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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (追分村)

追分村 地域 東信 市町村名 現在(令和2年):軽井沢町(かるいざわまち) 明治初期:追分村,(おいわけむら) 幕末から明治初期:追分村 幕末から明治初期(よみ):おいわけむら 『長野県町村誌,昇進橋 道路: 中山道/北国往還/隣村道 社: 諏訪社/浅間大神 寺: 泉洞寺 学校: 分里学校,(森林)浅間山麓林/(原野)上ノ原/国道両岐の衝 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 追分村村誌全図 / 追分村
諸国道中商人鑑 (3 松井田から追分まで)

3 松井田から追分まで ここに掲載した写真版『中山道道中商人鑑』のはじめのページは「中山道 松井田 ,軽井沢から沓掛、追分と続く宿(しゅく)を浅間三宿と呼び「小諸馬子唄」では「浅間山さん なぜ焼けしゃんす,・「く 中山道沓掛 追分え一里三丁」  旅籠屋が5軒、店1軒が掲載されている。  ,中山道と北国脇往還との分岐点(分去(わかされ))である追分にはふたつの行き先である小田井と小諸とが記されている,この女性たちが客のもてなしにうたった唄が追分節(『信濃追分』)であるといわれている。 / 3 松井田から追分まで
はなの ([追善連句])

[追善連句] 14 文政六未年九月十二日延芳忌 俳諧 梨翁居士 花の願ひ花野の露となる,く錦葵さく 一中 心にもあらぬこといふ人の来て 午堂 道なき恋をわすれずのさと 麦雨 撰分る,奉加帖よむ 偆花 鶏が上るゝまぢる油うり 春衣 さし木の柳冬いそぐ也 吾龍 ワすれねばあと追ふ,の声のしぐるゝ 八朗 麻袴終は下濃に着ふるして 碩布 祝ひがましく酒ごのみする 秀雄 鹿追バ,追れて帰る月かげに 阿泉 露の香もなくはねる燈火 雪朗 御仏のかのもこのも千代の秋 文素 / [追善連句]
パスファインダー (佐久市浅科上原の鳥追い祭り)

佐久市浅科上原の鳥追い祭り トピック(テーマ) ねらい キーワード 概要を知るた,めのツール 1 書名 著者名 出版社 出版年 佐久市浅科上原の鳥追い祭り 佐久の正月,また、当時は、「道祖 神鳥追い(祭り)」とよばれていたこともわかる。,現在は、1月3日の午前中、上(かみ)と下(しも)の二手に分かれて、赤 や青の法被を着た小学生たちと世話人,3次第29巻第1号 2 論題名 鳥追い・猪追い(一) 著者名 竹入弘元 雑誌名 伊那路 / 佐久市浅科上原の鳥追い祭り
浅間山大焼け以来難儀につき見分願い ([解説])

浅間山大焼け以来難儀につき見分願い / 7月14日 御役所より被仰渡御書付之写并請印  ・天明3年8月23日 浅間山大焼け以来難儀につき見分願,岩村田宿は、中山道の宿場の一つで、江戸から碓氷峠を越えて信州に入ると、最初の宿場が軽井沢宿で、沓掛宿・追分宿,また、江戸時代中期以降は、岩村田藩内藤氏一万五千石の陣屋が置かれたところでもある(内藤氏には、ほかに分知千石,このたびの浅間山の「大焼け」(大噴火)によって、追分・沓掛・軽井沢の三宿をはじめ、浅間山近辺の村々が難儀,しかし、浅間山の大噴火とその後の不作によって、岩村田藩と分知村々が難儀していたことは知ることができる。
戸隠善光寺往来 (『戸隠善光寺往来』の内容)

『戸隠善光寺往来』の内容 江戸から善光寺への道中  江戸から追分(軽井沢町)までは中山道、追分から,また、道中の名所や分かれ道についても触れています。  
諸国道中商人鑑 (1 『中山道道中商人鑑(なかせんどうどうちゅうあきうどかがみ)』について)

なお、板橋から追分までは同じ内容で『諸国道中商人鑑 中山道善光寺之部 全』が現存している。,こちらの道中は追分で分れ、上田を通り善光寺までの版となっている。  ,さらに旅人の利便や娯楽を考え、次の宿までの距離やその地の名物、神社や温泉などが載り、絵が描かれている部分もある
パスファインダー (軽井沢・小諸の文学(1))

キーワード 浅間山 軽井沢 沓掛 追分 浅間三宿 北原白秋 落葉松(からまつ) 星野温泉 有島武郎,美しい村 ふるさとびと 立原道造 萱草 に寄す 室生犀星 信濃の歌 残雪 木漏日 児玉花外 小諸節 追分,室生犀星/文 中央公論社 2021.12 北原白秋の柳河、萩原朔太郎の前橋、堀辰雄の軽井沢・追分,親しき友人たちを詩人が追慕し、ゆかりの地を写真家が 訪ね歩く。
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 (名所図会としての『二十四輩順拝図会』)

『善光寺道名所図会』巻之四の、篠ノ井追分「立石の茶屋」の図は、『二十四輩順拝図会』巻之五の、篠ノ井の「,追分の茶屋」の図を、ほとんどそのまま使用しています。
パスファインダー (長野市篠ノ井地区)

街道や鉄道の分岐点として交通の要地であるばかりでなく、川 柳将軍塚古墳があるなど古くから開け、横田河原,布施五明 瀬原 田 御幣川 会 横田 小松原 岡田 石川 二ツ柳 正和 小森 杵淵 山布施 有旅 篠ノ井追分,北国街 道の篠ノ井追分は塩崎村にあるなど、篠ノ井の歴史を知る上で塩崎は 重要な地域である。,篠ノ井追分 山田昭雄/著 信毎書籍印刷(印刷) 2015.08 「軻良根古神社」「旧篠ノ井の旧跡と昔,の様子」「行方知れずの道標を 追って」「教雲院心厭山欣浄寺」「事件・水害、地方自治の発達の記録」 「篠
パスファインダー (桜井常五郎)

残納年貢免除」を触れた佐久郡春日村(現佐久市)出身の 桜井常五郎は、その後「偽官軍」の汚名をきせられ、追分,明治維新 御一新 官軍 赤報隊 官軍先鋒嚮導隊 相楽総三 偽官軍 桜井常五郎 年貢半減令 追分戦争,著者名 出版社 出版年 長谷川伸/著 中央公論社 1981.2 内容紹介 下巻に追分戦争
宮坂弥五左衛門古記録 ([翻刻])

水の深サ壱丈弐尺の御書上、村居家敷数六十軒流ル、潰家廿九軒、流死百五十八人、夫食拝借金八月ヨリ十月迄追々拝借金子五十壱両参分也,、名主彦右衛門也、立家九十三軒の所也、名主彦右衛門其後三ヶ年ノ内千曲川の水半分程当村地内川成ニ通ル、今大橋
秀吉と真田 (昌幸最晩年の書状 幸村筆)

追って書き(追伸)のなかで「次に左衛門佐(さえもんのすけ)(幸村)慮外ながら御言伝(ことづて)申し入れ,候」として、永年の蟄居生活で自分などは「大草臥(くたび)れ者」になり果てている、と記している。,]       <訓読>    追って,我等煩の儀分別致さざる病に候間、迷惑御察し有るべく候。何様伝言を以って申し入るべく候。以上。   ,十余年存じ候儀も、一度面上を遂げ候かと存じ候処、只今の分は成り難き望に候。
パスファインダー (長坂利郎)

教師像 信濃毎日新聞社編集局 信毎書籍 1970.10 師範学校長辞職勧告事件で1ヵ年の休職処分後,教師が人格を深めるうえで学問・芸術を追求することの大切さを 示すとともに、信念と気迫をもって教育,長坂利郎遺稿 長坂利郎遺稿刊行会 小県上田教育会 1968.2 遺稿(論説・日記・年譜)、追憶, 685号 信濃教育会 信濃教育会 1943.11 昭和18年6月に亡くなった長坂の追悼号。,6人の追悼文と年譜を掲載。
原町問屋日記(嘉永6年) ([翻刻])

9   (2)嘉永六年六月十三日      12 一 関東筋異国船騒動ニ而者追々穀物高直ニ可相成,も難計、町役人心得として他所江多分之米売不申様穀屋其外心付、万一多分之米売候ハゞ其節申出、差図次第可致心得,、御家中面々異国船一件ニ付御用意向差支ニ付金子才覚被成度之処、御勘定奉行も此度ハ両問屋江頼入申度先自分より
龍駕の跡 (2地方官心得書-形容虚飾の禁止)

また、明治9年に追加された条文は、管内巡査による行列警護、休泊所への官員派遣、行在所(あんざいしょ)に,そして、明治11年に新たに追加された条文で注目されるのは、第1条に巡行の趣旨説明が掲げられ、巡行は天皇,また、前回より詳細な県治報告書(殖産興業に関する事項が追加された)の提出を求め、地方の状況を十分把握しようとする
善光寺道名所図会 (『善光寺道名所図会』の構成)

その道筋を追うと、洗馬宿から郷原宿・村井宿を経て松本に入り、同城下内外の寺社古蹟をめぐります。,さらに、稲荷山宿から八幡宮・銕捨山を探訪し、篠ノ井から分かれて、久米路橋・牧之島城跡を訪ねて善光寺に入,まず、別所温泉に行き、男神岳・女神岳をはじめ、安楽寺・常楽寺の寺塔等を請録し、上田から科野大宮・国分寺,ここから分かれて布引山釈尊寺をたずね、浅間岳山を眺め、追分から碓氷峠に登り熊野神社に日本武尊の昔をしのび
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (新治村)

/雨池/揚口/堰口/宮ノ東/居屋敷/中畑ケ/堂ノ浦/前ノ久保/サガリ/広戸道添/堰副/西浦/宮ノ上/追分道添,渡・堰: 茂沢川/丑越用水/葭際堰/馬込堰/用水堰/滝沢川 橋: 丑越橋/周戸橋 道路: 追分村
浅間山 (第二編 浅間山)

次に、浅間山の裾に並ぶ「浅間三宿」の軽井沢・沓掛・追分を北国往還の宿として紹介しています。,又沓掛、追分の如きも近来停車場の新設せらる々ありて避暑客の来る者多しと聞けど」昔の賑わいはほとんど見られないとしています,「吹き飛ばす石も浅間の野分かな」(芭蕉)であった浅間山の裾野は近来、広野を開墾するとともに植林をし、山
善光寺道名所図会 (○佐久郡小諸)

○佐久郡小諸 29右   追分宿へ三里半、牧野候居城、[乙女が城といふ、] 城下の町凡弐十五六丁相対,ありて、真の石亀の如く色黒し、兼て人の採得しを見侍りき、[三丁程の坂を登りてより、道平らにしてよし、 追分迄,浅間山の溪滴川をなして幾筋も流れ出れ共、此河のみかく如し、水源の山気 思ふべし、此先に小川あり、領分境,の傍(ママ)示杭二本建、追分宿の入口に石標有、 関東より来りて中山道北陸道へわかるゝ手引石なり、又石像,々たてり、小諸辺より軽井沢宿迄ハ浅間の麓を行るなり、本朝第一の地高 き往還なるよし、駿州芙蓉峯と追分駅人家
割田家文書 (史料1 (寛保二年)八月六日 乍恐以書付ヲ申上候御事)

之内茂水入仕候ニ付、水入之田畑大方書付御注進  仕候、尤地窪之場所いまた水引不申候間、水引次第  反別相改追而可奉御見分候,、此度水入之分大方  御注進仕候、以上            笠倉村百性代 又 六(印)    
パスファインダー (二・四事件2)

日本一般使用人組合教育労働部(教労) 概要 資料リスト 研究書や史料集、記録集、被疑者の自分史,内容紹介 「㊙長野県教員左翼運動事件」史料を章立てし、概説・資料・証言により 事件の概要と真実を追求,えて 藤原 晃/著 ほおずき書房 1990.12 内容紹介 教労長野支部責任者の藤原晃の自分史,6 書名 著者名 悠久の道 矢ケ崎輝雄先生追悼集 矢ケ崎輝雄先生追悼集刊行世話人会/編 1,1985.1 「二・四事件」事件後、永明尋常高等学校の立て直しに奔走した矢ケ崎 輝雄校長追悼集 「二
寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書 ([翻刻])

一望月宿去ル戌之八月大満水ニ而、当宿御伝馬  役屋敷弐拾軒並裏家・土蔵・木小屋等迄流  失仕、此度御見分被成下置候通,難有奉  存候、田地川除被為遊被下置候と、被為  思召御拝借金被下置候ハヽ、田地川除之  儀者追々手前普請,畳之御慈悲ヲ以駅宿相立、往還御用  相勤り可申と難有奉存候、以上、           牧野内膳正領分,               同   茂右衛門 (印)               惣百姓代 惣左衛門 (印)   御見分
上田の早苗 ([解説])

ここにも記されているように、原著に追加されたとみられる部分もあります。
戸隠善光寺往来 ([翻刻])

者抑夘月 上旬明まだき、鶯の音に 誘れ、夘の花の雪踏 分候而、柴の戸を立出、 本郷通追分より巣,軽 井沢、平葉之原、沓掛、 追分は、信濃なる浅間 山与詠し裾野之駅ニ而、      (改頁)
むしくら日記 (3巻 利)

押流しけるか、中より乾ける化者出たり、是は むかし入定したる者と云て、常念寺ニて取納め 置けるか、追々,  来可申哉与心配仕候、尤今朝ニ至り追々減水   之趣ニも御坐候得共、此上之処如何有之哉難計奉,  存候、未水中之儀御座候間、委細之儀者追々   取調可申上候へ共、先此段御届申上候、以上、    ,、人   馬怪我有之、北陸道往還筋所々欠崩御座候   旨、在所より申越候、委細之儀者追而可申上候得共,一 貯穀郷蔵無之、身元宜者江預置候処、右入置候土蔵  押潰之上焼失仕候故、貯穀不残焼失仕候、尤追而無
むしくら日記 (2巻 亨)

を初寺に居合たる者、庫裡の潰れたる下より這出て、 婆々迄も皆爰に集ひ居れり、其うちに村の男女も 追々,なりとそ、しかれは其     (改頁)      7     妻いまた五十に満さるへし、しかれは追て,    (改頁)   ○岩倉の湛、此程より堰留十丁の間をくゝり、細き滝   をなして落ると注進追々,見   つもり戻りし、[後にハ外ニも道付たるや、追々行たる者も有て、堀割も少しく出来たり、高野車之助,も出来可申与心痛罷在候、  委細之儀は追而取調可申上候得共、先此段御届申  上候、以上、  
パスファインダー (軽井沢・小諸の文学(2))

キーワード 浅間山 軽井沢 沓掛 追分 浅間三宿 北原白秋 落葉松(からまつ) 星野温泉 有島武郎,美しい村 ふるさとびと 立原道造 萱草 に寄す 室生犀星 信濃の歌 残雪 木漏日 児玉花外 小諸節 追分
明治二年八月上田騒動一件書留 ([翻刻])

御屋敷ニも相届、おもしろかげんでしゝ岩へ見物ニ出候処、 浦野道塩田道一円ニ大勢参り候故宅へ戻り候内、追々大川,一、諸運上冥加之義、当支配所々振合も有之、且土地柄ニ寄相違之品も有之候ニ付、追而取調可申事 一、,(改頁) 9 兎角当場御手繰も無之義ニ付、御手繰付次第御割下ケ可有之候事 一、無地貫之儀、追而取調之上,ニ差免可申事 一、田畑高貫之地所有之候ニ付高慣致度旨、追而取調之上可申付事 一、上納米相場之義者、,、猶追々深き思召も被為在候間、何れも厚く 相心得、如何様ニも質素難渋いたし、農業出精取続候様 可致候事
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([翻刻])

      18     十三日   十四日   十五日   十六日 夜より雨 一鍛冶屋前山家道追分,  此人足七千六百八拾四人     (改頁)      25   右之通川除寄夫申付候、追而, 之儀、追而日限相定、可申上候、  先出来仕候段、早々申上度以上、            藤森,沙汰候、此段組下 村々并寺社江も 不洩様可申聞候、追而 此書付可相返也     郡所印,ニ相成候様、達シ有之候、           金井    藤井佐左衛門様 追而朝五ツ時ニハ御出ニ
善光寺道名所図会 (○佐久郡小諸)

○佐久郡小諸 29右    追分宿へは3里半、牧野侯の居城です。,追分までの道は上りがちです)  四ツ屋・平原・馬瀬口・三ツ屋などの村々が4、5丁づつ相対していて、休息所,領分境の傍示杭が2本建ち、追分宿の入り口に石標があります。,関東から来て中山道と北陸道が分れるところの手引石です。,駿州の芙蓉峯と追分宿の人家の軒とは同じ高さだといわれています。
原町問屋日記(安政6年 6・7月) ([翻刻])

罷越万屋万平江申遣対談いたし糸拾駄両ニ百め乃直段買付ノ仕切差出候旨追而申出候処、産物会所へ者一円右之義沙汰無之,ニ取計候哉、此方より出張居候者も当会所を差置外々江爲知候者不宜義ニ付、江戸表江掛合状参候 右糸之義追々申談,四拾五駄、オランダ人江七駄、其外香仁香干多葉粉見本として差送様ニ江戸より申参候へ共、糸之義金子差送り無之候分者出荷方手段無之
木曾山林学校 (砂漠の夜)

追懐は汲めども尽きぬ泉の如く、果ては今朝掘した(くっした:掘り起こ)した髑髏(どくろ)の運命は直に自分
おらが春 (『おらが春』の構造)

『おらが春』の構造 文政2年(1819)1年間の句文集の体裁をとっていますが、単に日を追って俳句や文章,また、自分がまま子であることを強調していることも注目されます。
パスファインダー (真田信繁(幸村)と大坂の役)

冬の陣、慶長20年4月24日に夏の陣が始まった が、この大坂の役は豊臣家の滅亡、徳川幕藩体制成立への分岐点,関ケ原・大坂の役と真田氏 内容紹介 上田市制80周年記念事業として発刊された全31分冊,の第9分冊に当 たる。,田中誠三郎/著 信濃路 1979年 「御所様(家康)の御陣へ真田左衛門佐かかり候て御陣衆追い,史料を丁 内容紹介 寧にひもときながら、後世に粉飾された神秘のベールを剝がすべく、実 像を追求する。
戸隠善光寺往来 ([現代訳])

さて、卯月(旧暦4月)上旬の早朝、鶯の声に誘われるように、卯の花の咲き乱れる中を、家を出、本郷通りの追分,本庄宿から神流川(かんながわ)を渡り、新町宿、倉賀野宿を経て、高崎宿には越後路あるいは伊香保・草津への分かれ,それより、板鼻宿、安中宿では妙義への道が左に分かれ、松井田宿、坂本宿は碓氷峠の麓、峠の熊野権現の社は信州,軽井沢宿、平葉の原、沓掛宿、追分宿は「信濃なる浅間の山」と歌に詠まれた浅間山の麓の宿場で、まっすぐに行
むしくら日記 (4巻 貞)

、   松平丹波守領分境高地川与申山沢、当三月廿   四日夜大地震以来度々強震有之、追々山々   ,、尚委細之儀者追々可申上候得共、   先此段御届申上候、以上、      五月朔日   御名,  ニ至候而者掘割候ニ順、両岸之土石崩埋候故、何分   掘割方不行届候処、追々水嵩相増、去月廿八日朝,  手段無御坐、無拠其儘差置候儀ニ御坐候、且又水内郡   煤花川水上同郡日影村之内字岩下組地内追々,し度と 郡方へ申立候、右モス原抜場追而ハ耕地ニも可相成与見受申候、     (改頁)   同村分地
パスファインダー (1944年東南海地震と長野県)

その最中の1944年12年7日午後1時36分 ごろ志摩半島の南南東20キロ沖を震源地にマグニチュード8.0,戦争により隠されたことによる悲劇の再来を許さないた めにも東南海地震の真相追求から学ぶことは大きい。,学徒勤労令 学徒勤労動員 東南海地震め殉難学徒の碑 戦争が消した諏訪〝震度6〟 昭和19年東南海地震を追う,雑誌 1 論題名 著者名 雑誌名 出版年 巻号頁数 1944年東南海地震の広域震度分布の再評価
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (広戸村)

屋敷 川: 湯川/滝沢川/内城ノ滝 渡・堰: 岩下及黒岩用水堰 橋: 湯川橋 道路: 追分村
浅間山 (第八編 浅間登山)

続いて「軽井沢口」、「追分口」「塩野口」が紹介され、「溶岩流遺跡の探検」を勧めています。
御役所より被仰渡御書付之写并請印 ([解説])

7月14日 御役所より被仰渡御書付之写并請印  ・天明3年8月23日 浅間山大焼け以来難儀につき見分願,岩村田宿は、中山道の宿場の一つで、江戸から碓氷峠を越えて信州に入ると、最初の宿場が軽井沢宿で、沓掛宿・追分宿,また、江戸時代中期以降は、岩村田藩内藤氏一万五千石の陣屋が置かれたところでもある(内藤氏には、ほかに分知千石,このたびの浅間山の「大焼け」(大噴火)によって、追分・沓掛・軽井沢の三宿をはじめ、浅間山近辺の村々が難儀,しかし、浅間山の大噴火とその後の不作によって、岩村田藩と分知村々が難儀していたことは知ることができる。
浅間山焼けにより馬草などを取ることができないため小物成免除願い ([解説])

7月14日 御役所より被仰渡御書付之写并請印  ・天明3年8月23日 浅間山大焼け以来難儀につき見分願,岩村田宿は、中山道の宿場の一つで、江戸から碓氷峠を越えて信州に入ると、最初の宿場が軽井沢宿で、沓掛宿・追分宿,また、江戸時代中期以降は、岩村田藩内藤氏一万五千石の陣屋が置かれたところでもある(内藤氏には、ほかに分知千石,このたびの浅間山の「大焼け」(大噴火)によって、追分・沓掛・軽井沢の三宿をはじめ、浅間山近辺の村々が難儀,しかし、浅間山の大噴火とその後の不作によって、岩村田藩と分知村々が難儀していたことは知ることができる。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (耳取村)

/八反田池 橋: 新橋/宮下橋/柳沢橋/矢田沢橋/新田橋/飛石橋/皿掛橋 道路: 小諸街道/追分駅
御役所より被仰渡御書付之写并請印 ([現代訳])

[現代訳] 申し渡し覚え  このたびの浅間山の大噴火によって、追分・沓掛・軽井沢三宿をはじめ、浅間山近辺
秀吉と真田 (「真田」の錦絵)

[目録]     幸村、巡見中の家康を追い詰める <史料解説> 「幸村,、巡見中の家康を追い詰める」   大蘇(月岡)芳年(一八三九~一八九二)画  上田市立博物館蔵  大坂冬,の陣で家康をあと一歩まで追い詰めたという場面。,改印より明治六年(一八七三)の作品と分かる。大蘇(月岡)芳年は歌川国芳の門人。,   楊斎延一(一八七二~一九四四)画  上田市立博物館蔵  大坂夏の陣に際して、真田幸村が徳川家康を追撃
西江部村篠田家文書 ([翻刻])

一田高四拾四石九斗壱升四合  用水無之畑作ニ仕候ニ付畑成   此反別三町七反四畝廿壱歩 奉願候分,  此畑成米八石壱升弐合   田高元免四ツ六分九リ九毛                畑免壱ツ八分四毛,、当  時水丈纔弐三寸ならてハ無之、右之趣ニ付年々潰  田出来仕、尤田畑成之分初発ハ少分ニ御座候ニ,其後原  田清右衛門様御支配ニ相成奉願上候処、右同様之趣ニ而  時節も可有之旨被 仰渡御取上無之、追々弁納之手,り  所江御引渡ニ相成候処、右御役所ニ而被仰渡候  ハ、此節差懸り御見分御吟味難御行届ニ付追而
豆から日記 ([解題])

巨鯨綱に洩れるの例で随分佳句も逸してはゐるが其の全貌を知ることが出来るのは雉啄の功である。  ,其柴居の十三回忌に追福法要を営んで四時四巻の連句と、三百余のほ句とを樒の葉に一字宛頓写して正当日の塚前,文化四年白雄十七回忌に鴫立庵境内へ同門の合力を得て白雄塚を築きし記念集で、葛三自ら序文を書き、普通の追善俳諧,の格を追はず葛三の手向の句を起句としての追善の歌仙を巻頭に掲げ、次に道彦の立句により、白雄のありし日を,さくら念仏 文化八年刊 黄表紙半紙本  さくら念仏は葛三の生地松代の人吉田李井の追善集で一子阿喜良の
浅間山噴火の被害記 ([翻刻])

鳴音強ク昼すぎに至り、掛ケ目弐拾匁位より四十目位迄 の軽石の様成もの降り、一向歩行不相成、七ツ時分降出,シ、 暫時闇の夜の如くにて、人顔も不相分カ、内にて者 火を灯し、外ハてうちんにて無拠かたへ米俵を,はづれ、夜寐候事 不相成して、右の火の玉空へ上り候ゆへか、雷電 強ク鳴り、上州安中板倉伊勢守殿領分三万石,二斗有之、 押ならし右之通り、夫より浅間山近く成り候程石降り、 砂之夥敷、松井田にて三尺計り積ル、追分辺之儀,(掛カ)宿、信州にて木曽海道抔ニ而ハ鳴音強ク(ママ)計りにて、  格別之事無之候、西風強く、東の方追分
御役所より被仰渡御書付之写并請印 ([翻刻])

御役所様より被仰渡御書付之写并請印 」       申渡覚      2 此度浅間山大焼ニ付、追分,      3   商人仲ケ間申合、〆売等之儀者 決而不相成、其外有来之諸売 物随分正路
小諸洪水流失改帳 ([解説])

小諸町は、中山道追分宿(現軽井沢町)から分かれた北国街道最初の宿場で小諸宿とも呼ばれるが、三つないし四,追分側からいうと、蛇堀川を渡った最初の町が与良町、次が本町、次が市町で(この三町は、小諸三町とも呼ばれる,二つに分かれた一方の土石流は、足柄門・三の門など城の施設を破壊した。,これは与良町庄屋の藤吉(小山隆司氏の先祖)が記したものと考えられるが、見分役人を案内した際に、見分役人,、さらに幕府役人が見分したこと、などが記されている。
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