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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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善光寺道名所図会 (○筑摩 郷原)

○筑摩 郷原 21左    村井まで1里半、南北8町ほどの道路です。,郷原の産上神です。 郷福寺は、桔梗山白馬院と号し、真言宗京知恩院に属します。,(注)郷原宿は、慶長19年(1614)に松本城主小笠原秀政が、中山道洗馬宿と北国街道を結ぶために、北国脇往還,桔梗ケ原に位置して地下水の低い郷原宿では、飲用水確保のために深井戸を堀り共同で管理してきました。 / ○筑摩 郷原
善光寺道名所図会 (○筑摩 郷原)

○筑摩 郷原 21左   村井迄一里半、南北八丁程相対して巷をなす、民家多し、宿の入口 に唐松の,大樹二株あり、巽の方へ壱町バかり列樹の松茂り、朱の鳥 居見へて、稲荷の祠あり、郷原の産上神とす、 / ○筑摩 郷原
善光寺道名所図会 (○筑摩 洗馬)

○筑摩 洗馬 16左   郷原へ壱里半[善光寺道なり、]塩尻へ壱里三十町[中山道筋なり、]京師より,ら耘耕に力を尽して、聊      (改頁)      21左     も不毛の地見へず、郷原,旅人暑 気の砌は渇を凌ぐの用意有べし、此街道五六月の頃奥州南部辺 より牛の子を多く牽出るなり、程なく郷原宿
善光寺道名所図会 (○筑摩 洗馬)

○筑摩 洗馬 16左    洗馬から郷原(善光寺道の宿場)まで1里半、塩尻(中山道の宿場)まで1里,(注)洗馬宿は、中山道の宿駅で、上りは本山宿、下りは塩尻宿へ継立てる宿であり、また郷原・松本方面へ向う,郷原までのあいだは人家がなく、休む木蔭もありません。暑い時の旅人は喉の渇きをしのぐ用意が必要です。,ほどなく郷原宿にでます。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (広丘村)

現在(令和2年):塩尻市(しおじりし) 明治初期:広丘村(ひろおかむら) 幕末から明治初期:郷原村,むらいむら 『長野県町村誌』 3巻 p2971に掲載 該当ページを見る キーワード 字地: 郷原
善光寺道名所図会 (善光寺道(北国脇往還))

たいてい善光寺道といわれていましたが、とくに、中山道(なかせんどう)の洗馬(せば)宿で分かれて北に向かい、郷原,まず、洗馬・村井宿間の道路を切開いて奈艮井川東岸の人びとを移して郷原宿をつくり、村井氏の館跡近くへ村井宿
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (日滝村)

おおもりしんでんむら 『長野県町村誌』 1巻 p778に掲載 該当ページを見る キーワード 字地: 郷原
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (押羽村)

/浅野村に達する道路(あさのむらにたっするどうろ) 社: 上下諏訪神社(かみしもすわじんじゃ)/郷原神社
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (間山村)

丸山(まるやま)/赤尾坂(あかおさか)/柳入(やなぎいり)/南向平(なんがうひら)/横堰(よこせぎ)/郷原
善光寺道名所図会 (『善光寺道名所図会』の構成)

その道筋を追うと、洗馬宿から郷原宿・村井宿を経て松本に入り、同城下内外の寺社古蹟をめぐります。
信濃国浅間嶽之記 天明騒動記 (信濃国浅間嶽之記)

依田金十郎・富永三平/知行所 流畑九拾石余/七人 馬四疋 松尾 原田御支配 十三町余/流家六軒 三人 郷原,同       関文次郎 今井・立石・羽根尾・坪井・長原・川原畑・林村・横谷 松尾・岩下・矢倉・郷原,下ノ室外六ヶ村組合、仁手外六ヶ村 組合、川除中瀬・谷ヶ嶋十三ヶ村組合、外拾壱ヶ村 組合、谷ヶ嶋・郷原五
浅間山噴火の被害記 ([現代訳])

一、矢倉村・岩戸村(川戸村カ)・塚原村(郷原村カ)  この三か村は、大津波に襲われた。
天明三年浅間騒動記 ([翻刻])

飢人百五拾人内男八拾六人女六拾四人 流失本家 三拾六軒半潰弐軒流失物置五軒右同断 寺壱ヶ所龍徳寺 一郷原村
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