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秀吉と真田
(真田氏の動静)
秀吉と
真田
/
真田
氏の動静 「秀吉と
真田
」の目次はこちら この間の
真田
氏の動きを知る史料としては、まず慶長四年閏三月二十五日,そして、何よりもこれで注目されることは、この書状が
真田
氏宛での秀忠書状としては初めてのものであり、徳川氏,
真田
父子を含む伏見に詰めていた多くの大名たちが、このころ一斉に家康のいる大坂へ移居しようとしていた様子,このような状況下で、
真田
父子も家康の上杉討伐令に応じたのであった。 ,
真田
信幸宛同昌幸書状 <史料解説>
真田
信幸宛同昌幸書状
真田
宝物館蔵 慶長五年(一六〇〇 /
真田
氏の動静
秀吉と真田
(「真田」の錦絵)
秀吉と
真田
/ 「
真田
」の錦絵 「秀吉と
真田
」の目次はこちら 多色刷りの浮世絵版画を錦絵という。,ここに取り上げた錦絵は何れも
真田
氏が描かれた幕末から明治にかけてのものである。 ,[目録] 大坂篭城
真田
幸村勇戦之図 <史料解説> 「大坂篭城
真田
幸村勇戦之図,「穴山小助」「三好青海入道」など後に
真田
十勇士の一員となる名も見える。,~一八八〇)画 上田市立博物館蔵 右に
真田
幸村、中央に後藤又兵衛、左に六文銭の陣羽織の
真田
大助。 / 「
真田
」の錦絵
秀吉と真田
(真田幸村と大坂の役)
秀吉と
真田
/
真田
幸村と大坂の役 「秀吉と
真田
」の目次はこちら 慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦後、昌幸・信繁,
真田
幸村画像 <史料解説> 「
真田
幸村画像」 柘植弌郎氏蔵 上田市立博物館保管,[目録]
真田
幸村佩刀 <史料解説> 「
真田
幸村佩刀」
真田
宝物館蔵,松代藩主
真田
家伝来の品。,
真田
昌幸の重臣矢沢頼幸が秀吉より拝領と伝える。 /
真田
幸村と大坂の役
秀吉と真田
(真田昌幸、徳川と断交へ)
秀吉と
真田
/
真田
昌幸、徳川と断交へ 「秀吉と
真田
」の目次はこちら 家康は、
真田
の要請に応じた形で佐久小県の残徒討伐,しかし、
真田
方はそれを全く聞入れない様子であった。,
真田
方は、北条方への沼田城引渡しを、断固拒否したものであり、この時点で
真田
は徳川と断交とみてよい。,ただし、一旦は上杉方へ再度の従属をしようとした様子の
真田
方であったが、矢沢など
真田
勢を上杉方に引き込もうとした,これは家康から
真田
暗殺の命を受けていた室賀を、返り討ちにしたものでもあった。 /
真田
昌幸、徳川と断交へ
秀吉と真田
(東西に分かれた真田父子)
秀吉と
真田
/ 東西に分かれた
真田
父子 「秀吉と
真田
」の目次はこちら こうして徳川家康の命に従い、会津遠征の軍に,
真田
昌幸宛長束正家等連署状 <史料解説> 「
真田
昌幸宛長束正家等連署状」
真田
宝物館蔵 ,結局この
真田
再征は秀吉の意向により中止となっているのだが、これは上杉景勝が
真田
を庇護しており、景勝から,
真田
信幸宛徳川家康書状 <史料解説> 「
真田
信幸宛徳川家康書状」
真田
宝物館蔵 慶長五年,七月二十四日 家康(花押)
真田
伊豆守殿
真田
信幸宛徳川家康安堵状 <史料解説 / 東西に分かれた
真田
父子
秀吉と真田
(真田氏上田領・沼田領の石高)
秀吉と
真田
/
真田
氏上田領・沼田領の石高 「秀吉と
真田
」の目次はこちら 関ケ原合戦のあった慶長五年(一六〇〇),までの
真田
昌幸の知行高、つまり上田領の石高は「三万八千石」とされていた。,
真田
領それも特に昌幸領は、豊臣氏よりの言わば拝領高がかなり低い数字になっていた。,いずれにしても
真田
領は十万石足らずではある。,元和年間上田城図 <史料解説> 「元和年間上田城図」 上田市立博物館蔵
真田
信之(信幸)が /
真田
氏上田領・沼田領の石高
秀吉と真田
(家康の関東移封と真田昌幸・信幸)
秀吉と
真田
/ 家康の関東移封と
真田
昌幸・信幸 「秀吉と
真田
」の目次はこちら 天正十八年(一五九〇)七月の小田原,これに対し、天正十四年に秀吉の命で小笠原・木曽とともに家康に返されたはずの
真田
昌幸だけは、そのまま上田,
真田
領はここに確定することとなる。 ,これと比べ
真田
氏は秀吉の裁量により優遇されたものだった。,
真田
信之(信幸)画像 <史料解説> 「
真田
信之(信幸)画像」
真田
宝物館蔵 衣冠束帯姿の信之像 / 家康の関東移封と
真田
昌幸・信幸
秀吉と真田
(家康の真田再征進発と秀吉による懐柔)
秀吉と
真田
/ 家康の
真田
再征進発と秀吉による懐柔 「秀吉と
真田
」の目次はこちら 話は前後するが、秀吉が家康の出仕,今度は秀吉も家康の
真田
討伐を承認し、さらには上杉景勝に
真田
支援の禁止を命じてまでいる。,秀吉は表面的には九月末まで
真田
討伐を唱えているのだが、ひそかに家康と
真田
の手打ちを模索していた模様であった,
真田
昌幸宛羽柴秀吉書状 <史料解説> 「
真田
昌幸宛羽柴秀吉書状」
真田
宝物館蔵 天正十四年,十一月二十一日(朱印)(羽柴秀吉)
真田
安房守とのへ / 家康の
真田
再征進発と秀吉による懐柔
秀吉と真田
(武田氏・織田氏の滅亡と真田昌幸)
秀吉と
真田
/ 武田氏・織田氏の滅亡と
真田
昌幸 「秀吉と
真田
」の目次はこちら
真田
氏は東信濃の小県(ちいさがた),郡の一角、
真田
(現上田市
真田
町長(おさ))を苗字の地とする武士であった。,
真田
氏は外様ながら武田氏に重用された。,
真田
昌幸所用具足 <史料解説> 「
真田
昌幸所用具足」 (啄木(たくぼく)糸威(おどし)伊予札(ざね,胸板中央は洲浜(すはま)でこれも
真田
氏の家紋。 / 武田氏・織田氏の滅亡と
真田
昌幸
秀吉と真田
(真田・小笠原・木曽、家康の与力に)
秀吉と
真田
/
真田
・小笠原・木曽、家康の与力に 「秀吉と
真田
」の目次はこちら 天正十四年(一五八六)十月、家康,こうして家康との和議が完全になった中で秀吉は、
真田
昌幸・小笠原貞慶・木曽義昌という信濃の三将を家康の配下 /
真田
・小笠原・木曽、家康の与力に
秀吉と真田
(豊臣氏関係遺品)
秀吉と
真田
/
真田
宝物館蔵 天正十八年(一五九〇)四月九日付。,小田原の役のおり、北条攻めに加わっていた豊臣秀次が、やはり従軍中の
真田
信幸の労をねぎらったもの。,史料解説> 「淀殿和歌短冊」
真田
宝物館 松代藩主
真田
家伝来の「御手鑑」中の一つ。,(敬称略・順不同) 大阪城天守閣 懐古園徴古館
真田
氏歴史館
真田
宝物館 長野県信濃美術館 高津古文化会館,のすべて』 一九八九年 柴辻俊六『
真田
昌幸』 一九九六年 米山一政編『
真田
家文書』上巻一九八一年
秀吉と真田
(沼田領の分割裁定)
秀吉と
真田
/ ここで氏規は
真田
氏の沼田領と氏直の上洛を引き換えにしようとした。,このときの秀吉の裁定は、上州の
真田
領のうち沼田城を含む三分の二の地を北条領とし、三分の一は
真田
領として,残し、
真田
の減少分の替地は家康より渡すべし、というものだった。,
真田
信幸宛豊臣秀吉朱印状 <史料解説> 「
真田
信幸宛豊臣秀吉朱印状」
真田
宝物館蔵 天正十七年,七月十日(朱印)(豊臣秀吉)
真田
源三郎とのへ
秀吉と真田
(北条の兵、名胡桃城を奪取)
秀吉と
真田
/ 北条の兵、名胡桃城を奪取 「秀吉と
真田
」の目次はこちら ところが、秀吉の裁定に違犯する事件が間もなく,
真田
の属城とされた名胡桃(なぐるみ)城を、北条氏邦の配下で沼田城へ入った猪俣(いのまた)邦憲が攻め、乗,これについて
真田
信幸より報告を受けた家康は、十一月十日付け書状で、先の沼田城明渡しの両上使(津田・富田,
真田
信幸宛徳川家康書状 <史料解説> 「
真田
信幸宛徳川家康書状」
真田
宝物館蔵 天正十七年,十一月十日 家康(花押)
真田
源三郎殿
秀吉と真田
(神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き)
秀吉と
真田
/ 神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き 「秀吉と
真田
」の目次はこちら 上田城に拠(よ)った
真田
昌幸,その後の対陣中に
真田
昌幸は上杉氏を通じて秀吉と接触し、全面的に支援する旨を伝えられている。,
真田
昌幸画像 <史料解説> 「
真田
昌幸画像」 柘植弌郎氏蔵 上田市立博物館保管 上田や松代,
真田
氏上級家臣河野家伝来品。,高野山における
真田
家の菩提寺であった蓮華定院に伝わるものが、最も丁寧に描かれており原本とみられる。
秀吉と真田
(昌幸の秀吉への接近)
秀吉と
真田
/ 昌幸の秀吉への接近 「秀吉と
真田
」の目次はこちら 従来は、
真田
昌幸が豊臣秀吉へ接近しようとしたのは,また、
真田
方の思わぬ攻撃に悩まされてもいた。,秀吉の
真田
救援の意向を、
真田
・上杉方は敵徳川方へも宣伝し、その効果もあって徳川方は兵を引いたと考えられるのである,
真田
昌幸宛羽柴秀吉書状 <史料解説> 「
真田
昌幸宛羽柴秀吉書状」
真田
氏歴史館蔵 ,拾月十七日(花押)(羽柴秀吉)
真田
安房守とのへ
秀吉と真田
(徳川秀忠軍の上田攻め)
秀吉と
真田
/ 言わず「
真田
表」を攻める、と
真田
を地名のように使っている。 ,
真田
信幸宛徳川家康書状 <史料解説> 「
真田
信幸宛徳川家康書状」
真田
宝物館蔵 慶長五年,八月二十一日 家康(花押)
真田
伊豆守殿
真田
信幸宛徳川秀忠書状 <史料解説,(下略)
真田
信幸宛徳川家康書状 <史料解説>
真田
信幸宛徳川家康書状
真田
宝物館蔵,九月朔日 家康(花押)
真田
伊豆守殿
真田
父子上田籠城図 <史料解説>
真田
父子上田籠城図
秀吉と真田
(上杉方による上田城増築普請)
秀吉と
真田
/ 上杉方による上田城増築普請 「秀吉と
真田
」の目次はこちら 天正十三年(一五八五)閏八月、上田城は,
真田
勢二千ほどに対し、徳川勢は七千余であったという。しかし、
真田
方は寡兵よくこれを退けた。,つまり、上田城は、単なる
真田
氏の居城としてではなく、当初は徳川方の対上杉の最前線の城郭として、
真田
が上杉方,恩田等宛
真田
信幸書状 <史料解説> 「恩田等宛
真田
信幸書状」 長野市
真田
宝物館蔵 天正十三年,
真田
氏の上杉氏にかける必死の思いの一端がうかがえる。
秀吉と真田
(朝鮮の役出兵)
秀吉と
真田
/ 朝鮮の役出兵 「秀吉と
真田
」の目次はこちら 秀吉は文禄元年(一五九二)から同二年、慶長二年(一五九七,この役にあたって
真田
父子も出陣を命ぜられている。,そのおりに定められた
真田
氏の動員人数は、出兵基地である肥前名護屋(佐賀県)在陣衆七百人、朝鮮への渡海人数五百人,
真田
氏は名護屋城にとどまった模様で、実際の渡海はなかった。
秀吉と真田
(昌幸死去の悔み状)
秀吉と
真田
/ 昌幸死去の悔み状 「秀吉と
真田
」の目次はこちら
真田
信之宛本多正信書状 <史料解説> 「
真田
信之宛本多正信書状,」
真田
宝物館蔵 慶長十六年(一六一一)六月十三日
真田
昌幸は慶長十六年六月四日、配所高野山麓九度山,智勇兼ね備えた名将であり、
真田
の名を上げた昌幸であったが、その晩年はわびしいものであった。,六月十三日 正信(花押)
真田
信之宛城昌茂書状 <史料解説,> 「
真田
信之宛城昌茂書状」
真田
宝物館蔵 慶長十六年(一六一一)六月十六日 これも昌幸逝去
秀吉と真田
(小田原出陣)
秀吉と
真田
/
真田
信幸宛豊臣秀次書状 <史料解説> 「
真田
信幸宛豊臣秀次書状」
真田
宝物館蔵 天正十八年,三月八日 秀次(花押)
真田
源三郎殿
真田
昌幸宛豊臣秀吉書状 <史料解説>,「
真田
昌幸宛豊臣秀吉書状」
真田
宝物館蔵 天正十八年(一五九〇)四月十日 秀吉は伊豆箱根下,卯月十日(朱印)(豊臣秀吉)
真田
安房守とのへ
真田
昌幸・信幸宛豊臣秀吉書状,
真田
昌幸宛豊臣秀吉書状 <史料解説> 「
真田
昌幸宛豊臣秀吉書状」
真田
宝物館蔵 天正十八年
秀吉と真田
(伏見城普請)
秀吉と
真田
/
真田
父子の伏見在勤も短くはなかったとみてよい。 ,蓮華王の茶壷卯の花の茶壷
真田
信幸宛豊臣氏奉行連署状 <史料解説> 「
真田
信幸宛豊臣氏奉行連署状, 御宿所
真田
昌幸・信幸・幸村宛佐久間甚四郎等連署状 <史料解説>
真田
昌幸・信幸,<史料解説> 「
真田
昌幸宛豊臣秀吉書状」
真田
宝物館蔵 文禄三年(一五九四)六月一日,六月朔日(朱印)(豊臣秀吉)
真田
安房守とのへ
秀吉と真田
(家康の命令による上田築城の開始)
秀吉と
真田
/ (千曲川の支流依田川流域)の諸士がこぞって徳川に、直接的には
真田
に反旗を翻した。,これについて従来は「
真田
昌幸が築城」と当然のように言われてきた。,いずれにせよ上田築城は、単なる
真田
氏の居城普請というものではなかった。,この時点での
真田
氏独力での築城は、到底無理でもあった。,宮下善七郎宛
真田
昌幸感状 <史料解説> 「宮下善七郎宛
真田
昌幸感状」 関口清造氏蔵 上田市立博物館保管
秀吉と真田
(徳川方への攻勢)
秀吉と
真田
/ 徳川方への攻勢 「秀吉と
真田
」の目次はこちら
真田
昌幸は、上杉景勝そして秀吉との提携もなり、徳川軍,神尾淡路守宛
真田
昌幸宛行状 <史料解説> 「神尾淡路守宛
真田
昌幸宛行状」 上田市立博物館蔵,武田氏滅亡後、
真田
氏に仕えたわけだが、慶長五年に昌幸が失脚して、信之(信幸)の代になってからは
真田
家を
秀吉と真田
(昌幸最晩年の書状 幸村筆)
秀吉と
真田
/ 昌幸最晩年の書状 幸村筆 「秀吉と
真田
」の目次はこちら
真田
信之宛同昌幸書状 <史料解説> 「,
真田
信之宛同昌幸書状」
真田
宝物館蔵 年次不詳 三月二十五日 関ヶ原合戦後、
真田
昌幸・,三月二十五日 安房 昌幸(花押) 豆州参
真田
信之宛同昌幸書状,<史料解説> 「
真田
信之宛同昌幸書状」
真田
宝物館蔵 年次不詳 四月二十七日 昌幸最晩年
秀吉と真田
(北条氏討伐へ)
秀吉と
真田
/ 北条氏討伐へ 「秀吉と
真田
」の目次はこちら この報告に憤激した秀吉は、重大な裁定違犯だとして、北条氏征伐,その大義名分を
真田
が提供した形となったわけである。 ,
真田
昌幸宛豊臣秀吉書状 <史料解説> 「
真田
昌幸宛豊臣秀吉書状」
真田
宝物館蔵 天正十七年,(一五八九)十一月二十一日 名胡桃事件の報告を受けた秀吉が、まず被害者でもある
真田
昌幸に出した書状,三分の一ハ
真田
に仰せ付けられ候条、其の中にこれ在る城をバ
真田
相拘(かか)ふべきの由仰せ定められ、右の北条
秀吉と真田
(上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸))
秀吉と
真田
/ 上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸) 「秀吉と
真田
」の目次はこちら 天正十三年(一五八五)になり、,家康からの再度の沼田引渡し命令を拒絶し、いよいよ徳川軍の攻撃を受けそうになってから、
真田
昌幸は援軍を得,それに先立って
真田
方からは、昌幸の次男弁丸(信繁、幸村)が証人(人質)として越後へ送られた。,しかし、ここでみたように、これは
真田
弁丸(信繁、幸村)安堵状とみて間違いない。,ところで、矢沢頼幸も
真田
信繁に随行して越後へおもむいている。
秀吉と真田
(家康重臣石川数正の秀吉への寝返り)
秀吉と
真田
/ 家康重臣石川数正の秀吉への寝返り 「秀吉と
真田
」の目次はこちら
真田
攻めの徳川軍が撤退した後のことだが,この事実と先の小笠原の、やはり家康から秀吉への寝返り、それと前後しての
真田
の上杉従属、秀吉への接近という,
真田
と小笠原、そして小笠原と石川が連携していたことは間違いないだろうし、その背後には秀吉の影が見えるようにも,いずれにしても、
真田
昌幸にとっては、ありがたい事態ではあった。
秀吉と真田
(三成ほか西軍諸将よりの書状)
秀吉と
真田
/
真田
昌幸宛長束正家等連署状 <史料解説> 「
真田
昌幸宛長束正家等連署状」
真田
宝物館蔵 , 御宿所
真田
昌幸宛宇喜多秀家書状 <史料解説> 「
真田
昌幸宛宇喜多秀家書状」
真田
宝物館蔵,<史料解説> 「
真田
昌幸宛石田三成書状」
真田
宝物館蔵 慶長五年(一六〇〇)七月三十日,<史料解説> 「
真田
昌幸・幸村宛大谷吉継書状」
真田
宝物館蔵 慶長五年(一六〇〇)七月三十日,;
真田
昌幸・信幸・幸村宛石田三成書状 <史料解説>
真田
昌幸・信幸・幸村宛石田三成書状
真田
宝物館蔵
秀吉と真田
(上田城の大改修)
秀吉と
真田
/ 上田城の大改修 「秀吉と
真田
」の目次はこちら 織田信長の築いた安土城は天正七年(一五七九)にほぼ,そのため
真田
昌幸もこれにならって、上田城の大改修に乗り出したと考えられる。
秀吉と真田
(家康、秀吉に臣従)
秀吉と
真田
/ 家康、秀吉に臣従 「秀吉と
真田
」の目次はこちら 秀吉は、石川数正を寝返らせた直後には、右で見たように
松代まちあるきマップ
(14真田宝物館)
14
真田
宝物館 松代案内 14 ,
真田
宝物館
真田
宝物館 写真をクリックすると、フルサイズの画像が表示されます。,
真田
宝物館
真田
家歴代の宝物を展示、歴史資料を収蔵 松代
真田
家十二代
真田
幸治が、昭和四十一年(一九三六,)、九代藩主幸教の母が住んだ
真田
邸(城外御殿)とともに、当時の松代町に寄付した貴重な歴史資料を収蔵。,常設展、特別企画展も聞かれており、
真田
十万石の歴史を遡ることができる。 / 14
真田
宝物館
パスファインダー
(真田一族と家臣団)
真田
一族と家臣団 トピック(テーマ)
真田
一族と家臣団 ねらい NHK大河,ドラマ「
真田
丸」放映後、
真田
一族とその家臣団について関心 が高まっており、地元でも観光、誘客に力が入っている,キーワード 概要を知るための ツール 資料リスト 雑誌 表裏比興の雄
真田
昌幸 日本一の兵
真田
幸村,一門の中に は、
真田
正昌輝系、
真田
信尹系、
真田
信繁(幸村)の事蹟等がある。,田幸村、
真田
家の治世、「
真田
十勇士」考、豊臣方浪人の背景と評価の 後に、
真田
一族人物事典、
真田
一族関係人物事典 /
真田
一族と家臣団
秀吉と真田
(秀吉の死と家康の上杉征伐)
秀吉と
真田
/ 秀吉の死と家康の上杉征伐 「秀吉と
真田
」の目次はこちら 秀吉は慶長三年(一五九八)八月十八日、伏見城
松代まちあるきマップ
(30真田山長国寺)
30
真田
山長国寺 松代案内 30 ,;
真田
山長国寺 長国寺 長国寺 長国寺
真田
家墓所 長国寺幸村大助供養塔 写真をクリック,
真田
山長国寺(しんでんざん ちょうこくじ) 宗派/曹洞宗、本尊/釈迦牟尼如来 松代藩
真田
家,天文年間、戦国
真田
家初代当主
真田
幸隆が、伝為晃運(でんいこううん)禅師を開山として、「
真田
山長谷寺(しんでんざんちょうこくじ,墓所には
真田
家歴代の墓碑、
真田
幸村・大助親子の供養塔、戦国
真田
三代(幸隆、昌幸、信綱)の供養塔などが並 / 30
真田
山長国寺
松代まちあるきマップ
(38真田林大鋒寺)
38
真田
林大鋒寺 松代案内 38 ,;
真田
林大鋒寺 大鋒寺御霊屋 大鋒寺御霊屋 大鋒寺 写真をクリックすると、フルサイズの画像,
真田
林大鋒寺(さなだりん だいほうじ) 宗派/曹洞宗、本尊/釈迦牟尼如来 万治元年(一六五八,)、初代藩主
真田
信之(さなだのぶゆき=
真田
幸村(信繁)の実兄)の隠居所跡に、長国寺八世観国が信之の遺言,での遊猟(ゆうりょ)を禁止した。寺から東寺尾村までは松並木が続き、藩によって保護されていた。境内には
真田
信之 / 38
真田
林大鋒寺
パスファインダー
(立川文庫、真田十勇士)
立川文庫、
真田
十勇士 トピック(テーマ) 立川文庫、
真田
十勇士 ねらい かつての,
真田
三勇士
真田
七勇士
真田
十勇士 穴山小助 海野六郎 筧十蔵 霧隠才蔵 猿飛佐助 根津甚八 三好為三入道, 三好清海入道 望月 六郎 由利鎌之助 1 書名
真田
幸村と
真田
一族のすべて:決定版,』に登場するのは、「智将
真田
幸村」にお いてであり、以後、「
真田
諸国漫遊記」「猿飛佐助」「霧隠才蔵」「,・
真田
幸村。 / 立川文庫、
真田
十勇士
パスファインダー
(真田三代の妻妾・子女)
真田
三代の妻妾・子女 トピック(テーマ)
真田
三代の妻妾・子女 ねらい 名将,の妻妾・子女、
真田
昌幸の妻妾・子女、
真田
信之の妻 妾・子女、
真田
信繁(幸村)の妻妾・子女について詳述されている,出版年 1905年7月 内容紹介
真田
一族人物事典の章に
真田
昌幸・信之・信繁の妻妾,
真田
六連銭の旗印のもと、奇謀と知略で乱世を生き抜いた信濃の名 族、
真田
一族。,1 論題名
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宝物館所蔵恩田文書ついて―戦国期
真田
家家臣の一形態― 著者名 山中さゆり /
真田
三代の妻妾・子女
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(真田信繁(幸村)と大坂の役)
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信繁(幸村)と大坂の役 トピック(テーマ) ねらい キーワード 概要を知るための ツール,や
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信繁(幸村)が勇名を馳せたことで も有名。,大坂冬の陣夏の陣
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信繁(幸村)
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は日本一のつわもの 淀の 方 秀頼 徳川家康
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丸 1,苦心の闘将
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幸村の生涯を描く。,4 書名
真田
幸村と
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丸:大坂の陣の虚像と実像(河出ブックス) 著者名 渡邊大門/著 /
真田
信繁(幸村)と大坂の役
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(7真田勘解由家 さなだ かげゆけ)
7
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勘解由家 さなだ かげゆけ 松代案内 7 ,;
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勘解由家 さなだ かげゆけ
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かげゆ邸
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かげゆ邸屋敷神 写真をクリック,
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邸、
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公園と歴史の道を歩き、文武学校を過ぎた広小路の右手、腰板張、白壁の塀が続く松代藩重鎮の家。,覆屋棟に六連銭の
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家表紋と雁金、洲浜の同裏紋の瓦を載せる(国登録有形文化財)。,なお、
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勘解由家は、二代藩主
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信政の長男・勘解由信就を始祖とする
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家の分家。 / 7
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勘解由家 さなだ かげゆけ
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(真田氏研究の基本史料・古記録)
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氏研究の基本史料・古記録 トピック(テーマ)
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氏研究の基本史料・古記録,その中に
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家重宝・吉光の短刀があった。,2 書名 著者名 出版社 出版年
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通記
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町教育委員会/編
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町教育委員会 1982,
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氏時代における織豊系城郭上田城の再検討 倉澤正幸 信濃 3次67巻9号
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氏と南信 藤沢好古 信濃,1次1巻1号
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宝物館所蔵
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家文書について 北村保 信濃 3次44巻12号 信州地域史料アーカイブ /
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氏研究の基本史料・古記録
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(真田氏関係の城址、寺社、文化遺産)
長篠合戦図屏風
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幸隆墓 鎧の銅 血染めの 陣羽織
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昌幸着用具足 名胡桃城代鈴木主水の墓
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幸隆平常服画像,
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昌幸画像
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父子犬伏密談図
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信之 画像・木像 大蓮院画像 元和年間上田城図 神川合戦図
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父子上,、蓮華童子院宛
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信綱安堵状、
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昌幸画像、
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昌 幸安堵状、
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昌幸宛北条氏邦書状、織田信長禁制、矢沢綱頼宛北条,、
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信幸宛徳川家康安堵状、
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昌幸 宛石田三成書状、
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父子上田篭城図、高野山蓮華上院、
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昌幸書,状、
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信幸宛本多正信書状、
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幸村画像、
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信幸宛昌幸書状、
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幸村書状、大坂冬之陣・夏之陣図、
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幸村勇戦之図 /
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氏関係の城址、寺社、文化遺産
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(3真田邸(松代城跡附新御殿跡))
3
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邸(松代城跡附新御殿跡) 松代案内 3 ,;
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邸(松代城跡附新御殿跡)
真田
邸
真田
邸
真田
邸 写真をクリックすると,
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邸は。,その後、隠居した幸教の住まいとなり、明治維新後は
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家私邸(別邸)として使われた。,#160; 一般160円、小・中学生60円
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宝物館 / 3
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邸(松代城跡附新御殿跡)
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(真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村))
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信繁(幸村)
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幸隆
真田
昌幸
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信之(信幸)上田合戦 関ケ原の戦い
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十勇士 犬伏の陣 上田,出版社 出版年 米山一政/編 長野市 1981ー1983
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家文書は松代旧藩主
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家相伝,第1章
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氏と武田氏 第2章
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氏の自立と所領拡大 第3章 上田築城と城下町の形成,一門の中に は、
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正昌輝系、
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信尹系、
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信繁(幸村)の事蹟等がある。,2 書名
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町誌 [第2巻・第3巻] 著者名
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町誌編纂委員会/編 出版社
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町誌刊行会 /
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三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村)
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(48松操山典廏寺)
かつてこの地にあった旧瑠璃光山鶴巣寺(かくそうじ)跡に、承応三年(一六五四)、
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信之の女見樹院が、長国寺八世僦察,典廏信繁を尊敬する
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昌幸は、次男の名を信繁と命名。
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幸村がその人である。,
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家の武家寺であり、典厩信繁の墓の横の小さな墓は、同じ名の幸村(信繁)を秘かに弔ったとする小説もある,川中島合戦三〇〇年の万延元年(一八六〇)、
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幸貫の発願で閻魔堂を建立。,山門は真常院殿(三代藩主
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幸道)の霊屋の門を移した。
むしくら日記
(著者河原綱徳)
河原氏は代々
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家の重臣で、綱徳は弘化2年(1845)から万延元年(1860)年まで、家老を務めました,その一方で学者としても知られ、藩主
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幸貫の命で
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家の歴史を『
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家御事蹟稿』にまとめました。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(柴村)
金池 道路: 長野道 社: 柴神社/皇大神社(こうたいじんじゃ) 寺: 山本勘助晴幸墓/
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伊豆守信之墓,/大鋒寺(だいほうじ)/阿弥陀堂 学校: 重陰学校 古跡・名勝:
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伊豆守信之墓 物産1:,民業男: 農桑/養蚕/伐薪/藁細工(わらざいく) 民業女: 養蚕/縫織 その他特記ワード:
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信之
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(44関谷山西楽寺)
#160;44 関谷山西楽寺 西楽寺 西楽寺本堂 西楽寺
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信重御霊屋,西楽寺
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信重御霊屋 写真をクリックすると、フルサイズの画像が表示されます。,村松氏が帰依し、天正二年(一五七四)に堂宇を建立、西楽寺と名付け中興。その後火災で焼失したが、松代藩
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家初代藩主
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信之
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(長村)
現在(令和2年):上田市(うえだし) 明治初期:長村(おさむら) 幕末から明治初期:横尾村/
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村,岩谷/芳野平/角間/橋場/米原 山: 四阿山/烏帽子嶽/湯ノ丸山/根小嶽/三日城山/燕岩/乗越山/
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山,横尾神社/秋葉神社 寺: 長谷寺/信綱寺 学校: 水哉学校/横尾学校 古跡・名勝: 松尾城墟/
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山古城,史料ID:3-1 8-18 目録を見る 変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB
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町誌
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(42白鳥神社)
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家が上田から松代へ移封の年=元和八年(一六二二)、
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信之が祈願所の開善寺を松代に移し、次いで寛永元年,伝承では
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信之の駕籠の上に白い鳥が舞い降り、信之と共に松代に移りたいと訴えたという。,海野郷(東御市海野)の白鳥神社は、日本武尊の他、
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宗家とされる滋野氏の祖、清和天皇の皇子貞元親王・貞保親王
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(1松代城)
#160;1 松代城 松代城太鼓門 松代城 松代城 松代城
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十万石,城の名は、海津城、待城城(森忠政)、松城(松平忠輝)と変遷、松代藩
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家藩主三代幸道の時代に松代城となった,昭和五十六年、
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邸(新御殿)とともに国の史跡に指定された。,00(入場16:30まで) 問合せ 026−278−2801(
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宝物館,) ※「百名城スタンプ」は、
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邸(新御殿)で。
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