• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • キーワード一覧

NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 12件
辞書ファセット
/ 1ページ
秀吉と真田 (豊臣氏関係遺品)

[目録]   豊臣秀頼書状 <史料解説> 「豊臣秀頼書状」   真田宝物館  ,真田信之から歳暮の祝儀の品として呉服が送り届けられたことについての豊臣氏二代秀頼の礼状。,黒印の印文は「秀頼」。,秀頼は慶長二十年(一六一五)五月八日の大坂城陥落に際し、母淀殿とともに自害して果てた。,片桐市正(いちのかみ)且元は秀頼の後見役。
秀吉と真田 (三成ほか西軍諸将よりの書状)

此くの如く一人宛相果たされ候ては、秀頼様(豊臣)取り立てらるべき儀にあらず候に付いて、各(おのおの)申,貴殿の御事、   太閤様別して御懇ろ御忘却無く候はば、此の節、秀頼様へ御忠節肝要に候。,貴台連々大閤様御懇意忘却無きに於ては、此の節秀頼様へ御忠節肝要に存じ候。,一何方に御在陣候共、右趣御分別候て、秀頼様御見捨て有る間敷き事肝要に候。,貴殿連々大閤様御懇意忘却無きに於ては、此の節秀頼様へ御忠節肝要に存じ候。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (飯田町)

まげもの)/柄杓/桶 民業男: 商 民業女: 縫紡/養蚕 その他特記ワード: 坂西氏/毛利秀頼
秀吉と真田 (東西に分かれた真田父子)

秀吉の遺子秀頼を擁して反徳川の兵をあげたので、是非吟方になってくれというのである。,反家康勢・西軍の決起を告げ、豊臣秀頼への忠節、つまりは西軍への同心を求めている。,今度景勝発向の儀、内府公上巻の誓紙并びに大閤様御置目に背かれ、秀頼様見捨てられ出馬候間、各(おのおの),此の旨尤もと思し召し、大閤様御恩賞を相忘られず候はば、秀頼様へ御忠節有るべく候。恐々謹言。    
秀吉と真田 (秀吉の死と家康の上杉征伐)

秀吉の遺言は五大老が遺児秀頼の成人するまで補佐するというものだった。
秀吉と真田 (真田幸村と大坂の役)

慶長十九年(一六一四)、徳川氏と大坂城の豊臣秀頼との間に大坂冬の陣が起こる。
パスファインダー (真田信繁(幸村)と大坂の役)

大坂冬の陣夏の陣 真田信繁(幸村) 真田は日本一のつわもの 淀の 方 秀頼 徳川家康 真田丸 1
信州飯田町家控 ([翻刻])

伊勢町と     (改頁)      5    唱者、次ニ番匠町を建天正十八年毛利河内守  秀頼公飯田之城再住之時,    (改頁)      10    番所近辺也 一天正十年午二月より八月迄毛利河内守藤原秀頼公,御所替也     (改頁)      11    天正十八年より再び御城主毛利河内守侍従藤  原秀頼公今年関白秀頼公小田原北条,を  御征伐、毛利秀頼公小田原発向御軍功ニ依而秀  吉公仰ニ、信州伊奈郡者其方本国之間被下置  ,文禄二年迄街道成     (改頁)      12    就也、文禄元年朝鮮国御征伐ニ仍而毛利秀頼公
信州飯田町家控 ([現代訳])

次に番匠町を建て、天正18(1599)年毛利河内守秀頼公が飯田の城に再び住むようになった時、本町1丁目,一天正10年2月より8月迄毛利河内守藤原秀頼公が、下伊那5万石を支配されました。,天正18(1590)年より再び、城主は毛利河内守藤原秀頼公となりました。,この年関白秀頼(吉)公小田原の北条氏を征伐しましたが、毛利秀頼公は小田原へ行き軍功によって、秀吉公より,文禄元(1592)年朝鮮征伐に毛利秀頼公は、海を渡り軍功を挙げました。帰陣の途中で病死しました。
宿継要書留 ([解説])

7年駄分荷物についての争いに関する諸書類  天正18(1590)年7月に再び飯田へ入封してきた毛利秀頼
秀吉と真田 (徳川秀忠軍の上田攻め)

一大閤様御不慮以来内府(家康)御置目に背かれ、上巻の誓紙に違はれ、恣の仕合故、各仰せ談ぜられ、御置目を立てられ、秀頼様御馳走
長野県師範学校生徒修学旅行概況 (長野県師範学校生徒修学旅行概況[全文])

其後 織田の将毛利河内守秀頼之に居る、後豊臣氏を経て徳川氏に至りても、屡々替代あ りしか元禄四年内藤丹後守清枚
/ 1ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました