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松代まちあるきマップ
(22寒松山 大林寺)
明治五年(一八七三)の大火により諸堂宇が
焼失
し、修行寺も閉鎖された。,その後、槍術場の建物を、長国寺と分け、本堂兼庫裡としたが、明治二十四年の大火で再び
焼失
。
むしくら日記
(3巻 利)
相之木村ハ地震之上善光寺出火ニて類 焼仕、少々つゝハ小屋懸出来申候、 権堂村土蔵迄も不残
焼失
, 三ヶ所 半潰 八ヶ所 損 一 同土蔵 三棟
焼失
,ニ而泥冠 土蔵百七十七棟
焼失
同六十九棟 潰 土蔵上屋計弐十棟
焼失
,潰 庫裡十四ヶ所
焼失
潰共 同七ヶ所 潰半潰共 諸堂二十ニヶ所
焼失
潰共, 権堂村 是は潰之上
焼失
仕候、 一
焼失
土蔵并物置之部四十八棟 是は右同断 一
松代まちあるきマップ
(46中村神社)
永禄十二年(一五七〇)、
焼失
した本殿を西条氏が再建。信州埴科郡英多邊庄酉條大國大明神社頭造営」の棟札が
地震後世俗語之種
(『地震後世俗語之種』の価値)
焼失
区域を色分けした図(1-102)があるほか、堰き止められた犀川の決壊による大洪水が達した高さを図中
地震後世俗語之種
(『地震後世俗語之種』の価値)
焼失
区域を色分けした図(1-102)があるほか、堰き止められた犀川の決壊による大洪水が達した高さを図中
松代まちあるきマップ
(40無漏山実相院)
昭和二十六年に
焼失
した本堂は、同四十八年に再建され、現在に至っている。
松代まちあるきマップ
(28功徳山 願行寺)
)が、信之没後、この寺で出家、庵を構えて主君の菩提を弔っていたが、享保十八年(一七三三)の大火で庵は
焼失
松代まちあるきマップ
(33尼巌山浄福寺)
本堂は安政年間(一八五四~一八六〇)に再建、その後
焼失
したが、明治期に入り本堂と庫裡を、大正十五年(一九二六
松代まちあるきマップ
(44関谷山西楽寺)
ゆうよしょうそう)。西条氏と村松氏が帰依し、天正二年(一五七四)に堂宇を建立、西楽寺と名付け中興。その後火災で
焼失
松代まちあるきマップ
(10象山恵明寺)
山門を残し、本堂・霊屋・庫裡・鐘楼が
焼失
。仏像・仏画・什物も灰燼に帰した。
おらが春
(小林一茶の生涯)
65歳の時、柏原に大火があって自宅を
焼失
し、焼け残った土蔵の中で没しました。
善光寺道名所図会
(○筑摩 郷原)
観 音堂[正観音、聖徳太子御作信州百番の内二十八番の 札所なり、] 薬師堂・聖天堂・山門・惣門等
焼失
むしくら日記
(2巻 亨)
家中侍居宅 一 四拾四軒 潰 一 六軒
焼失
, 但囲籾千石不残
焼失
仕候、 一 竃五百十七軒
焼失
一 同三百拾弐軒, 一 番所 一 三ヶ所 潰 一 壱ヶ所
焼失
,、 内 七軒山崩ニ而泥冠 一 土蔵百七拾壱棟
焼失
, 一 同五拾棟 潰 一 土蔵上屋計廿棟
焼失
一
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図
([解説])
その中に「崩山」「
焼失
」「洪水」「流失」「潰家」などが色分けして記入されています。 ,
焼失
は赤く塗られています。,・山門・仁王門(いずれも文字はない)が一列に並んでいますが、町と接した仁王門のみが赤く塗られていて、
焼失
,クハン」「四十六坊」「シヤカ堂」が赤く塗られていて、大本願(大勧進は無事)や、釈迦堂を含む46の宿坊群が
焼失
むしくら日記
(4巻 貞)
○御近領異変書上 飯山御城下 御家中并御城下町地震潰之上、出火にて半丁程町家残、 其余
焼失
,か後見、] 見分に出しとて語れり、 (改頁) ○村々へ被下御手充、居家押埋、潰
焼失
,、潰流失、流水、水押 潰、半分流失、半潰之上
焼失
、此者共へ金三分ツヽ、水押潰金 弐分弐朱ツヽ、潰、,水災半潰、居家水入之上屋根計
焼失
、土蔵 計流失金弐分ツヽ、半潰、数日水入、浮上土台違之類金壱分 ツヽ,[潰之上]、十五軒、潰十軒、押潰八軒、半潰十五軒、上組モス原と 申処耕地大抜、抜候所之家
焼失
又ハ押埋
パスファインダー
(善光寺の火災と復興)
続群書類従完成会/編 続群書類従完成会 1928 文永5年(1286)の条に「3月14日夜、善光寺
焼失
,近藤瓶城/編 1884年 内容紹介 「正和2年(1313)癸丑3月22日に、信州善光寺
焼失
善光寺道名所図会
(○筑摩 郷原)
薬師堂・聖天堂・山門・惣門などは
焼失
して仮殿になっています。
諸国道中商人鑑
(4 小田井から本山まで)
宿は文政11年と明治15年の大火で大部分を
焼失
、宿の中心部を国道20号線が通ったこともあり、昔日の面影,本陣は敷地930坪、建坪157坪あったが明治42年の中央本線洗馬駅開設と昭和7年の大火により
焼失
、敷地,1050坪の脇本陣も昭和の大火で
焼失
した。
分県之建白
(信濃国から二つの県へ)
ところが、3年12月に、中野で騒動がおき、県庁をはじめ中野の町の多くが
焼失
してしまいます。
伊那県布令書
([解説])
このあと、中野騒動が起き中野県庁が
焼失
、明治四年六月長野へ県庁が移され、旧長野県が誕生しました。
善光寺道名所図会
(○別所温泉)
、瑠璃殿を造 立し、薬師如来を安置し、及長楽・安楽・常楽の三楽寺を建連ね給ひし が、後年天変にて
焼失
,て、出浦の高望公へ綸 命下り、三楽四院へ奉借証文三河の守護より越さる、[此証文正徳二年に本堂
焼失
迄,鳳来寺 岑の薬師と称し、霊験今に掲焉し、梺に町屋軒を並へて建連ねたり、 但右の古証文
焼失
善光寺案内
([解説])
中でも、「駒入橋ヨリ仁王門ヲ望ム」というキャプションの付いた写真には、明治24年に
焼失
した仁王門が写っています
善光寺道名所図会
(○筑摩 洗馬)
昭和7年(1932)の大火で洗馬宿の大部分を
焼失
しましたが、善光寺道との分岐の石標・邂逅(おおた)の清水
諸国道中商人鑑
(3 松井田から追分まで)
安永2年の大火では総戸数140戸のうち104戸が
焼失
、文化12年には本陣と大家5軒、昭和26年の大火ですべての
パスファインダー
(善光寺地震)
著者の永井善左衛門幸一は権堂村の名主だったが、 地震被害により権堂の家屋敷、貸家、出店等全て
焼失
善光寺道名所図会
(○別所温泉)
しかし、後年天変があり
焼失
し、名だけが伝えられたといわれています。 ,古証文が
焼失
してから、三州では、ここを鳳来寺と呼ぶようになりました。
寺子屋師匠の日記
(寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)
くわしく)祖父団治へ不残御伝授有之右伝書等 所持罷在候処天保五甲午二月朔日夜火災ニ付其外書類
焼失
残念之至,)ニ而本抔御覧之節御用ひ被成候様ニ迚 歳暮ニ持来り申候大ニ重宝ニ而有之候処天保五二月朔日火事ニ而
焼失
,明教大師補教編 其外写本小本等有之候 右亀春様より匡晧迄伝来 之処去ル天保五年火災ニ而惜哉不残
焼失
也, るべからず 一家公御帰宅後妙法蓮華経弐部御書写被遊候 右一部ハ神光寺江奉 納一部ハ内ニ而惜哉
焼失
,むやとりは 同 此外御詠出沢山ニ有之候得共
焼失
善光寺独案内
([現代訳])
二王門 明治24年6月2日に
焼失
。 別当大勧進 山門の下、西の方にある。,6月24日、西之門町より出火して、折から西南の風が激しく、またたく間に大火となって、大本願と仁王門が
焼失
,この
焼失
範囲は西之門の上下、桜枝町少し、元善町、法然堂町、東之門町、城山等で、火の勢いはますます盛んになり,この門の伝来は、記録によれば、善光寺の火災は治承3年3月24日に落雷によって
焼失
してから、元禄13年7
善光寺道名所図会
(○佐久郡小諸)
有之も見へ候、又一尺五六寸の石に火付候てもえ ながら飛来り、落ては砕候ゆへ、坂本宿の商家五十軒余
焼失
地震後世俗語之種
([翻刻])
◯月かけや四門四州もたゝひとつはせを翁 已に定額山善光寺は東門にて、御堂も東向 なりしを、数度
焼失
,時節なるかな、悪風悪火なる哉、火気 盛んになりて、本願上人様御院内・中衆・妻戸を 眼たたく間に
焼失
,御制札と書ものをば 何とかして取出し、若も我家の
焼失
し是迚も 遁れがたくはそのむね直に可告知。,火の懸るなれ、其次こそハ我家 (改頁) なれといふのみにて、
焼失
,雨風を (改頁) 123 凌くの便もなく、また市町の
焼失
善光寺道名所図会
(○筑摩 松本)
明治19年(1886)2月8日の松本の北深志町の大火で、本堂・庫裡・廻廊・観音堂などを
焼失
。,保福寺の開基は不詳で、数回の
焼失
で什宝の多くが灰燼に帰しています。,慶長17年(1962)の大火で伽藍が
焼失
してしまい、現存の観音堂・如意輪堂・庫裏・牛堂・太子堂・鎮守社
地震後世俗語之種
([現代訳])
かげや四門四州(宗)もただひとつ 芭蕉翁 かつて定額山善光寺は東門で、御堂も東向きでしたが、幾度か
焼失
,時節柄、風は激しく火の勢いも激しくて盛んに燃え、大本願上人様のご院内・中衆・妻戸が瞬く間に
焼失
し、仁王門,未の刻(午後2時)から申の刻(午後4時)頃までに隣家まで
焼失
して、それから向こう側(西側)に燃え移り、,縄や杭を手に入れたいと心を配りましたが、町中は一円
焼失
して、なんとか焼け残った新田・石堂〈
焼失
した所、,3人、また5人、7人と頭を並べて伏しており、胸から上を
焼失
したもの、足腰を
焼失
したものなど、死骸が山をなしていても
地震後世俗語之種
([現代訳])
この大地震で町が
焼失
し、貴賤の別なく日々の飯米に困っていたので、この廉価販売によって皆が満足したのは、,これに答えて、「惑ってはいけません、仏身が溶け
焼失
したことこそ、仏の教えに疑いのない証拠です。,ところが大地震が起こるや否や、即座に御院内が類焼しましたので、おそらく
焼失
したか、灰になったものでしょう,これらは、今思い出すままに挙げたもので、その事情の詳しいことは分かりませんが、ここに書き加えてその
焼失
,寿量坊・林泉坊・称名坊・甚明坊・正定坊・蓮池坊、常行坊・遍照坊、以上10坊、衆徒・中衆・妻戸が一時に
焼失
善光寺道名所図会
(○佐久郡小諸)
1尺5、6寸の石に火が付き燃えながら飛んできて落ちては砕けるので、坂本宿の商家50軒余りが
焼失
、つぶれた
善光寺独案内
([翻刻])
二王門 明治二十四年六月二日
焼失
。 別当大勧進 山門の下、西の方にあり。 ,明治二十四年六月二日、西の門町より 出火し、折せつ西南の風烈しく、 見る間に大火となり、大夲願及二王門
焼失
,此門の伝来の記ハ、善光寺の 回録(ママ)の難、治承三年三月二十四日に 天火にて
焼失
より、元録(
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
上下万 民怪しみ、歎かずといふ事なし、博士を召て考へさせ給ふに、奏して曰、御 悩の事前帝の御代に
焼失
,神なり、[神主斎藤下総守] ○飯繩社[一山の火防の神とす、] ○閻魔堂[奪衣婆小野道風作閻王ハ先年
焼失
,堂照坊第二十四世空阿大徳了意此丘の時代なり、] ○聖徳太子鏡の御影[浄願坊にあり、十六歳御自作の木像なり、]○二天門[先年
焼失
むしくら日記
(1巻 元)
毘沙門山に遁れ、如来も裏手へ立退あり、本堂山門ハ 残り、大勧進ハ潰れて残り、本願上人の方ハ跡方も なく
焼失
侍,日々水嵩相 増凡十七八丈湛、水上ハ六七里之間湖水之形勢ニ相成、 右ニ而川付村々ハ数ケ村倒潰或
焼失
之上,且支配所之儀も多 同様ニ御坐候処、就中善光寺之儀者居家震潰、右ニ付 致出火、夲堂・山門等之外ハ一円
焼失
,間に置候ひしに、 家揺潰れ皆下に埋れ候か、我等ハふしきニ這出候か、連 の者と家来共ハ遁れかたく、
焼失
侍,くもたせ越 ぬと、休息に戻りし時妻申ぬ、白山寺此時丹下方に 止宿し、怪我したりと云、丹下か家潰れて
焼失
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
見ると、高倉天皇の御代、治承3年己卯(つちのとう)(1179年)3月24四日の午前十時ころに、すべて
焼失
,応永34年丁未(ひのとひつじ)(1427)3月6日の正午ごろ、東の門から出火して、堂塔は一堂も残さずに
焼失
,閻魔は先年
焼失
した) ○御霊屋(おたまや)(大本願の北にある)御霊屋と御年宮は幕府のご造営だという。,16歳の時のご自作の木像である) ○二天門(先年
焼失
して、礎石だけが残っている)東側に高札がある(松代侯
木曾山林学校
(木材の欠乏を憂ふ)
クリノメートル・間縄を持ち3名の人夫を連れ登山し、前年測量せる林班界を更に測定するの仕事をなす(前述の如く
焼失
善光寺道名所図会
(○筑摩 松本)
兆殿司筆] 涅槃像一幅 (改頁) 42右 当寺開基不詳、数度の
焼失
龍駕の跡
(龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))
望楼の上層は其後取崩され、食堂は取り払はれ、寄宿舎は三十四年に
焼失
して其影もなし。 ,〇上田町学校なる行在所は其後
焼失
(しょうしつ)し、現在の校舎は前位置に略旧を模して再建したるものなり。,○野尻、石田津右衛門邸内に協同新築の御小休所は、其後
焼失
し、其跡に前住者の家屋を構へたれども、昔とは全,現存せざるもの十二箇所の中、上田城山のニケ所は
焼失
し、十ケ所は取除かれたるなり。,現存せざるもの三箇の中、県 [田中]坂城の二ヶ所は取除かれ、野尻は
焼失
せり。
地震後世俗語之種
(絵の解説)
1-101の右下に色見本がありますが、左から、無事の家屋(白)、
焼失
(赤)、半壊・破損(灰白)、全壊(
むしくら日記
(1巻 元)
)に避難し、如来も裏手へ運び出した、本堂・山門は残り、大勧進は潰れて残り、大本願上人の方は跡形もなく
焼失
,このため川沿いの村々は数か村倒壊あるいは
焼失
した上、数丈の水底に没しております。,中でも善光寺は家々が倒壊し、そのため出火して本堂・山門などの外は一円が
焼失
して、死傷者が殊に夥しい様子,白山寺はこのとき丹下方に泊まっており怪我をしたといい、丹下の家は潰れて
焼失
し、家族5人のうち丹下が生き
上田の早苗
([翻刻])
(改頁) ○享保十五年十月八日夜、横町より失火して海野町原町迄
焼失
,明治二巳年八月百姓暴動放火の時海野町本陣柳沢太郎兵衛 方へ放火し、其火海野町より横町下丁原町上町悉く
焼失
信州飯田町家控
([翻刻])
池田町・番匠町・松尾町壱丁目・二丁目・本 町三丁目半分・二丁目不残・壱丁目少々残る 右之通り不残
焼失
, (改頁) 一元禄九子年十一月十九日子刻、桜町二丁目東側太左 衛門家より出火南側
焼失
信州飯田町家控
([現代訳])
このように残らず
焼失
したので、亦助は早速寺へ避難しました。,一元禄9(1696)年11月19日子刻、桜町2丁目東側の太左衛門家より出火し、南側うを
焼失
し、この時も
むしくら日記
(2巻 亨)
地震であったと見え、川中島辺りでは民家が村中残らず、あるいは半数以上が倒壊したり、そのうえ火事で残らず
焼失
,善光寺町では家並みが殆ど残らず倒壊し、その上
焼失
して、多くの即死、怪我人が出ました。
寺子屋師匠の日記
(寺子屋師匠の日記「諸事日新録 沢和徳扣(ひかえ) 慶応四戊辰年六月朔日ヨリ」)
此頃は都も近く成にけり 復古にさはく坊主神主 九月廿九日夜九ツ半時過横川木曾沢 火事十六軒
焼失
之由
違作書留帳
([現代訳])
娘とく、委細はその年の日記に書いてある、 (改頁) 三月十日早朝、江戸西の御丸御
焼失
,、縁の下ヘ一面火が廻り、御丸中残らず
焼失
、 三月十六日の夜、村方の定吉・庄八、焼ける、 三月二十二日,米一札を内に遣わす、小坂(おさか、東筑摩郡山形村)の者、 二十二日 小又へ行く、高遠様御上屋敷が御
焼失
違作書留帳
([翻刻])
宮本和兵衛娘 とく、委細其年の 日記ニ有 (改頁) 三月十日 早朝 江戸西の御丸御
焼失
,定吉不快ニ付、 彦右衛門倅共談、米一札 内江遣ス小坂のもの 廿二日 小又へ行 高遠様御上屋敷 御
焼失
小又
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