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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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秀吉と真田 (神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き)

神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き 「秀吉と真田」の目次はこちら  上田城に拠(よ)った真田昌幸,そのうちの初回、天正十三年(一五八五)の第一次上田合戦=神川(かんがわ)合戦では、閏(うるう)八月二日 / 神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き
松代まちあるきマップ (28功徳山 願行寺)

「神川御陣の節ハ道山和尚一方の御防ニ加り、力戦仕候由」との記述も残る。,徳川の大軍を向こうにまわし、知略をもって勝利した第一次上田合戦(神川合戦)に、五世道山和尚が加担し、大
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (岩下村)

東川原 山: 烏帽子岳/燕岳/大松尾山/天狗岩/雄鴻岳/地蔵嶺/傍部山/太郎山 川: 千曲川/神川瀬澤川,橋: 神川橋/瀬澤橋 道路: 北国往還 社: 伊波穂神社/天神社/大神宮・蚕影社/山神社,醤油/清酒 民業男: 農業/養蚕 民業女: 農桑/養蚕/真綿/紬織 その他特記ワード: 神川合戦
秀吉と真田 (上杉方による上田城増築普請)

なお、上田(神川)合戦の際の上杉勢の具体的な動きについては、景勝自身の出馬は長沼(長野市)までであり、,猛反撃に移り、城下の街路に仕柵けてあった千鳥柵けの柵などにより混乱しながら敗走する徳川勢を追撃、国分寺・神川,このため、この戦いは神川(かんがわ)合戦とも呼ばれる。
パスファインダー (真田氏関係の城址、寺社、文化遺産)

ツール 真田氏関係の城址、寺社、文化遺産 実戦の城としての上田城はじめ城址について、関が原合戦前夜,真田幸隆平常服画像 黄八幡の指物 真田家重宝・吉光の短刀 青江・ 三原の太刀、昌幸昇梯子鎧 四阿山奥宮社殿扉 長篠合戦図屏風,真田幸隆平常服画像 真田昌幸画像 真田父子犬伏密談図 真田信之 画像・木像 大蓮院画像 元和年間上田城図 神川合戦図,大英寺 白鳥神社 松尾古城之 図、白鳥神社海野系図、真田幸隆宛武田信玄宛行状、四阿山奥宮社殿 扉、長篠合戦図屏風,和年間上田城図、柳沢与兵衛宛宮下藤衛門判物、諏訪久三宛真田弁丸 (幸村)安堵状、矢沢頼幸宛須田満親書状、神川合戦図
秀吉と真田 (上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸))

第一次上田合戦(神川合戦)直前の状況、真田氏の上杉氏従属の経過を物語る貴重な史料であるとともに、確かなものはごく,そして、この二人とも第一次上田合戦直前には徳川軍と戦うべく一旦上田へ帰ったとみられるのである。,この合戦の前後に信繁の母(昌幸の妻)が海津城にいたことも知られる。
上田の早苗 ([翻刻])

神君厚ク昌幸ヲ招カセ玉ヒ御誓紙マテ賜ハリシカハ即昌幸御味  方ニ参上ス、時ニ徳川家北条家ト甲州若神子表合戦,ノ田圃ニ在レバ一旦ハ此ノ処ヘ移リ又今ノ地天王屋敷へ移リ来リシナランカ]   因ニ云、天正十三年上田合戦,常田隆永永禄元年易叟国賢和尚ヲシテ常田庄ニ寺一  宇ヲ建立シ、之ヲ伝叟山月窓寺ト云フ、天正十三年ノ上田合戦,なるべし]コレハ余戸(ヨト)  以上八郷○此内須波ハ今諏訪部を本郷と  して、西は下塩尻より東北ハ神川,ヨムナ)ハ海野にして、東ハ片羽芝生田井子糠地より、北は中吉田森漆戸 矢沢赤坂下郷林之郷、西は大屋岩下神川界迄
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