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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ
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秀吉と真田
(三成ほか西軍諸将よりの書状)
三成ほか
西軍
諸将よりの書状 「秀吉と真田」の目次はこちら 七月十七日の檄文に続き、上田城の昌幸の,下へは
西軍
の主要武将よりの書状が続々と届けられた。,会津との連携を取る上でも真田氏の存在は
西軍
にとって重要だった。,昌幸が大坂方(
西軍
)に応じる旨を申し送った書状に対する返書である。,安芸広島城主で
西軍
の総大将に担ぎ出された。 / 三成ほか
西軍
諸将よりの書状
秀吉と真田
(東西に分かれた真田父子)
その結果は周知のように、昌幸と信繁は石田方・
西軍
に加担し、信幸は徳川方・東軍に加わり、父子兄弟が東西に,反家康勢・
西軍
の決起を告げ、豊臣秀頼への忠節、つまりは
西軍
への同心を求めている。,これを受けて、真田氏は昌幸・幸村は
西軍
に付くべく上田城へ引き返し、信幸はとどまって東軍に味方することになった, 真田父子犬伏密談図 <史料解説> 真田父子犬伏密談図 佐藤雪洞画 上田市立博物館蔵
西軍
,その中で、昌幸は嫡子信幸と断ってまで、ほぼ即時に
西軍
への加担を決断した。
秀吉と真田
(徳川秀忠軍の上田攻め)
しかし、結果として
西軍
は敗れ、昌幸も上田城を明け渡さざるを得なくなる。,八月二十五日 「会津中納言」上杉景勝から宇喜多秀家・毛利輝元・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家という
西軍
中枢
パスファインダー
(真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村))
特に、関ケ原合戦直前の慶長5年7月末から8月10日 までに、
西軍
に属した緒将より真田昌幸に宛てられた
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