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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ
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「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(長野町)
長野町
地域 北信 市町村名 現在(令和2年):長野市(ながのし) 明治初期:
長野町
(ながのまち /
長野町
『長野史料』索引
(『長野史料索引』解説)
女子教育にも力を注ぎ、明治29年(1896)には
長野町
立長野高等女学校(現在の長野西高等学校)を開設して,渡辺は収集した史料をもとに
長野町
の歴史をまとめ、明治30年(1897)3月に『郷土史料
長野町
小史草稿,この本は
長野町
の初めての通史でした。,
長野町
はその直後、明治30年4月に市制を施行して長野市になりました。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(牛島村)
/犀川/保科沢川/赤野田沢川/村西堤/村東堤 渡・堰: 大豆島舟渡 道路: 高井郡保科村より
長野町
,に達する里道/川田村、綿内村等より
長野町
に達する里道 社: 牛島神社/秋葉社 寺: 蓮生寺/安楽院
善光寺独案内
(著者三上真助)
』(明治11年) 『信濃国村名鑑』(明治11年) 『諸方道中記』(明治12年) 『信濃国水内郡
長野町
全図,』(明治12年) 『善光寺
長野町
図』(明治14年) 出版は明治10年代前半に集中しているようですが
龍駕の跡
(1概要)
明治9年に筑摩県と旧長野県が合体して成立した長野県の場合、北辺に
長野町
が県庁とされたため、県民のみならず
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(檀田村)
: 里城/桜町/長塚/有無/越後田/鍛冶田 川: 浅川/川除堤 橋: 浅川橋 道路:
長野町
(株)第十九銀行と諏訪製糸業
(資金供給源の(株)第十九銀行略史)
創設者は、1876年6月1日、長野県で最初の近代的金融機関となる彰真社(
長野町
)を開業したメンバーの中心,黒沢鷹治郎、中山彦輔、出浦敬三、黒沢伴治郎、阿部弥惣太、前島清治郎、竹内幸四郎ら佐久地域の豪農商9人と
長野町
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(小島村)
下堰南/樋堰南/砂田堰南/土井堰南/土井堰北/中俣通東/三ツ屋沖 渡・堰: 八幡堰 道路:
長野町
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(三才村)
繭/鍋釜/白木綿布 民業男: 農桑/(農隙)養蚕・商 民業女: 農桑/(農間)木綿布織り
長野町
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(日影村)
大滝川/小魚川/矢崎川/宮川/柳田堤/大滝/不動滝/中滝 道路: 松本より越後道/越後国糸魚川より
長野町
道
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(弘崎村)
川: 犀川/干沢川 渡・堰: 大堰/新堰/水野沢 橋: 続ケ橋/一倉田和橋 道路:
長野町
『長野史料』索引
(『長野市史』と『長野史料』)
徳武某著 妻科徳武喜久治氏蔵 同 一冊 小林秀之助著 問御所小林幸五郎氏蔵
長野町
誌
長野県師範学校生徒修学旅行概況
(4.数千の教師を育てた浅井洌先生)
いに自由教育を主張し、教育施策を提言する」(前掲書) 明治19年38歳の時、師範学校が松本町から
長野町
善光寺独案内
([現代訳])
長野町
の大半の産土神である。 ,祭神 事代主命 健南方命
長野町
北部の産土神である。例祭 10月9日。, 西
長野町
立町より続いている。 ,西
長野町
桜枝町の次である。 加茂神社 西
長野町
の産土神である。 ,功能 養蚕神社 西
長野町
にある。
善光寺独案内
([翻刻])
長野町
大半の産神也。 ,祭神 事代主命 健南方命
長野町
北部の産神なり。 ,○西
長野町
立町よりつゞく。,○西
長野町
桜枝町の次なり。 加茂神社 西
長野町
産神也。 ,茂萱鉱泉 仝 功能 養蚕神社 西
長野町
にあり。
分県之建白
(分県の建白)
さらにまた、県庁の位置は、北部の上水内郡
長野町
にあります。,南部7郡の人びとは涙を飲んで
長野町
に往来します。その不便なことは果してどうなのでしょうか。
『長野史料』索引
([翻刻])
テン》南地震 (改頁) 人 編 一、田地戸口
長野町
誌
分県之建白
(分県之建白[全文])
一般人民ノ趨勢推シテ知ルヘシ、是レ分県 ヲ請フノ理由第二也、 且夫レ長野県庁ノ位置ハ北部上水内郡ノ
長野町
龍駕の跡
(龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))
北の河原に進めば此処にも
長野町
迄二十町許りの間にも、拝観人のみにて錐(すい)を立つる由もなし。 ,鶴賀村
長野町
妻科村 腰村 茂菅村 参拾年前(明治十年前後)ハ西後町裡(うら)ヨリ長門町裡ヲ掛ケ,城山の御小休所新築事業も
長野町
の受持なりしが、御著輦(ごちゃくれん)の間際に到るも木材の準備すら整はず,
長野町
にありては、一部の費用は財産高に応じて配当せしも、町民が栄誉のため、特に平分を望みたる一部の費用,
長野町
の全部も恐らく斯くありしなるべし。
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