴火の被害記 / [解説] [目録] 小諸市古文書調査室 斎藤洋一 本書「
浅
間山
噴火の被害記」は、小諸市立図書館,本書の表題「
浅
間山
噴火の被害記」は、その新しい表紙に貼られた題箋に書かれたものなので、新しい表紙をつけたさいに,このことから、この記事は最首氏によって、
浅
間山
の大噴火からまもない天明三年(一七八三)七月二七日に記された,)に収録されている「
浅
間山
大変略記」と「一話一言」に、本書と似た記述が、わずかだがある。,前者「
浅
間山
大変略記」では、「葭(鎌)原村」をはじめ、村々の被害状況を記しているが、村名の誤記が目立つ
浅間山噴火の被害記
([現代訳])
浅
間山
噴火の被害記 / [現代訳] 信州佐久郡
浅
間山
が焼け、砂石が降ったこと 七月四日ごろから、
浅
間山
の雷のような,すると、再び
浅
間山
の上空に火の玉が上がり、しばらく後には小石がおびただしく降ってきた。,その辺りより
浅
間山
に近くなるほど、石・砂が夥しく降り、松井田で三尺(約九〇センチ)積もった。,川々へは
浅
間山
の焼け石が流れ込み、川水が湯のようになっていた。,
浅
間山
に近い所では谷が山になり、田畑も民家もわからなくなった。
浅間山噴火の被害記
([翻刻])
浅
間山
噴火の被害記 / [翻刻] 信州佐久郡
浅
間山
焼砂石降ル事 6 当月四日頃より毎日、雷の如く鳴事次第に強ク相成候,、外ハてうちんにて無拠かたへ米俵を 四五枚重ねかむり往来致す、然ル所二時計りすぎて 空晴レ、又候
浅
間山
,壱尺四五寸位イ(ママ)、 富岡同断、吉井にて一坪ニ附灰ヲ計り見候処、二斗有之、 押ならし右之通り、夫より
浅
間山
近,大躰弐三年ハ作物相成り不申候、藤岡四五年役ニ立不申候、 皆無ニなり、降り候砂、右之捨所無御座候由、
浅
間近,牛馬百七拾五疋 同 右村々近所ニ上州吾妻(嬬カ)山と申山有之、去月中旬より
浅
間山
焼
パスファインダー
(小諸小学校浅間山研究会)
小諸小学校
浅
間山
研究会 トピック(テーマ) 小諸小学校
浅
間山
研究会 ねらい,」のなかで
浅
間山
研究会の設立を取り上げ、 内容紹介
浅
間山
の模型を「前例のない天下一品」と,が発足したこと、明治 43年『
浅
間山
』出版されたことを紹介する。,による
浅
間山
研究会の成果を、山誌編纂を担当し 内容紹介 た立場から述べる。,、山誌 『
浅
間山
』を発刊したことを述べる。 / 小諸小学校
浅
間山
研究会
浅間山
(第十一編 拾遺雑編)
浅
間山
/ 第二 黒酒の垂糟 小諸町の山田辨道が著した『
浅
間神社考』の補遺です。
パスファインダー
(浅間山米軍演習地化反対運動)
浅
間山
米軍演習地化反対運動 トピック(テーマ)
浅
間山
米軍演習地化反対運動 ねらい,そのため山岳戦の訓練場所として
浅
間山
山麓が最適 地として土地の接収に動き始めたことからであった。,対期成同盟 小山邦太郎 信濃の歌 堀辰雄 二百万人の勝利
浅
間山
米軍演習地化反対運動史 長野県
浅
間山
米軍演習地化反対期成同盟,この中で、「
浅
間山
米軍演習地化反対運動」と して詳細に論じられている。,文末の「
浅
間山
米軍演習地化反対運動(年 表)から根拠史料がわかり、研究を深めるのに役立つ。 /
浅
間山
米軍演習地化反対運動
浅間山大焼け以来難儀につき見分願い
([解説])
浅
間山
大焼け以来難儀につき見分願い / ・天明3年7月14日 御役所より被仰渡御書付之写并請印 ・天明3年8月23日
浅
間山
大焼け以来難儀,史料2は、
浅
間山
が大噴火して北麓の鎌原村(現群馬県吾妻郡嬬恋村)をはじめとする広い地域に大被害を与えた,このたびの
浅
間山
の「大焼け」(大噴火)によって、追分・沓掛・軽井沢の三宿をはじめ、
浅
間山
近辺の村々が難儀,軽井沢三宿をはじめとする
浅
間山
近辺の村々が、
浅
間山
の大噴火で困っていたこと、そこから米穀をはじめとする,史料によれば、岩村田町は入会で
浅
間山
山麓から馬草・刈敷・薪などを採取してきた。
パスファインダー
(天明3年(1783)の浅間山噴火)
天明3年(1783)の
浅
間山
噴火 トピック(テーマ) ねらい キーワード 概要を知るための,ツール 資料リスト 天明3年(1783)の
浅
間山
噴火 天明3年(1783)の
浅
間山
噴火は,、記録が残る
浅
間山
の噴火史上最大 の被害をもたらした噴火として知られている。,4 書名
浅
間山
大噴火の爪痕:天明三年
浅
間災害遺跡(シリーズ「遺跡を学ぶ」) 著者名 関俊明,1 書名 天明三年
浅
間山
噴火史料集 [上・下巻] 著者名
浅
間山
麓埋没村落総合調査会 児玉幸多 / 天明3年(1783)の
浅
間山
噴火
浅間山大焼け以来難儀につき見分願い
([現代訳])
浅
間山
大焼け以来難儀につき見分願い /
浅
間山
の大噴火による砂石が村々の用水路を埋め、用水路が大破したところが数カ所ある。,
浅
間山
はいまだに噴火が止まない。,
浅
間山
が大噴火したとき、麓の村々の人々は村を捨てて逃げ出し、岩村田藩領内の村々へ多数入り込んできた。,
浅
間山
の大噴火以来、いまだに噴火が終わっていない。
浅間山大焼け以来難儀につき見分願い
([翻刻])
浅
間山
大焼け以来難儀につき見分願い / [翻刻] (前欠) □・・・□之濁水押込、其 □(後)ハ水掛引も不相成、別而悪作仕候、
浅
間大焼,入候得共、此節 □(漸)穂出かゝり、穂の色紫ニ相成罷有候、此義者 □(決)而用立申間敷奉存候、
浅
間山
之儀,存候故歟、米穀金銭借出し□□も、最早只今より □通用ニ相見へ、此節大小之百姓甚難義之儀共 有之候、
浅
間山
大焼之節,失却も相掛り候、是等之儀□□今ニ罷成候ハヽ者〔(衍)者〕 百姓痛ニ相成、此節之難儀と罷成候、 □(
浅
),
間山
大焼以来、に今焼鎮り不申、殊ニ雨天勝ニ而 □(世)上様々之浮説を申驚シ、其上凶作之義者 □夜胸腹痛
浅間山焼けにより馬草などを取ることができないため小物成免除願い
([解説])
浅
間山
焼けにより馬草などを取ることができないため小物成免除願い / ・天明3年7月14日 御役所より被仰渡御書付之写并請印 ・天明3年8月23日
浅
間山
大焼け以来難儀,史料2は、
浅
間山
が大噴火して北麓の鎌原村(現群馬県吾妻郡嬬恋村)をはじめとする広い地域に大被害を与えた,このたびの
浅
間山
の「大焼け」(大噴火)によって、追分・沓掛・軽井沢の三宿をはじめ、
浅
間山
近辺の村々が難儀,軽井沢三宿をはじめとする
浅
間山
近辺の村々が、
浅
間山
の大噴火で困っていたこと、そこから米穀をはじめとする,史料によれば、岩村田町は入会で
浅
間山
山麓から馬草・刈敷・薪などを採取してきた。
浅間山焼けにより馬草などを取ることができないため小物成免除願い
([現代訳])
浅
間山
焼けにより馬草などを取ることができないため小物成免除願い / [現代訳] 恐れながら書付をもってお願い申し上げます 入会で、
浅
間山
のふもとの山から馬草・刈敷・薪,ところが、今年六月中旬より
浅
間山
がたびたび噴火し、入会山へ石砂を降らせたため、入会山へ入ることができなくなってしまった
信州浅間焼之事
([解説])
信州
浅
間焼之事 / 天明三年(一七八三)の
浅
間山
噴火に関する史料を集成した、萩原進編『
浅
間山
天明噴火史料集成』全五巻(群馬県文化事業振興会,)には、Ⅱ巻に「文月
浅
間記」、Ⅲ巻に「文つきの記」、Ⅴ巻に「信州
浅
間焼」「文月
浅
間記」「
浅
間の消息」と,また、児玉幸多ほか編『天明三年
浅
間山
噴火史料集』上巻(東京大学出版会)には、「七月の記」と題された写本,『
浅
間山
天明噴火史料集成』の編者である萩原進は、Ⅱ巻の「文月
浅
間記」の解説で「『文月
浅
間記』は高崎の俳人羽鳥一紅,たしかに本書は、高崎やその周辺における
浅
間山
の噴火と被災の様子、とりわけ利根川を流されて行く人々の様子
浅間焼覚帳
([現代訳])
浅
間焼覚帳 / [現代訳] 天明三年五月二四日から
浅
間山
が噴火を始め、七月二日からは大噴火となった。,
浅
間山
が噴火してから、穀物の値段が上がった。,この騒動は、
浅
間山
が噴火し不作になったことから起こった。 ,これも
浅
間山
が噴火して不作となり、穀物の値段が上がったからだった。,ところが
浅
間山
が噴火したため、途中で逗留した。
浅間焼覚帳
([解説])
浅
間焼覚帳 / [解説] [目録] 小諸市古文書調査室 斉藤洋一 本書「
浅
間焼覚帳」は、小諸市立火山博物館(現小諸市立郷土博物館,次に、本書の内容であるが、天明三年七月の
浅
間山
の大噴火とそれにまつわること、その後の不作による穀物などの,つだけ指摘しておくと、一〇月の上信騒動の記事中に「中町はたり又兵衛」とあるが、『天明雑変記』(萩原進編『
浅
間山
天明噴火史料集成
信州浅間焼之事
([現代訳])
信州
浅
間焼之事 / それよりもっと長い松明に、まといのようなものをかつぎ、いろいろな鳴り響くものではやし立て、鬼を縛ろう、
浅
間山
,
浅
間山
は水無月末から時々噴火していたが、北の方から大噴火した。,今回、
浅
間山
が噴火してしばらくの間、碓氷峠が通れなくなった。,どのような山でも、山全体が噴火によって吹き飛ぶようなことはないだろうと思うが、今回降った
浅
間山
の石砂を,集めると、
浅
間山
より高くなるのではないかと思われる。
浅間山焼けにより馬草などを取ることができないため小物成免除願い
([翻刻])
浅
間山
焼けにより馬草などを取ることができないため小物成免除願い / [翻刻] 乍恐以□(書)付奉御願申上候
浅
間根岸山江入合ニ而馬草・刈敷・薪等刈取候ニ付、 □(村,)々より山役銭□(鐚)拾六貫弐百文宛御上納 仕候処、当六月中旬より度々
浅
間焼出し 候故、右場所石砂降重
御役所より被仰渡御書付之写并請印
([解説])
・天明3年7月14日 御役所より被仰渡御書付之写并請印 ・天明3年8月23日
浅
間山
大焼け以来難儀,史料2は、
浅
間山
が大噴火して北麓の鎌原村(現群馬県吾妻郡嬬恋村)をはじめとする広い地域に大被害を与えた,このたびの
浅
間山
の「大焼け」(大噴火)によって、追分・沓掛・軽井沢の三宿をはじめ、
浅
間山
近辺の村々が難儀,軽井沢三宿をはじめとする
浅
間山
近辺の村々が、
浅
間山
の大噴火で困っていたこと、そこから米穀をはじめとする,史料によれば、岩村田町は入会で
浅
間山
山麓から馬草・刈敷・薪などを採取してきた。
御役所より被仰渡御書付之写并請印
([現代訳])
[現代訳] 申し渡し覚え このたびの
浅
間山
の大噴火によって、追分・沓掛・軽井沢三宿をはじめ、
浅
間山
近辺,右のことは、常々心得ておくべきことであるが、このたび
浅
間山
が大噴火して右の三宿はいたって難儀しているという
信州浅間焼之事
([翻刻])
信州
浅
間焼之事 / こはけしからずといふほどこそあれ、いかづ ちおどろ/\しふ鳴はためき、
浅
間がだけより もへ上るほのほ,なをながやかなる高松明に、まとひや うのものかづきいて、なにくれのなりひゞくもの はやしたて、鬼をしはろよ、
浅
間山
,そも
浅
間山
水無月末より、時々 やけたるに、子の方よりやけぬけて、震動する (改頁) ,こたび
浅
間のやけ出て、 しバしうすゐの道たへぬ。,いかなる山なりとも底をつくしてやけ ぬらむとおもふに、此程ふりつみたる石砂 を集めば、
浅
間山
よりたかゝるべきに
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(追分村)
/北浦堰上/天神山/馬場/天神山西/寺脇/経塚東/経塚/白ハリ/庚申塚/塩野道下/塩野道上/上野原/
浅
間麓,/
浅
間山
/大谷地道/大石/三ツ石 山:
浅
間山
川: 神池ノ瀑布 渡・堰: 上堰/下堰/神,ノ池(血ノ池) 橋: 昇進橋 道路: 中山道/北国往還/隣村道 社: 諏訪社/
浅
間大神,寺: 泉洞寺 学校: 分里学校 古跡・名勝:
浅
間山
物産1: 米/大豆/小麦/稗/蕎麦,民業男: 農業/旅社営業/採薪等 民業女: 客舎営業/農業/養蚕 その他特記ワード: (森林)
浅
間山
麓林
パスファインダー
(佐藤寅太郎)
キーワード 小諸尋常高等小学校 小諸小学校 小諸商工学校 岩村中学校 岩村田高等 女学校
浅
間山
研究会,小諸小学校長時代は、
浅
間山
全校登山を 内容紹介 行い、職員による
浅
間山
研究を行った。,小諸小学校長時代は、職員による
浅
間山
研究を行った。,2 書名 著者名 出版社 出版年
浅
間山
小諸尋常高等小学校 田中書籍出版部(復刻版 国書刊行会,1910.9 (復刻版1981) 内容紹介 佐藤寅太郎が会長を務め、小諸小学校職員で構成された
浅
間山
研究会
浅間焼覚帳
([翻刻])
浅
間焼覚帳 / [翻刻] (表紙) 1 「天明三年 小諸与良(よら)町
浅
間焼覚帳 癸卯ノ,五月廿四日 与良与兵衛 」 (本文) 2 天明三癸五月廿四日より
浅
間山
焼始、,塩野・三ツ谷、其縁こ/\江、 近付方江参り、しはらく外へ迯いきて折(居カ)申候、上州 万座湯江
浅
間七月八日焼,併此すなハ作ニハあ たり不申候、右ニ付万作不作、田畑三分、場所(に)より 田畑かいむ所も有、
浅
間焼,より未ノ年迄直段不相替高直ニ御座候、是迄(ママ) (改頁) 一
浅
間焼
御役所より被仰渡御書付之写并請印
([翻刻])
天明三卯年七月十四日 御役所様より被仰渡御書付之写并請印 」 申渡覚 2 此度
浅
間山
大焼,ニ付、追分・沓掛 軽井沢三ケ宿を初、
浅
間山
近辺之 村々及難儀候時節ニ候条、別而申渡候者、 米穀者不及申,決而不相成、其外有来之諸売 物随分正路ニ商ひ候様可致候、 右之儀常々可相心得儀ニ有之候、尚 以此度
浅
間山
之変事
善光寺道名所図会
(○佐久郡小諸)
このあたりは、
浅
間山
(注1)のふもとをめぐる街道で、上田のあたりからしだいにつま先上がりとなります。,
浅
間山
の渓流はいくつも流れ出ていますが、この川だけが赤濁色です。,また、石像の仏が多く、小諸あたりから軽井沢宿までは
浅
間山
のふもとを通ります。,頂上からは千曲川、
浅
間山
、小県郡、佐久郡が一望できます。,(注3)山号は
浅
間山
、本尊は普賢菩薩、
浅
間山
守護の祈願所です。
別所温泉誌
(《詩歌》)
東叡山三世公辨法親王の漢詩からはじまり、一茶の俳句などが載せられ、最後は「七くりの里にて年送る思ひつらなりて
浅
間山
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(塩野村)
東向原/久古池/大谷地/雀ケ谷/西横辻/東横辻/北山/地蔵前/清万/濁向/反リ田/壱里山 山:
浅
間嶽,湧玉(わくたま)堰/雀ケ谷堰/大沼堰/船ケ沢堰/藤沢堰/寺沢堰 道路: 北国街道支道 社:
浅
間社,/諏訪社 寺:
浅
間山
新義真言宗真楽寺/
浅
間山
普賢寺 学校: 研文学校 物産1: 米/大麦,木綿布製造・養蚕等 その他特記ワード: (原野)南ケ原/高峯山/繕島・大谷地・長野原/中沢・フツチ・小
浅
間
善光寺道名所図会
(○安曇 池田)
信濃富士と称す、鶏・雷鳥・熊・くらしゝ等多しといふ、此あたり を有明山の里といふも、此山の辺故とかや、
浅
間山
善光寺道名所図会
(○佐久郡小諸)
より十八丁脇に諸村といふあり、 其村より出し小諸なり、[小室共書す、] 大井庄長倉の里といふ、此辺ハ
浅
間山
,へ廿五丁、星の宮へ十丁、小諸へ通り抜、]其先に濁川とて四季ともに赤濁也、
浅
間山
の溪滴川をなして幾筋,日昼夜大焼、同六日七日八日此三ヶ日ハ極て大焼也、 [但し八日ハ昼前計リ、] 北上州吾妻郡にてハ
浅
間山
半腹,物一葉もなく、野菜等迄難 (改頁) 36 義なりしとぞ、将また
浅
間山
根,に宝永山といひ慣せり、かゝる名山の姿も爰に一つの 廉付たり、其後は烟も立ずなりて今ハ見る事なし、
浅
間山
寛保二年大洪水余禄
([現代訳])
浅
間山
方面の法印坊沢というところから「蛇水」(土石流)が発生したらしく、みな驚き騒ぎはじめた。,同じ頃、
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間山
真楽寺の付近の寺沢という所から土石流が発生し、与良口のような水が押し出し、寺社ばかりを残
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(小山敬三)
スペイン 茅ケ崎 小山久左衛門 小山邦太郎 日展 長 野県美術展 日本芸術院 小山敬三美術賞
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間山
,信濃毎日新聞 朝刊21ページ 年月日 1995.10.17 2 見出し 小諸で第9回フェス
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間山
描
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(天明3年の上信一揆(騒動))
キーワード 天明3年 佐久 小県 西上州(群馬県西部)
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間山
噴火 米不足 一 揆(騒動) 打ちこわし,3 書名 著者名 出版社 出版年
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科村史
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科村史編纂委員会/編
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科村史刊行会 2005.03,内容紹介 第二部第四章 第七節 二「天明の
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間山
噴火と上信一揆」で、
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科村に おける
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間山
噴火と
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(龍江村)
)/尾科(おしな)/尾林(おばやし)/宮沢/安戸(やすんど)/大屋敷/石林(いしばやし) 山:
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間山
,神明社/大宮社/疱瘡神社(ほうそうじんじゃ)/八王子社/八幡社/白山社/和世田社(わせだしゃ)/
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間社
善光寺道名所図会
(○安曇 池田)
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間山
に劣らない高い山で、いつも霧が深く立ちこめていて、山の姿もはっきりしません。
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(小諸市三岡地区の桃栽培の始まり)
塩川伊一郎評伝:
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間山
麓の先覚者 小林收/編著 龍鳳書房 1996.3 小諸義塾長木村熊二の指導,のもと、
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間山
麓の荒地を果樹栽培への 内容紹介 情熱によって開拓し、農家経済の発展を真摯に追及した塩川伊一郎父
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部
(著者、絵師等)
その間には、野尻湖、川中島、姨捨山、
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間山
、諏訪湖といった、一般的な名所の紹介もしています。
小諸繁昌記
([解説])
同じころ、東信濃地域では『
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間山
』、『上田案内』、『別所温泉案内』などの研究書や案内書も発刊されます。,第一章 小諸町沿革誌 第一節 緒言
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間山
と千曲川、この「秀美高潔の江山」に囲まれた地が信州小諸市街地,第四章 霊場案内記 「
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間山
真楽寺」「菱野薬師」「
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間登山」「布引山」が載っています。
小諸洪水流失改帳
([解説])
小諸町は
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間山
の南西側の山麓に位置した城下町で、山麓を下りきったところを千曲川が東南から北西方向へ流れている,町へは
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間山
麓から蛇堀川・松井川(東沢川とも呼ばれている)・中沢川などが注ぎ、千曲川へ流れ込んでいる。,「寛保二年大洪水余録」(小山隆司家所蔵)は、「戌の満水」の前年に
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間山
の法印坊沢に山ごもりした僧を小諸藩
寛保二年大洪水余禄
([解説])
小諸町は
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間山
の南西側の山麓に位置した城下町で、山麓を下りきったところを千曲川が東南から北西方向へ流れている,町へは
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間山
麓から蛇堀川・松井川(東沢川とも呼ばれている)・中沢川などが注ぎ、千曲川へ流れ込んでいる。,「寛保二年大洪水余録」(小山隆司家所蔵)は、「戌の満水」の前年に
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間山
の法印坊沢に山ごもりした僧を小諸藩
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