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善光寺道名所図会
(○小県郡海野)
○小県郡
海野
18左 七町程相対して巷をなす、民家多し、町中に溝あり、むかし木曽殿の 侍宇野平四郎幸氏,田中へ十八丁なり、小坂多し、 (改頁) 20右 白鳥大明神[
海野
宿町中左側 / ○小県郡
海野
善光寺道名所図会
(○小県郡海野)
○小県郡
海野
18左 道の両側7町ほどがにぎやかな町通りで、民家が多く、町中に溝があります。,白鳥大明神 大明神がまつられている白鳥神社は、
海野
宿町中の左側にあり(注1)、例祭は8月12日です / ○小県郡
海野
善光寺道名所図会
(○小県郡上田)
○小県郡上田 17右
海野
へ弐里、長瀬へも二里、松平伊賀守居城にて、五万八千石を領せらる、,頃上田勢国 分寺を本陣として、廿町程東へ張出し、加賀川に一の柵を搆へしとそ、 加賀川の橋を渡り、大矢村
海野
新田,を過て程なく
海野
宿にいたる、 又大矢より右へ別れ、干隈川の橋を越し、長瀬腰越を経て、中山道の
松代まちあるきマップ
(42白鳥神社)
へ移封の年=元和八年(一六二二)、真田信之が祈願所の開善寺を松代に移し、次いで寛永元年(一六二四)、
海野
郷,
海野
郷(東御市
海野
)の白鳥神社は、日本武尊の他、真田宗家とされる滋野氏の祖、清和天皇の皇子貞元親王・貞保親王
善光寺道名所図会
(○小県郡田中)
海野
と田中は半月ごとに宿役を交替して務めています。 ,(注1)東御市本
海野
北屋敷の白鳥神社は、千曲川の北岸、
海野
宿の東の入り口にあります。,祭神は日本武尊ですが、
海野
氏の祖を合祀しています。
善光寺道名所図会
(○小県郡上田)
○小県郡上田 17右
海野
へ2里、長瀬へも2里です。,加賀川の橋を渡り、大矢(注6)村
海野
新田を過ぎると、まもなく
海野
宿です。 ,(注2)上田城下には
海野
町と原町に問屋がありました。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(県村)
明治初期:県村(あがたむら) 幕末から明治初期:加沢村/加沢新田村/田中村/棗田村/長坂村/海善寺村/上
海野
村,『長野県町村誌』 2巻 p1600に掲載 該当ページを見る キーワード 社: 縣諏訪社/
海野
神社
松代まちあるきマップ
(28功徳山 願行寺)
宗派/浄土宗、本尊/阿弥陀如来 願行寺は、その由緒書に、天文年中(一五三二~五五)、小県郡
海野
荘,の
海野
左京太夫幸義が、祖先棟綱の菩提を弔うために開基とある。
善光寺道名所図会
(○筑摩 会田)
広政は
海野
幸継の2男で、はじめは当国衆の一味でした。,会田宿は、鎌倉時代に小県郡から進出してきた
海野
(うんの、会田)氏の城下町で、宿の北上段の殿村に居館を、,広田寺は、もとは知見寺にあり
海野
氏の開基です。永正8年(1511)に、山辺の広沢寺四世の中興開山。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(上田町)
現在(令和2年):上田市(うえだし) 明治初期:上田町(うえだまち) 幕末から明治初期:横町/
海野
町,ぼうやまむら 『長野県町村誌』 2巻 p1681に掲載 該当ページを見る キーワード 字地:
海野
町
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記
([解説])
解説] [目録] 上田歴史研究会 阿部勇 上田地域の「戌の満水」については『原町問屋日記』『
海野
町問屋日記,では、寛保二年(一七四二)の戌の満水の被害状況を『原町問屋日記』に書き留められた順番に『
海野
町問屋日記,
海野
宿も半分は流失、しかし使用できる家も残ったので、以後機能を果たせなくなった田中宿の役割を担うこととなります,境内には上田
海野
町の縁者が講中を組織し、洪水の四年後に建てた石造の大地蔵尊があます。
善光寺道名所図会
(○筑摩 苅屋原)
鷹巣根の古城は、苅谷原から5、6町西の方にあり、むかしは
海野
小太郎幸継の5男、苅谷原五郎が城主でした。,(注)刈谷原城は、別名を鷹巣根城ともいい、鎌倉中期以降に
海野
氏の一族刈谷原五郎が築き、大永3年(1523
原町問屋日記(安政6年 6・7月)
([翻刻])
安政六年六月二十四日 一 神奈川横浜貿易十九日相始糸引合相成候旨、此方より御用掛りニ罷出居候武蔵屋祐助二十二日暁
海野
宿,罷越万屋万平江申遣対談いたし糸拾駄両ニ百め乃直段買付ノ仕切差出候旨追而申出候処、産物会所へ者一円右之義沙汰無之、
海野
町方
善光寺道名所図会
(○筑摩 会田)
登り三十丁、下り十八丁の〓路なり、 北東に虚空蔵山見ゆる、則会田小次郎広政の古城地なり、 広政は
海野
幸継
善光寺道名所図会
(『善光寺道名所図会』の構成)
別所温泉に行き、男神岳・女神岳をはじめ、安楽寺・常楽寺の寺塔等を請録し、上田から科野大宮・国分寺を拝し、
海野
宿,で白鳥神社・
海野
平の故事をさぐり、田中から小諸に至ります。
善光寺道名所図会
(○筑摩 苅屋原)
もきらず、栗の強飯を以て苅谷原の名物とす、 ○鷹巣根の古城 苅谷原より五、六町西の方にあり、むかし
海野
小太郎幸
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記
([翻刻])
一
海野
宿半分亡所、残砂流入埋亡所同前、海禅寺村、深井村、 右同断、下塩尻下村亡所、中島、新屋亡所、
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(大屋村)
味噌 民業男: 農業/伐薪/草鞋 民業女: 養蚕/製糸/縫針/織布 その他特記ワード:
海野
氏領地
パスファインダー
(真田一族と家臣団)
資料リスト 雑誌 表裏比興の雄真田昌幸 日本一の兵真田幸村 真田家の治世 真田十 勇士
海野
衆,丸島和洋/編 岩田書院 2014.4 真田家臣団の基礎研究、上田城下の商家となった武田家臣「
海野
衆
上田の早苗
([翻刻])
、今ハ如何ナリケン、 仏刹モ其時此処へ移スト聞ケリ、軍記等ニ見エタル、 〇願行寺ハ旧跡ハ
海野
新田,改頁) 7 へ移シ来リ後築城ノ時今ノ鍛冶町裏へ移シタリ 〇日輪寺ハ
海野
,[幸善ナリト云フ]新田義宗ノ義兵ニ従ヒ、碓氷峠ノ戦敗レ、
海野
へ引入シ カ、此地ノ防戦ニ便ナラスト、,同族常田次郎幸豊カ上田ノ居館ヲ城トナシ、
海野
城ト唱ヘタリト[信陽一統誌ニ上田ハ三百六十丁ノ台ナリ,、甚繁栄ナレハ
海野
城ヲ築クト有リ、]今云フ、城郭ノ如キニハ アラス、太平記ニアル城ハ三井寺園城寺ノ
善光寺道名所図会
(○別所温泉)
九重・五重・八角四重の塔を経営し、壱千貫文の地を 寄附し、万の料に増加し給ふ、同帝の皇孫滋野親王当国
海野
,しけれバ、梵閣金殿兵火の余殃に灰燼となる、只大悲殿并安楽寺の八角四重 の宝塔残れり、其後右大将頼朝卿
海野
氏,別所北向山参らんにハ、中山道洗馬宿より松本へ 出、保福寺峠を越へ別所へ下り、十一里余、別所より長瀬通り
海野
宿,、追分宿まて九里也、 (改頁) 一東国より善光寺参詣に別所北向山へ参らんには、
海野
宿,より長瀬通別所へ三里余、 諏訪形荒神へ参らんにハ、大屋の下茂沢の船を渡り、小牧通
海野
より荒神へ壱里余
松代まちあるきマップ
(19白鳥山證蓮寺)
伝承では、滋野一族の流れを汲む
海野
小太郎幸親の子で、木曾義仲の祐筆だったとも伝わる。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(芳田村)
農桑/養蚕/蚕籠細工/竹細工 民業女: 農/養蚕/生糸/縫職 その他特記ワード: 童女郷/
海野
郷
善光寺道名所図会
(○小県郡田中)
小県郡田中 28中央 小諸へ弐里半、此町八丁程相対して巷をなし、民家多し、間の宿とす、 因茲
海野
松代まちあるきマップ
(43金剛樹山 開善寺)
一六二二)、真田信之の松代移封の際に、房山(上田市)にあった海善寺(海禅寺)を、松代に移した。その後、
海野
村
「内藤家十五世紀」(十一)(藩校進徳館設置のこと)
([翻刻])
進徳館開設以前高遠藩士学術有様ヲ御略記アリタシ】 文学師範 中村中蔵 同
海野
喜左衛門,駿河守群臣ヲ率ヒ参拝 シ、且封内外ノ人民ニ参拝セシメ神酒 赤飯ヲ与フ 進徳館中一月数次中村中蔵
海野
喜左
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記
([現代訳])
一
海野
宿は半分流失し土砂が流れ込みました。海禅寺村と深井村も同じでした。
上田案内
([解説])
以下の上田警察署(下房山)や上田郵便局(
海野
町)などとともに、官公庁所在地の変遷を知るうえで参考になる,「市神社」は、原町と
海野
町の成立を考える上で重要であるといわれている。 ,〇仏寺 真田昌幸が本
海野
から移した寺など真田氏との結びつきを示す寺がいくつかある。,当時は、
海野
町の四辻に上田郵便局があり、柳町・新町・常入・川原柳にそれぞれの局が置かれていた。
パスファインダー
(立川文庫、真田十勇士)
リスト 立川文庫 玉田玉秀斎 真田三代記 難波戦記 真田三勇士 真田七勇士 真田十勇士 穴山小助
海野
六郎,…ここに、十勇士とは、穴山小助、
海野
六 郎、筧十蔵、霧隠才蔵、猿飛佐助、根津甚八、三好為三入道、三好清海
善光寺道名所図会
(○別所温泉)
清和天皇の皇孫である滋野親王が信濃国の
海野
にいてこの温泉に浴し、和歌を詠みました。 ,その後、右大将頼朝が
海野
氏(うんのし)(注7)に命じ、諸堂社を再建、法橋上人を入れ、大悲殿を守らせ新たに,別所から長瀬(注11)通りで
海野
宿へ出て、追分宿までは9里です。,一 東国から来て善光寺参詣し、別所北向山を参詣するためには、
海野
宿から長瀬通りで別所へ3里あまりです。,小牧(注13)通りで
海野
から荒神までは、1里あまり、荒神から別所まで2里あまりです。
「内藤家十五世紀」(十一)(藩校進徳館設置のこと)
([現代訳])
文学師範 中村中蔵 同
海野
喜左衛門 筆学師範 荒木兵蔵 同 ,進徳館では1か月に数回中村中蔵・
海野
喜左衛門に経書を講義させ、みんなで聞き入った。
秀吉と真田
(徳川方への攻勢)
この神尾は遠州の出身で武田氏の家臣となり染屋(上田市)に屋敷を与えられ「
海野
(うんの)衆」の一員となっていた
パスファインダー
(真田氏関係の城址、寺社、文化遺産)
日向畑遺跡、
海野
幸義の墓、砥石城全景、上州我妻郡岩櫃城之図、岳 山城跡 箕輪城跡 白井城跡 平八石、上州利根郡沼田城之図,真田信之霊屋、松代長国 寺 開善寺 大林寺・大輪寺 願行事 大英寺 白鳥神社 松尾古城之 図、白鳥神社
海野
系図
原町問屋日記(嘉永6年)
([解説])
九月十七日になると、奉行から両町の問屋(原町問屋瀧澤助右衛門・
海野
町問屋柳澤太郎兵衛)が呼び出され、異国船来航対策
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(中川村)
山神社/雷神社/山神社 寺: 善入寺/瑞泉寺/観音寺/不動堂 古跡・名勝: 会田小次郎山城墟/
海野
氏一門召田監物山城墟
パスファインダー
(『平家物語』と信濃)
木曽義仲 朝日将軍 平家物語 清水冠者 源頼朝 依田城 白鳥川 原 今井四郎兼平 横田河原の戦い 城資永
海野
天保飢愁
([解説])
序文によると、筆者は上田
海野
町の住人松原晋蜂。
パスファインダー
(北国街道小諸宿)
キーワード 概要を知るた めのツール 1 書名 著者名 出版社 出版年 中山道 追分宿
海野
宿
パスファインダー
(信州の山城を歩く)
内容紹介 1 論題名 著者名 雑誌名 出版年 巻号頁数 2 論題名 清水長久/著 2005
海野
平
戸隠善光寺往来
([現代訳])
田中宿、
海野
宿を過ぎ、上田の町から坂木宿、戸倉宿、屋代の渡し場からは、姨捨山の長楽寺、冠着山などが見渡
天保飢愁
([翻刻])
[翻刻] 上田
海野
町 松原晋蜂 1 (東山堂主人),しかつ べらしく言ものハ 於□□理房の楼上に 常田の城東
海野
町住
パスファインダー
(信濃の高僧)
此山妙在 性海霊見 西仏坊 康楽寺 浄賀 等順 道鏡慧端 正受庵 半田孝淳 天台座主 井上氏 保科氏
海野
氏
パスファインダー
(蚕都上田)
上田城下町、上田宿、原町、
海野
町、幕府老中(上田藩主)松平忠固、 老中阿部正弘、老中堀田、老中井伊直弼
原町問屋日記(安政6年 6・7月)
([解説])
(2)にあるように、両町(
海野
町・原町)で等分して十駄分の生糸を横浜へ送る算段をしている。
寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳
([解説])
痕跡は確認されていないが、金井村から10㎞余離れた上田城下で「8月1日午前8時前に巨大な音がした」(『
海野
町問屋日記
パスファインダー
(善光寺参詣と善光寺道)
由比ヶ浜、入間川、倉賀野、松井田、碓氷峠 を越え、布引山、
海野
、坂木、篠ノ井などを経て善光寺に着きます
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([翻刻])
ニ御泊り被成候、御普請方岡本養左衛門様ニ者、新町与一右衛門所ニ御泊り 被成候、同三日之晩上田御領
海野
宿,臼田江御使者本間善太夫様御見舞、諸事御伺ニ者御代官宮原新五右衛門様・ 下御目付黒沢権右衛門殿御出ニ御座候、
海野
宿江御奉行成瀬番左衛門様御出被遊候
秀吉と真田
(徳川秀忠軍の上田攻め)
真田父子上田籠城図 上田市立博物館蔵 中央に真田昌幸、左に幸村が立ち、右後ろに穴山小助と
海野
六郎
「内藤家十五世紀」(十一)(藩校進徳館設置のこと)
([解説])
藩士の教育一切を取り仕切る最高責任者・文武総裁に岡野小平治を任命し、文学師範には中村元起(中蔵)と
海野
喜左衛門
小県郡民謡集
(成人謡)
〔方〕 河東地方に關する四首 ○
海野
平(うんのたひら)から禰津(ねつ)村見れば禰津は信濃,(滋野三家禰津 氏據(きょ)地) ○禰津で寢つれて別所て○○して原で孕(はら)んで
海野
で産んだ。,○
海野
田中の味噌(みそ)だまお女郎豆がたかくて買はれない。
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