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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (木祖村)

/土橋/大川端/栗谷橋/川原橋/八坂橋/小林橋/下村橋/ウケ場橋 道路: 中山道/支道飛州往還/伊那郡,への支道 社: 藪原神社/諏訪神社/衣更著神社/八幡宮 寺: 極楽寺 古跡・名勝: 鳥居峠
『説諭要略』巻一 ([解説])

永山権令は七年三月二十二日から六〇日間の日程で諏訪・伊那郡、八年八月三十一日から十一月にかけて安曇・筑摩郡,諏訪・伊那郡下二三〇校の説諭巡回には、高遠藩出身で学務掛の長尾無墨、師範講習所教員飯田正宣、同予科生徒四人
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (長谷村)

橋: 猿橋/千代橋/常盤橋 道路: 秋葉山の枝道 社: 熱田八剱社/正八幡宮/神明宮/諏訪社,大東林/唐松林/揚盧木峯林/峯林/雑木林 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 長谷村(図) (伊那郡一村限明細絵図
木曾山林学校 (1.木曽ノ天然)

       1.木 曽 ノ 天 然   抑々(そもそも)木曽の地たる信濃国の西南隅に位し、東は上下伊那郡,に接し、西は濃飛両国に隣り、南は下伊那郡及恵那山に拠(より)て美濃国に連り、北は東筑摩・南安曇の2郡及飛騨国,駒ヶ岳は伊那郡に接して東南に峙(そばだ)ち高さ8千尺、御嶽と相対峙して所謂(いわゆる)木曽の峡谷を形成,諏訪に比ぶれば稍々(やや)温暖に、長野・松本等と相伯仲す。
『説諭要略』巻一 ([ルビ・注記])

第十五回   16  筑摩県管内伊那郡。赤須村(注1)戸長(戸長)北沢八郎。,第三十二回   30  権令伊那郡。山本村(注1)へ到リ。其泊所へ。,(3)現下伊那郡阿智村。 (4)天子などが自らその場に臨むこと。,(2)現下伊那郡高森町。 (3)現下伊那郡飯田市。 (4)現下伊那郡喬木村。,(4)現上伊那郡中川村。 (5)現上伊那郡中川村。 (6)大将の家柄。     
パスファインダー (信濃の東歌・防人歌)

「信濃路は今のはりみち刈ばねに足ふましむな沓履けわが 背」の秀歌で始まり、「浅間景物」「更級景物」「諏訪,」「御射山」「穂屋」と 続き、「伊那郡」に入る。
パスファインダー (信州の民話・伝説)

南信編では、諏訪、 上伊那、下伊那の各地域に伝わる212話を収録 3 書名 著者名 出版社 出版年,6 書名 著者名 出版社 出版年 信濃奇勝禄:筑摩郡:安曇郡水内郡:佐久郡小県郡:諏訪郡伊那郡
伊那繁昌記 ([解説])

発行兼編集人は、長野県下伊那郡上郷村の吉川源美と同鼎村の志田啓太郎となっています。,飯田町の①長姫神社②愛宕稲荷社、上飯田村の①郊戸神社②大宮諏訪神社、松尾村の①県社八幡社②松尾城址、大島村
信濃奇談 (信濃奇談 下)

私にこれをかむかふるに、あかれる世に今の藤沢の地は三峯川を限りて川下まても諏訪郡に属したれは、諏訪の神領,且守屋嶽は諏訪明神の祠のうしろにあたりて、その峯鉾持山に続けり。,こハ上古に深沢駅の名の残れるなり、深沢駅ハ延喜式に諏訪郡に属したれは、地名考に今の諏訪郡三沢を以て是に,誤なり 此ほとりは和名抄の佐浦郷にて、諏訪郡たる事を知らさりしなり。,伊那郡に遠流せられて此に死したりとなん。 [新著聞集千曲真砂温知集地名考等に出つ。]
分県之建白 (分県之建白[全文])

級・埴科・上下高井・上下水内ノ九郡ニシテ、筑 摩県ニ在テハ今日ノ東西筑摩・南北安曇・ 上下伊那・諏訪,                             三十四年五ケ月                   下伊那郡神稲村三百九拾七番地
宿継要書留 ([翻刻])

              伊奈海道村井より根羽迄    十六宿中馬争論之覚 一寛文十三丑年五月伊那郡中馬方,      飯田拾三丁より江戸御奉行所へ之親書左之通     乍恐以追訴奉申上候 一堀大和守領分信州伊那郡飯田町十三町,納百姓致相続、中仙道助郷役茂勤来り  候間、中馬荷物付送り并付替不相障候様  致度旨申上之候 一同国伊那郡松島村,      132   一筆致啓上候、追而寒気ニ罷成弥以 各様無御故障被成、御勤奉珍重候、 然者去年中伊那郡大島,願之通被仰付 被下度候様奉願上候以上   明和七年寅十月 嶋隼人御代官所            伊那郡飯島問屋
宿継要書留 ([現代訳])

伊奈街道の村井より根羽迄16宿と中馬の争論の覚 一寛文13(1673)丑年5月、伊那郡中馬方惣代の宮木村,今回伊那郡の4か村が惣代をもって伺い出たことについて一通り考えてみたところ、甲年 の中馬御裁許については,一同国伊那郡松島村・北殿村・宮木村が答えたことは、宝永3戌年中馬方出入りがあり、その時御裁許を守っていました,去年中伊那郡大島・片桐・飯島・赤須4か町よりお伺書出をだしたことについて、道中御奉行安藤弾正少弼様より,明和7年寅10月      嶋隼人御代官所                   伊那郡飯島  問屋 
信濃奇談 (信濃奇談 上)

予為家人時東走西奔専従事医業以糊口妻子傍隆好文芸乎不得暇隙每以為憾児元鎧在膝下以纘吾志述吾事於是業有達也盖我信濃之地里老所伝鄙説奇談頗有類斉東野語者予徵諸史書一々為之解説元鎧随而録之名曰信濃奇談兹己丑二月元鎧没偶探遺筐中得之是雖予之所撰述皆元鎧与焉有力可見余之所言小言隻語必述而不貴可謂其意能勤為子之道今也逝矣悲哉予亦不遺其志伝之世以慰其魂耳 文政己丑仲春 中邨元恒撰 中村直薫書 4~5 信濃奇談巻之上 堀内元鎧 録 諏訪湖,信のゝ国諏訪の湖は、わたり一里はかり、冬になれハあまねく氷とちて、湖のおもて鏡のことく、斧もて穴をうかち,15~16 いはな 伊那郡の人、或時木曽へ行とて萱平といふ所を通りけるに、すゝ竹いくらとなく生ひ茂
分県之建白 (分県の建白)

上高井・下高井・上水内・下水内の9郡、筑摩県では、今日の東筑摩・西筑摩・南安曇・北安曇・上伊那・下伊那・諏訪,               東筑摩郡松本町 小里頼永 34歳5か月                下伊那郡神稲村
寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)

      2      「当家初代     好古堂芝産一代記 全 小沢和徳誌焉」     (上伊那郡辰野町,宗匠のゆ  るしを請京都にて大名(メイ)を発して門人を引立給ふ 一と先故郷江帰  国ありて伊奈郡諏訪松本,ニ而追々全快ニ相成候へ共両親共痔之病ニ而父上ニ者常ニ  御顔之色も青く兎角御弱ク被成御座候故毎年下諏訪或, 之節御立願ニ而間も無ク妊娠臨月ニ成寛成五癸丑正月十四日平産  女子出生健かに育申候 諏訪明神へ,此冬  ハ松本西在山中より騒動発り池田大町辺其外打こはし候 甲州も  騒動起り六川酒屋近所迄騒動諏訪様
長野県師範学校生徒修学旅行概況 (長野県師範学校生徒修学旅行概況[全文])

七月三十日(土曜日)朝風雨、后晴、和田発、上諏訪泊、道程凡七里。 午前五時和田を発す。,に来り、春宮秋宮に 詣て、上諏訪に逹せしは、午后一時なりき。 ,七月三十一日(日曜日)曇、上諏訪発、杖突峠を経て、高遠泊、道程凡八里。,午前五時、上諏訪を発し、神宮寺村の国幣社に参拜して、暫時休止し、杖突峠を越ゆ。,兼て下伊那郡衙に依頼し、会社に船五艘を準備せしむ。
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

順路七里なり、野尻に湖水あり、其流れ越後の今町の浜にて海に入る、 此川を関川といふ、野尻の湖水も諏訪,と同じく氷張つめたる其上を 人馬とも往来せり、但諏訪とハ変りて厳寒の砌ハ風荒く浪高く、 氷結バす、,此上に如来を安置し奉りて、 親子三人倶に朝夕恭敬し、心ばかりの供養をなし奉りける、  如来当国にて伊那郡,ふとぞいひ伝へ侍る、されバ皇円阿闍梨の蛇身と  なりて此池に住るといふも、桜が池の類ひなるべし、 ○諏訪明神社
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

野尻の湖水も諏訪湖と同様に、氷が張ったその上を人も馬も往来する。,ただし諏訪湖とは違って、厳寒の時期は風が激しく波が高いので、氷ができない。早春になってはじめて凍る。,如来が当国の伊那郡におられたのは、41年の間である。    ,○諏訪明神社(敷石の東にある。祭は9月14日) ○熊野権現社(同じく西にある。
地震後世俗語之種 ([現代訳])

欽明天皇の御代に初めて日本にお渡りになって、36代の皇極天皇が蘇生なさった縁で、本多善光に勅命があって、諏訪,今でいう伊那郡座光寺(元善光寺)がこれです。,天平3年(731)壬寅の年に諏訪国は信濃国に改められ、この信濃の芋井の郷にお遷しいたしました。
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