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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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明治3年歎願書 ([解説])

明治3年歎願書 / 明治2年の上田騒動があった次の年、丸山平八郎は上田藩庁へこの「歎願書」を提出しました。  ,「歎願書」を提出したのは、11代平八郎直養です。,その具体的な内容を「歎願書」から挙げてみましょう。  ,莫大な利益を上げていた上田の蚕種輸出が、ヨーロッパでの戦争によって大きな影響を受けたことを「歎願書」が,現在、上田領内はこのような状況に陥っていると「歎願書」に記されています。  
寛保三年三月復旧方懇願書 ([解説])

寛保三年三月復旧方懇願書 / 他方、寛保三年三月の「復旧方懇願書」からは、望月新町の住宅四七軒、そのほか土蔵・長屋などが流されたことがわかる,寛保二年一一月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から幕府道中奉行所へ、流失をまぬがれた家の軒下が鹿曲川,寛保三年二月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から被災地の見分に来た幕府役人へ、田地もおびただしく流され,寛保三年二月の「宿場引き移し嘆願書」は、望月宿から見分役人へ、堤防工事をお願いしたが、今後も水難を受ける,寛保三年三月の「復旧方懇願書」は、望月新町から幕府道中奉行所へ、望月新町は望月宿と川を隔てていることから
寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書 ([解説])

寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書 / 他方、寛保三年三月の「復旧方懇願書」からは、望月新町の住宅四七軒、そのほか土蔵・長屋などが流されたことがわかる,寛保二年一一月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から幕府道中奉行所へ、流失をまぬがれた家の軒下が鹿曲川,寛保三年二月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から被災地の見分に来た幕府役人へ、田地もおびただしく流され,寛保三年二月の「宿場引き移し嘆願書」は、望月宿から見分役人へ、堤防工事をお願いしたが、今後も水難を受ける,寛保三年三月の「復旧方懇願書」は、望月新町から幕府道中奉行所へ、望月新町は望月宿と川を隔てていることから
寛保三年二月宿場引き移し嘆願書 ([解説])

寛保三年二月宿場引き移し嘆願書 / 他方、寛保三年三月の「復旧方懇願書」からは、望月新町の住宅四七軒、そのほか土蔵・長屋などが流されたことがわかる,寛保二年一一月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から幕府道中奉行所へ、流失をまぬがれた家の軒下が鹿曲川,寛保三年二月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から被災地の見分に来た幕府役人へ、田地もおびただしく流され,寛保三年二月の「宿場引き移し嘆願書」は、望月宿から見分役人へ、堤防工事をお願いしたが、今後も水難を受ける,寛保三年三月の「復旧方懇願書」は、望月新町から幕府道中奉行所へ、望月新町は望月宿と川を隔てていることから
明治3年歎願書 ([現代訳])

明治3年歎願書
明治3年歎願書 ([翻刻])

明治3年歎願書
寛保三年三月復旧方懇願書 ([現代訳])

寛保三年三月復旧方懇願書
寛保三年三月復旧方懇願書 ([翻刻])

寛保三年三月復旧方懇願書
西江部村篠田家文書 ([現代訳])

一昨年、代官久保平三郎様にお願いしたところ、出来るだけ努力して用水を引くように命じられて願書は取り上げてもらえなかった,去る酉(寛政元年)四月、御料所巡見使が回ってきた時に直接願書を差し出したところ、見分吟味していただくことになった,その後、原田清右衛門代官になって願書を出したが、時節もあるからと取り上げてくれなかった。  ,久保平三郎代官になって願い出たところ願書を取上げてくれたので、見分などがあると待っていところ、代官が代,わって見分吟味ができなくなり、後ほど願うようにと願書は返されてしまった。  
木曾山林学校 (17.入学者資格及試験)

尚其手続に就きては第17条の入学願書・履歴書及身体検査書を毎年3月25日迄に差出すべし。,    (改頁)      47   又願書差出期限たる3月25日に尚在学中,にして、3月末までに卒業若しくは修業の見込みあるものは、其旨を記載せし当該学校長の証明書を願書に添付し,前者の場合には入学願書提出の際、試験地を記したる届書を入学願書に添付すべし。
寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書 ([翻刻])

寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書
寛保三年二月宿場引き移し嘆願書 ([現代訳])

寛保三年二月宿場引き移し嘆願書
寛保三年二月宿場引き移し嘆願書 ([翻刻])

寛保三年二月宿場引き移し嘆願書
寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書 ([現代訳])

寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書
寛保二年十一月堤防工事嘆願口上書 ([解説])

他方、寛保三年三月の「復旧方懇願書」からは、望月新町の住宅四七軒、そのほか土蔵・長屋などが流されたことがわかる,寛保二年一一月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から幕府道中奉行所へ、流失をまぬがれた家の軒下が鹿曲川,寛保三年二月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から被災地の見分に来た幕府役人へ、田地もおびただしく流され,寛保三年二月の「宿場引き移し嘆願書」は、望月宿から見分役人へ、堤防工事をお願いしたが、今後も水難を受ける,寛保三年三月の「復旧方懇願書」は、望月新町から幕府道中奉行所へ、望月新町は望月宿と川を隔てていることから
松本藩庄内組大庄屋御用留 (3、大庄屋と折井家)

締まり、用水・道路などの普請入用割、年貢の割付や取りたて、藩からの布達の組内への伝達、各村々からの諸願書,また、城下に設置された大庄屋会所に詰めて、郷村からの願書・届出の決裁、命令や指示の受領とその処理もおこないました
松本繁昌記 上・下 (発行までの経過)

出版人の高美甚左衛門らが長野県の県令(今の県知事)に提出した出版の願書と、明治政府に提出した出版届は、,出版御届書   御願書 別紙松本繁昌記出版御届書一通其筋エ御進達奉願候也   明治十六年九月一日
分県之建白 (分県建白書の提出)

この3人は9月9日に松本で準備を整え、18日に有志による壮行の宴をうけ、20日に分県請願書を携えて上京,3人はここで人力車に乗って長野に向かい、21日には県庁で知事から請願書についての添書を得て上京しました,分県請願書は22年9月26日に内務省に提出されました。
書留帳(延徳田んぼを漂流した話) ([解説])

んぼを漂流した話」の続きに書き写されている「寛保三年亥二月、江戸表ニテ高井郡廿三ヶ村飢人夫食御拝借御直訴願書,直訴願書によると、「二十三か村は以前より水害の多い場所であったが、特に近年は連続して水害に合い困り苦しんでいた,そこで、寛保三年正月十一日、二十三か村代表が直訴願書を持って江戸へ出発した。,二十三か村は、嘆願書の中で「信州は雪国で百姓の冬仕事は何もない。
寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願 ([現代訳])

[現代訳] 恐れながら願書をもってご訴訟申し上げます 一、当八月一日・二日の大満水によって、田畑はいうまでもなく
寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願 ([翻刻])

[翻刻] 乍恐願書を以御訴詔申上候御事      1 一当八月朔日・二日之大満水ニ而御田畑ハ不及申
犀川を下る記 (2.天竜川通船)

文政6年(1823)神子柴村(南箕輪村)孫市が諏訪から掛塚(静岡県磐田市)までの通船願書を松本藩に提出,その後、木曽11宿から反対が起こったので、変更願書を出して折衝を重ねた結果、中馬村々、木曽11宿との合意
割田家文書 ([解説])

史料2は、戌の満水から一か月以内に出された願書である。  ,史料3は、十二月に出された御普請願書である。  ,史料4は、次の年の三月に再び出された御普請願書である。  
西江部村篠田家文書 ([解説])

安永九年、西江部村名主市左衛門ら三役連名で岩出伊右衛門代官に願書を提出した(前出の寛政二戌年「御吟味ニ,だが、「容易ならざる願筋」だとして、なるべく手入れいたし精を出して年貢を上納するよう命じられ、願書は取,その後、久保平三郎代官の時に願書は取り上げられたが、代官が変わってそのままになってしまった。,回ってくることになったので、取るべき手段のなくなった西江部村では、代官を差し置いて、この巡見使に直接願書
西江部村篠田家文書 ([翻刻])

、去々午 年久保平三郎様御支配之節奉願候処、可成丈 出情手入いたし用水引取方勘弁可致旨被 仰渡願書御返被成候処, 畑方御年貢被成下候様仕度旨相願候処、不容易願  筋ニ付可成丈手入出情御年貢上納可仕旨被  仰渡願書御取上無之,ニ相成候処、右御役所ニ而被仰渡候  ハ、此節差懸り御見分御吟味難御行届ニ付追而  可相願旨被 仰願書被成御返
松本藩庄内組大庄屋御用留 (1、御用留)

上級役所からの達書(たっしがき)や触書(ふれがき)、下からの願書や届書を書きとめたもので、一般的に帳簿
明治二年八月上田騒動一件書留 ([解説])

日を追って記しているが、19日以降は藩よりの廻状・触書を中心に西脇村から藩へ提出の願書・口上書も交えて
寛保二年八月上畑村水災救恤願 ([翻刻])

[翻刻] 1      乍恐願書を以御訴詔申上候御事 一当八月朔日之夜中より二日之朝迄大満水ニ
パスファインダー (「戌の満水」(寛保2年の洪水)による小諸の被害)

shinshu-chiiki/ 概要 「地震・火山・水害等災害の記録」に戌の満水に関する絵図や被害状 況・嘆願書等資料多数
パスファインダー (移庁・分県運動)

p.76 3 論題名 長野県における移庁分県運動の一動向―明治24年2月「長野県分県 請願書
寛保二年八月上畑村水災救恤願 ([現代訳])

[現代訳] 恐れながら願書をもってご訴訟申し上げます 一、当八月一日の夜中から二日の朝まで大満水で
浅間山大焼け以来難儀につき見分願い ([現代訳])

そのうえ見分の役人へも願書を提出するので、善処を願いたい。
寛保二年八月上畑村水災救恤願 ([解説])

上畑村は当時、七〇〇〇石の旗本水野惣兵衛忠穀領であったが(役所は高野町にあった)、願書のなかで「殿様(
寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願 ([解説])

上畑村は当時、七〇〇〇石の旗本水野惣兵衛忠穀領であったが(役所は高野町にあった)、願書のなかで「殿様(
寛保二年十月上畑村総百姓往還道・屋敷移転取極証文 ([解説])

上畑村は当時、七〇〇〇石の旗本水野惣兵衛忠穀領であったが(役所は高野町にあった)、願書のなかで「殿様(
パスファインダー (水戸の浪士伊那路通行)

第3 飯田万年記.水戸浪士伊那路通行 「尊王攘夷」 地域の動き展示 (天狗党への嘆願書など) 信濃毎日新聞
「内藤家十五世紀」(十一)(藩校進徳館設置のこと) ([翻刻])

セラル 同月六日大和守名代内藤甚十郎登城 ノ処、御朱印ヲ賜ハル 同月十一日大和守駿河守ト改名、願書使者
パスファインダー (江戸時代の飯田藩と飯田町)

伊坪達郎/著 伊那 2002 12-3~14 近世飯田町の人々の移動(一)~(ニ)ー野原文書「縁談願書
御城下古法并市場古法書抜書集 ([翻刻])

茶・肴御町ニ而請売仕候様ニ被仰付候旨、其以後被仰渡候 【(朱書)四 ○】享保三戌年十三町より指上候願書之覚, 上ニ而被退候    右之通於御会処ニ対決之節申上候  享保五子年六月塩之義ニ付伝馬町出入有之、願書,申合  候事 一伝馬町より右之申合故塩調候儀不罷成候ニ付、当五月     (改頁)    願書, 町役人并拾三町之者共被召出御内聞被遊、依之右差上申候  願書ニ右御三人様御裏書御印形共ニ被遊、,    (改頁)    差出候様致度旨と申付候ニ付、猶又申談以上ニて願書  可差上相答
パスファインダー (松沢求策と奨匡社の国会開設運動)

松沢求策 上条螘治 太田伯一郎 森本省一郎 浅井洌 市川量造 武 居用拙 奨匡社 国会開設請願書
パスファインダー (江戸時代千曲川水害と上今井瀬直し工事)

/adeac.jp/shinshu-chiiki/ 「災害の記録」に、戌の満水に関する被害状況、嘆願書等資料
パスファインダー (天明3年(1783)の浅間山噴火)

shinshu-chiiki/ 概要 「地震・火山・水害等災害の記録」に、浅間山噴火に関する被害状況・嘆 願書等資料多数
「内藤家十五世紀」(十一)(藩校進徳館設置のこと) ([現代訳])

同月11日大和守は駿河守と名前を改め、願書を使者に持たせて老中へ差出したところ、即日聞届けられた  
書留帳(延徳田んぼを漂流した話) ([翻刻])

御奉行所萩原伯耆守様へ右     (改頁)      67    之通御願申上候所ニ、村々願書御取上被下置候而,、去十一日ニ御直訴仕候処ニ 御取上ヶ被成下、廿一日ニ御代官様へ被召出被 仰渡候ハ、右御直訴申上候願書
明治二年八月上田騒動一件書留 ([翻刻])

候、夜ニ入悪行致候者者皆町続之もの共、 十九日、朝より雨、川むかふ者芳泉寺、塩尻組者向源寺へ引取、願書,壱組々ニ御城下御廻り被下候、 是者手後れニ候、十八日朝御廻り被下候得者後難者無之、 (改頁) 願書之通聞届之分,割番役廃し承り届候 一、刈豆之儀、昨辰年より用捨致置候事 一、洗馬組大才料之義、願之通たるべく事 願書侭,民政庁判事役願之通 御免被成下 北嶋市之丞殿 小嶋友之助殿 都築壮之進殿 (改頁) 14 同断ニ而願書御差戻
御城下古法并市場古法書抜書集 ([現代訳])

一右の申し合わせにより、伝馬町は塩を調えることができないため、当5月に願書により御役人中へ願い出た。,古法の通りに申上げたが、その後伝馬町の願書は取り上げられなかったと承知している。,これによって願書に3人の方々が裏書をして印をつき、13町へ渡してくれた。,一願書の趣旨を年寄福住太郎太夫がいちいち尋ね、久四郎がくわしく答えました。,言われ、さらに相談し願書を差し上げました。  
「月桂新誌」(7冊) ([解説])

その始まりは、松本の奨匡社のスタートの時期で、その終りは、奨匡社の国会開設の請願書をもって松沢求索らが
木曾山林学校 (◎長野県西筑摩郡立甲種木曾山林学校学則)

其証書によりて学力を検定し入学を許すことあるべし 第 14 条  入学志願者は左の書式に依(よ)り入学願書
木曾山林学校 (8.長野県立甲種木曾山林学校学則)

於テ、国語、算術、地理、日本歴史、理科ニ就キ之ヲ行フ 第 17 条 入学志願者ハ左ノ書式ニヨリ入学願書
むしくら日記 (4巻 貞)

付ぬ、 ○妻女山の三災亡霊の碑ハ予か懸りニて御建立也、     (改頁)   国役御普請御願書写,    (改頁)      37   (改頁)      五月十四日 一、国役御普請御願書,付御勘定奉行御勝手懸り石河 土佐守様・松平河内守様江茂藤田繁之丞 罷出、御用人江面会、伊勢守様江御願書,被差出候段、何分茂御含被成下候様申述、 国役御普請御願書写御用人共を以差出     (改頁)
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