機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
キーワード一覧
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 63件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 2ページ
松代まちあるきマップ
(19白鳥山證蓮寺)
真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来(伝慈円作) 證蓮寺は、親鸞聖人の高弟・西仏坊覚明の子、康楽寺二世の法
眼
淨賀,その子・證蓮寺開基の法
眼
淨賀は、東本願寺蔵「聖人御絵伝」の原絵師。
松代まちあるきマップ
(45照光山乾徳寺)
の宝篋印塔、同家箏曲八橋流(市指定無形文化財)再興の祖・真田志んの墓、魚藍観音菩薩(六代幸弘の生母慈
眼
院,乾徳院(信弘)照光院(信守)天眞院(幸弘)慈
眼
院(幸弘生母)等の位牌も安置されている。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(栗田村)
学校: 励精学校 古跡・名勝: 行人塚/悪源太義平の墓/堀之内城墟/栗田寺跡/観音寺跡/慈
眼
菴跡
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(住良木村)
松本街道 社: 神明社/金刀比羅社/戸隠社/三島社/白山社 寺: 常源寺 古跡・名勝: 竜
眼
山清光寺址
信州善光寺御堂額之写
([現代訳])
(絵)「奉掛瑞広前 長い間の
眼
病で、いつしか盲目になりましたが、如来のご利益で両目が明き、嬉しく,中仙道追分宿 甲州屋次郎右衛門」 中仙道追分宿の甲州屋次郎右衛門は、長いこと
眼
病を患い、盲目になってしまったので,(絵)「下総国海上郡銚子岡野台 梁天」 下総国銚子岡野台の梁天は、
眼
病で両目が見えなくなったため,宮下笹右衛門」 (杖の絵)「尾州中島郡おくた村 楊梅」 (杖の絵)「10年の間の
眼
病
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(八満村)
小諸往還/上州支道/岩村田道 社: 諏訪社/八満弓神社/駒形社/石神社/浅間社 寺: 法隆山正
眼
院
善光寺独案内
(『善光寺独案内』の広告)
現在も善光寺境内の「親鸞聖人爪彫の阿弥陀如来」のほこらは、
眼
病の平癒を祈願する人が絶えません。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(富県村)
/社宮司社/若宮八幡社/姫宮社/山神社/天伯社 寺: 真常寺/宝勝寺/華林寺/観浄寺/東光寺/慈
眼
寺
木曾山林学校
(堤夕月君へ)
眼
下に展(ひら)けた町の家並を眺めて、あんなに町は平静に見えて居るけれ共、あの一つ一つの家のなかには人間,観楓(かんふう:もみじを見て楽しむこと)、焼鳥(注36)と云ふこの谷にふさはしい秋の楽しみももう
眼
の前
善光寺道名所図会
(○筑摩 麻績)
六町程相対して巷をなす、其余町裏に散在す、稲荷山宿へ三里、 此間猿ケ馬場といふ峠あり、 宿の入口左側に仏
眼
山法善寺
信州善光寺御堂額之写
([翻刻])
なか/\
眼
病にて ついもうもくとなり、 如来の御利やくにて 両かんひらき、うれしく、 あまり, 「下総国海上郡 銚子岡野台 梁天 辰八月二日」 下ふさのくにてうしをかのだい梁天、
眼
,図」 (上段) 「尾州中島郡おくた村 揚梅」 (下段) 「拾ヶ年の間
眼
病
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(滋野村)
多古驛旧跡/柴生田氏城跡/力士雷電碑/大石氏城跡/陣馬/祢津氏城跡/川窪氏邸跡/山伏塚/御館殿墓/能救山慈
眼
寺廃寺
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(八幡村)
薬師社 寺: 藤塚/旗塚/糠塚/半官塚/八幡山大雲寺/仙福寺/栂林山青松寺/法城山高円寺/恵日山開
眼
寺
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(里山辺村)
古跡・名勝: 小笠原秀政・忠脩墓/林城址/兎田(うさぎだ)旧址/小森殿・塚田/湯原ノ碑/兎川寺址/慈
眼
(
木曾山林学校
(シユリツヒ氏森林学抄訳 『第14号つづき』)
勿論(もちろん)一国が森林の間接効能を主
眼
として森林を仕立つることを勧誘するや否やを考ふるに気候と地勢,(1)国家或は国王(2)組合(3)個人 森林には歳入及職業の供給を主
眼
として間接の効果を必要となさざる
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(小泉村)
ノ木/中町/舞台/万年堂/腰巻/下ノ原/上ノ原/上ノ山/横山/坂ノ上/箕ノ輪/泉池/山崎/池下/地ノ
眼
/
上田郷友会月報 第壱号
(2 われらが国を引っ張っていこうという気概の籠った「緒言」)
眼
を世界に転じると、日本は東洋一の孤立国になっている。
地震後世俗語之種
([翻刻])
戊申晩春折節
眼
病に脳むこと既に半月、
眼
鏡 (改頁) 5 ,銚子口に至りて水勢ば つと開く時は、大難の心痛
眼
前たり。,此時 の鳴動四・五里の間に響き渡りし事、是
眼
前 たり。,已に二十 日に及で渺々茫々たる事、湖水にして諸人
眼
を驚かすはかりなり。,折節
眼
病ニ痛ク悩ミテアリケレハ 此絵図ニ力ヲ得テ、幸ニ水災ノ図画ヲ爰ニ省畧ス。
木曾山林学校
(14.生徒心得綱領)
上下の分を明にし秩序を正し、中心より恭敬の実を表するを要す 一、普通礼は先つ直立の姿勢を取り、先方の
眼
に,近づかしむるを度(ど:物事の基準・標準とすべきもの)とす 一、最敬礼は先づ直立の姿勢を取り、先方の
眼
に
木曾山林学校
(◎我が国人の天性植物を愛する志想に富む事を述ぶ)
禿山連亘(れんこう:つながって長く続いていること)し、生産収利は日に減じつゝありし勢なりしも、政府は茲に着
眼
せられ
木曾山林学校
(権現滝の春)
迂回する事数回、大平山演習林の尽くる所一橋を渡れば権現滝は忽然として
眼
前にあり。
明治3年歎願書
([翻刻])
慥成引当之地所受取之證人立入罷存候間、尋常之 年柄ニ御座候へ者、右躰之義可奉申上御儀ニ無御座候得共、真実 私始過分之損失仕候事
眼
前
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(刈谷原村)
他特記ワード: (森林)竹ノ地林/鷹巣峯林/高萩林/秋葉山林/入洞林/矢室林/向山林/日影山林/慈
眼
寺林
木曾山林学校
(実習便り)
断崖絶壁に立つて黒川の清流を
眼
下に眺め、駒ヶ岳(注60)の白峰を天空に仰ぎて、ヨイショヨイショの掛声勇
木曾山林学校
(木曽の五木と害虫)
木曽で私の
眼
に触れたもの丈でも尠なくはない。其中の2、3は本『林友』に記した通りである。
善光寺道名所図会
(○筑摩 麻績)
宿の入口の左側に仏
眼
山法善寺(曹洞派、寺領8石)の黒門の脇に庚申の祠反古塚などがあります。
木曾山林学校
(◎実験談)
は其効が少ないのみならず、却(かえっ)て蚊に食はれて苦しいよりも煙の為めに苦めらるゝ事が多く、為めに
眼
病或
桜田門外之変速報
([解説])
より質の良い生糸、と同時に相場を見る
眼
が大切だったのです。
善光寺独案内
([翻刻])
左りの方にハ 如意輪観世音菩薩 法道仙人 の開
眼
なり。 ,雲切めぐすり 伊勢町
眼
界堂笠原十兵衛氏製。 動物標本廛 西町東側、若松町角福島氏製造。,入歯 徳武金太郎 ――― 上後町 印舗 潤光堂 久保田照華 ――― 雲切目薬
眼
病一切,長野市伊勢町 本舗
眼
界堂 笠原十兵衛 附言、請売御望ノ方ハ御申込アレ。,一名善光寺のめぐすり (商標) 雲切光明香 貝入 金二銭 瓶入 金五銭 本剤が如何に
眼
の
上田郷友会月報 第壱号
([翻刻])
器ハ愈々(いよいよ)利ナ リ嗚呼(ああ)此ノ間ニ身ヲ処シ邦ヲ保ッハ亦(また)容易ノ業ニ非ラサルナリ
眼
ヲ
明治3年歎願書
([現代訳])
でしたらこのようなお願いを申し上げることはありませんが、私をはじめとし、大きな損失を受けている事態が
眼
前
小学理科生徒筆記代用
([解説])
自然界に於ける生活共同体としての考察より、動植物其他の自然物を説明」(生物)し、「自然力の征服及利用に着
眼
し
木曾山林学校
(科学文明と信仰)
時々刻々と発明発明を産んで、はては種々雑多の機械がうづ高く積み上げられ、人をして驚歎の
眼
をみはらしめるのである
扶桑之蚕6巻
([解説])
明治27年(1894)の上田新参町には、
眼
科医院や弁護士事務所、その現在地を知りたくなる。
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」
([解説])
「六日は一日見物に費やし、先づ(まず)海を見たり、汽車にも乗て見んものと、朝早く大略の道順を聞いて、
眼
鏡橋
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部
([翻刻])
はやく上洛せよ」との霊夢に 驚き、覚めて尊像を拝し奉れば、遍身に汗を流し、連
眼
より御 涙を流させ,今におひて尊像の連
眼
に落涙の痕在しける。 〇聖人御真像[御自作也。,く消しかば、彦四郎辛き命を助かりし も、ひとへに名号の御利益なるべしと、いよ/\信仰肝に徹し、今
眼
下,〇御伝絵四巻[御伝ハ覚如上人の御筆、絵ハ康楽寺二代目浄賀法
眼
筆。]
地震後世俗語之種
([翻刻])
かゝる 盛衰を
眼
前に見る事を思ひ徒に筆を 採て気欝を紙上にさらして累代のなくさみ に残すのみなり,り 一身爰に滅亡するとも、妻子ハ纔に山門を 隔りて出店梅笑堂にありて、おなし苦患に 悲歎する事
眼
前,時節なるかな、悪風悪火なる哉、火気 盛んになりて、本願上人様御院内・中衆・妻戸を
眼
たたく間に焼失,満足栄花を
眼
たゝくま (改頁) 85 にくつがへし、,明行寺大門先まて焼下る事、
眼
たゝく間にして左右へ吹かけ、また下た町へ焼下 るといへとも、逃去りし
木曾山林学校
(生きるといふ事)
多くの人々は傷き損ねられた心を持って、たった一つのものを血
眼
になって探して居る。
天保飢愁
([翻刻])
来るへきもはかりかたけれハ、随分ニ心を 用ひ、其貯致度ものなり、此かなしみを
眼
前
上田案内
([解説])
このほかに内科・外科・小児科・婦人科・
眼
科の医院が各所に散在していたとある。
木曾山林学校
(◎林業の方面より観察したる森林教育)
の道すら充分着手するの場合に立至らざりしを以(もっ)て、森林教育のことなどに至りては近年迄(ま)で着
眼
されなかつたのである,先年我国有林に於ては特別経営の事業に着手されたが、それと前後して各府県に於ても此公有林・民有林の営林保護に着
眼
し
養蚕往来
([翻刻])
(改頁) 14 神こそ養蚕なれ あらゆるひとのたすけなりせば
眼
のまへの
おらが春
([翻刻])
のわらひさそふや松の声 テ」ハ 御風 (改頁) 46 夜咄しや蚤に寝ぬ
眼
を,をいたゝいてたつ同者かな 和春 老懐 草萌もよそにのミ見てたつ日哉 梅塵
眼
に,もし百六十 年のむかしに在て、祖翁の過
眼
を 得むにハ、惟然の兄とやのたまはんか、 弟とや申し玉はむか
小県郡民謡集
(成人謡)
無理も優勝劣敗(注11)の 外國交際ますらを(注12)が 慨(なげ)く
眼
に雲漠漠。,富士山に 登つて彼方(かなた)を見渡せば 雲か霞(かすみ)か白糢糊(もこ 注6)の中に現はる東洋の諸國は
眼
下
地震後世俗語之種
([現代訳])
戊申(嘉永元年)3月、折から
眼
病に苦しむことすでに半月、
眼
鏡の力を借りて書いた人は、例の地震を体験した,折から
眼
病をひどく患っていましたので、この絵図が出たのを幸いに、水害の図は省略いたします。
善光寺独案内
([現代訳])
左の方には 如意輪観世音菩薩 法道仙人の開
眼
である。 ,雲切目薬 伊勢町
眼
界堂、笠原十兵衛氏の製造。
龍駕の跡
(龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))
なるあり、中には白妙の衣に紫の袴を一様に揃へたるもあり、山中なりとのみ思ひ悔り居たりしに、此様を見ては
眼
を,殊に可笑しきは御巡幸御行列の覗き
眼
鏡(めがね)にて、村娘、里婦争ひて之を覗き、此巡幸の方が綺麗(きれい,然るに当日十時半頃に至り、輾声(てんせい)行在所にて止みたるに驚き、戸を開きて出でんとすれば忽ち見る
眼
前,馭者台の美、馬の大、金飾り金紋
眼
を眩惑(げんわく)し、其他の部分を精しく拝觀する能はざりしが爲記憶せず,軈(やが)て宮内官は予(かね)て当家より差し上げ置きたる黒塗三葵紋(あおいもん)の盆を
眼
上高く捧げて出
『説諭要略』巻一
([ルビ・注記])
活
眼
開クニ期ナク。学事勉 メサレハ。義理分明ナラス。,(12)人物を見抜く
眼
力のある人。 (13)思いがけないしあわせ。 ,其機(き)(注9)タルヤ (改頁) 25
眼
能ク見。耳能ク聞キ。
善光寺道名所図会
(○筑摩 松本)
(注)松本市波田にある慈
眼
山若沢寺は、奈良時代末、僧行基によって水沢山に創建され、室町時代に現在地に移
御城下古法并市場古法書抜書集
([翻刻])
右場所より荷元江引合問屋同様之取引仕候間、買人も手近故 自由能様子ニ相調帰候様ニ相成、是等之儀
眼
前町方商売,当時者其村々ニ住居仕乍 (改頁) 73 居諸商売自由ニ仕候間、町方小商人共
眼
前差障
/ 2ページ