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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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秀吉と真田 (小田原出陣)

真田昌幸は次いで、城主が逃亡した上野の箕輪城を受取った旨を、秀吉に報じている。,天正十八年(一五九〇)七月五日、北条氏直は降伏し、関東の雄北条氏は滅んだ。,〇)四月二十九日  松井田城を落とした後、昌幸ら北国囗勢は箕輪城の羽賀信濃守を追い出し、城を受け取った,箕輪城の儀、羽賀信濃守追い出し、保科居残り、城相渡すに付いて、羽柴孫四郎同前に請取るの由尤もに候。,家財は少々城主にも下され候間、其の意を成し、箕輪の儀も玉薬其の外武具・兵粮以下、少しも相違せざる様に念
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (発地村)

/荒熊/中山/長畑/鳥巣/渋沢/長日向/馬越/新道/馬渡/揚口/上郷/東山/銀杏木/常光寺/尾高根/五反田,江戸村/寺前/大日前/新田/西郷/本郷/向村/腰巻/石尊道/上板取/板取/西尾高根/土井口/欠羽/大石/箕輪,鹿/雉子/白木綿/草蓑/薪/炭 民業男: 農桑/(農間)採薪・焼炭・賃馬稼 民業女: 農事補助/
信州飯田町家控 ([翻刻])

   北虎口と成 一往昔当郷之大身の領主無之、飯田郷民悲之飯田  郷より與右衛門、別府村より助右衛門,なり  今奥曲輪ニ山伏丸といふ処ハ此所行のあと也  と云、此外神明の社有しを城の外へ移す、今の,の  神嶺城主知久大和守頼氏公没落之後、飯田へ移り  壱丁目二丁目を建知久町と号す、此時城外曲輪ニ,ケ村此方三千七百石余、月原より南ハ三州境                   新野村迄 一上伊奈箕輪領, 被仰付候、是ハ江戸江出口伝馬宿ニ被仰付、諸役地  子米御免ニ被成候ハ御伝馬相勤候故也 一正保五子年三月御城下惣曲輪之外
(株)第十九銀行と諏訪製糸業 (3点史料の概要)

当時常務取締役であった箕輪五助名で刊行された。
信州飯田町家控 ([現代訳])

だから伝馬町迄曲輪・惣堀の内です。,城普請をし外曲輪を広め、家中屋敷も段々建て、本町2丁目の上に十王堂がありましたが、これを箕瀬羽場へ移し,一下條領28ケ村は3700石余、月原より南は三州境新野村迄   一上伊那箕輪領23ケ村は10000,長光寺曲輪は掃地になりました。      ,角屋敷主の知久町通小左衛門・次郎四郎・曽右衛門・与右衛門、本町の上の五郎右衛門・九郎四・文左衛門・三郎五郎
秀吉と真田 (武田氏・織田氏の滅亡と真田昌幸)

さらに昌幸は武田氏末期の天正八年(一五八〇)には上州沼田城を攻略する。,ところが、天正十年(一五八二)三月、武田勝頼は織田信長に滅ぼされ、信濃など旧武田領は信長の重臣に分け与,ともかくも、真田の帰属を喜んだ家康は、昌幸に「当知行」つまり現支配地安堵(確認・保証)のほか、上州の箕輪,昌幸は早速、依田信蕃を助けて、佐久の北条方に攻撃をしかけている。  
(株)第十九銀行と諏訪製糸業 ([ルビ・注記])

諏 訪の地何に因りてか製糸業は勃興した る其創始以来の歴史は如何其現況は如 何然して又之れが補助機関,降り て明治六年東京の豪商小野善助、範を伊太利(いたりー)式に取 り百釜の器械製糸場を上諏訪に建設,現任役員   取締役頭取 黒沢鷹次郎  常務取締役 飯島 保作  常務取締役 箕輪 五助   取締役,             取締役社長  黒 沢 鷹 次 郎              常務取締役  箕 ,輪  五 助              同      高 橋  槇 蔵              
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([翻刻])

          青木勘太夫殿           堀箕之助殿              左助殿,ル大町両人、松川不参 右之通罷出ル、於会所御酒 被下候、為御挨拶御手代           堀箕助殿,なし        むし貝        はす          塩ます    大平  竹輪ふ,小沢有喜右衛門           蜷川規兵衛  川除方      牧野幸太夫           箕浦治左太,       箕浦治左太代り            樋口和一     表御勘定所        
(株)第十九銀行と諏訪製糸業 ([ルビ・注記])

 常務取締役  飯島保作  明治二二十三年一月取締役兼支配人中山彦輔死亡ニ付襲任  同      箕輪五助,    茂木保平  同年監査役創設ノ際就任  同      小口善重  同 上  同      児玉彦助  ,)実ニ五千五百余梱ノ生糸ヲ製スト称セラル此原料繭 約五万五干石余代金凡ソ弐百五拾余万円ヲ要スヘシ形勢如此加,スルヲ以テ苟クモ産繭アルノ地信州製糸家ノ足跡至ラサル所 ナク彼レ等ノ或モノハ曽テ支那内地ニ深入シテ外繭輪人,   (非売品) 明治三十九年六月十日発行      発行兼  箕輪五助      著述者  長野県小県郡上田町
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([現代訳])

・青木勘太夫殿・堀箕之助殿・左助殿・ほかに二人 同役 藤森・丸山・金井・藤井・上条・中沢、中沢は出懸,丸山円十郎 右の者が出た、大町両人と松川は不参加 会所で御酒をくだされ、御挨拶のため、御手代の堀箕助殿,  (改頁)   硯蓋 巻玉子・阿か貝・なし・むし貝・はす 大平 塩ます・竹輪ふ・竹の子 鉢 ,れのないよに申し聞かせること、郡所より、 宗門方米山富之丞・小沢有喜右衛門・蜷川規兵衛、川除方牧野幸太夫・箕浦治左太,・箕浦治左太代り樋口和一、表御勘定所勝山八右衛門代り、御代官石井浅右衛門石井浅右衛門代り、吟味役喜多村小市
寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)

]小沢小左衛門氏昭   小野序助   浩外義然居士  寿岳瑞応居士        二男  智海良泉大姉,して小野序助上町綿屋江養子ニ行  二男ハ小源治幼年より尾州名古屋江医学ニ遣し  執行之上帰国中町江養子,慎てせぬもの  也と常々仰られしと父公より承り申候 一芝産様初メ松島村江御引越之砌ハ先師匠森[半助信敏,名積翁為善居士 匡晧母方親類     近江屋 高遠町  白鳥 甚四郎 当時藩中ニ而白鳥正平 箕輪西山,文化11年まで小野で師匠をつとめた後、南殿(現南箕輪村)、一ノ瀬村で師匠をつとめた(『辰野町誌』)
義烈百人一首 ([翻刻])

【頭注】 菊地次郎武士は寂阿の孫なり、父肥後守武重は忠義勇烈の将にて都鄙にその名隠れなし、武士も箕裘,くこと三日を過まじと力を付る、勝頼大に怒つて刑するといへども、武名は万代輝しぬ、 (改頁) 65_箕作義賢入道承禎,の留守なるゆゑ老て戦場にのぞまざるを無念に思ひ述懐の心にて此哥は詠けるとなん、 (改頁) 65_箕作義賢入道承禎,もゆたかに 春風ぞふく かくてのち、又承禎の息、右衛門督義弼変心して三好と合体せしゆゑ義秀軍を発して箕作,出家し、又還俗して末に戦死す、我慢の一畸人なり、 (改頁) 89_二蔵主(にぞうしゆ) みつの輪に
地震後世俗語之種 ([翻刻])

尚更混雑不埒(ふらち)、親 の教訓(をしへ)も午(むま)の耳、悔んて還らぬ無学愚知、 述懐などゝハ金輪際俗物,三国一の甘酒山川白酒のたぐひ、よし簾(す) の茶店ハ流行のこげ茶深川鼠、声花(はなやか)ならす、 雪輪(,横沢町                親類差添 弥助印                 中野治兵衛様,にあるらめと、地震後世噺の種(たね)、実法(みのり)はせずとも 一ト度(たび)は嗚呼(おこ)がましくも唐箕(,)      95   か家に火を吹かくる事夥敷、火煙り霞の如く 空によこたはり、三輪・
地震後世俗語之種 ([現代訳])

葦簀(よしず)掛けの茶店は流行の焦げ茶や深川鼠、呼び込みの声は華やかではありませんが、雪輪・乱菊・桜草,これは日光御門主様(輪王寺宮)から拝領の輿で、金銀の金具が輝き綺麗という言葉ではとても足りません。,「地震後世噺の種」は、実りはせずとも、せめて唐箕(とうみ)にかけられて吹き飛ばされる籾殻くらいにはと、,火煙が霞のように空に横たわり、三輪・宇木の辺りまで火の粉が恐ろしいほど舞い上がり、終始炎に取り巻かれ、,人間の五体は地水火風空の五大によって成り立っていますが、その一方で地水火風空の五大が五体を苦しめるのです
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