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秀吉と真田
(真田昌幸、徳川と断交へ)
真田昌幸
、徳川と断交へ 「秀吉と真田」の目次はこちら 家康は、真田の要請に応じた形で佐久小県の残徒討伐,を名目に出陣し、最低限の構にせよ上田城も造ってやり、恩を売った形の天正十一年の五月の時点で、
真田昌幸
に /
真田昌幸
、徳川と断交へ
秀吉と真田
(武田氏・織田氏の滅亡と真田昌幸)
武田氏・織田氏の滅亡と
真田昌幸
「秀吉と真田」の目次はこちら 真田氏は東信濃の小県(ちいさがた),
真田昌幸
は、小県へも侵入した上杉に一旦は従った後、七月には佐久、小県へと軍勢を進めてきた北条氏直に従った,
真田昌幸
所用具足 <史料解説> 「
真田昌幸
所用具足」 (啄木(たくぼく)糸威(おどし)伊予札(ざね / 武田氏・織田氏の滅亡と
真田昌幸
秀吉と真田
(家康の関東移封と真田昌幸・信幸)
家康の関東移封と
真田昌幸
・信幸 「秀吉と真田」の目次はこちら 天正十八年(一五九〇)七月の小田原,これに対し、天正十四年に秀吉の命で小笠原・木曽とともに家康に返されたはずの
真田昌幸
だけは、そのまま上田 / 家康の関東移封と
真田昌幸
・信幸
パスファインダー
(真田氏関係の城址、寺社、文化遺産)
名胡桃城代鈴木主水の墓 真田幸隆平常服画像
真田昌幸
画像 真田父子犬伏密談図 真田信之 画像・木像 ,、真田昌 幸安堵状、
真田昌幸
宛北条氏邦書状、織田信長禁制、矢沢綱頼宛北条 氏直宛行状、依田記、宮下善七郎宛
真田昌幸
感状,、飯島市之丞宛真田 昌幸感状、宮下太兵衛宛
真田昌幸
安堵状、信綱寺
真田昌幸
宛行状、元 和年間上田城図、柳沢与兵衛宛宮下藤衛門判物,、
真田昌幸
・信之・幸村宛豊臣氏 普請奉行連書状、
真田昌幸
宛長束正家等連署状、真田親子犬伏密談 図、真田信幸宛徳川家康書状,、真田信幸宛徳川家康安堵状、
真田昌幸
宛石田三成書状、真田父子上田篭城図、高野山蓮華上院、
真田昌幸
書
秀吉と真田
(神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き)
神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き 「秀吉と真田」の目次はこちら 上田城に拠(よ)った
真田昌幸
,その後の対陣中に
真田昌幸
は上杉氏を通じて秀吉と接触し、全面的に支援する旨を伝えられている。,
真田昌幸
画像 <史料解説> 「
真田昌幸
画像」 柘植弌郎氏蔵 上田市立博物館保管 上田や松代
秀吉と真田
(小田原出陣)
この役にあたって、
真田昌幸
は前田利家が指揮する「北国囗」の一員を命ぜられた。,その軍勢は、
真田昌幸
三千人、上杉景勝一万人、前田利家一万人で、計二万三千人というものであった。,
真田昌幸
は次いで、城主が逃亡した上野の箕輪城を受取った旨を、秀吉に報じている。,大崎・葛西一揆と呼ばれる反乱事件であるが、この鎮圧に
真田昌幸
も出動を命ぜられている。 , 四月十日の「
真田昌幸
宛豊臣秀吉書状」の翌日付け書状であり、「先書」で言った通りだが、と断って同様
秀吉と真田
(昌幸の秀吉への接近)
昌幸の秀吉への接近 「秀吉と真田」の目次はこちら 従来は、
真田昌幸
が豊臣秀吉へ接近しようとしたのは,上杉景勝が
真田昌幸
に宛てた誓詞の中に「春松太夫」という名が見えるのだが、これは上方から信濃へも訪れていたむ,豊臣秀吉が初めて
真田昌幸
宛てに出した天正十三年十月十七日付けの書状は、秀吉が委細承知した、いずれにしても,
真田昌幸
はこのような話をひっくるめた上で上杉氏へ従属したとみられるのである。 ,
真田昌幸
宛羽柴秀吉書状 <史料解説> 「
真田昌幸
宛羽柴秀吉書状」 真田氏歴史館蔵
秀吉と真田
(徳川方への攻勢)
徳川方への攻勢 「秀吉と真田」の目次はこちら
真田昌幸
は、上杉景勝そして秀吉との提携もなり、徳川軍,神尾淡路守宛
真田昌幸
宛行状 <史料解説> 「神尾淡路守宛
真田昌幸
宛行状」 上田市立博物館蔵
秀吉と真田
(家康の命令による上田築城の開始)
これについて従来は「
真田昌幸
が築城」と当然のように言われてきた。,家康はこの前後、佐久小県の自分に従わない勢力討伐を名目に、
真田昌幸
の救援要請に応ずる形で甲府まで出馬して,
真田昌幸
は当時の情勢を、そして家康の力を最大限に利用して、実質的な居城普請を始めたということになる。,宮下善七郎宛
真田昌幸
感状 <史料解説> 「宮下善七郎宛
真田昌幸
感状」 関口清造氏蔵 上田市立博物館保管
パスファインダー
(真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村))
真田信繁(幸村) 真田幸隆
真田昌幸
真田信之(信幸)上田合戦 関ケ原の戦い 真田十勇士 犬伏の陣 上田,上中下3巻から成るが、特に上巻には、武田晴信宛行状・武田勝頼条 内容紹介 目・
真田昌幸
宛行状,特に、関ケ原合戦直前の慶長5年7月末から8月10日 までに、西軍に属した緒将より
真田昌幸
に宛てられた,4 書名 著者名 出版社 出版年
真田昌幸
(人物叢書 新装版) 柴辻俊六/著 吉川弘文館 1996,情報 「表裏比興(ひきょう)の者」と評され、戦国期を生き残るために必死の 戦略を展開した
真田昌幸
秀吉と真田
(伏見城普請)
徳善(前田徳善院) 玄以(花押) 真田伊豆守殿 御宿所
真田昌幸
,・信幸・幸村宛佐久間甚四郎等連署状 <史料解説>
真田昌幸
・信幸・幸村宛佐久間甚四郎等連署状 ,) 真房州様 真伊豆様 同左衛門様 人々御中
真田昌幸
宛豊臣秀吉書状,<史料解説> 「
真田昌幸
宛豊臣秀吉書状」 真田宝物館蔵 文禄三年(一五九四)六月一日
秀吉と真田
(三成ほか西軍諸将よりの書状)
真田昌幸
宛長束正家等連署状 <史料解説> 「
真田昌幸
宛長束正家等連署状」 真田宝物館蔵 ,<史料解説> 「
真田昌幸
宛宇喜多秀家書状」 真田宝物館蔵 慶長五年(一六〇〇)七月二十九日,<史料解説> 「
真田昌幸
宛石田三成書状」 真田宝物館蔵 慶長五年(一六〇〇)七月三十日,七月三十日 白以(黒印)
真田昌幸
宛毛利輝元書状 <史料解説> 「
真田昌幸
宛毛利輝元書状,・信幸・幸村宛石田三成書状 <史料解説>
真田昌幸
・信幸・幸村宛石田三成書状 真田宝物館蔵
秀吉と真田
(真田幸村と大坂の役)
#160; 真田幸村画像 <史料解説> 「真田幸村画像」 柘植弌郎氏蔵 上田市立博物館保管
真田昌幸
, 唐冠形(とうかんなり)兜 <史料解説> 「唐冠形(とうかんなり)兜」 真田宝物館蔵
真田昌幸
秀吉と真田
(家康の真田再征進発と秀吉による懐柔)
真田昌幸
宛羽柴秀吉書状 <史料解説> 「
真田昌幸
宛羽柴秀吉書状」 真田宝物館蔵 天正十四年
秀吉と真田
(東西に分かれた真田父子)
徳川家康の命に従い、会津遠征の軍に加わるべく、下野国犬伏(いぬぶし)(栃木県佐野市)に陣を取っていた
真田昌幸
,
真田昌幸
宛長束正家等連署状 <史料解説> 「
真田昌幸
宛長束正家等連署状」 真田宝物館蔵 ,このように
真田昌幸
は、その娘を介して石田三成と近い姻戚関係にあった。,この遠征に従軍し下野に至っていた秀吉恩顧の諸将も、
真田昌幸
・信繁以外はほとんど全員が家康に従った。
パスファインダー
(真田一族と家臣団)
キーワード 概要を知るための ツール 資料リスト 雑誌 表裏比興の雄
真田昌幸
日本一の兵真田幸村,のすべて 小林 計一郎/編 KADOKAWA 2015年 目次の不撓不屈の真田一族、表裏比興の雄
真田昌幸
秀吉と真田
(真田・小笠原・木曽、家康の与力に)
こうして家康との和議が完全になった中で秀吉は、
真田昌幸
・小笠原貞慶・木曽義昌という信濃の三将を家康の配下
松代まちあるきマップ
(22寒松山 大林寺)
かんしょうざん だいりんじ) 宗派/曹洞宗、本尊/釈迦牟尼如来 天正年間(一五七三~一五九一)、
真田昌幸
パスファインダー
(真田三代の妻妾・子女)
出版年 田中誠三郎/著 信濃路 1979年 内容紹介 真田弾正忠幸隆の妻妾・子女、
真田昌幸
,出版社 KADOKAWA 出版年 1905年7月 内容紹介 真田一族人物事典の章に
真田昌幸
松代まちあるきマップ
(48松操山典廏寺)
典廏信繁を尊敬する
真田昌幸
は、次男の名を信繁と命名。真田幸村がその人である。
松代まちあるきマップ
(25旧前島家住宅)
慶長五年(一六〇〇)、
真田昌幸
・幸村(信繁)父子が九度山蟄居の際、家臣十六名が昌幸に従って高野山に随行
秀吉と真田
(徳川秀忠軍の上田攻め)
このように秀忠は離反した
真田昌幸
・信繁父子を討つための、信州小県郡上田城攻めを名目として、西上の途についたのだった,なお、上田城という城名は
真田昌幸
の命名であり、まだ認知度が低かったためだろう、この後も上田を攻めるとは,秀忠軍が西上の途につくにあたっての表向きの名目は、このように反旗を翻して上田城に帰ってしまった
真田昌幸
征伐, 真田父子上田籠城図 <史料解説> 真田父子上田籠城図 上田市立博物館蔵 中央に
真田昌幸
秀吉と真田
(真田氏上田領・沼田領の石高)
真田氏上田領・沼田領の石高 「秀吉と真田」の目次はこちら 関ケ原合戦のあった慶長五年(一六〇〇)までの
真田昌幸
秀吉と真田
(北条氏討伐へ)
真田昌幸
宛豊臣秀吉書状 <史料解説> 「
真田昌幸
宛豊臣秀吉書状」 真田宝物館蔵 天正十七年,(一五八九)十一月二十一日 名胡桃事件の報告を受けた秀吉が、まず被害者でもある
真田昌幸
に出した書状
秀吉と真田
(上田城の大改修)
そのため
真田昌幸
もこれにならって、上田城の大改修に乗り出したと考えられる。
秀吉と真田
(家康重臣石川数正の秀吉への寝返り)
いずれにしても、
真田昌幸
にとっては、ありがたい事態ではあった。
秀吉と真田
(昌幸死去の悔み状)
史料解説> 「真田信之宛本多正信書状」 真田宝物館蔵 慶長十六年(一六一一)六月十三日
真田昌幸
秀吉と真田
(真田氏の動静)
移った大坂城下へ移転しようとしていた様子など、関ケ原合戦につながる上杉氏征討の軍が起こされる直前の、
真田昌幸
秀吉と真田
(昌幸最晩年の書状 幸村筆)
> 「真田信之宛同昌幸書状」 真田宝物館蔵 年次不詳 三月二十五日 関ヶ原合戦後、
真田昌幸
秀吉と真田
(豊臣氏関係遺品)
関ヶ原合戦と近世の国制』二〇〇〇年 小林計一郎編『真田幸村のすべて』 一九八九年 柴辻俊六『
真田昌幸
秀吉と真田
(上杉方による上田城増築普請)
「恩田等宛真田信幸書状」 長野市真田宝物館蔵 天正十三年(一五八五)閏八月十三日
真田昌幸
上田案内
([解説])
〇仏寺
真田昌幸
が本海野から移した寺など真田氏との結びつきを示す寺がいくつかある。,徳川勢を二度にわたり苦しめた
真田昌幸
、信繁(幸村)親子の活躍は、江戸期の読み物からはじまり、近現代の小説
秀吉と真田
(上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸))
一五八五)になり、家康からの再度の沼田引渡し命令を拒絶し、いよいよ徳川軍の攻撃を受けそうになってから、
真田昌幸
上田の早苗
([翻刻])
可尋、 其後徳川家ト北条家ト和議整テ甲信両国ハ徳川家ノ有ト定メ上野ハ北条 ノ有ト定ム、然レハ
真田昌幸
領知上州沼田城,永禄十年八月七日附ノ下ノ郷ノ起請文中ニ見エ タリ、 一常田図書ハ天正十年ノ古記ニ其名見エタリ、此頃ハ
真田昌幸
,アリテ廻リニ広サ八九尺ノ堀ノ跡アリ云々、 [コレハ何国ニヤ、恐クハ真田カ] 一天正八年三月九日
真田昌幸
蓮華定院
小県郡民謡集
(成人謡)
[常田(ときだ)獅子(じし)の謠、天正十一年
眞田昌幸
上田築城の際、常田村片岡助兵衛、祇園祭禮(ぎおんさいれい
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