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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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明治二年八月上田騒動一件書留 ([翻刻])

6 中明光寺前焼失、 十八日、夕かたより雨、朝より又々十二三人ツヽ押参り、前夜潰し候宅へ 両度又,、其外書類大方焼失 同手塚村 倉沢友右衛門 一、居家土蔵弐ケ所物置薪屋糀室味噌蔵雪隠迄焼失金百両程白米九斗,同 中嶋吉左衛門 一、家財道具戸障子衣類迄焼失、土蔵弐ケ所屋根斗焼失 笹井村 飯田半兵衛,ニ而居家物置雪隠焼失 国分寺組割番野竹村 内藤栄左衛門 一、居家長屋土蔵物置居家構門木戸打潰焼失,田中組割番栗林村 竹内十兵衛 一、居家土蔵打潰之上焼失小座敷半焼小屋敷隠居家 見せ水車屋建具類打砕役用書類不残焼失
松代まちあるきマップ (22寒松山 大林寺)

明治五年(一八七三)の大火により諸堂宇が焼失し、修行寺も閉鎖された。,その後、槍術場の建物を、長国寺と分け、本堂兼庫裡としたが、明治二十四年の大火で再び焼失。
むしくら日記 (3巻 利)

相之木村ハ地震之上善光寺出火ニて類   焼仕、少々つゝハ小屋懸出来申候、   権堂村土蔵迄も不残焼失,  三ヶ所      半潰   八ヶ所      損 一 同土蔵   三棟       焼失,ニ而泥冠   土蔵百七十七棟  焼失   同六十九棟    潰   土蔵上屋計弐十棟 焼失   ,潰   庫裡十四ヶ所   焼失潰共   同七ヶ所     潰半潰共   諸堂二十ニヶ所  焼失潰共,   権堂村    是は潰之上焼失仕候、 一 焼失土蔵并物置之部四十八棟    是は右同断 一
松代まちあるきマップ (46中村神社)

永禄十二年(一五七〇)、焼失した本殿を西条氏が再建。信州埴科郡英多邊庄酉條大國大明神社頭造営」の棟札が
地震後世俗語之種 (『地震後世俗語之種』の価値)

焼失区域を色分けした図(1-102)があるほか、堰き止められた犀川の決壊による大洪水が達した高さを図中
地震後世俗語之種 (『地震後世俗語之種』の価値)

焼失区域を色分けした図(1-102)があるほか、堰き止められた犀川の決壊による大洪水が達した高さを図中
松代まちあるきマップ (40無漏山実相院)

昭和二十六年に焼失した本堂は、同四十八年に再建され、現在に至っている。
松代まちあるきマップ (28功徳山 願行寺)

)が、信之没後、この寺で出家、庵を構えて主君の菩提を弔っていたが、享保十八年(一七三三)の大火で庵は焼失
おらが春 (小林一茶の生涯)

65歳の時、柏原に大火があって自宅を焼失し、焼け残った土蔵の中で没しました。
松代まちあるきマップ (33尼巌山浄福寺)

本堂は安政年間(一八五四~一八六〇)に再建、その後焼失したが、明治期に入り本堂と庫裡を、大正十五年(一九二六
松代まちあるきマップ (44関谷山西楽寺)

ゆうよしょうそう)。西条氏と村松氏が帰依し、天正二年(一五七四)に堂宇を建立、西楽寺と名付け中興。その後火災で焼失
松代まちあるきマップ (10象山恵明寺)

山門を残し、本堂・霊屋・庫裡・鐘楼が焼失。仏像・仏画・什物も灰燼に帰した。
善光寺道名所図会 (○筑摩 郷原)

観 音堂[正観音、聖徳太子御作信州百番の内二十八番の 札所なり、] 薬師堂・聖天堂・山門・惣門等焼失
むしくら日記 (2巻 亨)

家中侍居宅   一 四拾四軒            潰   一 六軒              焼失,      但囲籾千石不残焼失仕候、   一 竃五百十七軒          焼失   一 同三百拾弐軒, 一 番所   一 三ヶ所             潰   一 壱ヶ所             焼失,、       内       七軒山崩ニ而泥冠   一 土蔵百七拾壱棟         焼失,  一 同五拾棟            潰   一 土蔵上屋計廿棟         焼失   一 
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([解説])

その中に「崩山」「焼失」「洪水」「流失」「潰家」などが色分けして記入されています。  ,焼失は赤く塗られています。,・山門・仁王門(いずれも文字はない)が一列に並んでいますが、町と接した仁王門のみが赤く塗られていて、焼失,クハン」「四十六坊」「シヤカ堂」が赤く塗られていて、大本願(大勧進は無事)や、釈迦堂を含む46の宿坊群が焼失
むしくら日記 (4巻 貞)

○御近領異変書上    飯山御城下 御家中并御城下町地震潰之上、出火にて半丁程町家残、 其余焼失,か後見、] 見分に出しとて語れり、     (改頁)   ○村々へ被下御手充、居家押埋、潰焼失,、潰流失、流水、水押 潰、半分流失、半潰之上焼失、此者共へ金三分ツヽ、水押潰金 弐分弐朱ツヽ、潰、,水災半潰、居家水入之上屋根計焼失、土蔵 計流失金弐分ツヽ、半潰、数日水入、浮上土台違之類金壱分 ツヽ,[潰之上]、十五軒、潰十軒、押潰八軒、半潰十五軒、上組モス原と 申処耕地大抜、抜候所之家焼失又ハ押埋
明治二年八月上田騒動一件書留 ([解説])

特に原町と並ぶ城下の中心海野町はほぼそっくり焼失という大惨事となった。
パスファインダー (善光寺の火災と復興)

続群書類従完成会/編 続群書類従完成会 1928 文永5年(1286)の条に「3月14日夜、善光寺焼失,近藤瓶城/編 1884年 内容紹介 「正和2年(1313)癸丑3月22日に、信州善光寺焼失
善光寺道名所図会 (○筑摩 郷原)

薬師堂・聖天堂・山門・惣門などは焼失して仮殿になっています。  
諸国道中商人鑑 (4 小田井から本山まで)

宿は文政11年と明治15年の大火で大部分を焼失、宿の中心部を国道20号線が通ったこともあり、昔日の面影,本陣は敷地930坪、建坪157坪あったが明治42年の中央本線洗馬駅開設と昭和7年の大火により焼失、敷地,1050坪の脇本陣も昭和の大火で焼失した。
分県之建白 (信濃国から二つの県へ)

ところが、3年12月に、中野で騒動がおき、県庁をはじめ中野の町の多くが焼失してしまいます。
伊那県布令書 ([解説])

このあと、中野騒動が起き中野県庁が焼失、明治四年六月長野へ県庁が移され、旧長野県が誕生しました。  
春色辰巳園 ([解題])

その間に『浦里時次郎 明烏後の正夢』など多くの地本を出版していたが、1829年に青林堂が火事により焼失
善光寺道名所図会 (○別所温泉)

、瑠璃殿を造 立し、薬師如来を安置し、及長楽・安楽・常楽の三楽寺を建連ね給ひし が、後年天変にて焼失,て、出浦の高望公へ綸    命下り、三楽四院へ奉借証文三河の守護より越さる、[此証文正徳二年に本堂焼失迄,鳳来寺    岑の薬師と称し、霊験今に掲焉し、梺に町屋軒を並へて建連ねたり、    但右の古証文焼失
善光寺道名所図会 (○筑摩 洗馬)

昭和7年(1932)の大火で洗馬宿の大部分を焼失しましたが、善光寺道との分岐の石標・邂逅(おおた)の清水
善光寺案内 ([解説])

中でも、「駒入橋ヨリ仁王門ヲ望ム」というキャプションの付いた写真には、明治24年に焼失した仁王門が写っています
天明三年浅間騒動記 ([解説])

軽井沢宿などが焼失したことや、上州側の大きな被害を記録する。
諸国道中商人鑑 (3 松井田から追分まで)

安永2年の大火では総戸数140戸のうち104戸が焼失、文化12年には本陣と大家5軒、昭和26年の大火ですべての
パスファインダー (善光寺地震)

著者の永井善左衛門幸一は権堂村の名主だったが、 地震被害により権堂の家屋敷、貸家、出店等全て焼失
菴の春秋 ([解説])

原本は昭和4年に発見されて昭和20年に焼失し、現存しないが、その復刻文が昭和5年に出刊されていて内容を
天明三年浅間騒動記 ([翻刻])

銘々養育する者もなく、 道路に倒れ死すもの多し、逃去りし跡ニ而 火石軽井沢宿茅家にもへ付キ、宿半迄 焼失,ミな家財・財宝を打捨テ逃去りし 故、跡え盗賊入込こと/\金銀財宝を 盗ミ取ル、此節松井田宿も余程焼失,流死弐拾七人内男拾九人女八人 馬拾疋 飢人三百八拾五人内男百九拾壱人女百九拾四人 流死本家六拾九軒内拾五軒焼失内物置十壱軒,内九拾石泥押 流死四人内男二人女弐人馬五疋飢人 百弐拾弐人内男六拾三人女五拾五人流失本家拾四軒 半潰五軒焼失十二軒流失物置弐拾八軒
豆から日記 ([解題])

(昭和三十四年五月十四日焼失)    くさかね集 文化四年刊 半紙本  文化四年白雄十七回忌に鴫立庵境内
信濃名勝詞林 (越路廼日記)

元の建物は昭和12年(1937)11月、隣家の失火により焼失した。
善光寺道名所図会 (○別所温泉)

しかし、後年天変があり焼失し、名だけが伝えられたといわれています。  ,古証文が焼失してから、三州では、ここを鳳来寺と呼ぶようになりました。  
寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)

くわしく)祖父団治へ不残御伝授有之右伝書等  所持罷在候処天保五甲午二月朔日夜火災ニ付其外書類  焼失残念之至,)ニ而本抔御覧之節御用ひ被成候様ニ迚  歳暮ニ持来り申候大ニ重宝ニ而有之候処天保五二月朔日火事ニ而焼失,明教大師補教編  其外写本小本等有之候 右亀春様より匡晧迄伝来  之処去ル天保五年火災ニ而惜哉不残焼失也, るべからず 一家公御帰宅後妙法蓮華経弐部御書写被遊候 右一部ハ神光寺江奉  納一部ハ内ニ而惜哉焼失,むやとりは                            同  此外御詠出沢山ニ有之候得共焼失
善光寺道名所図会 (○佐久郡小諸)

有之も見へ候、又一尺五六寸の石に火付候てもえ  ながら飛来り、落ては砕候ゆへ、坂本宿の商家五十軒余焼失
善光寺独案内 ([現代訳])

二王門  明治24年6月2日に焼失。   別当大勧進  山門の下、西の方にある。,6月24日、西之門町より出火して、折から西南の風が激しく、またたく間に大火となって、大本願と仁王門が焼失,この焼失範囲は西之門の上下、桜枝町少し、元善町、法然堂町、東之門町、城山等で、火の勢いはますます盛んになり,この門の伝来は、記録によれば、善光寺の火災は治承3年3月24日に落雷によって焼失してから、元禄13年7
地震後世俗語之種 ([翻刻])

◯月かけや四門四州もたゝひとつはせを翁 已に定額山善光寺は東門にて、御堂も東向 なりしを、数度焼失,時節なるかな、悪風悪火なる哉、火気 盛んになりて、本願上人様御院内・中衆・妻戸を 眼たたく間に焼失,御制札と書ものをば 何とかして取出し、若も我家の焼失し是迚も 遁れがたくはそのむね直に可告知。,火の懸るなれ、其次こそハ我家     (改頁)   なれといふのみにて、焼失,雨風を     (改頁)      123   凌くの便もなく、また市町の焼失
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

明治19年(1886)2月8日の松本の北深志町の大火で、本堂・庫裡・廻廊・観音堂などを焼失。,保福寺の開基は不詳で、数回の焼失で什宝の多くが灰燼に帰しています。,慶長17年(1962)の大火で伽藍が焼失してしまい、現存の観音堂・如意輪堂・庫裏・牛堂・太子堂・鎮守社
地震後世俗語之種 ([現代訳])

かげや四門四州(宗)もただひとつ  芭蕉翁 かつて定額山善光寺は東門で、御堂も東向きでしたが、幾度か焼失,時節柄、風は激しく火の勢いも激しくて盛んに燃え、大本願上人様のご院内・中衆・妻戸が瞬く間に焼失し、仁王門,未の刻(午後2時)から申の刻(午後4時)頃までに隣家まで焼失して、それから向こう側(西側)に燃え移り、,縄や杭を手に入れたいと心を配りましたが、町中は一円焼失して、なんとか焼け残った新田・石堂〈焼失した所、,3人、また5人、7人と頭を並べて伏しており、胸から上を焼失したもの、足腰を焼失したものなど、死骸が山をなしていても
地震後世俗語之種 ([現代訳])

この大地震で町が焼失し、貴賤の別なく日々の飯米に困っていたので、この廉価販売によって皆が満足したのは、,これに答えて、「惑ってはいけません、仏身が溶け焼失したことこそ、仏の教えに疑いのない証拠です。,ところが大地震が起こるや否や、即座に御院内が類焼しましたので、おそらく焼失したか、灰になったものでしょう,これらは、今思い出すままに挙げたもので、その事情の詳しいことは分かりませんが、ここに書き加えてその焼失,寿量坊・林泉坊・称名坊・甚明坊・正定坊・蓮池坊、常行坊・遍照坊、以上10坊、衆徒・中衆・妻戸が一時に焼失
善光寺道名所図会 (○佐久郡小諸)

1尺5、6寸の石に火が付き燃えながら飛んできて落ちては砕けるので、坂本宿の商家50軒余りが焼失、つぶれた
善光寺独案内 ([翻刻])

二王門 明治二十四年六月二日焼失。 別当大勧進 山門の下、西の方にあり。       ,明治二十四年六月二日、西の門町より  出火し、折せつ西南の風烈しく、  見る間に大火となり、大夲願及二王門焼失,此門の伝来の記ハ、善光寺の  回録(ママ)の難、治承三年三月二十四日に  天火にて焼失より、元録(
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

上下万 民怪しみ、歎かずといふ事なし、博士を召て考へさせ給ふに、奏して曰、御 悩の事前帝の御代に焼失,神なり、[神主斎藤下総守] ○飯繩社[一山の火防の神とす、] ○閻魔堂[奪衣婆小野道風作閻王ハ先年焼失,堂照坊第二十四世空阿大徳了意此丘の時代なり、] ○聖徳太子鏡の御影[浄願坊にあり、十六歳御自作の木像なり、]○二天門[先年焼失
むしくら日記 (1巻 元)

毘沙門山に遁れ、如来も裏手へ立退あり、本堂山門ハ 残り、大勧進ハ潰れて残り、本願上人の方ハ跡方も なく焼失侍,日々水嵩相   増凡十七八丈湛、水上ハ六七里之間湖水之形勢ニ相成、   右ニ而川付村々ハ数ケ村倒潰或焼失之上,且支配所之儀も多   同様ニ御坐候処、就中善光寺之儀者居家震潰、右ニ付   致出火、夲堂・山門等之外ハ一円焼失,間に置候ひしに、 家揺潰れ皆下に埋れ候か、我等ハふしきニ這出候か、連 の者と家来共ハ遁れかたく、焼失侍,くもたせ越 ぬと、休息に戻りし時妻申ぬ、白山寺此時丹下方に 止宿し、怪我したりと云、丹下か家潰れて焼失
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

見ると、高倉天皇の御代、治承3年己卯(つちのとう)(1179年)3月24四日の午前十時ころに、すべて焼失,応永34年丁未(ひのとひつじ)(1427)3月6日の正午ごろ、東の門から出火して、堂塔は一堂も残さずに焼失,閻魔は先年焼失した) ○御霊屋(おたまや)(大本願の北にある)御霊屋と御年宮は幕府のご造営だという。,16歳の時のご自作の木像である) ○二天門(先年焼失して、礎石だけが残っている)東側に高札がある(松代侯
木曾山林学校 (木材の欠乏を憂ふ)

クリノメートル・間縄を持ち3名の人夫を連れ登山し、前年測量せる林班界を更に測定するの仕事をなす(前述の如く焼失
信濃名勝詞林 (碓氷紀行)

三大寺ありけるに今は安樂常樂の二寺のみにて長樂寺は亡ひたり殘の二寺も數(数)度のいくさに屢(しばしば)燒失
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

兆殿司筆] 涅槃像一幅      (改頁)      42右      当寺開基不詳、数度の焼失
龍駕の跡 (龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))

望楼の上層は其後取崩され、食堂は取り払はれ、寄宿舎は三十四年に焼失して其影もなし。    ,〇上田町学校なる行在所は其後焼失(しょうしつ)し、現在の校舎は前位置に略旧を模して再建したるものなり。,○野尻、石田津右衛門邸内に協同新築の御小休所は、其後焼失し、其跡に前住者の家屋を構へたれども、昔とは全,現存せざるもの十二箇所の中、上田城山のニケ所は焼失し、十ケ所は取除かれたるなり。,現存せざるもの三箇の中、県 [田中]坂城の二ヶ所は取除かれ、野尻は焼失せり。
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