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浅間山大焼け以来難儀につき見分願い
([翻刻])
浅間山大焼け以来難儀につき
見分
願い / 砂石押埋、村々用水堰路大破之 □所数ケ所有之、百姓自力□・・・□御役所様江 □願指上ケ、其上 □□御
見分
之御役人様方,此節村役人取計方ニ付万端 □(指)支之儀共出来、何共難義至極ニ奉存候、 右之通少シも相違無御座候、御
見分
被成下候上
浅間山大焼け以来難儀につき見分願い
([現代訳])
浅間山大焼け以来難儀につき
見分
願い / そのうえ
見分
の役人へも願書を提出するので、善処を願いたい。,ぜひ、現状を
見分
し、江戸の屋敷へ報告していただき、善処していただけるよう願うものである。
浅間山大焼け以来難儀につき見分願い
([解説])
浅間山大焼け以来難儀につき
見分
願い / 年7月14日 御役所より被仰渡御書付之写并請印 ・天明3年8月23日 浅間山大焼け以来難儀につき
見分
願
割田家文書
(史料4 寛保三年三月 乍恐書付以奉願候御事)
埋田之中前田 一 悪水払堰 堰埋 御
見分
奉願上候御普請之場所, 右者去満水ニ付御普請奉願上候場所 御
見分
被為遊、其上 御慈悲ニ願之通り被仰付被下置候ハヽ
寛保二年十月上畑村総百姓往還道・屋敷移転取極証文
([翻刻])
公儀様江御願申上候処ハ、中畑村境 北口より栗木下迄畑地前後真中三間通往還 可成場御案内仕、則御
見分
奉入候得,可然由ニ御意被遊候ニ付、 (改頁) 3 弥々中畑村地境より本間村境迄右御
見分
寛保三年二月宿場引き移し嘆願書
([翻刻])
[翻刻] 1 乍恐以書付奉願上候御事 一望月宿去戌八月大満水ニ而、此度御
見分
, 同 茂右衛門 (印) 惣百姓代 惣左衛門 (印) 御
見分
西江部村篠田家文書
([翻刻])
一件於御支配ニ御取調之上可被 仰上旨、去冬於 御勘定所久保田佐渡守様被 仰渡候由ニ而、此 度御
見分
為御吟味各々様被成御越,帳御突合之上、地主并村役人願地所地境等無紛 様明白ニ御案(内 脱ヵ)仕、畑成場所并用水上口共逸々御
見分
之上被,中々以用立不申候旨申上候処、左 候ハヽ何れ之処より共新規井路相立用水取入引 渡可申旨被 仰聞、種々水筋ヲ御
見分
被成候得共,何分可成丈替付水ニ而も致、情力を以田 作相仕付候様御利害被 仰聞候趣承知仕候得共、何を申 も御
見分
之通全躰水無之儀,田作 仕付候方便無御座候、右之趣ニ付年来小前難義ニ付、安 永八亥年岩出伊右衛門様御支配之節も御
見分
之上
寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書
([翻刻])
一望月宿去ル戌之八月大満水ニ而、当宿御伝馬 役屋敷弐拾軒並裏家・土蔵・木小屋等迄流 失仕、此度御
見分
被成下置候通, 同 茂右衛門 (印) 惣百姓代 惣左衛門 (印) 御
見分
寛保三年三月復旧方懇願書
([翻刻])
御地頭様より度々御救表(俵)被下置、是迄 身命引続罷有候、此度 吉田久左衛門様 2 御
見分
被成下候節,尤本町より去冬江戸表江御普請 願ニ罷出候絵図表江も、新町之流失仕候 趣絵面ニ載り申候、此度御
見分
之上川除
寛保三年三月復旧方懇願書
([現代訳])
このたび吉田久左衛門様がご
見分
して下さった節に、お願いしたとおりに堤防工事をしていただければありがたく,ご
見分
のうえ、堤防工事をしていただければありがたく存じます。
寛保二年八月上畑村水災救恤願
([翻刻])
家財流死・流失仕侯、 依之相残り候者渇命ニ及難儀仕候ニ付、高野町御役所江 御願申上候所ニ、御
見分
被下少々夫食金御渡被下候得共,夥敷亡所ニ罷成、家居ハ無御座難儀至極 仕候ニ付、村居外に引取不申候得ハ罷成不申候間、乍恐 早速御
見分
成被下,至極ニ奉存候、乍恐此度之儀 殿様(水野忠穀)御ちからニも御及被遊がたき 大破ニ御座候間、 御公儀様御
見分
之上御入用等被下置候共
西江部村篠田家文書
([現代訳])
去る酉(寛政元年)四月、御料所巡見使が回ってきた時に直接願書を差し出したところ、
見分
吟味していただくことになった,久保平三郎代官になって願い出たところ願書を取上げてくれたので、
見分
などがあると待っていところ、代官が代,わって
見分
吟味ができなくなり、後ほど願うようにと願書は返されてしまった。
割田家文書
(史料5 寛保三年六月廿一日 覚)
村上茂左衛門様 惣百姓代 岡田甚九郎 様 又 六 右ハ出来方
見分
相済候節
小諸洪水流失改帳
([解説])
さらに、この絵図の裏には「小諸大変次第書」と題し、小諸町の被災状況と、復興のための幕府役人の
見分
の様子,これは与良町庄屋の藤吉(小山隆司氏の先祖)が記したものと考えられるが、
見分
役人を案内した際に、
見分
役人,蛇水」が押し寄せて与良大橋を破壊したこと、松井川などが城下の田畑を損壊したこと、小諸藩役人が被災状況を
見分
,し、さらに幕府役人が
見分
したこと、などが記されている。
寛保二年大洪水余禄
([解説])
さらに、この絵図の裏には「小諸大変次第書」と題し、小諸町の被災状況と、復興のための幕府役人の
見分
の様子,これは与良町庄屋の藤吉(小山隆司氏の先祖)が記したものと考えられるが、
見分
役人を案内した際に、
見分
役人,蛇水」が押し寄せて与良大橋を破壊したこと、松井川などが城下の田畑を損壊したこと、小諸藩役人が被災状況を
見分
,し、さらに幕府役人が
見分
したこと、などが記されている。
小諸大変書
([解説])
さらに、この絵図の裏には「小諸大変次第書」と題し、小諸町の被災状況と、復興のための幕府役人の
見分
の様子,これは与良町庄屋の藤吉(小山隆司氏の先祖)が記したものと考えられるが、
見分
役人を案内した際に、
見分
役人,蛇水」が押し寄せて与良大橋を破壊したこと、松井川などが城下の田畑を損壊したこと、小諸藩役人が被災状況を
見分
,し、さらに幕府役人が
見分
したこと、などが記されている。
寛保二年小諸大洪水変地絵図(1)
([解説])
さらに、この絵図の裏には「小諸大変次第書」と題し、小諸町の被災状況と、復興のための幕府役人の
見分
の様子,これは与良町庄屋の藤吉(小山隆司氏の先祖)が記したものと考えられるが、
見分
役人を案内した際に、
見分
役人,蛇水」が押し寄せて与良大橋を破壊したこと、松井川などが城下の田畑を損壊したこと、小諸藩役人が被災状況を
見分
,し、さらに幕府役人が
見分
したこと、などが記されている。
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([解説])
さらに、この絵図の裏には「小諸大変次第書」と題し、小諸町の被災状況と、復興のための幕府役人の
見分
の様子,これは与良町庄屋の藤吉(小山隆司氏の先祖)が記したものと考えられるが、
見分
役人を案内した際に、
見分
役人,蛇水」が押し寄せて与良大橋を破壊したこと、松井川などが城下の田畑を損壊したこと、小諸藩役人が被災状況を
見分
,し、さらに幕府役人が
見分
したこと、などが記されている。
書留帳(延徳田んぼを漂流した話)
([翻刻])
相残之者共家之棟を切破り筏ニ 乗り立の侭にて逃除キ命計り相助り申候ニ付、 中野御役所へ御訴申上早速御
見分
,を請、其後 御代官所奉入御
見分
ニ両度御吟味請申候 通り田畑深泥石砂入川欠押堀荒地家 居流失潰,無御座大変ニ御座候ニ付、 去八月中郡中為惣代と中野村組頭金八 損亡御検使御勘定所へ奉願上候ニ付、御
見分
, 相待罷有候処漸十二月下旬大草太郎 左衛門様御越被遊候ニ得共、千曲川通り御普請所 計り御
見分
被遊候,; (改頁) 損亡難儀仕候、此所川瀬川幅等去戌 大草太郎左衛門様委細御
見分
被遊候通
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([翻刻])
(方カ)々記、当所御
見分
寛保二壬戌十二月十五日御
見分
被遊候、耳取村境塩川より始り 市町ニ御泊り被遊候,東沢・六供・成就寺跡迄 御覧被成、岩村田へ御帰被成、廿日ニ御出、御家中押流之前書之場逐々(一カ)御
見分
, 新町岡右衛門、佐藤善太夫様御宿新町茂右衛門、御小人御目付之御宿新町与一右衛門仕候、廿一日ニ小枡堰御
見分
,御意被遊、夫レ(より脱カ)望月宿へ御出被遊候、望月宿江二月廿四日ニ御出被成、廿七日迄 川西村々御
見分
被成,御出被遊候由ニ而、桜井文八郎様市町御宿より又候塩名田宿へ 十二日ニ御帰被成候、 一四月十九日御
見分
割田家文書
(史料3 寛保二年十二月 乍恐以書付奉願候御事)
家居迄水押込流家潰家多 御座候ニ付難儀至極仕候、田畑川欠之 場所別紙以麁絵図御普請所奉 願上候、御慈悲ニ御
見分
被為遊御普請
寛保三年二月宿場引き移し嘆願書
([現代訳])
現代訳] 恐れながら書付をもって願い上げ奉る事 一、望月宿は去年戌八月の大満水によって、このたびご
見分
下
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([現代訳])
幕府から千曲川通りをご
見分
においでの方々を記します。,一、寛保三年にご
見分
においでの方々は、次の通りです。,三月四日か五日の一日、上田領の田中宿を一日
見分
されました。 ,四月十一日、桜井文八郎様が当所の腰巻を
見分
されました。,で、桜井文八郎様と一緒に、当町分腰巻を
見分
されました。
割田家文書
(史料1 (寛保二年)八月六日 乍恐以書付ヲ申上候御事)
水入之田畑大方書付御注進 仕候、尤地窪之場所いまた水引不申候間、水引次第 反別相改追而可奉御
見分
候
検地仕法
([解説])
天保2年には論所の地所改め(検地
見分
)もなされたうえで、新堰の埋めたてなど安永年度のきまりへの復帰を言,まず検地役人の一行は、到着とともに最初に小高い丘に立って検地村々の遠見(とおみ)
見分
をおこなっています,到着後8日ほどかけて問題の新堰や各村々の用水路、村境や道筋、川筋などを
見分
し、古見村から5月17日に検地
寛保二戌年満水御届書
([解説])
同年冬には、幕府代官大草太郎左衛門らが千曲川流域の被害箇所の
見分
に訪れ、翌年にかけて国役普請が行われました
書留帳(延徳田んぼを漂流した話)
([解説])
大被害を受けた村々は、さっそく中野代官所へ報告して
見分
をうけた。,何年にもない大変」に対応するため、被害のあった八月早々に、中野村組頭の金八を郡中惣代として、御勘定所へ
見分
,その結果、十二月下旬、坂木代官所大草太郎左衛門一行が
見分
に来た。
寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書
([現代訳])
このたび
見分
していただいたとおりです。
寛保二年十一月堤防工事嘆願口上書
([解説])
寛保三年二月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から被災地の
見分
に来た幕府役人へ、田地もおびただしく流され,寛保三年二月の「宿場引き移し嘆願書」は、望月宿から
見分
役人へ、堤防工事をお願いしたが、今後も水難を受ける
寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書
([解説])
寛保三年二月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から被災地の
見分
に来た幕府役人へ、田地もおびただしく流され,寛保三年二月の「宿場引き移し嘆願書」は、望月宿から
見分
役人へ、堤防工事をお願いしたが、今後も水難を受ける
寛保三年二月宿場引き移し嘆願書
([解説])
寛保三年二月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から被災地の
見分
に来た幕府役人へ、田地もおびただしく流され,寛保三年二月の「宿場引き移し嘆願書」は、望月宿から
見分
役人へ、堤防工事をお願いしたが、今後も水難を受ける
寛保三年三月復旧方懇願書
([解説])
寛保三年二月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から被災地の
見分
に来た幕府役人へ、田地もおびただしく流され,寛保三年二月の「宿場引き移し嘆願書」は、望月宿から
見分
役人へ、堤防工事をお願いしたが、今後も水難を受ける
桜田門外之変速報
([翻刻])
相用即死怪我人多数有之御當家以来之大変 恐多くも井伊様十ニ九分九厘九毛御落命与申義ニ御座候 折も悪敷大雪降烈風ニ而一町先者不
見分
むしくら日記
(3巻 利)
領地が入り組んだ場所なので、
見分
を申し立てて調査をしましたが、言語を絶する有様です。,猩々緋の馬具が見事であったと、宮島守人が川辺の
見分
の時に見かけたと語りました。,代参が終わって御廟所を
見分
しましたが、まったく別状ありません。,とりわけ高井郡の村々のうち中島村・相之島村・山王島村・小沼村等多くが流失した模様で、早速
見分
の役人を送,少し水が引いてから村を廻り
見分
しましたが、言語に絶する有様で、食料の雑穀や諸道具など多く流失し、大百姓
むしくら日記
(3巻 利)
ねこ畳等其外家財、泥の中より堀出し 洗居候次第、御夲領之方水潰流失家も有之、入交 之場所故
見分
申立改候処,比川辺 村々御巡見あり、猩々緋の御馬具見事にて有しと、 (改頁) 宮嶋守人川辺
見分
,金井山の少し脇に 九尺二間計の屋根と材木ハ所々ニ懸りて有し、柴 村へハ水付ず、御代参すみて御廟所
見分
,巌石畳重候辺を一歩 通同様之険路御座候処、此度之大災ニ而元之 道形致滅却候故、当分巨細之
見分
,ニ而、民 家圧潰、死失怪我人有之、焼失家死失人共 取調候処、書面之通御座候、尤死失人之儀
見分
相
むしくら日記
(2巻 亨)
なりたる後に御褒美給はらんと乞て止ぬ、 又云、是より数日の後、礒田音門御救方に出て此 辺
見分
,をも加へぬ、[是も四月半ニハ止ぬ、] ○磯田音門、廿七日に西山手を諭し廻りて後、岩倉山の 抜場
見分
,たゝきけるハ、騒々しくて眠られざりしと語れり、 翌廿八日犀口に出しと云、 ○公辺より信濃・越後荒所
見分
, (改頁) 20 たり、竹村金吾ハ犀口より暮比に帰り来て、御普請役 けふ
見分
,然れ共 脊中ハ一面に黒く成、夥敷疵を受たり、され共事共 せず働らきしと云、過し日立が鼻の
見分
浅間焼覚帳
([解説])
与良町になる、その入口の橋が架けられた川の名前を書き誤るだろうかとも思われるが、藩主や家老以下の藩役人が
見分
むしくら日記
(4巻 貞)
四日夜大地震以来度々強震有之、追々山々 抜崩、右沢水数ヶ所湛留候旨訴出候付、早速
見分
差出候処,より清水多く湧出て、 後々ハ都合もよからんかと、道橋方同心徳左衛門[予か御預同心忠太か後見、]
見分
,外称美して、山寺源太夫への (改頁) 18 書簡に申こされたり、又川辺
見分
,へ共、莫太之 抜所ニて、差向
見分
候共致方無之事ニ付、いか様共熟談、造り入 可成分ハ早速蒔付候様、泊,同村之内篠窪与申処、家数二十軒程ニ候処、水口変し呑水 も一向無之、遠方より汲取候由、道橋方手付
見分
松本藩庄内組大庄屋御用留
([翻刻])
一去来 壱〆 一逗留願 同 一諸証文 一作喰願 右頼遣ス 一熊倉橋諸木相揃候ニ付、 為
見分
来, 右中田より四日ニ参ル 五日 晴暖 六日 同断 七日 曇ル暖 明八日城山
見分
御役所,願候、 右者町方より者願出候へ共、以今願 不出候間、詮義之上、早々願出候様、 一筑摩村社等風折木
見分
,へ 参候与申てふちんかり出懸ケ 候由、尤外ニ由緒之者も先へ参り 居候由、右御届申候処、御
見分
, 金井源左衛門 藤井佐左衛門 七月廿四日 御道
見分
御役所より被仰渡御書付之写并請印
([解説])
年7月14日 御役所より被仰渡御書付之写并請印 ・天明3年8月23日 浅間山大焼け以来難儀につき
見分
願
浅間山焼けにより馬草などを取ることができないため小物成免除願い
([解説])
年7月14日 御役所より被仰渡御書付之写并請印 ・天明3年8月23日 浅間山大焼け以来難儀につき
見分
願
検地仕法
([翻刻])
(注 原本ビューワ3の説明) 何枚ニ而も ケ様ニ認メ 荒所は御 検地之節 御
見分
無之
松本藩庄内組大庄屋御用留
([現代訳])
盗難届、去来一〆、逗留願一〆、諸証文、作喰願、これらを頼み遣した、 一、熊倉橋の諸木が揃ったので、
見分
,右について中田より四日に参る、 五日 晴、暖い 六日 同じ 七日 曇る、暖い 明日八日に城山
見分
,があったので、村役人へ知らせた、 一、若宮八幡の神主の所持地が城山にあり、その内にも道筋があるので
見分
,たが、今もって願が出されないので、詮議の上、早々に願出るように、 一、筑摩村の社など風で折れた木の
見分
,った与八、御免勧化とは申さずゆえ、 (改頁) 御廻米蔵会所修覆につき、明後晦日に
見分
違作書留帳
([翻刻])
大不作 〇七月二日松本火事、本町杉やより出火 (改頁) 〇古見・今井一件ニ付、御
見分
地,大荒、粟皆吹倒し、 岳ハ麓迄大雪ふる、 豆の葉やふれ氷でも ふつたか 〇八月廿一日出穂御
見分
,ニ なる 新内与申もの家内疫病 ニ而煩、女房ハ先達而相果 六月十六日頃 又々水きれ 大川筋
見分
, (改頁) 60 触有、はりばこ類ひ 松本ニ居られ不申様相成 九月二日 実法御
見分
,一、壱分弐朱弐百七十四文 村方一件雑用 泊り日帰り 〆三貫三百八十八文 殊ニ絵図認
見分
西江部村篠田家文書
([解説])
問題の場所の
見分
吟味する段階までいったが、幕府勘定所へ伺ったところ、またまた沙汰なしとなってしまった。
検地仕法
([現代訳])
(注 原本ビューワ3の説明) 何枚でもこのように認め、荒れた場所は御検地のときに御
見分
違作書留帳
([現代訳])
松本城下町)杉屋より出火、 (改頁) 古見(こみ、東筑摩郡朝日村)・今井一件につき、御
見分
地,、山は麓まで大雪が降る、豆の葉が破れたが、氷(雹、ひょう)でも降ったのか、 八月二十一日 出穂の御
見分
,す者の家内が疫病を患い、女房はさきに亡くなる、 六月十六日頃、またまた々水きれ(氾濫か)、大川筋の
見分
,ずいしょうじ、松本城下の寺院)和尚が遷化(せんげ、死去)、 (改頁) 三日 出穂の御
見分
,御領へ (改頁) あった、はりばこの類い、松本に居なくなった、 九月二日 実法御
見分
浅間焼覚帳
([翻刻])
御吟味山之内利右衛門様、御代官三人、 吉田三郎兵衛様、横田茂右衛門様、すゝ木四郎右衛門様、 右之御役人不残御
見分
被遊候
浅間焼覚帳
([現代訳])
天野良介様・成瀬渡人様、代官吉田三郎兵衛様・横田茂右衛門様・鈴木四郎右衛門様、以上の役人が橋の出来具合を
見分
浅間山
(第三編 浅間山変異記)
まず、領主が被災地域の
見分
役人を派遣し、被害状況を確認。
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