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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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秀吉と真田 (真田幸村と大坂の役)

「秀吉と真田」の目次はこちら  慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦後、昌幸・信繁は死罪は免れ、紀州高野山,父子は高野山麓の九度山(くどやま)に落ち着く。,真田幸村画像 <史料解説> 「真田幸村画像」   柘植弌郎氏蔵 上田市立博物館保管  真田昌幸・幸村の高野山配流,幸村の肖像としてよく知られている絵だが、高野山蓮華定院に伝わる同じ画像の箱書きには「真田源太左衛門信綱侯御画像
パスファインダー (刈萱と石堂丸)

キーワード 概要を知るた めのツール 資料リスト 加藤左衛門重氏 法然上人 刈萱道心 高野山 ,勉誠出版 2010.5 内容紹介 平安時代、筑前の守護加藤重氏は無常を観じて筑前から出奔、高野山,苅萱道心と石童丸のゆくえ (新典社選書): 古典世界から現代へ 三野恵/著 新典社 2009.1 高野山
拾八町家並帳 (松尾町壱丁目)

林蔵 四間三尺五寸 イ 大工  八兵衛 イ 四間四尺一寸 檜物屋  善三郎 五間三尺 イ 高野山
秀吉と真田 (昌幸最晩年の書状 幸村筆)

真田信之宛同昌幸書状」    真田宝物館蔵   年次不詳 三月二十五日  関ヶ原合戦後、真田昌幸・幸村父子は高野山,これはその配流先高野山麓九度山よりの書状。
パスファインダー (真田氏関係の城址、寺社、文化遺産)

平八石 沼田 城跡 上田城 金箔瓦 菊花文軒丸瓦 長篠古戦場 丸子城跡 御北之 塚 開善寺 願行寺 高野山蓮華定院,上州利根郡沼田城之図、上田城 金箔瓦、菊花文軒丸瓦、長篠古戦場、丸子城跡 御北之塚、開善寺、願 行寺、高野山蓮華定院,図、真田信幸宛徳川家康書状、真田信幸宛徳川家康安堵状、真田昌幸 宛石田三成書状、真田父子上田篭城図、高野山蓮華上院
木曾山林学校 (修学旅行)

翌日高野山に参拝、次で九度山官行伐木所を視察し、粉川より汽車にて和歌山に至り、和歌山より大坂に入り、造幣局
松代まちあるきマップ (25旧前島家住宅)

慶長五年(一六〇〇)、真田昌幸・幸村(信繁)父子が九度山蟄居の際、家臣十六名が昌幸に従って高野山に随行
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (信夫村)

上原/下原/井端平/観音平/安城垣外/中平/前原/大明神/殿村/大野/小寺 山: 大平山/風越山/高野山
木曾山林学校 (13.修学旅行)

、多武峯(森林業一般)、吉野(林業一般及吉野山参拝、木工学校参観)、奈良県立農林学校、神武御陵参拝、高野山,(高野山視察・九度山官行伐木所)、大坂(造幣局・各工場・大坂城・木材市場・貯木場・大坂大林区署)、京都
パスファインダー (善光寺の物語・紀行文・文学)

それは、高野山と肩を並べる念仏信仰の一大拠点となるまで力をつ 内容紹介 けてきた善光寺聖が,父の出奔後生まれた石童丸 は母と一緒に父を訪ねて高野山に向かう。
秀吉と真田 (神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き)

高野山における真田家の菩提寺であった蓮華定院に伝わるものが、最も丁寧に描かれており原本とみられる。
秀吉と真田 (昌幸死去の悔み状)

」   真田宝物館蔵   慶長十六年(一六一一)六月十三日  真田昌幸は慶長十六年六月四日、配所高野山麓九度山
秀吉と真田 (豊臣氏関係遺品)

一五九三)、秀吉に実子秀頼が生れると、秀吉との関係は徐々に悪化し、同四年には謀反を企てたという理由で高野山
秀吉と真田 (武田氏・織田氏の滅亡と真田昌幸)

清右衛門は昌幸が紀州高野山へ流されたとき、随行した十六人の家臣の一人であった。
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

五千石通とて、松本より塩尻への閑道なり、] ○金峯山牛伏寺普賢院威徳坊[筑摩郡内田村に在り、真言宗、属高野山,るなり、近来山開けて  より温泉屋・旅籠屋など出来て、飛騨道の憩場となれり、 ○栗尾山満願寺[真言宗高野山竜光院
秀吉と真田 (徳川秀忠軍の上田攻め)

本来なら死罪を免れないところ、徳川方に付いた信幸の助命嘆願により昌幸は信繁とともに高野山へ流罪の身となる
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

金峯山牛伏寺普賢院威徳坊(筑摩郡内田村にあり、真言宗で高野山に属します)。    ,はじめ古義真言宗で高野山龍光院に属し十余か寺の末寺をもつ中本寺でしたが、のち新義真言宗智山派の智積院末,栗尾山満願寺は、真言宗高野山竜光院に属します。寺領は牧村で、77石3斗余。この寺は山中で霊区です。
天保飢愁 ([翻刻])

空や 不食(くわず)も高野山香物大師ニ粥を かて。やつとむぐつて。
俳諧二重染 ([下巻])

はちじゅう) かれこれの 世話もむつかし やまざくら 隠君郎蓮菊 (注)「高野六十那智八十」 高野山
秀吉と真田 (三成ほか西軍諸将よりの書状)

長束正家・増田(ました)長盛・前田玄以については、長束は自殺したが、増田は家康に内通していたものの許されず高野山
義烈百人一首 ([翻刻])

を蒙る、これも和歌の徳にてたすかりしなりけり、 (改頁) 09_熊坂張範(くまさかてうはん) 高野山,るはきはめて非義非道あるものにて、人その奸を恨ゆゑ天の憎む所あり、是を奪ふこと心安しといへり、張範ある時、高野山,ぐといへども、大軍を以て数日責ければ城兵労れ、又は心がはりの者ありて終に落城に及び、氏直は小田原開城の後、高野山,虚名を申開んと聚楽より伏見に赴き給はんとせしに、途中に増田長盛来りて太閤の御怒り甚しきに入依て一とたび高野山,箸さへとらず 思ひきや 雲井の秋の 空ならで 竹あむ窓の 月を見んとは 終に文禄四年七月十五日、高野山
上田の早苗 ([翻刻])

守左衛門佐ノ一命ヲ御助ケアリテ、両人ヲ高野へ遣シ可申旨命セラレケレハ、信幸  難有由御請アリテ則両人ヲ紀州高野山,鍛冶町へ再建セリ、月窓寺ト号、其  後慶長七年樹昌和尚寺ヲ焼テ退去セリト云、 一里伝ニ云フ、真田幸村高野山
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 ([現代訳])

を食べて三毒(3種の煩悩)の酒に酔い伏すよりも、仏道を修めて悟るに勝るものはない」と思って、さっそく高野山金剛峯寺,からのよい因縁が招いたのか、親鸞聖人が越後に流され、他力易行の法を教え広めておられると伝え聞き、急いで高野山
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 ([翻刻])

     (改頁)    臥んより、菩提の道に入て仏果を悟らんにはしかじ」とて、忽  ち高野山金剛峯寺
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

庄芋井郷長野村の霊場なり、]  天智天皇三年甲子草創也、むかしハ天台宗にて三井寺持なり、  其後真言宗と成て高野山
地震後世俗語之種 ([翻刻])

○二王門 炎上 ○二王尊     (改頁)     高野山木喰上人の寄附
地震後世俗語之種 ([現代訳])

◯仁王門  炎上 ◯仁王尊 高野山木喰上人の寄付したもので、その作は稀です。
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

その後は真言宗となって高野山に属し、また寛永年間には東叡山寛永寺に属して、再び天台宗に帰属した。  
小県郡民謡集 (児童謡)

信濃の善光寺 五つ出雲の大社 六つむねんの天神様 七つ成田の不 動様 八つ八幡の八幡宮 九つ高野の高野山
烈女百人一首 ([翻刻])

にゆき、千鳥が淵に身を投て死す、年わづか十七才、滝口これを聞ておどろき骸(なきがら)を上て荼毘し骨を高野山
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