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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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寛保二年十月上畑村総百姓往還道・屋敷移転取極証文 ([解説])

寛保二年十月上畑村総百姓往還道・屋敷移転取極証文 / 寛保二年一〇月の「上畑村総百姓往還道・屋敷移転取極証文」は、右のような大被害を受けた上、今後も同様の被害,を受けかねないと考えた村民が、村の移転を決めた際の取極証文である。,移転場所は中畑村に近い、被災地より標高が高く、山よりの場所とした。,上畑村は信州佐久地方と甲州を結ぶ甲州道上に存在した村だったので、移転先へも甲州道(往還道)を通すことにした,移転から三〇年余り後の安永七年(一七七五)、上畑村の人々は「戌の満水」によって流されてしまった自福寺を
寛保二年十月上畑村総百姓往還道・屋敷移転取極証文 ([現代訳])

寛保二年十月上畑村総百姓往還道・屋敷移転取極証文 / [現代訳] 屋敷と往還道についての定め 一、今度の満水による大災害のため、往還道と屋敷を移転したく
寛保二年十月上畑村総百姓往還道・屋敷移転取極証文 ([翻刻])

寛保二年十月上畑村総百姓往還道・屋敷移転取極証文
寛保二年八月上畑村水災救恤願 ([解説])

寛保二年一〇月の「上畑村総百姓往還道・屋敷移転取極証文」は、右のような大被害を受けた上、今後も同様の被害,を受けかねないと考えた村民が、村の移転を決めた際の取極証文である。,移転場所は中畑村に近い、被災地より標高が高く、山よりの場所とした。,上畑村は信州佐久地方と甲州を結ぶ甲州道上に存在した村だったので、移転先へも甲州道(往還道)を通すことにした,移転から三〇年余り後の安永七年(一七七五)、上畑村の人々は「戌の満水」によって流されてしまった自福寺を
寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願 ([解説])

寛保二年一〇月の「上畑村総百姓往還道・屋敷移転取極証文」は、右のような大被害を受けた上、今後も同様の被害,を受けかねないと考えた村民が、村の移転を決めた際の取極証文である。,移転場所は中畑村に近い、被災地より標高が高く、山よりの場所とした。,上畑村は信州佐久地方と甲州を結ぶ甲州道上に存在した村だったので、移転先へも甲州道(往還道)を通すことにした,移転から三〇年余り後の安永七年(一七七五)、上畑村の人々は「戌の満水」によって流されてしまった自福寺を
寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書 ([解説])

堤防工事をお願いしたが、今後も水難を受ける恐れがあるので、現在地から「上の段」という鹿曲川から離れた場所へ移転,望月宿住民が、より安全な場所(鹿曲川から離れた高台)への移転を希望していたことがわかるが、この移転は実現,められたかどうかはこの史料からはわからないが、この後望月新町は、橋を渡った先の望月宿に接続した場所へ移転,より安全な場所を願って移転したものと思われる。
寛保三年二月宿場引き移し嘆願書 ([解説])

堤防工事をお願いしたが、今後も水難を受ける恐れがあるので、現在地から「上の段」という鹿曲川から離れた場所へ移転,望月宿住民が、より安全な場所(鹿曲川から離れた高台)への移転を希望していたことがわかるが、この移転は実現,められたかどうかはこの史料からはわからないが、この後望月新町は、橋を渡った先の望月宿に接続した場所へ移転,より安全な場所を願って移転したものと思われる。
寛保三年三月復旧方懇願書 ([解説])

堤防工事をお願いしたが、今後も水難を受ける恐れがあるので、現在地から「上の段」という鹿曲川から離れた場所へ移転,望月宿住民が、より安全な場所(鹿曲川から離れた高台)への移転を希望していたことがわかるが、この移転は実現,められたかどうかはこの史料からはわからないが、この後望月新町は、橋を渡った先の望月宿に接続した場所へ移転,より安全な場所を願って移転したものと思われる。
寛保二年十一月堤防工事嘆願口上書 ([解説])

堤防工事をお願いしたが、今後も水難を受ける恐れがあるので、現在地から「上の段」という鹿曲川から離れた場所へ移転,望月宿住民が、より安全な場所(鹿曲川から離れた高台)への移転を希望していたことがわかるが、この移転は実現,められたかどうかはこの史料からはわからないが、この後望月新町は、橋を渡った先の望月宿に接続した場所へ移転,より安全な場所を願って移転したものと思われる。
分県之建白 (ひとつの長野県に)

3か月後の10年11月に、長野県は、早くも「本国全地ノ中央」にちかい上田町に県庁を移したいという県庁移転,松本出身の県会議員市川量造が、その翌年の13年7月5日、県会議長に「県庁移転ノ建議」を提出しました。
パスファインダー (移庁・分県運動)

びとの願いなど、移庁・分県運動の経過を 調べる キーワード 移庁 分県 県会 市川量造 県庁移転建議書,北信 松本騒擾事件 長野県議会 長野市 松本市 浅井洌 長野県歌「信濃 の国」 県議会分県委員会 県庁移転新築期成同盟会
木曾山林学校 ([解説])

加えて同年10月に予定されている、校舎の新築移転や寄宿舎完備などを伝え、林学科のみの学校は全国に当校しかなく
松代まちあるきマップ (20平林山本誓寺)

慶長十四年(一六〇九)、現在地に移転。
松代まちあるきマップ (33尼巌山浄福寺)

豊臣秀吉にも重用され、朝鮮の役にも活躍したが、上杉氏の会津移転の際、急死した。
木曾山林学校 (11.実習)

に設置すること能はざるものありと雖も、42年度来着手中の新校舎は既に一部の落成を告げ、明年度中に於て移転,し得べき見込みなるを以て、苗圃・林産物製造場・農業実習地・其他の固定設備は校舎の移転と共に改設すべき見込,      35   植物園は現在面積約1反歩にて植付林木60余種を有するも、新築校舎に移転,だ狭隘(きょうあい)にして、僅かに木材乾留釜1台及之れに付属の設備をなせるに過ぎざるを以て、新校舎に移転,林業教育を専門とせる本校が他の農林併置の学校に比し遜色なき能はざるは甚だ遺憾とする所にして、新設校舎に移転
パスファインダー (中野県分県と長野県誕生)

明治3年9月に伊那県から分県して成立した中野県は、9か月後の明治 4年6月に長野村善光寺町に県庁移転,長野県史刊行会 信毎書籍印刷 198110.31 長野県 自明治4年 至同9年 の項に、中野県移転願
長野県師範学校生徒修学旅行概況 (4.数千の教師を育てた浅井洌先生)

自由教育を主張し、教育施策を提言する」(前掲書)  明治19年38歳の時、師範学校が松本町から長野町に移転
(株)第十九銀行と諏訪製糸業 (諏訪地域への進出)

諏訪製糸家に最も多くの資金を供給した第十九銀行が、下諏訪村の季節諏訪出張所を製糸業の中心地平野村岡谷に移転
木曾山林学校 (廿周年記念号の終に)

松田校長の創設の傷心、江畑校長の整理に、新築企図安藤校長の新築落成を俟(ま)つて移転、且其内容充実に、
「月桂新誌」(7冊) ([解説])

本局がこの知新堂から北深志町に移転した先には、月桂社が併置された。,移転後は、もとの本局があった知新堂に支局を置くと同時に、保高町(現、安曇野市穂高)にも支局を置いた。
秀吉と真田 (真田氏の動静)

家康の移った大坂城下へ移転しようとしていた様子など、関ケ原合戦につながる上杉氏征討の軍が起こされる直前
パスファインダー (花岡初太郎と盲人教育)

昭和30年三輪にあった校舎に移され、同35年北尾張部の 現在地に新校舎が落成するにともなって移転した。
木曾山林学校 (学校要覧)

大正元年8月7日安藤時雄校長に任ぜらる 〇同年10月1日西筑摩郡新開村新築校舎略竣工したるを以て、本日移転,をなし移転式を挙行す 〇大正2年4月1日県令第18号を以て学則を改正す。
パスファインダー (もう一つの五稜郭・龍岡城)

佐久市臼田町誌刊行会 2008.3.20 第二章第五節三「五稜郭と幕末動乱」に、三河奥殿藩が本拠地を信州 田野口へ移転
パスファインダー (松代大本営の建設)

 松代大本営の建設と強制労働」 日本の敗色が濃厚となった昭和19年、軍部は密かに大本営の東京から の移転
『長野史料』索引 ([翻刻])

寺役人鎗御免       人四 仝     正法寺ノ起原       人四 仝     寛慶寺ノ移転
絵本東名物鹿子 二 ([翻刻])

一方、移転せずに当地に残った人々は、「こちらが元からある岩井町」という意味を込め、町名を「元岩井町」と,明暦3年(1657)の大火後、日本橋葺屋町にあった吉原遊郭が移転してできた(『精選版 日本国語大辞典』
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 ([解説])

、生徒は男女四十四五名はかりであった、…石堂は仮校で、後町裏の田圃の中に、新築の校舎が落成したので、移転
木曾山林学校 ([注記])

1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で甚大な被害が出てからこの貯木場は次第に移転・縮小され、現在は記念碑
諸国道中商人鑑 (4 小田井から本山まで)

御嶽遥拝所が和田峠嶺の東側にあったが、明治期の新道開鑿の折に移転した。
木曾山林学校 ([注記])

(注62)新校舎:新校舎は大正元年(1912)10月竣功、移転した。
木曾山林学校 (校友会の起源と岐蘇林友の発達)

同年10月諒闇中(りょうあんちゅう:天子が喪に服する期間中)に新築校舎に移転す。
木曾山林学校 (木材紙料(しりょう:注27)製造業)

従て製紙の主産地は専ら『スプルースヘムロック』、林豊富にして且水力利用に便なる地方に移転せり。
(株)第十九銀行と諏訪製糸業 ([ルビ・注記])

を以て着々取引を拡張し、二十三年に 至り下諏訪町出張所の位置を製糸業の中心地たる 平野村字岡谷に移転
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 ([ルビ・注記])

石堂は仮校で、後町裏 の田圃の中に、新築の校舎が落成たので、移転はした が、造作不充分のあばらやであった,五月十八 日、宿直番長兼務を命ぜられて、文部省構内の官舎に移転 した。  
龍駕の跡 (龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))

明治十九年(1886)師範学校を長野に移転し新校舎起工。同年浅岡一が校長に就任。,戦時中の昭和十九年、二十年頃は学生は工場へ勤労動員されたり、三菱飛行機、凸版印刷等の会社が疎開工場として移転
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