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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (稲荷山町)

稲荷山町 地域 北信 市町村名 現在(令和2年):千曲市(ちくまし) 明治初期:稲荷山町(いなりやままち,) 幕末から明治初期:稲荷山村/八日町/治田町 幕末から明治初期(よみ):いなりやまむら/ようかまち,・山神社・道祖神・見崎社・稲荷社)/矢坂社/伊勢社 寺: 光明山極楽寺/長雲寺 学校: 小学稲荷山学校,崎/(会所)北第十四大区会所・五小区扱所/五等郵便局 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 稲荷山町誌略図 / 稲荷山町
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (有旅村)

名志良須山 渡・堰: 柳沢堰/名志良須堰/北堰/南堰/篠井池/名志良須池 道路: 松本道/七二会より稲荷山道,/稲荷山道/七二会村より布施高田村道/本村より岡田村道/本村より三平林村道/岡田村より新町村道/篠ノ井道
善光寺道名所図会 (『善光寺道名所図会』の構成)

を岡田・苅谷原・会田、立峠を越えて乱橋・法橋を過ぎ、青柳宿・麻績宿から猿が馬場峠を下って更級郡に入り稲荷山宿,さらに、稲荷山宿から八幡宮・銕捨山を探訪し、篠ノ井から分かれて、久米路橋・牧之島城跡を訪ねて善光寺に入
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (追分村)

坂下/前谷地堰下/前谷地中島/雨池/南牛越/北牛越/夕日当リ/神田/城ノ沢/夕日堰下/堂庭/昇進橋/稲荷山,/稲荷山東/小柳原/唄坂/滑橋/一里塚/唐松道上/唐松道下/萩畑堰下/萩畑/南萩畑/東牛越/小原沢/小原沢上
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (臼田村)

上諏訪社/下諏訪社/祇園社 寺: 相沢寺/弥勒寺/医王寺 学校: 正諠学校 古跡・名勝: 稲荷山
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (黒彦村)

千曲川/川除(かわよけ) 渡・堰: 用水堰/内川堰/屋代仮堰(やしろかりせぎ) 道路: 稲荷山及
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([翻刻])

一 川中島、稲荷山、塩崎亡所同前、岡田砂入其外壱万石之内無難。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (田沢村)

中山/向山/中央山/稗田山/土樋久保/小花見 川: 聖川 渡・堰: 用水堰 道路: 稲荷山道
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (戸倉村)

川: 千曲川/中山沢/樽沢(たるさわ)/柳沢 渡・堰: 用水堰 道路: 北国街道/八幡村稲荷山駅道
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (安庭村)

ノ入/宮ノ久保/山岸 山: 虚空蔵山/秋葉山 川: 犀川 渡・堰: 用水堰 道路: 稲荷山
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (田野口村)

/権田山/城ノ入山 川: 聖川/東沢かわ/西沢川/中畑沢 道路: 長野より松本街道/隣村道/稲荷山道
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (西船山村)

くいせけふなばし)/粟佐船橋(あわさふなばし)/尾米橋 道路: 北国街道/屋代往還(やしろおうかん)/稲荷山往還
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([解説])

その最も早い例は稲荷山(千曲市稲荷山)の小林五藤の手によるもので、6月下旬に出版されました。,善光寺町(長野市)、飯山(飯山市)、稲荷山(千曲市稲荷山)、新町(長野市信州新町)などが全焼していることが
善光寺道名所図会 (○筑摩 麻績)

○筑摩 麻績 33右   六町程相対して巷をなす、其余町裏に散在す、稲荷山宿へ三里、 此間猿ケ馬場
戸隠善光寺往来 (十返舎一九と信濃)

文化11年(1814)には、木曽から松本に入り、穂高、大町、新町、稲荷山を通って善光寺に参詣し、越後へ
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (小島田村)

千曲川/小犀川堰/大堰/野田堰/諏訪分堰/天王堤/水除堤 橋: 舟橋/大橋 道路: 長野街道/稲荷山街道
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([現代訳])

一 川中島、稲荷山、塩崎が流失、岡田には土砂が流入しましたがそのほかの一万石の領地は無事でした。
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([解説])

・川中島、稲荷山、塩崎地域は上田藩松平氏の近親者が納めている領地ですから情報が入り『問屋日記』に記されているのです,八月一日には稲荷山と塩崎間の堤防が決壊、左岸の村々に大きな被害をもたらしています。
犀川を下る記 (1.犀川通船の盛衰)

北国脇往還(善光寺街道)を経由して善光寺まで荷物を運ぶには、「岡田村・刈谷原村・会田村・青柳村・麻績村・稲荷山村
はなの ([解題])

彫工は、千曲市稲荷山の橘葉堂(きつようどう)である。板下は編者八朗であろう。半丁十行書き。  
伊那の中路 わがこころ (わがこころ)

17日に帰途に就き、ふたつ柳、塩崎、稲荷山を過ぎ猿が番場峠を越え青柳に宿した。
善光寺道名所図会 (善光寺道(北国脇往還))

あいだ)・青柳(おおやぎ)・麻績(おみ)宿を経て、猿ケ馬場(さるがばんば)峠を越えて更級(さらしな)郡の稲荷山
善光寺道名所図会 (○筑摩 麻績)

稲荷山宿へ3里、その間に猿ケ馬場という峠があります。
パスファインダー (米騒動)

松本市、長野市、上田町(上田市)、飯山町 内容紹介 (飯山市)、赤穂村(駒ヶ根市)、須坂町(須坂市)、稲荷山町
パスファインダー (長野県の5つの国立銀行)

19国立銀行(上田町、1877年)、第24国立銀行(飯山町、18 77年)、第63国立銀行(松代町・稲荷山町
弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図 ([現代訳])

その時犀川の洪水が逆流してあふれ、水も火も激しいまま市中を水没させました]、また上は稲荷山から下は飯山
信濃名勝詞林 (かけはしの記)

稻荷山といふ處(処)にて雨ふりいでたれは 日はくれぬ雨は降きぬ旅衣 袂(たもと)かたしきいつくにか
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 ([翻刻])

より犀川      を渡り、芝村の阿弥陀堂を拝し、千隈川を越へ松代の城下に出、是より    塩崎、稲荷山,大宝山正行寺 東派御坊所[塩崎より稲荷山、をみ、青柳、会田、厂ヶ原、岡田、此間十二里。
信濃名勝詞林 (陸路廼記)

稲荷山にいてたるに。此駅は西の国人らの。善光寺に詣る道にて。人の行かひもしけくなれゝは。
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 ([現代訳])

一つは善光寺より犀川を渡り、芝村の阿弥陀堂を拝し、千曲川を越えて松代の城下に出、ここから塩崎、稲荷山、,大宝山正行寺  東派御坊所(塩崎から稲荷山、麻績、青柳、会田、刈谷原、岡田、この間12里。
むしくら日記 (4巻 貞)

御渡     (改頁)      14   相成候よし、委細之儀ハ云々     六月 ○稲荷山米,ニ上ヶ屋村迄迯行助りけると云、 長谷川深美、此夜御用にて上ヶ屋村に止宿、翌朝聞たると 聞り、 稲荷山潰
むしくら日記 (1巻 元)

んニみえたり、此内 北の方善光寺なるべしと覚しき辺と、清野山を     (改頁)   越て稲荷山,(改頁)      48   死たるなるへし、江戸よりも夥敷参詣ありて、帰らさる 者多しと云、稲荷山宿
むしくら日記 (1巻 元)

このうち北の方の善光寺と思われる辺りと、清野山を越えて稲荷山の辺りと思われる火は、とりわけ範囲も広く激,稲荷山宿でさえも旅人が800人も死んだと聞きますので、善光寺では宿屋や宿坊まで加えれば旅人は3、4千人
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([翻刻])

         宮淵村           与頭藤三郎娘          〆 右之者、廿四日上田御領分稲荷山,            常右衛門            同人妻             せき  右者稲荷山宿
地震後世俗語之種 ([翻刻])

やるかたなく心を痛め、未申にあたりてハ三里 を離れす、稲荷山の一円の大火眼前に見え、  
地震後世俗語之種 ([現代訳])

南西の方角には、3里も離れていない稲荷山一帯の大火が目の前に見え、大地は幾度となく震動し、また鳴動して
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([現代訳])

市郎兵衛借屋常右衛門・同人妻セ起、あわせて十人 宮淵村 組頭藤三郎娘 右の者たちは、二十四日に上田御領分の稲荷山宿丸屋八左衛門方,・周蔵・七之丞忰寿三郎・房右衛門忰祐次郎・同人後家里う・市郎兵衛借屋常右衛門・同人妻せき、 右は、稲荷山宿
烈女百人一首 ([翻刻])

 そらゆく雲の さだめなければ 花満是を見て歎き母の行末を尋れどさらにしれず、十五才の時京にのぼり稲荷山
龍駕の跡 (龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))

此国の一ノ宮八幡大神の鎭まりませる里なれば、御社を拝みて稲荷山に出でたるに此駅は西の国人等の善光寺に詣
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