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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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拾八町家並帳 ([表紙])

拾八町家並帳 / [表紙] 安永五丙申歳改 捨八町家並帳
拾八町家並帳 ([解説])

拾八町家並帳 / 伊坪達郎  江戸時代の飯田町の成り立ちやしくみについて知ることのできる史料はいくつかありますが、「拾八町家並帳,その安永年間のものが、ここに紹介した安永5(1776)年の「拾八町家並帳」だと思われます。,「拾八町家並帳」は、横帳の帳面に描かれています。18町で18ページあり、表紙もつけられています。,「拾八町家並帳」では、それぞれの町の名前が、大きく通りの真中に書かれています。
信州飯田町家控 ([解説])

信州飯田町家控 / [解説] [目録] 松川町資料館 伊坪達郎  「信州飯田町家扣」は、現在飯田市中央図書館に所蔵されている,「信州飯田町家扣」には、江戸時代前半の飯田町の成り立ちやしくみが、いろいろと書かれています。  ,この「信州飯田町家扣」と類似した記録は、飯田市内にいくつも残されています。
信州飯田町家控 ([翻刻])

信州飯田町家控 / [翻刻] 信州飯田町家扣      1     (改頁)     (改頁)      2,う 一飯田町の家初ハ松尾町壱丁目ニ坂西公四代  目の時兵庫頭様時代伊勢之もの此地へ参り  初而町家,と号す、此時城外曲輪ニ     (改頁)    惣堀を構へら連、所々ニ木戸塀之番屋を建ら連、町家,被下候     (改頁)    当御代本町壱丁目弐丁目を御建被成、番匠町の上ニ  田を埋而町家,是を箕瀬羽場へ  移し此迹にも町屋を仰付ら連、十王堂町と号  夫ニ続而箕瀬通りニも百姓思ひ/\ニ町家
信州飯田町家控 ([現代訳])

信州飯田町家控 / 町家が段々出来て、伝馬町もこの時に建てられました。その時は名残町といっていました。,本町1丁目・2丁目を建て、番匠町の上に田を埋めて町家を建て池田町といいました。,それに続いて箕瀬通りにも百姓たちが、思い思いに町家を建てました。,この内423石2斗3升は城回り家中町家分で、残りの1350石は上飯田村分です。,桜町1丁目・2丁目・3丁目は、正保5(1648)年新規に町家を仰せ付けられて建てられました。
拾八町家並帳 (本町壱丁目)

拾八町家並帳
拾八町家並帳 (知久町壱丁目)

拾八町家並帳
拾八町家並帳 (知久町弐丁目)

拾八町家並帳
拾八町家並帳 (知久町三丁目)

拾八町家並帳
拾八町家並帳 (番匠町)

拾八町家並帳
拾八町家並帳 (池田町)

拾八町家並帳
拾八町家並帳 (大横町)

拾八町家並帳
拾八町家並帳 (松尾町壱丁目)

拾八町家並帳
拾八町家並帳 (松尾町弐丁目)

拾八町家並帳
拾八町家並帳 (松尾町三丁目)

拾八町家並帳
拾八町家並帳 (傳馬町壱丁目)

拾八町家並帳
拾八町家並帳 (傳馬町弐丁目)

拾八町家並帳
拾八町家並帳 (桜町壱丁目)

拾八町家並帳
拾八町家並帳 (桜町弐丁目)

拾八町家並帳
拾八町家並帳 (桜町三丁目)

拾八町家並帳
拾八町家並帳 (本町二丁目)

拾八町家並帳
拾八町家並帳 (本町三丁目)

拾八町家並帳
拾八町家並帳 (田町)

拾八町家並帳
寛保二戌年水害御届書 ([翻刻])

廿九日夜中大風雨當朔日従  未之刻千曲川・犀川其外川々  満水千曲川定水ニ二丈五尺余  増水仕、城内并侍屋鋪・町家,     男拾六人           女二十三人 一、流死馬     拾五疋  右之通城内并侍屋敷町家
寛保二戌年水害御届書 ([現代訳])

千曲川は定水より約7m57cm 増水し、松代城内並びに侍屋敷、町家に以下のような 被害が出しましたので,           女23人 一、流死馬      15疋    右のとおり、城内並びに侍屋敷、町家
パスファインダー (明治期の松本町の大火)

情報 3 論題名 著者名 雑誌名 出版年 巻号頁数 DOI 長野県における防火令と土蔵造町家
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([解説])

『小諸市誌』によると、町家での死者は三一六人、藩内全体では五八四人に及んでいます。
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2) ([翻刻])

・長屋八、九軒、脇六ケ寺流ル、  山影ニテ観音堂計リ残ル、堂之内江土五尺之余入ル、同所ニ而町御同心町家数十二軒,市町大簗御普請所へ御越被遊候、御昼御休大久保村、御泊り布下村ニ御座候、大窪(久保)村へ兵七御礼ニ参上仕候、 一本町家居押流
天保飢愁 ([翻刻])

壱粒壱銭の貯もつき、ほそき煙も立 かねて、終ニハ乞食非人と成、餓をぬかるべしと 村里をかけめくり、又ハ町家
むしくら日記 (1巻 元)

ニ而、今以     (改頁)     小屋掛ニ而相暮し申候、家中一統右之事ニ御座候、   町家在家,改頁)      32     ニも大変之儀ニ御座候、其表為指事も無御座候様ニ承   候得共、町家,其後今日迄日ノ内ニ幾度と   申事も数不知小地震故、仮小屋より夲屋へ参り候事   ハ相成不申候、夫故町家,    御座候、昨日ハ南風ニ而砂をふきあけ、春霞の如く   向フみへ不申程故、大難義ニ御座候、何分町家,みへ不申候、四日出立山辺村へ罷越承り候処、   温泉例より減候旨申聞候、夫より松本御城下へ罷出候、町家
善光寺道名所図会 (○別所温泉)

用意し、油断を見すまし忍び入、数ヶ所の寺院に火を懸たり、 折節魔風頻に吹て、甍を並べし大伽藍寺院・町家
天明三年浅間騒動記 ([翻刻])

無拠徒党 いたしたる儀誠ニ止事を得さるの筋、何人 たとへ城下え乱入とも何の恐るゝ事かあらん、 町家,へ城下を無難ニ 通へし、其上ニ而もらうぜき候ハヽ其節ハ如何 (改頁) 25 様共可致候間、先町家
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

小笠原侯再び深志へ入部ありて、御城普請の  節、宮村の地へも町々を引移し給ふ、其後石川家時代にも御城町家等
むしくら日記 (1巻 元)

そちらではさほどのこともなかったと承り、また町家は少し倒壊もあるという話を聞いておりますが、はっきりとは,そのため町家も農家も小屋住まいでございます。30日には大雨で、仮小屋ではいずれも難儀いたしました。,なにぶん町家でも商売もしていないため、商人はひとりも参らず、どうしようもない状態です。,この度の地震で、町家・農家はもとより家中の蔵も傷まなかったところはございません。,それから松本城下に行きましたが、町家に倒壊した家は見られませんでした。
善光寺道名所図会 (○別所温泉)

折からの風に、甍を並べていた大伽藍寺院・町家・民家までが燃え上がりました。
地震後世俗語之種 ([翻刻])

爰にまた川中嶋の噺を聞に、何れも田舎の 村々なれハ、町家と違ひ、凡の家には五ッ時を過 にし頃は打臥,○爰に二十四日の夜大災発し、御城廓・御殿向 を始め大小破損夥敷、御家中・町家震ひ潰 し、町人圧死も
地震後世俗語之種 ([現代訳])

さて川中島の話を聞きますと、そこはいずれも田舎の村々なので、町家とは違い、ほとんどの家では五ツ時(午後,○さて24日の夜大地震が起こり、松代の御城郭・御殿をはじめとする大小の破損は多く、御家中と町家が倒壊して
むしくら日記 (4巻 貞)

もあるへし、] ○御近領異変書上    飯山御城下 御家中并御城下町地震潰之上、出火にて半丁程町家残,御領内惣村数六十四ヶ村有之候得共、一村ニ而も無難之 村方無之、潰家半潰家ニ而二千五百軒ニ及ひ候由、死失人も 町家村方
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

その後、石川家時代にも御城町家等を修補されました。
寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)

 東都神田御成道花房町代地ニ而手習師匠相始め  寿福楼松正卜看板出シ大ニ繁昌し御旗本御家人  并町家之子供共, 他人之目を見せ行末渡世向ヲ為覚度迚十二歳之冬     (改頁)    甚右衛門殿ニ附而出府町家江店奉公
むしくら日記 (2巻 亨)

同心頭  仝 広場射小屋   道橋方  仝     五月末より四ノ小屋ニ入、 ○廿四日の夜、町家潰
むしくら日記 (2巻 亨)

◯小屋割 (略)   ◯24日の夜、町家に潰れたり壊れたりした家がことに多く、火事が心配だったので
小県郡民謡集 (児童謡)

町家などで用いた語。   4.夜明けまで、ともしておく灯火。   
烈女百人一首 ([翻刻])

形の美なるを好まず、其容顔にては寺門に出入して世の人の口ゆるす所あるべからずと寺におかず、了然近所の町家
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