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違作書留帳
(4、『松本市史』記述の天保の飢饉)
4、『松本市史』記述の天保の
飢饉
『松本市史』第2巻歴史編Ⅱ近世には、天保の
飢饉
について、かなりの頁,天保の
飢饉
凶作は貯えのない農民の生活を容赦なく困窮におとしいれた。,天保の
飢饉
は、人々に家存続のありかたを意識させるものとなった。,天保の
飢饉
をへて、天保9年(1838)から農村復興をめざした松本藩の天保の改革がはじまる。 / 4、『松本市史』記述の天保の
飢饉
違作書留帳
(1、「違作書留帳」)
違作書留帳」は、天保4年(1833)から11年(1840)にかけての記録で、当時全国に被害をもたらした天保の
飢饉
,に関して、その被害の状況や
飢饉
に至った際の対応の方法、村の様子などについて角之丞の見た範囲を記したものです,「御用留」などの公的な記録の綴りとちがって、角之丞が被害の様子や
飢饉
時の心構えを後世に伝えたいという意図,この頃、東国の広い範囲では天候の不順により、深刻な
飢饉
に見舞われていました。,おそらく
飢饉
が下火となった天保11年の段階で、一気に書き上げたものと思われます。
天保飢愁
([解説])
解説] [目録] 東御市文化財保護審議会 寺島隆史 江戸時代後期、天保年間に起こった天保の大
飢饉
,天保の
飢饉
は冷害によるもので、天保4年(1833年、巳年)に始まり同7年の被害が最大でした。,まず、天保4年(巳年)は長雨で秋の実りが悪く
飢饉
となりました。,雨はその後も降り続き晴れの日はごくわずかで、遅れて出た穂もほとんど実りがなく前代未聞の深刻な凶作・
飢饉
,数年来の凶作で栄養不良になっていた人が多い中での伝染病であり、折角
飢饉
をしのいだにもかかわらず、これで
天保飢愁
([翻刻])
上田海野町 松原晋蜂 1 (東山堂主人) 天保
飢饉
,なき事をいとわす月日を いたつらにすごすもの多き故ニ、天是を 禁(いましめ)給ふにや、去天明卯年
飢饉
,、出羽 奥州ハ格別関東殊の外大
飢饉
ニて、 諸人こんきうせし事おびたゝしく、 ,; 既に五十余年をへて、今天保四年 巳年とハなりにけり、然ル所夏中長しけ にて秋作実のらず諸国
飢饉
,まさりたる事なれとも、此後申年の (改頁) 7
飢饉
浅間山
(第十一編 拾遺雑編)
第三 道行鳴渡村千鳥 作者はわかりませんが、天明の
飢饉
について詩歌風に書いたものです。
浅間山
(第三編 浅間山変異記)
降灰による農作物や家畜への被害と噴火後の天候不順は、天明の大
飢饉
をひきおこし、百姓一揆が頻発し社会が不安定,天明元年から寛政にかけての天変地位を記し、
飢饉
の様子を《上》と《下》に分けて記しています。 ,《上》は、三年の
飢饉
について、二年の不作から書きはじめています。,《下》は、六年の
飢饉
について述べています。,村の窮状を把握し、この
飢饉
に対応する領主側の記録も示されています。
絵頭入書百性往来童子宝全
([解説])
大通行の際の人馬役)、往還・街道の掃除について等から、家の作りほか生活全般を質素にして非常食も貯え、
飢饉
寺子屋師匠の日記
(小沢和徳の手習塾)
ただ、手習塾のほとんどは江戸時代末期、文化文政年間から天保の大
飢饉
のころに急速に増加しはじめ、6000
浅間山大焼け以来難儀につき見分願い
([翻刻])
秋彼岸過候得者、霜降り候義、遅速 □(難)計候、既六十年以前卯年、彼岸入口ニ霜降 □(当)郡田畑皆損仕、
飢饉
浅間山大焼け以来難儀につき見分願い
([現代訳])
六十年前の卯年には、彼岸の入口に霜が降り、田畑の作物が全滅して
飢饉
になったという記録があると覚えている
寺子屋師匠の日記
(概要)
中でも、3代和徳は15歳で父の代役を務め、天保期から明治2年に没するまで
飢饉
、開国、幕末という動乱の
パスファインダー
(牧野康哉)
出版年 郷土歴史人物事典長野 古川貞雄/編著 第一法規出版 1978 内容紹介 天保
飢饉
絵頭入書百性往来童子宝全
([翻刻])
割陣蒼米迄も扱 熟搗搓、精随分 大切ニ表粮仕込置 (改頁)
飢饉
之節不渇様之
パスファインダー
(御代田町塩野のカラマツ人工林)
著者名 出版社 出版年 天然カラマツ、人工カラマツ、小諸藩、御林、牧野康哉、保護林、天保の
飢饉
違作書留帳
([現代訳])
同十年巳亥(つちのとい)、同十一年庚子(かのえね)の春まで知るにまかせて、 (改頁)
飢饉
,の天災があることは、昔からその数はきまりがないというが、およそ近くは四十年、遠くは五、六十年に一度は
飢饉
,があり、その間に二、三年や四、五年の間に二度続くこともよく聞き伝えられていることだ、中古以来の
飢饉
を尋,ねてみるに、天文(てんぶん)十四乙已(きのとみ)年(一五四五)と十五丙午(ひのえうま)年の
飢饉
は、これを,巳年(みどし)の
飢饉
と呼び、それより九十六年後の寛永(かんえい)十九壬午(みずのえうま)年(一六四二)
パスファインダー
(天明3年(1783)の浅間山噴火)
天明の大
飢饉
や老中 内容紹介 田沼の失脚など歴史上の出来事と浅間山噴火の関係性や、現代社会
違作書留帳
([翻刻])
酉 同 九 戊 戌 同 十 巳 亥 同 十一庚子春迄 委知 (改頁)
飢饉
,天文十四乙已年、 同十五丙午年是を偏に 巳年のききんと呼、夫より九十 六年後寛永十九壬午 年大
飢饉
,あらたまり、怠りをせめ、 奢を省(はぶ)き、身をこらす程に 至らバ天災有まし、然して あまたの年を経
飢饉
,断 定三郎 同 断 重四郎 与頭ハまわりニ役人之内ニ而致ス (改頁)
飢饉
, 庚 子年 正月日 書畢 (改頁) 91 扨
飢饉
程
木曾山林学校
(木材の欠乏を憂ふ)
木材の
飢饉
(ききん)は前記の如く歴然たるに不拘(かかわらず)伐採跡地の更新状況亦如斯(かくのごとく)とは
蚕かひの学
([翻刻])
れバ手入飼かたのたがひ あり二十ヶ年以前までは暖なるをきらひすゞしき飼方に利ありし を近年ハ去る
飢饉
寺子屋師匠の日記
(寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)
祖父様ニ者余人と違ひ只仁心つよく一向ニ無欲 之御気質故今時之人気卜ハ雲泥万里ニ御座候] 一天明四年大
飢饉
之節茂吉様商売,致候而段々代物も其度々仕入懇意ニ相成後々ハ遠国ながらも誠兄 弟同様ニ交り致候由 仍之天明三卯年大
飢饉
之節抔
むしくら日記
(1巻 元)
めようといたしておりますが、心休まらず、加えて川中島平については、犀川の水がせき止められて水が流れず、用水にも不自由し水
飢饉
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