• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • キーワード一覧

NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 49件
辞書ファセット
/ 1ページ
木曾山林学校 (16.舎生心得)

は其行先より証明書を得て之を舎監に差出すべし     (改頁)   一、病気,の為め帰省治療せんとするものは、校医の診断を経て舎監の許可を受くべし 一、父母の病気其他不得止事故の,為帰省せんとするものは、願出の上許可を受くべし 一、外出若しくは帰省中病気其他の故障の為、既定の時間,に罹(かか)り診断を受けたるものは、受診簿に診断医の記入を乞ひ之を舎監に届出すべし 一、舎監は病気の,ありと認むる時は、校医の診断を受けしむることあるべし 一、病気等の為め規定の時間外に就蓐せんとする者
秀吉と真田 (昌幸最晩年の書状 幸村筆)

信之の病気回復を喜ぶ一方で、昌幸自身が病気で困惑している情況を述べている。,然れば我等儀、去年病気の如く、当年も煩候間、迷惑御推量有るべく候。
木曾山林学校 (14.生徒心得綱領)

ず 一、教室に備付の黒板・図書・器械・標本・薬品等は教師の許可なくして使用すべからず 一、課業中病気又,-3)紐付に限る 一、校舎内は赤緒上草履(ぞうり)を用ふべし      第五 欠席及遅刻 一、病気其他止,当日より3日以内に必ず届出づべし 一、欠席届出日限内に出席したる時は其旨学級主任に申告すべし 一、病気欠席,1週間以上に渉る時は医師の診断書を添付すべし   病気又は事故の為め遅刻又は早帰したる時は、其旨学級主任
秀吉と真田 (昌幸死去の悔み状)

それにしても、信之は若いころは大変病気がちであったようで、ここにもよくよく養生してほしいとの言葉が見える,例え片わになってでも家が続くようにとは、病気でというだけでなく、自重するようにという意味合いも込めているのだろう
信州善光寺御堂額之写 ([現代訳])

尾州田中村与右衛門」   尾州田中村与右衛門が、4人連れで善光寺へ参詣して、帰る途中、木曽の山中で、女房が病気,越後国魚沼郡十二木村 庄兵衛」   越後国魚沼郡十二木村の庄兵衛は、毎年善光寺へ参詣しておりましたが、今年は病気,ほんとうにほんとうにありがたく、それから病気も快方に向かい、だんだん元気になってきましたので、お礼参りをして,文政九戌三月 四国讃州那賀郡榎井村 安藤清介」   右の清介は4人で善光寺へ参詣したところ、子供が病気
善光寺独案内 (『善光寺独案内』の広告)

実際に、病気平癒を祈願するために善光寺に参詣する人は少なくなかったのです。
木曾山林学校 (25.在学生父兄に望む)

2、自宅通学以外の者は絶対に寄宿舎に収容し、仮令(たとい)病気と雖も登校し得らるゝ限は外泊を許可せざる,父兄は充分の注意を以て病気忌引等万已(や)むを得ざるものゝ外欠席せしめざらんことを望む。
信州善光寺御堂額之写 ([解説])

善光寺の本尊は阿弥陀如来で、極楽往生を祈るのが本来ですが、実際には病気平癒など切実な願いで参詣する人が
木曾山林学校 (◎長野県西筑摩郡立甲種木曾山林学校学則)

除名若くは退校を命ずることあるべし        1、2ケ月以上無届欠席の者        2、病気其他,の事故により成業の目的なき者 第 21 条  生徒病気又は止(やむ)を得ざる事故ありて半途退学せんとする,者は、其理由を具し父兄若くは後見人及保証人連署を以て学校長に願出すべし         但し病気に罹
パスファインダー (中信地方の教育者たち)

1984.6 上原三川(良三郎)は長野県師範学校(松本本校)卒業後、穂高学校等 の訓導となっ たが絶えず病気
木曾山林学校 (◎木曾山林学校々友会々則)

をなしたるものは、会報を以て公にするものとす 第21条  毎会欠席することを得ず        但し病気又
春色梅児誉美 ([解題])

訪れる場面、「少しごめんなさいまし、ごめんなさいまし」「あいどなたへ」「そういう声は、若旦那さん…」病気
木曾山林学校 (24.木曾山林学校々友会々則)

除名処分をなしたる者は、会報を以て公にするものとす 第24条 毎会欠席することを得ず      但し病気又
木曾山林学校 (◎実験談)

をする事でありますが、元来蚊なるものは人類の健否を問はず噛み付くものでありますから、罹病(りびょう:病気
パスファインダー (女流の信仰物語、善光寺への女旅日記)

しかし、善光寺は、『善光寺縁起』に月蓋長者という富豪の娘如 是姫(にょぜひめ)の病気を治した話があるように
木曾山林学校 (8.長野県立甲種木曾山林学校学則)

ノ事由ナクシテ引続キ1ヶ月以上欠席シタルモノ      5 出席常ナラザル者 第 24 条 生徒病気又,セントスル者ハ、其事由ヲ具シ父兄若クハ後見人及保証人連署ヲ以テ学校長ニ出願スべシ       但シ病気
木曾山林学校 (15.寄宿舎)

ける矯風会委員之を兼ね、舎生の風紀・衛生・清潔等に留意し、郵便物の交付・必須品の受渡し・帰省・外出・病気就蓐
信濃名勝詞林 (信濃下向日記)

る彼方より案内有之後判左衛門麻上下にて一万度幷音物持参立帰之後院主案内にて本坊へ行く院代出合院主此節病気故乍残念出合不被申候
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 ([解説])

この他、宮下釚太郎は文部省就職以前、駅逓局(郵便局)にいた頃病気入院したが、在京の山極勝三郎 小河滋治郎
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

神々は、外国の人形(ひとがた)を崇拝して神々の権威を失墜させたことを怒って、陰陽の気を順調に巡らせず、病気,さて敏達天皇(びだつてんのう)は、ご即位の後、ご病気になった。,学識者を招いて調べさせたところ、その学者は、「帝(みかど)のご病気は、先帝の御代に焼き捨てた仏像の祟りです,こうして天皇のご病気も無事に治ったので、身分の高い者も低い者も喜びの表情を表して、万々歳を唱えた。,「先帝の御代には、この人形(ひとがた)を礼拝すると国土は衰え人民は病気で苦しむということで、永久にお捨
寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)

申候大ニ重宝ニ而有之候処天保五二月朔日火事ニ而焼失  一[俗名小左衛門氏昭]寿嶽様中風ニ而十三年之間御病気之節,ニ今時之咄とハ別段之事也 一中風御病中木下若キ衆帯無河原ニ而其頃名人之  初蔵芝居有之芝産様ニ御病気御慰,いたせしを甚悲ませ給へは参り居候近所之衆今ニ又孫殿も出来  可申間必御歎キ成れぬやうニと慰めけれバおれハ此病気故,人相頼親人江戸表御奉行所江罷出候処良助取登せ候と相見江理害  ヲも一向不聞入一概ニ願而已申張疳積(かんしゃく)病気同様,次第ニ痛み重り其夕暮迄も段々と苦痛不止祖母さま早  御覚悟を御極め被成枕元江茂吉々々と御呼被成此度之病気
違作書留帳 ([翻刻])

 前書ニ有之 助郷村血判、にへ川宿へ 尾州より御小人目附御出張、 御取被成候 此節名主藤三郎病気,成ル 十一月廿一日 右酒や 八蔵御呼出手錠 同月廿五日 神林立花 ニ行、 神林元右衛門殿内病気,、 むだ事云、 同人養子成次江今井 忠左衛門方より娵入、右病気 ゆへのびる     (改頁,、 委細外之帳ニ有之     (改頁)   廿二日 夕五ツ時御触     覚 大殿様御病気被遊御座,米穀と 衣服ハ国の宝也、 一粒を喰ふときも 一縷を着るときにも、 天の恵みを思ふべし、 常体病気
木曾山林学校 ([注記])

明治41年11月に病気のため退職。その後快復して県外の中学校に勤務。
違作書留帳 ([現代訳])

日々陰日(かげび、忌日)になる、 三月八日 江戸より大坂騒動について申し参る、 三月九日より角之丞が病気,、先より何人も来て、一人四十八文ずつ、 二十三日 私より困窮の者へ、籾をみ少々遣わす、さきごろ私が病気中,助郷村の血判は、贄川宿へ尾州(尾張藩)から御小人目附が御出張、御取りなされた、このとき名主の藤三郎が病気,、無駄ごとを言う、同人養子の成次へ今井忠左衛門方より娵入り、この病気のため延期、     (改頁),帳面に書いてある、     (改頁)   十二月二十二日 午後八時に御触れ 覚 大殿様が御病気
寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「諸事日新録 沢和徳扣(ひかえ) 慶応四戊辰年六月朔日ヨリ」)

一赤魚五ツ   桂之介殿 同 一しら玉あめ一包 おわりやかみさま 右四筆之分ハ 拙比度之病気見廻,ニ而     (改頁)      71   子供きげんよく打揃致下参帰り 目出度候予腹痛之病気
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 ([現代訳])

ことに口中の病気や歯の痛みに苦しむ者は、遠い国を隔てていても、一生涯梨を食べずに、この戸隠山九頭竜権現,西念坊はその翌年、108歳の時、3月15日に、これといった病気もないまま、きちんと座って合掌し、「観彼如来本願力,月に3度の縁日があって、近村の男女が群集し、たとえば7日間断食して病気平癒を祈ると、その霊験がないということがなく
御城下古法并市場古法書抜書集 ([翻刻])

而茂売不申候由承、及難  儀之由申候、何様之訳ニ而左様ニ御座候哉、私新役之義久内江も  談事候へ者、此間病気,以申上、六月廿九日惣町  御会所御評定所へ被 召出、終日対決被 仰付候、町  年寄山村九郎右衛門者病気,に差置候義勝手次第二仕来申候、 一両種荷物 御領分江入込候義者、自分荷物付参候  而病馬又者馬主病気煩直段下直,見合差置候     (改頁)      38    儀者、勝手次第ニ相成申候、但送り荷物之義者、馬方病気
善光寺道名所図会 (○別所温泉)

56代清和天皇がご病気になられたとき、霊夢を感じ、北向山におすがりし、諸堂社を再建されました。
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([翻刻])

不洩様可 申聞侯也      郡所印 四月廿八日    以書付申遣侯 於江戸表 左京様御病気之処,追而此書付可相返也 申  六月廿八日  郡所印    以書付申遣候 於江戸表、溝口主膳正様御弟 七郎様御病気之処,          庄内村分            巾上             助之丞 外病気之者快気,  (改頁)      231       以書付申遣候 久世大和守様御養方御叔父 栄五郎様御病気之処,夜五ツ時継かへ     (改頁)      248      十二月十六日 来春御目見人別病気相知
御城下古法并市場古法書抜書集 ([現代訳])

どんなわけでそのようになったのか、私は新役なので久内へも相談したら、この間病気であったというので、もよりでもあるので,町年寄山村九郎右衛門者病気で出てこなかった。そのほかの町役人は残らず出た。,一塩・魚の荷物が領分へ入り込むことは、自分の荷物を付けて来て、病馬になったり馬主が病気を煩ったりしたら,但し送り荷物は、馬方病気や病馬となっても、そこからほかの馬を雇っても、13町の内各々の所まで荷物の送り
信州飯田町家控 ([翻刻])

当年三州源君 家康公へ御預り、則御巡見遊  バされ、為御城代菅沼定利公を被置、天正十七年  定利公御病気重,く次ニ御死去、此頃御子に大膳定次公  駿河ニ被成御座候而、御病気を御聞、夜を日ニ継で飯田へ  御越被成
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([現代訳])

れなく申し聞かせること、郡所より、四月二十八日 書付をもって申し遣わす 江戸表において左京様が御病気,六月二十八日 郡所より、 書付をもって申し遣わす、 江戸表において、溝口主膳正様の御弟の七郎様が御病気,  白板村分の今町庄蔵・     (改頁)   仲七、庄内村分の巾上(はばうえ)助之丞、ほか病気,    (改頁)   書付をもって申し遣わす、 久世大和守様御養方の御叔父である栄五郎様が御病気,右、中田へ、夜八時に継ぐ、     (改頁)   十二月十六日 来春に御目見えの人別で病気
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 ([ルビ・注記])

金の都合を 頼むとの書面がきた、喜憂(きゆう)交々(こもごも)至るとは、此(こ)の時であっ た、病気,)「疥癬」(かいせん)はダニの一種である「ヒゼンダ     ニ」がヒトの皮膚に寄生しておこる皮膚の病気,十月の何日であったか、忘れたが、母が病気で、寝て 居(い)る枕もとに、私は父から呼ばれた、此(こ)の,不思議にも母の病気は十二月の 四五日頃から、日一日と快方に向い、裏の寝室から、表の 部屋に、出掛けられる,父君よりの、涙 の伝言を申述べて、所感(しょかん)如何(いかが)と問ふて見た処、親父の泣く のは病気
地震後世俗語之種 ([現代訳])

これはみな陰陽が不順なためで、自然に悪い病気も流行し、草木にも影響が出るそうです。,こんなふうに精神的にも混乱し胸も苦しく頭はのぼせて、今夜の命もおぼつかない、お順は母を思いやり、力を合わせて病気,私善左衛門は病気の上このような大変な目にあって、足腰が震えて起居が不自由なため、人に背負われてやっとのことで,すぐにあのような大災害で、気力を使い果たしたばかりでなく、その夜のうちにも合わせて5回避難し、その度に荷物を抱え、病気
信州飯田町家控 ([現代訳])

天正17(1589)年定利公は病気が重く、ついに亡くなりになりました。,このころ子の大膳定次公が駿河にいて、御病気を聞き飯田へ来られました。
むしくら日記 (2巻 亨)

◯27日に貫実子が普請所に出張した時、郡中横目付の綿貫新兵衛が参って申すには、「近ごろ病気で引きこもっておりましたが,構わなければあちらに遣わしてください」と何度も頼みますので、このことを殿に申し上げたところ、「病気をおして
長野県師範学校生徒修学旅行概況 (長野県師範学校生徒修学旅行概況[全文])

大村信太、病気となる。止りて帰郷せしむ。,深谷百々寿病気に付帰郷せしむ。 
小県郡民謡集 (成人謡)

まぬ 逢はぬつらさにややけで飮む やめ ておくれよやけ洒ばかり 弱いからだを持ちながら 若(もし)も病気
小倉百しほ染 (小倉百しほ染 乾[本文])

本歌の「後の心」を用いて、恋の歌を窮した人または病気をした人が快癒して快くなった様に転じた。
地震後世俗語之種 ([翻刻])

廿五日朝五っ時過し 頃、善左衛門は病気のうへに斯大変に脳み、足 腰ふるひ、起居不自由なれハ、人に脊負,も なくかゝる大変にて、気根を痛めしのみならす、 其夜も都合五度ひ迄逃去る度毎包を 抱ひ、親の病気
むしくら日記 (1巻 元)

石州子は病気のため昨夜は来られませんでしたが、この夕方出勤しました。    ,別邸の内を借りて小屋掛けし、地震と水害を避けるつもりでいましたが、その場所は大変狭く、その上神平の妻が病気
贈答百人一首 ([本文、奥付])

伊勢長島の産にて大和大納言秀長に仕へし人なり、頓作狂哥など上手にて世の人是を賞美せり、羽柴秀長ある時病気,をたづさへ、南都に趣き病の様子を尋ねければ、その弟子どもあやしみ論敵なれば師匠に告ず、鳳潭歎じて師の病気大切
宿継要書留 ([翻刻])

                弐人ツヽ                 〆拾人              新兵衛義病気,  右御添状持参ニ而飯島弁作殿・片桐 六太夫・大島平次三人、十月廿六日ニ 被参候、御留メ申候、拙子病気
宿継要書留 ([現代訳])

                   〆10人      下井善次  殿                新兵衛義病気,私が病気なので、同役三郎右衛門殿を頼み、御役所差出し申候、 同27日朝これについて13町仲問衆中へ、
小県郡民謡集 (児童謡)

3.漢方で、下腹のあたりが痛む病気。   4.「いじるな」。イとエの交替。   
義烈百人一首 ([翻刻])

は室町御所を傾んとする企ありと申す者ありければ、義教公大きに怒り、たちまち討手をさしむけ給ふ、義照は病気
烈女百人一首 ([翻刻])

頭注】 若狭の局は比企判官義貞が娘にて鎌倉二代将軍頼家公に愛せられて、一幡君をうむ、然るに頼家公御病気
龍駕の跡 (龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))

親しく其語るを聞きたるに此日偶々(たまたま)内廷課員の一人病気に罹(かか)られ、手不足となりたれば、幸
北向山霊験記 戸隠山鬼女紅葉退治之伝 全 ([翻刻])

にちかつき、人(ひと)なき時(とき)をうかゞひて、勝丞が先(ま)づ いひけるハ、「若旦那(わかだんな)の御病氣
/ 1ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました