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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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秀吉と真田 (東西に分かれた真田父子)

に従い、会津遠征の軍に加わるべく、下野国犬伏(いぬぶし)(栃木県佐野市)に陣を取っていた真田昌幸に、石田三成方,豊臣家五奉行のうち、石田三成と浅野長政が抜けたあとの長束(なつか)正家・増田(ました)長盛・前田玄以の,しかし、美濃にまで進んだところで佐和山の石田三成に招かれ、家康打倒の計画を打ち明けられ協力を求められる,また、昌幸の娘のひとりは、石田三成の妻の弟宇多頼重(頼次)の妻となっている。,このように真田昌幸は、その娘を介して石田三成と近い姻戚関係にあった。
松代まちあるきマップ (14真田宝物館)

の短刀、永楽焼十一代目保全の茶碗などお茶道具の逸品、昌幸所用の「昇り梯子の甲冑」や刀剣類、豊臣秀吉・石田三成
秀吉と真田 (秀吉の死と家康の上杉征伐)

その直後には五奉行の実力者石田三成が、加藤清正ら秀吉子飼いの武功派の武将に襲撃され失脚、居城の近江佐和山
秀吉と真田 (三成ほか西軍諸将よりの書状)

石田三成のほか、長束・増田・前田という豊臣家奉行の面々はもちろん、総大将に担ぎ出された毛利輝元や宇喜多秀家,それによると、昌幸は西軍に応ずる旨を、七月二十一日付けの書状で、近江佐和山の石田三成のもとに申し送っていた,石田三成・大谷吉継は敗死。毛利輝元は大減封のうえ転封。,<史料解説> 「真田昌幸宛石田三成書状」   真田宝物館蔵   慶長五年(一六〇〇)七月三十日,<史料解説> 真田昌幸・信幸・幸村宛石田三成書状   真田宝物館蔵   慶長五年(一六〇〇)八月五日
秀吉と真田 (徳川秀忠軍の上田攻め)

  慶長五年(一六〇〇)八月二十五日  「会津中納言」上杉景勝から宇喜多秀家・毛利輝元・前田玄以・石田三成,真田信幸宛徳川家康書状   真田宝物館蔵   慶長五年(一六〇〇)九月一日  家康が、大垣城に詰めている石田三成,仍って大柿に治部少輔(石田三成)・島津(義弘)・備前中納言(宇喜多秀家)・小西摂津守(行長)籠り居り候
秀吉と真田 (家康の真田再征進発と秀吉による懐柔)

八月七日付け上杉景勝宛ての秀吉の臣増田長盛・石田三成書状では、真田は「表裏比興者」なので成敗することにした
秀吉と真田 (昌幸の秀吉への接近)

また、近年まで見落とされていた矢沢頼綱宛石田三成書状によれば、真田・徳川が対陣していた最中の九月二日かその
パスファインダー (真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村))

真田昌幸宛行状・羽柴秀吉書状・豊臣秀吉書状・豊臣氏奉行連書 状・長束正家等連書状・徳川家康書状・徳川家康安堵状・石田三成書
パスファインダー (真田氏研究の基本史料・古記録)

その書類 等は廃藩後公開されたが、果たして関ケ原の役のとき石田三成や五奉 行から昌幸に送られた書状等が
パスファインダー (真田氏関係の城址、寺社、文化遺産)

真田昌幸宛長束正家等連署状、真田親子犬伏密談 図、真田信幸宛徳川家康書状、真田信幸宛徳川家康安堵状、真田昌幸 宛石田三成書状
義烈百人一首 ([翻刻])

契りなりけり 【頭注】 細川忠興卿の内室は、慶長五年大坂玉造の屋敷に出陣の留守を固め居給ひしに、石田三成諸大名
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